「まさか、こんなところにいたとは……」
彼もまた、驚きを隠せずにいるようだった。それでも千歳に歩み寄り、手を貸して立たせている。
「それはそうと、これは君のものだったのか。扉の前に落ちていた」
一歩進み出て、忍は千歳の手に守り刀を握らせる。そうして、ゆっくりと話し始めた。困惑している千歳をなだめるような、そんな声音だった。
「……前に、僕が君のところにこっそり文を届けただろう。そのときに顔を合わせた下女が、君のことを心配していたんだ」
千歳はまだぽかんとしたまま、忍の顔を見上げていた。
「君は友人の家に招待され、泊りがけで遊びにいったということになっている。さやか君が、君からのそんな伝言を持って帰ったと」
やっぱりさやかは、自分を一晩ここに閉じ込めておくつもりだったらしい。そのことを実感し、千歳がかすかに身震いする。
「だが下女は『千歳お嬢様は、一度帰宅してきちんと自分の口で説明してから出かけるお方です。もしかすると千歳お嬢様に、何かあったのかもしれません』と必死に主張したんだ。わざわざ、僕の家までやってきて」
「そんな、ことが……」
こっそりと自分のことを気にかけてくれたあの下女の優しい笑顔を、千歳は思い出していた。忍はそんな彼女からそっと視線をそらし、目を伏せた。
「皆木の家の方々は、君がいないことを特に問題だと思っていないようだった。ならば本来、これは僕が首を突っ込むようなことではない。だが……少し、気になったんだ」
そう話す忍の表情は、自分のうちにある感情がうまく整理できずにとまどっているような、そんなものだった。
「だからひとまず、君の家から女学校までの道を歩いてみた。特に当てもなかったし、ついでに夜道の散歩も悪くはないかと、そう思って」
忍が自分を探すために、わざわざ夜道を歩いてくれた。それだけで、千歳は天にも昇る心地だった。
「しかし女学校の近くの桜並木で、僕は思いもかけないものを目にしたんだ」
ふと、忍が言葉を途切れさせる。そして彼は、先ほどの不思議な体験について語り出した。
半信半疑、よりも疑いのほうが大きい心持ちのまま夜道を歩いていた忍の目の前に、はらりと花びらが舞い降りてきたのだ。桜の花びらによく似た、優しい色の花びらだった。
しかし周囲の桜並木はすっかり葉桜で、他に花をつけている木もない。
この花びらはどこから来たのだろうと首を傾げる忍の目の前で、その花びらは宙に溶けるようにして消えてしまったのだ。
彼が驚きに目を見張っていると、少し先の空中にまた花びらが現れ、消えていく。まるで彼を誘っているように。
あやかしか何かが、自分を化かそうとしているのかもしれない。忍は一瞬そう考えたが、直観に従うことにした。あの花びらは、決して悪さをするものではないと、彼はそう感じていたのだ。
「そうして花びらのあとをひたすらについていって、ここにたどり着いた。……最後の花びらは、その守り刀に吸い込まれていった。つくづく、不思議なものを見せてもらったな」
その言葉に、千歳は弾かれるように守り刀を見た。
自分は、そのようなものを見たことはない。けれどもし、本当にこの守り刀が忍を自分のところまで連れてきてくれたのだとしたら。
「……ありがとう、ございます……」
彼女は守り刀をぎゅっと抱きしめ、泣き笑いのような表情で礼を言った。
そんな彼女を、忍は優しい目で見守っていた。しかしその顔から、すうっと表情が消える。
「さて、僕がここに来た理由は以上だ。今度は君の話を聞かせてもらおう」
その言葉に、千歳がびくりと身を震わせた。
「どうして君は、こんなところに閉じ込められていた? ことと次第によっては、警官に話をしなくてはならない。一市民として、見過ごせないからな」
「あ、あの、それは……」
こんな形で助け出されるとは思ってもみなかった彼女は、適切な言い訳を用意していなかった。焦ってしまい、視線をそらして口ごもる。
「……その、これはちょっとした手違い、でして……おおごとにはしたくないので、内緒にしていただければ助かります……」
どうにかこうにか、千歳はそんな言葉をひねり出した。我ながら苦しい言い訳だなと、そう思いながら。
「見つけていただいたのに、こんなことを言うのはおかしいと、分かってはいるのですが……」
「君がそこまでしてかばうということは、やはりこの件にはさやか君がからんでいるのか?」
思いもかけない一言に驚いてしまった千歳は、目を見開いて彼を見つめてしまった。彼の言葉を否定することも忘れて。
「隠さなくてもいい。僕にだって、それくらいのことは分かる。君たちは姉妹だが、実際は主人と下僕のような関係だ。しかも、彼女は決していい主人とは言えない。どうしてそんなことになっているのかは、知らないが」
そうして、彼はぽつりと付け加える。
「……僕に会いに来た下女も、さやか君におびえているようだったからな」
千歳はやはり何も言えないまま、ぎゅっと唇を噛んでいる。どうやら彼女はこの件について、何も話すつもりがないようだった。
そのことを悟った忍が、困ったようにため息をつく。少し考えて、また別の言葉を口にした。
「千歳君。僕はずっと、疑問に思っていた」
夜の旧校舎に、忍の凛とした声が響く。
「どうして君は、我慢ばかりしているんだ?」
それは疑問であり、同時にほんのわずかないらだちを秘めた言葉だった。
「君はいつも、彼女の機嫌をうかがっていた。いつまで、そんなことを続けるんだ?」
千歳は答えない。答えられない。そんな彼女に焦れたのか、忍の声が強くなる。
「君一人が我慢すればそれで丸く収まる。まさか、そんなことを考えてはいないだろうな?」
図星を刺されてしまった千歳が、びくりと肩を震わせる。けれど結局何も言わずに、ぎゅっと守り刀を握りしめるだけだった。
忍はそんな彼女を見つめたまま、もう一度深々と息を吐いた。その目には、千歳をいたわるような、けれどどことなく悲しげな色が浮かんでいた。
そうして彼は、一転して静かな声で語りかける。
「……君は、自分の意見をきちんと言葉にできる人間だ。前に君と話して、そう感じた」
千歳が身をこわばらせたのは、驚きからか、とまどいからか。
「そして、現状は君にとって好ましいものとは言えない」
悲しげに眉をひそめる千歳に、忍は懸命に呼びかけ続けた。
「君たちの間にどんな事情があるのか、僕は知らない。だがそれでも、君は声を上げるべきなのだと思う」
そこで忍は、一度言葉を切った。それからためらいがちに、続きを口にする。
「あの活動写真の男女を見て、君は『何かに立ち向かう姿は美しい』と言っていた。それは君も、あんなふうに立ち向かいたいと思っていたから、ではないのか?」
前にカフェーで話したときのことを思い出し、千歳がはっと目を見張る。唇をわななかせ、そして……小声でつぶやいた。
「……たとえ、うまくいかなくても……立ち向かうべき、なのでしょうか……?」
そろそろと千歳が口にした言葉に、忍は力強くうなずいてみせる。その顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
「大丈夫だ。僕がついている。できる限りの協力はする。あの活動写真のように、悲劇に終わらせはしない」
頼もしいその笑みを、千歳はとまどったように見つめていた。
「忍様……どうして、そこまでしてくださるんですか……」
「文に書いたとおりだ。僕はまた、君と活動写真について語り合いたい。それに、様々な書物についても。二人で一緒に読書をしたら、きっと楽しい」
そう答える忍の表情には、ただ純粋な喜びだけが満ちていた。彼は自分と会うことをこんなにも楽しみにしてくれている、千歳はそのことを実感した。
「ただそのためには、君がさやか君の下僕のままではどうしようもない。君は彼女から離れていてほしいと、僕は思う。いや、離れるべき……というのが正しいだろうか」
そして千歳は、我に返る。さやかのことを語る忍の口調には、明らかに苦いものが混ざりこんでいた。しかし彼は、さやかと親しくなっていたのではなかったのか。
「……あの……どうして、さやかさんのことを、そのように……忍様とさやかさんは、最近親しいと聞いて……」
「その情報は間違っている」
すると忍は、一転して心底うんざりした顔になってしまった。
「さやか君が僕の気を引こうとしていることは、嫌というほど分かっている。友人やら家族やらを巻き込んで、どうにかして婚約に持ち込めないかと頑張っているらしい」
そのことは、千歳も知っていた。そしてさやかは、とても順調なのだと誇らしげに言っていた。
「だが僕は、ああいう騒がしいだけの女性は苦手だ。あのお喋りを聞いていると、うんざりする。……かといって邪険にすると泣かれるし、正直困っていたんだ」
しかし忍は、まるで違うことを語っていた。それならば、これから自分が忍と会うこともできるのだろうか。そんな小さな希望が、千歳の胸に芽生える。
「僕が時間を共にしたいのはさやか君ではなく、君なんだ、千歳君」
千歳の表情の変化を見て取った忍が、熱心に言葉を重ねていく。
「だからどうか、勇気を出してほしい。その場から踏み出す、そんな勇気を。でないと僕は、君と自由に会うことすらできない」
「……はい」
ずっと他人のことを思い、我慢を重ねてきた千歳。そんな彼女の背を、忍の言葉が押した。
「……わたしもずっと、あなたに会いたいと、そう思っていましたから……」
「……そうか。そう思ってもらえて、嬉しい」
恥じらいながら思いを告げた千歳の肩に、忍がそっと手を置いた。薄暗い廊下で、二人はそのまま見つめ合っていた。二人そろって、幸せそうな笑みを浮かべて。
それから忍は千歳を、皆木家の近くまで送っていった。
別れ際、千歳は忍に頭を下げ、それから黙って彼を見つめた。忍もまた、無言のままうなずいていた。どちらの顔にも、柔らかな笑みが浮かんでいた。
夜遅く家に戻ってきた千歳を見て、さやかは大いに驚き、それから舌打ちしていた。しかしそれ以上何も言わず、素知らぬふりを貫き通していた。
そして下男の一人がさやかの目を盗むようにして、守り刀のことを謝罪しにきた。消え入りそうな声で、涙ぐまんばかりにして。そんな彼に千歳は笑いかけると、懐に隠していた守り刀を見せる。下男は驚きつつも、ほっとしていた。
彼もまた、驚きを隠せずにいるようだった。それでも千歳に歩み寄り、手を貸して立たせている。
「それはそうと、これは君のものだったのか。扉の前に落ちていた」
一歩進み出て、忍は千歳の手に守り刀を握らせる。そうして、ゆっくりと話し始めた。困惑している千歳をなだめるような、そんな声音だった。
「……前に、僕が君のところにこっそり文を届けただろう。そのときに顔を合わせた下女が、君のことを心配していたんだ」
千歳はまだぽかんとしたまま、忍の顔を見上げていた。
「君は友人の家に招待され、泊りがけで遊びにいったということになっている。さやか君が、君からのそんな伝言を持って帰ったと」
やっぱりさやかは、自分を一晩ここに閉じ込めておくつもりだったらしい。そのことを実感し、千歳がかすかに身震いする。
「だが下女は『千歳お嬢様は、一度帰宅してきちんと自分の口で説明してから出かけるお方です。もしかすると千歳お嬢様に、何かあったのかもしれません』と必死に主張したんだ。わざわざ、僕の家までやってきて」
「そんな、ことが……」
こっそりと自分のことを気にかけてくれたあの下女の優しい笑顔を、千歳は思い出していた。忍はそんな彼女からそっと視線をそらし、目を伏せた。
「皆木の家の方々は、君がいないことを特に問題だと思っていないようだった。ならば本来、これは僕が首を突っ込むようなことではない。だが……少し、気になったんだ」
そう話す忍の表情は、自分のうちにある感情がうまく整理できずにとまどっているような、そんなものだった。
「だからひとまず、君の家から女学校までの道を歩いてみた。特に当てもなかったし、ついでに夜道の散歩も悪くはないかと、そう思って」
忍が自分を探すために、わざわざ夜道を歩いてくれた。それだけで、千歳は天にも昇る心地だった。
「しかし女学校の近くの桜並木で、僕は思いもかけないものを目にしたんだ」
ふと、忍が言葉を途切れさせる。そして彼は、先ほどの不思議な体験について語り出した。
半信半疑、よりも疑いのほうが大きい心持ちのまま夜道を歩いていた忍の目の前に、はらりと花びらが舞い降りてきたのだ。桜の花びらによく似た、優しい色の花びらだった。
しかし周囲の桜並木はすっかり葉桜で、他に花をつけている木もない。
この花びらはどこから来たのだろうと首を傾げる忍の目の前で、その花びらは宙に溶けるようにして消えてしまったのだ。
彼が驚きに目を見張っていると、少し先の空中にまた花びらが現れ、消えていく。まるで彼を誘っているように。
あやかしか何かが、自分を化かそうとしているのかもしれない。忍は一瞬そう考えたが、直観に従うことにした。あの花びらは、決して悪さをするものではないと、彼はそう感じていたのだ。
「そうして花びらのあとをひたすらについていって、ここにたどり着いた。……最後の花びらは、その守り刀に吸い込まれていった。つくづく、不思議なものを見せてもらったな」
その言葉に、千歳は弾かれるように守り刀を見た。
自分は、そのようなものを見たことはない。けれどもし、本当にこの守り刀が忍を自分のところまで連れてきてくれたのだとしたら。
「……ありがとう、ございます……」
彼女は守り刀をぎゅっと抱きしめ、泣き笑いのような表情で礼を言った。
そんな彼女を、忍は優しい目で見守っていた。しかしその顔から、すうっと表情が消える。
「さて、僕がここに来た理由は以上だ。今度は君の話を聞かせてもらおう」
その言葉に、千歳がびくりと身を震わせた。
「どうして君は、こんなところに閉じ込められていた? ことと次第によっては、警官に話をしなくてはならない。一市民として、見過ごせないからな」
「あ、あの、それは……」
こんな形で助け出されるとは思ってもみなかった彼女は、適切な言い訳を用意していなかった。焦ってしまい、視線をそらして口ごもる。
「……その、これはちょっとした手違い、でして……おおごとにはしたくないので、内緒にしていただければ助かります……」
どうにかこうにか、千歳はそんな言葉をひねり出した。我ながら苦しい言い訳だなと、そう思いながら。
「見つけていただいたのに、こんなことを言うのはおかしいと、分かってはいるのですが……」
「君がそこまでしてかばうということは、やはりこの件にはさやか君がからんでいるのか?」
思いもかけない一言に驚いてしまった千歳は、目を見開いて彼を見つめてしまった。彼の言葉を否定することも忘れて。
「隠さなくてもいい。僕にだって、それくらいのことは分かる。君たちは姉妹だが、実際は主人と下僕のような関係だ。しかも、彼女は決していい主人とは言えない。どうしてそんなことになっているのかは、知らないが」
そうして、彼はぽつりと付け加える。
「……僕に会いに来た下女も、さやか君におびえているようだったからな」
千歳はやはり何も言えないまま、ぎゅっと唇を噛んでいる。どうやら彼女はこの件について、何も話すつもりがないようだった。
そのことを悟った忍が、困ったようにため息をつく。少し考えて、また別の言葉を口にした。
「千歳君。僕はずっと、疑問に思っていた」
夜の旧校舎に、忍の凛とした声が響く。
「どうして君は、我慢ばかりしているんだ?」
それは疑問であり、同時にほんのわずかないらだちを秘めた言葉だった。
「君はいつも、彼女の機嫌をうかがっていた。いつまで、そんなことを続けるんだ?」
千歳は答えない。答えられない。そんな彼女に焦れたのか、忍の声が強くなる。
「君一人が我慢すればそれで丸く収まる。まさか、そんなことを考えてはいないだろうな?」
図星を刺されてしまった千歳が、びくりと肩を震わせる。けれど結局何も言わずに、ぎゅっと守り刀を握りしめるだけだった。
忍はそんな彼女を見つめたまま、もう一度深々と息を吐いた。その目には、千歳をいたわるような、けれどどことなく悲しげな色が浮かんでいた。
そうして彼は、一転して静かな声で語りかける。
「……君は、自分の意見をきちんと言葉にできる人間だ。前に君と話して、そう感じた」
千歳が身をこわばらせたのは、驚きからか、とまどいからか。
「そして、現状は君にとって好ましいものとは言えない」
悲しげに眉をひそめる千歳に、忍は懸命に呼びかけ続けた。
「君たちの間にどんな事情があるのか、僕は知らない。だがそれでも、君は声を上げるべきなのだと思う」
そこで忍は、一度言葉を切った。それからためらいがちに、続きを口にする。
「あの活動写真の男女を見て、君は『何かに立ち向かう姿は美しい』と言っていた。それは君も、あんなふうに立ち向かいたいと思っていたから、ではないのか?」
前にカフェーで話したときのことを思い出し、千歳がはっと目を見張る。唇をわななかせ、そして……小声でつぶやいた。
「……たとえ、うまくいかなくても……立ち向かうべき、なのでしょうか……?」
そろそろと千歳が口にした言葉に、忍は力強くうなずいてみせる。その顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
「大丈夫だ。僕がついている。できる限りの協力はする。あの活動写真のように、悲劇に終わらせはしない」
頼もしいその笑みを、千歳はとまどったように見つめていた。
「忍様……どうして、そこまでしてくださるんですか……」
「文に書いたとおりだ。僕はまた、君と活動写真について語り合いたい。それに、様々な書物についても。二人で一緒に読書をしたら、きっと楽しい」
そう答える忍の表情には、ただ純粋な喜びだけが満ちていた。彼は自分と会うことをこんなにも楽しみにしてくれている、千歳はそのことを実感した。
「ただそのためには、君がさやか君の下僕のままではどうしようもない。君は彼女から離れていてほしいと、僕は思う。いや、離れるべき……というのが正しいだろうか」
そして千歳は、我に返る。さやかのことを語る忍の口調には、明らかに苦いものが混ざりこんでいた。しかし彼は、さやかと親しくなっていたのではなかったのか。
「……あの……どうして、さやかさんのことを、そのように……忍様とさやかさんは、最近親しいと聞いて……」
「その情報は間違っている」
すると忍は、一転して心底うんざりした顔になってしまった。
「さやか君が僕の気を引こうとしていることは、嫌というほど分かっている。友人やら家族やらを巻き込んで、どうにかして婚約に持ち込めないかと頑張っているらしい」
そのことは、千歳も知っていた。そしてさやかは、とても順調なのだと誇らしげに言っていた。
「だが僕は、ああいう騒がしいだけの女性は苦手だ。あのお喋りを聞いていると、うんざりする。……かといって邪険にすると泣かれるし、正直困っていたんだ」
しかし忍は、まるで違うことを語っていた。それならば、これから自分が忍と会うこともできるのだろうか。そんな小さな希望が、千歳の胸に芽生える。
「僕が時間を共にしたいのはさやか君ではなく、君なんだ、千歳君」
千歳の表情の変化を見て取った忍が、熱心に言葉を重ねていく。
「だからどうか、勇気を出してほしい。その場から踏み出す、そんな勇気を。でないと僕は、君と自由に会うことすらできない」
「……はい」
ずっと他人のことを思い、我慢を重ねてきた千歳。そんな彼女の背を、忍の言葉が押した。
「……わたしもずっと、あなたに会いたいと、そう思っていましたから……」
「……そうか。そう思ってもらえて、嬉しい」
恥じらいながら思いを告げた千歳の肩に、忍がそっと手を置いた。薄暗い廊下で、二人はそのまま見つめ合っていた。二人そろって、幸せそうな笑みを浮かべて。
それから忍は千歳を、皆木家の近くまで送っていった。
別れ際、千歳は忍に頭を下げ、それから黙って彼を見つめた。忍もまた、無言のままうなずいていた。どちらの顔にも、柔らかな笑みが浮かんでいた。
夜遅く家に戻ってきた千歳を見て、さやかは大いに驚き、それから舌打ちしていた。しかしそれ以上何も言わず、素知らぬふりを貫き通していた。
そして下男の一人がさやかの目を盗むようにして、守り刀のことを謝罪しにきた。消え入りそうな声で、涙ぐまんばかりにして。そんな彼に千歳は笑いかけると、懐に隠していた守り刀を見せる。下男は驚きつつも、ほっとしていた。

