憧れは、手を遠くまで伸ばした瞬間、指の間からこぼれ落ちる幻だった。
――はぁ、はぁ、はぁ、……。
私はいつの間に、人生の岐路を踏み外してしまったのだろうか。
高校時代まで、近所の人の名前どころか誕生日まで知っているような小さな町で育ち、その町の小さな学校に通った。大学も、地元の大学に通うものだと両親は思っていたに違いない。私自身もその方が慣れ親しんだ仲間とともに学べることに確かな安心感もあるし、メリットも多かったはずだ。
それでも、私は違う道を選んだ。
たった1人、都会へと出る決断をしたのだ。同じ高校の同級生で、その決断をしたのは私ただ1人だった。私の人生そのものだった町が嫌いだったわけでも、友達と縁を切りたかったわけでもない。
ただ、小さい頃から胸に秘めていた将来の夢のため――憧れだった、あるスイーツ企業に就職すること。その夢に近づくために、少しでも有利な大学に進学するためだった。
その夢は、大学を卒業してすぐ、あっけないほど簡単に叶った。
入社式の朝、真新しいスーツにシワがないか、鏡の前で何度も確認したっけ。そして、胸いっぱいの希望が、未来の輝かしい私を何度となく思い描かせたっけ。満ちたあの瞬間は、もはや遠い昔の夢のようだ。
現実は、そんな単純なものではなかった。まるで知恵の輪のように複雑で、絡み合った糸のように解くのが難しいものだった。
「こんなこともできないのか! バカじゃないの?」
「お前の代わりなんていくらでもいるんだよ!」
「君、本当に邪魔だよ」
……このような言葉を、一体何度浴びせられただろう。その一つ一つが、今でも私の脳裏に焼き付いて消えない。
職場では、そうした暴言だけに留まらなかった。わざと足を引っ掛けられたり、終わりの見えない過度な残業を強いられたり。まるで、私が壊れることのないロボットかのように扱われた。それは、日常的なパワハラだった。
たしかに、私はいくつもミスもしたし、仕事の覚えも他の人よりいくらか遅かったかもしれない。けれど、そこまで追い詰める必要があったのだろうか。私を、こんなにも徹底的に打ちのめす必要が、本当にあったのだろうか。
そんな地獄のような環境で3か月を過ごした私の心は、もう粉々だった。体重は5キロも減り、毎日のように目の下にははっきりとしたクマができた。そして、触れるだけで全身に痛みが走る。もう、どう生きていけばいいのか、何もわからなかった。ただただ、明日という日が永遠に来ないことを願っていた。
そんな私は、今日も過度な残業を終え、重い足取りで家路についていた。時刻はすでに日付を跨ぎ、いつの間にか今日が始まっている。自然と苛立ちが募る。
だけど、私は今、家とは反対方向の最終電車に乗っていた——いや、正しくは乗ってしまっていた。電車の行き先を見る余裕すら、もはや私に残されていない。そう思うと、悔しさと情けなさで涙が溢れそうになった。そんな荒だった気分だったからか、いっそこのまま終点まで乗ってやろうと、心の中で決めていた。
10分ほど経ち、車掌のアナウンスが無機質な声で響く。
『まもなく、終点、叶星です。叶星に到着いたしますと、本日の営業はすべて終了となります。本日もご利用いただきまして、誠にありがとうございました』
電車が完全に止まり、ドアがゆっくりと開く。ふらつく足取りでホームに降り立つと、そこはまるで時が止まったかのような、無人駅だった。
駅舎には、雨漏りの跡がある待合室と見慣れないメーカーの自販機がぽつりとあるだけ。吹き抜ける夜風が、私の頬を鋭く切り裂き、心を凍らせる。この駅から、私の家へ帰える電車はもうない。つまり、途方もない行き止まりだった。
電池の残量が残り僅かなスマホを取り出し、辺りを検索してみるが、ネットカフェもカラオケも、一晩を明かせる飲食店すら見当たらない。タクシーという選択肢は、社会人一年目の私には論外だった。
こうなったら、一晩、この駅の待合室で過ごすしかない。
幸い、待合室は開いていた。私は小さな体を、大きなベンチに横たえる。硬いベンチで無理やり寝返りを打つと、ふと、一枚のポスターが目に留まった。
『この駅で一夜を明かすとき「#今夜、叶星で一人です」と投稿するときっと、求めている誰かと会えます』
夏祭りのお知らせのように、ひときわ目立つそのポスター。私は神様も占いも、そんなものは微塵も信じない。だから、ばかばかしいとしか思わなかった。こんな奇妙な言葉を本気にすることなんかできない。
それでも、なぜか気になって、SNSで『#今夜、叶星で一人です』を検索してみた。すると、数は多くないものの、何人かがこのハッシュタグで投稿し、遠くで暮らす祖母、中学校の頃の恩師やかつての親友など求めている人と会えたという報告をしている。
信じたわけじゃない。全くの偶然か、ただの作り話だと、心では言い聞かせているのに、私の手は自然と動いた。この世界から逃げ出したい。そのための、ほんの小さなものでもいいからきっかけが欲しかったのだ。
スマホを落としてしまいそうなぐらいの震えた手で、SNSに投稿する。
『#今夜、叶星で一人です』
投稿完了。
「……まあ、そうだよな」
当然、期待したようなドラマチックなことは何も起こらない。世界は1ミリも変わらなかった。
反射的に辺りを見回してしまう。信じていないと言いながら、どこか期待していたんだ、私は。どうしようもないほどに。
いまにも止まりそうな時計の長針が半周しても、何も起こらない。こういうのは所詮、そんなものなんだろう。さっきの会えたという投稿も、おそらくフィクション。私は、もう明日のことなんか考えず、そっと目を閉じようとした。
その瞬間、ドンドンと待合室の古びたドアを叩く音がした。鈍い音が耳の奥まで侵入する。
まさか、この辺、熊とか出るのだろうか。最悪だと思いながら、このままでは安心して寝ることができないと思い、私は恐る恐るそのドアを静かに開けた。
ただ、不思議と怖いという感情はほとんどなかった。
「えっ……」
私の発したその声に、相手も同じように「えっ……」と漏らした。
「まさか、莉星?」
「導明くん?」
「うん、そう、僕。おお、なんでここに莉星が……いや、まずはいいか。久しぶり、莉星が一人で上京してから4年ぶりか」
「導明くんも、久しぶり。びっくりした……」
そこにいたのは、熊なんかではなく、高校まで一緒の小さな町で育った同級生の導明くんだった。最後に姿を見たのは4年前だったが、その時からほんの少ししか変わっていない。一瞬、『#今夜、叶星で一人です』というものが頭をよぎったけれど、それよりもなぜ彼がここにいるのかや、彼は今どんな生活を送っているかなどの方がすっと勝っていた。
私は彼を待合室に招き入れた。まず、私から話すことになり、大学進学のために上京したこと、就職先の会社でパワハラを受けていること、そして連日の残業で精神的な余裕をなくし、間違った電車に乗って終電を逃したこと——そんなことを話した。導明くんは、相変わらず親身に耳を傾けてくれたので、私の言葉が詰まることはなかった。そして私が話し終えると、「そうだったんだね」と言って、まるで小さな子どもをあやすように、私の頭をそっと撫でてくれた。
「これ以上は、す……」
「……ん?」
「いや、なんでもない。じゃあ、次に導明くんの話を聞かせて」
導明くんとの距離がほんのわずかになったことで、とある感情がばれそうになり、私は隠すために無理やり話を振った。なんだか、導明くんからはちみつのような甘い香りがした。
「うん、わかった。僕はね、大学までは莉星が知ってるように地元にいたよ。その後、地元で働くことも考えたけど……結局、上京してさ。夢だったイベント会社を立ち上げたんだ。で、なんで今日ここにいるかっていうと――今日はたまたま大きな案件があって、残業しててね。終電ギリギリで飛び乗ったはいいけど、疲れて寝ちゃって……気づいたら知らない駅にいて。しかも財布、会社に忘れてきちゃって。お金もなくて帰れなくてさ。数駅歩いたんだけど、もう足が限界で。だからもう、この駅で夜を明かすかって思って」
導明くんは私とは反対だ。私の今の現状を伝えたことに恥ずかしさと後悔を感じる。私が階段を上り始めたところにいたとしたら、彼はもう見えないところにいる。
でも、導明くんがちゃんとここにいる理由があるのに――それでもこれは偶然なんだろうか。『#今夜、叶星で一人です』のおかげ? なんて、少しだけ思える余裕も出てきた。
「とりあえず、こんな形での再会だけど……なんだか会えて嬉しいな。ただ、莉星の状況が心配だけど……。昔から莉星は頑張り屋さんで、なんでも一人で抱えちゃう子だったからな……」
彼は、何か気づいたような素振りをし「少し待って」と一言言うと、待合室を出ていった。2分も経たないうちに戻ってきて、手には2本の缶のおしるこが握られていた。きっと外の自販機で買ってきてくれたのだろう。
導明くんは、そっと私の頬におしるこの缶を当てた。ほんのりとしたぬくもりが伝わってくる。そのぬくもりは、血液の流れのように全身を駆け巡る。それだけなのに、胸の奥がくすぐったくなる。
「莉星、なんか顔、赤くない? 大丈夫?」
「……あっ、うん! 導明くんがおしるこを顔に当ててきたからだよ!」
「そうか。ならよかった。じゃあ、飲もう」
わざとらしい嘘をついて、なんとか探られることを避けられた。もちろん、それだけで導明くんに気づかれるほど顔は赤くならない。顔が今、赤いだけではなく、きっと鼓動も早い。知られてもいい。でも、まだ知られてほしくない。私の心だけが知ってればいいのか、どうなのか。
実は、初恋の相手が——。それはまだ終わっていないとか——。
まだ私の思いは——。
導明くんが一口飲んだのを確認すると、私も彼がくれたおしるこを、一口飲む。こんなにも飲み物の味をしっかりと感じられたのは、いつぶりだろうか。
「ただ、食べるものはなさそうだね。この辺り、コンビニも4キロ行かないとなさそうだし。今から4キロはね……」
「そうだね……。あっ! 私、チョコレートのお菓子なら持ってるよ。本当に少しだけど」
私は、カバンの奥にひそかに忍ばせていたチョコレート菓子を取り出した。大きなものではなく、二口ほどで食べきってしまうくらいの小さなものだ。これだけでお腹を満たせるなんて、これっぽっちも思ってない。それでも、そのチョコレートを半分に割って「おしるこのお礼だよと」心の中で唱えてから、導明くんに渡した。導明くんは一瞬、その小さなチョコレート菓子を見てためらっているようだったけれど、私の心の中で唱えたことを感じ取ったのか「ありがとう」としっかりとした言葉を言ってから手に取った。
「……これ、もしかして莉星が作ったの?」
その小さなチョコを口の中に入れると、導明くんの電池切れ間近だった顔が、みるみると回復していくかのように、表情に明るさを取り戻していく。
「うん、昨日は休みだったから久しぶりに作ったの」
私はその表情に負けないように無理に作り笑顔をして答えた。最近の唯一の楽しみは、休日にするお菓子作りぐらいしかない。この瞬間だけが、唯一生きていると感じられる。それすらも、仕事に追われてなかなか時間を取れないのが現実だった。
「美味しい。本当に、美味しいよ!」
彼の唯一苦手なところ――嘘をつくこと。だから、その素直な言葉は嘘なんかじゃないと、ただ、まっすぐと私の元に届く。私も認められたことに対して、自然と嬉しさがこみ上げる。
たった1口のチョコを、彼は、時計の短い針が何周もするまで口の中に最後の余韻が残るまで味わってくれていた。私は、その横顔を恥ずかしながらもずっと見ていて、改めて——好きななんだなと強く感じてしまう。私にとって——。
「美味しかった、ありがとう莉星。……そういえば、ここって叶星駅っていうんだよね? 星とか見えないのかな?」
「そうだね。さっき外には出たけど、そんな余裕なかったし……せっかくだし見てみようか」
2人で外に出ると、息をのむような満天の星が広がっていた。暗闇に包まれたこの場所で、私たち二人だけを優しく照らしてくれるかのように、星々は瞬きながらその輝きを放っている。終電はとっくに終わってしまったのに、夜空の星はこれからが本番とばかりに、一層その輝きを増し、強く瞬いていた。星たちは、深い静寂の中で、どこか解き放たれたような開放感を味わっているかのようだ。
「うわあ、綺麗だね。……こんなに星が見えるなんて、気づかなかったな」
「うん、とっても……。これだけ星があるとなんだか願い、叶いそうだね」
私たちはまるで子どもの頃のように、夢中になって星空を見上げた。「あれはぎょう座かな?」「いや、あれはたぶん……正座だよ」なんて、他愛もないことを言い合った。
胸の奥で、私はそっと思っていた。――終電を逃して、よかった、と。
もし、あのまま家に帰っていたら、こんな素敵なプレゼントはもらえなかったのだらから。
「……星って言えば、僕たちの町もきれいに見えたよね。林間学校で行った裏山とか、覚えてる?」
「うん、もちろん。私たちの町も、とってもきれいだったよね」
彼が今、幼稚園の時の林間学校の話を持ち出してきたことで、今まで彼に対し隠し続けていた好きという思いが最高潮に達した。なぜなら、私の初恋は、まさにその林間学校で始まったからだ——。
その時の感触を少しでも感じたくて、ゆっくりと目を閉じると、私の意識は現在の夜空から、10年以上も昔の、あの林間学校へと吸い込まれていった。
今の彼はイベント会社の社長を務めているけれど、そのリーダーシップは幼稚園の頃から際立っていた。私たちの幼稚園にいた10人の園児は、みんな、彼に導かれていたように思う。それに比べて私は、人見知りで何にも自信が持てず、なかなかみんなの輪に入れずにいた。いわば、周囲の大人に迷惑ばかりかける園児だったのだ。
年長さんになって行われる林間学校では、毎年、園児たちがイベントを提案することになっていた。これまでにはキャンプファイヤーや肝試しなどが催されてきたらしい。私たちの代ではなかなか意見が出ず、最終的には彼が提案したお菓子作りを行うことになった。
しかし、お菓子作りの最中も、私は遠巻きにみんなを眺めたり、誰もいない隙にこっそり作業を進めたりと、みんなと一緒に行動できなかった。先生たちもどうにか私を輪に入れようと試みてくれたけれど、その努力は虚しく、全く効果はなかった。本当は大好きなお菓子作りを、みんなと一緒にやって楽しみたかったはずなのに。
そんな中、私に声をかけてくれたのが導明くんだった。
『木の裏に隠れてないで、こっちにおいでよ』
導明くんはそう言うだけでなく、私の元までちゃんと歩み寄り、しっかりと手を取ってくれた。私は戸惑いながらも「莉星が必要なんだよ」と言って、クッキーの粉を一緒に混ぜることになったんだっけ。
『おお、うまいじゃん!』
『もっと自信を持っていいんだよ。お菓子作り、莉星は向いてると思う! 俺のクッキーなんて形が歪だけど、莉星のはこんなにきれいじゃん』
私は戸惑いながらも導明くんと一緒に作業していたけれど、彼は何度も何度も褒めてくれた。だから、私は楽しくなって、時間が経つのを忘れるほど、夢中になってしまった。気づけば、他の子とも全然話さない私が、他のことも協力してお菓子作りをしていた。たぶん、他の子は最初、急に話してきた私に戸惑っていたかもしれないけれど、私を温かく受け入れてくれた。
私は、そんな些細なことをきっかけに、怖がらずに、もっと自信を持っていいんだと思えるようになった。その焼き上がったクッキーは、満点の星空の下、夜にみんなで歌を歌いながら食べた。
みんながホタルを見に行くと山の中に入っていった時も、私と導明くんはクッキーを食べながら夜空の星を2人占めしていた。そんな時に、導明くんは隠し持っていた2つのクッキーを私にくれた。1つは、星型のクッキー。そして、2つ目はハート型のクッキー。家から型を持ってきて先生には内緒で作ったようだ。どちらも形がきれいとは言いがたかったけれど、どんなクッキーよりも特別な味がした。その特別な味の中に——初恋の味も含まれていた。この時、私は初恋というものを感じた。
彼のおかげで、私は人が変わったかのようにみんなとともに小さな町で成長していった。そして、初恋がどこまでもどこまでも続いていった。彼の姿を目にすることができなかった4年間も、その気持ちが消えることは一度たりともなかった。心の奥深くで、ずっと息づいていた。私がスイーツ作りを続けているのも――きっと、彼との思い出が根っこにあるのだと思う。
再び目を開くと、現実の世界に引き戻されただけでなく、星の位置がほんの少し変わっているように思えた。そんな短い間に、星の見える位置が大きく変わるわけないとわかっていても——私にとって特別な景色だった。
私は、何を思ったのか、この星に願いを、そして思いを込めて言葉にしてみようと決めた。
再会できたという事実は変わらない。だから、どう思われようが、何を言われようが、導明くんになら構わない。
初恋が彼方遠くに消えてもいい。けれど――その初恋という事実だけは、大切に抱いていたい。
「ねえ、今からさ、私の願い、聞いてくれないかな?」
「ん? 願い? 自分のスイーツ会社を作りたいとか?」
「いや、そういうのじゃなくて……。導明くんには嫌われるかもしれないけど……」
胸の奥で、小さな風船がはじけたような感覚があった。喉が熱い、息がうまく吸えない、汗が垂れる。導明くんの顔は、もう見られなかった。怖かった。
視界に映るのは、星だけ。遠くて、静かで、それでも私にだけは語りかけてくれている気がした。でも、導明くんのことはちゃんと同じ空気を吸っているんだなと感じる。そんな私はずるい。
「大丈夫、どんなことを願っても、莉星のことを嫌いになんてならないから。願う権利は誰にでもあるんだから」
優しすぎる言葉に、胸がぎゅっと縮まった。気づけば言葉はすぐそこまで来ていた。次に唇を少しでも動かしたらもうその言葉はこの世界に漏れ出す。言葉はすぐに消えても、導明くんは一生と刻まれるかもしれない。それでも、私の唇はゆっくりと動いていく。
「……実はさ、私、幼稚園の頃、導明くんに初恋したんだ。その初恋はさ、今でも続いている。もし、よかったら、付き合ってくれませんか」
——言葉が、世界に放たれた。
なんだろうか、この時が止まったかのような感触は。呼吸の音さえも、星たちに吸い込まれていくかのような。全ての星が、私だけのもののように感じる、この瞬間。
数秒、沈黙が続いた。いや、沈黙が続いたというよりも、静かな「間」だったのかもしれない。でも、私にはとてもその時間が永遠続いてしまうかのように長く感じた。
「……そうなんだ、そんな風に思ってくれたなんて、とっても光栄だな。こんな僕のことを」
私の好意にはどうやら微塵も気づいていなかったようだ。少しだけ安堵した気持ちと、同時に寂しい気持ちが混ざり合う。
「付き合うか……。どうなんだろうな、僕が莉星と付き合って、幸せにできるのかな? でも、その可能性が少しでもあるのなら……。少し、時間をくれないかな?」
「……うん、ゆっくりと決めてほしい」
私の初恋は、星の歴史のようにそう簡単には終わらない。そんなことを告げてくれるような返事だった。彼が今後、どのような答えを出そうとも、私が彼に気持ちを伝えられたこと、それだけでもう十分幸せだと思えた。
数秒後、何かが私の手に触れた。——導明くんの手?
導明くんは、私の手を優しく握ってくれたのだ。どういう意図かはわからない。けれど、私も戸惑いながらその手を握り返す。私の指と彼の指が合わさる。私よりも大きな手に、そっと包まれた。
「あのさ、じゃあ、僕からも1つ、聞いてほしい願いがあるんだけど、いいかな?」
「うん、私からの願いも聞いてくれたしもちろん。どんなことを願っても、導明くんのことを嫌いになんてならないから」
「あ、その言葉、僕の真似したな」
私が自分の言葉を真似したことに、導明くんはすぐに気づいた。そのことにツボにはまってしまったらしく、私たちはこの日初めて、腹を抱えて笑い合った。何がそんなに面白いのかもわからないままに。
「……なんか、笑っちゃったね。でも、ここからは大事な話。もしよかったら、うちの会社で働かない? 僕のイベント会社で、スイーツを作ったり、それを活かして働かない? もちろん強制はしないし、僕の会社は今莉星が働いている会社よりも給料は少ないと思う。でも、辛い思いを莉星にしてほしくないという思いがあって、提案させてほしい」
導明くんは、さっきの笑った顔がまるで嘘かのように真剣な顔に切り替えて、私にそんな提案をしてくれた。突然のことで少し戸惑いはあったが、この提案をどうするかで今後の私の人生は変わるのかもしれない。人生の分かれ道に、私は今立っている。でも、答えを出すのに少しの時間もいらなかった。結論はすぐに決まった。
「……うん、導明くんがいいのであれば、こんなダメダメな私だけど、導明くんの会社で働きたい。本当の自分を取り戻したい」
「……わかった、提案に乗ってくれてありがとう。うちの従業員たちはとっても優しいから、きっと大丈夫だよ」
「そうと決まったら私、明日、早速退職届を出してくる。今まではやめても行き場がないと思ってたから辞められなかった。でも、今は違うしね。導明くん、待ってて」
「もちろん」
この決断が正しいのかはもちろん誰にもわからない。知恵の輪よりも複雑な人生において、その答えを考えるのはとても難しい。でも、彼なら信じてみようと思えた。信じてもいいと思えた。そして、今の私にとっては、これが正解に最も近いものなんだと思う。
終電は逃したが、人生の始発を手に入れた――そんなように思える。
私たちは、小さなベンチでこの夜を過ごした。夢の中に入った時間はほんの2時間ほどだっただろうか。これから彼とたくさん話せるというのに、思い出話で盛り上がってしまい、あっという間に時間は過ぎた。
そして、気づけば寝ていたはずの太陽が顔を出し、始発電車がこの無音地帯に音を立てながら入線する。私は、最後にこの叶星駅の写真を取り、SNSにある投稿をした。
『「#今夜、叶星で1人です」これを使って、かつての大切な友達であり、今後の人生を変えてくれるはず、そんな素敵な人と再会できました』
投稿をすると、フォロワーの人から早速いいねが来た。信じているのかわからないけれど、なんだか誇らしい。彼にはなんでニヤニヤしているのかと言われてしまい、このことを話すのは少し恥ずかしかったため、日記をつけていたと嘘をついた。
電車に乗るためにホームに入る。後ろを向くと、もう朝だというのに、星のようなものが見えた。ただ、気のせいだろうと思って気にすることはなかった。
始発電車に乗って最寄り駅に降り立ち、会社へと向かう。いつもの荷物だけじゃなく、駅前で買った退職届を手にしっかりと持って。彼には、ついていこうかといわれたけれど、私は丁重に断った。これは、私自身の問題なのだから。
「おい、遅いぞ。始業時間の1時間前には来いって言ってるよな」
いつも通りのその言葉。1時間早く来ても賃金は払われないというのに、それに私だけに強制している。あからさまなパワハラ。でも、私は今日はその言葉が怖いとは感じなかった。
「今日はこれを提出しに来ました」
私は一歩、社長のデスクの前へ進み出ると、退職願を差し出した。社長は退職願を見ると、いらだったように舌打ちをする。そして、私を鋭い視線でじっと見つめた。私は、普段会社では見せない優しい笑顔を保ったまま、社長を見返した。
「辞めれるわけねえだろ。お前、自分の立場、わかってるのか?」
私は、恐怖を押し殺しながら、唇を真っすぐに結んだ。足元は落ち着いていない、でも、大丈夫だと何度も言い聞かせる。
「……もう、私には覚悟ができてます。退職が認められないのであれば、これまでの行為や問題、しかるべき場所に相談し、正式に対処します」
私の今までにない強い口調に、社長は明らかに顔がこわばっている。自分の声がほとんど震えていないことに、自分でも驚く。社長は、私がここまで言う人間だとは思っていなかっただろう。もちろん法律上、やめられないことはないし、それに今までの行為や問題を訴えるとまで言われたら流石に社長もたちうちできないはずだ。
「わかったよ。今日でやめていい。その代わり、報告はするな。わかったか? でも、お前を雇ってくれるところなんて、この先あるのかな?」
社長はあきらめたような態度で、ぶっきらぼうにそう言う。私は、こくりと頷く。
「了解いたしました、報告はしません。再度確認させてください、今日付で、退職ということでよろしいですね?」
「ああ、いいとも。この先お前を雇ってくれる会社なんて、あるとは思えないがな。収入もない状態で、ひとりで、生きていけると思うなよ?」
社長は書類を無理やり引き寄せると、目を逸らしたままペンを取った。社長の手は、わずかに震えていた。
このやり方が果たして正しかったのかはわからない。けれど、私にとって今、もっともしなくてはならないことを果たしたという自覚はある。
そして、社長は大きな勘違いをしている。私を必要とする場所なんて1つもないと思っているみたいだけど、それはまったくもって違う。
——私には、私を必要としてくれている人がいるのだ。
もう、この場所には絶対に戻らない。私は、前に進むんだ。
身の回りを片付けたり、会社を去るために最後の必要な業務をこなしてから、この会社を去った。名残惜しさなど全くない。帰りに会社の方を向いても、これっぽっちも残像が残らない。むしろ私を今まで縛っていた縄が緩み、粉々になった体が再生していくようだった。
翌日からは、導明くんの会社で働いた。初日から忙しくはあったけれど、社員のみなさんは驚くほど丁寧に、そして優しく教えてくれた。残業があることはほとんどないく、社長である導明くんは、ことあるごとに社員の私たちを気遣うような言葉をかけてくれて、まるで、私が以前いた会社とは世界が180度変わったかのようだった。ここでは、誰かを踏みつけるのではなく、互いに支え合って歩いていける。そんな風に思えた。
私の人生に、2度目の始発列車が運行を始めた——そう思えるような人生だと、自信をもって言える。
私が初めてプロジェクトリーダを任されたスイーツイベントの準備が大詰めになってきたある日、導明くんはこんなことを言ってくれた。
「……告白の返事なんだけどさ、これが僕の気持ち」
導明くんは、そういいながら私に箱を渡す。箱の中には、まるで宝石のように輝くイチゴのショートケーキが入っていた。私は、その気持ちを受け取れるか自信がなかったけれど、導明くんのケーキを1口そっと口の中に運んだ。
「……甘酸っぱいイチゴ。でも、クリームが優しく包み込んでくれる」
私のつぶやきに、導明くんはふっと微笑んで言った。
「そう、甘酸っぱい恋をしながら、君を優しく包み込みたい……付き合ってください」
前に私から告白したはずなのに、彼から逆に告白されてしまった。ただ、私は迷うことなく本当の笑顔で返事する。
「はい、もちろん」
そして、そのイチゴケーキを導明くんの口へと運んだ。「これからよろしくね、君と歩んでいきたい」という、確かな意味を込めて。



