ころころと笑っていたさやかの声が、一転して低く、恐ろしいものになる。
「あんた、抜け駆けしてたのね。何よあの手紙! あたしを差し置いて、忍様から文をもらうなんて!」
その言葉に、千歳がすうっと青ざめる。さやかから見えていないことに気づく余裕すらなく、必死に首を横に振った。
「あ、あれは、差出人も分からないもので……」
「じゃあなんで、大切に行李の中にしまっておいたのかしら?」
弱々しい千歳の声を、怒りに震えるさやかの声が遮った。
「……それに、聞いたのよ。あんた、忍様と一緒にカフェーに行って、活動写真の感想を語り合っていたんですって? だったらあの文の内容にも、説明がつくわね!」
その言葉を聞いた千歳が、ぴたりと動きを止めた。暗がりの中で、その目が虚ろに見開かれる。
忍は、自分とさやかの関係がかんばしくないことには気づいていただろう。それなのに、そんなことをさやかに話してしまったのか。もうそこまで、二人は仲良くなってしまっていたのか。千歳はそう、考えてしまったのだ。
実のところこの情報は、亮司からさやかにもたらされたものだった。しかしさやかは、もちろんそんなことを話しはしない。
「生意気な泥棒猫には、罰が必要よね。ここで一晩、じっくりと頭を冷やしなさいな」
はじかれたように千歳が扉に取りつき、開けようとする。しかし扉はびくともしない。
「あんたの力じゃ無理よ。心張り棒を、しっかりとかっておいたから」
そう言い放つさやかの視線の先には、斜めに立てかけられた頑丈な木の棒。扉の側面に食い込むようにして、しっかりと扉を押さえ込んでしまっている。
「どうして、そんなものが……」
「簡単よ。ちゃんと準備しておいたの」
「準備……って、だってここには、リボンがあるって……」
千歳がすっかりうろたえてしまっているのが嬉しくてたまらないらしく、さやかはふふんと鼻で笑う。
「嘘に決まっているでしょう。面白いように引っかかってくれて、すっとしたわ」
あまりのことに、千歳が黙り込む。さやかの笑みが、幸せそのものの、とろりとしたものに変わっていった。
「ああ、そうだわ。行李の中にあった風呂敷包み、確か守り刀……だったかしら? あれも、捨てておいたわ。あんたはうちの子になったんだから、あんなもの、必要ないわよね?」
「嘘……捨てたって、どこに!?」
「あらやだ、気になるの? そこから出られたら、探しにいってはどう? 下男に命じて下町のどぶ川に捨てさせたから、探すのは大変だろうけど」
いたぶるような声音でそう言って、さやかは立ち去っていってしまった。
「あっはは、すっとしたわ!」
ブーツのかかとが古い木の床にぶつかる鈍い音と軽やかな笑い声が、どんどん遠ざかっていく。
千歳は扉に手をかけたまま、呆然とその音を聞いていた。辺りがすっかり静かになってしまってから、ようやく我に返る。
ここは本校舎からは遠く、叫ぼうがわめこうが助けは来ない。どうにかして自力で脱出しなくてはならない。
それに、守り刀も探さなくてはならない。自分にとっては生みの親につながる大切なものだが、何も知らない者はただの鉄くずだと思うかもしれない。あれには装飾らしい装飾もなく、物を切ることすらできないのだから。
誰かの手に渡る前に、見つけ出さなくてはならない。混乱した頭で、千歳はそう決意する。
「早く、扉を破らなくては……ここから出ないと……」
扉に両手をかけて力いっぱい揺らし、体当たりをして。しかし古い木の扉は、びくともしなかった。千歳は息が上がるほど取っ組み合って、それでもまだあがいて。
彼女の手にはささくれが刺さり、必死に踏ん張り続けていた足は震えていた。それでも必死に扉に食らいついていた千歳だったが、床板の隙間に草履が引っかかり、転んでしまう。
「こほ、けほ……」
真っ暗な物置部屋の床に、千歳は倒れ込む。舞い上がった埃を吸い込んでしまい、力なく咳をした。
立ち上がらなくては。彼女はそう自分を叱咤したが、もう動くことができなかった。この部屋の暗闇がじわじわと彼女の胸の中まで忍び寄り、彼女を捕らえてしまっていたから。
上体だけを起こした姿勢のまま、千歳はただうつむいていた。
「わたし……そんなに悪いことをしたの……?」
やがて千歳の唇から、そんな言葉がこぼれ落ちた。
皆木の家にもらわれてきたのも、実の子として育てられたのも、彼女の意志によるものではなかった。
忍とはほんのひととき、楽しい時間を過ごしたが、それだけだった。さやかを出し抜くとか、忍と恋仲になりたいとか、そんなことはかけらほども考えていなかった。
千歳はただ、耐えてきた。自分が我慢すれば、みんな幸せに暮らせる。そう信じて。それなのに、さやかはあれこれと理由をつけて、自分を責め立てるばかり。
「いつまで我慢すれば、いいのでしょう……」
そんな弱音をつぶやいたきり、千歳は黙り込んでしまう。
動かなくてはいけないのに、もう動けない。苦しくてたまらないのに、涙さえ浮かんではこない。そのことが、余計に彼女をさいなんでいた。
一方そのころ、皆木の屋敷の裏路地。
年老いた下女と、ひょろひょろした若い下男が人目をはばかるようにしてこそこそと話していた。
「千歳お嬢様に、何かあったに違いないのに……ああ、どうしたら……」
「俺……千歳お嬢様に、なんて言って詫びれば……申し訳ねえ……」
おろおろしている下女と、泣くのを必死にこらえている下男。
この下女は、先日忍からの文を千歳に届けた、あの女性だった。そしてこの下男は、さやかに命じられて千歳の守り刀を捨ててきたところなのだ。
「泣いてないで、考えてくださいな。さやか様がにらみを利かせているから、旦那様と奥様は頼れないんですよ。それに、私たちも表立っては動けません。こうなったら誰か、お嬢様を探しにいってくださる方を見つけるしか……」
そこでふと、思い出した。あの文の差出人である美しい青年に、頼むことはできないか。
しかし彼女は、彼が何者なのかは知らなかった。かえすがえすも、あの方の名を聞いておかなかったことが悔やまれた。
「せめて、あの文を千歳お嬢様にくださった方が分かれば……」
「文……それ、たぶん上神戸忍様からのものだと思う。さやかお嬢様が、『忍様から文をもらうなんて!』って叫んでおられたから」
ため息をついた下女に、すかさず下男が答える。次の瞬間、二人の顔が希望にぱっと明るくなった。
「そうなのね、ありがとう。それじゃあ私が、そちらのお宅を訪ねてみますよ。さすがに二人もいなくなったら、さやかお嬢様に怪しまれてしまいますから」
「分かった。留守の間は、こちらでどうにかごまかしておく。……千歳お嬢様が無事に見つかることを、祈ってる」
そうして、下女は夜道を走り出した。年齢を感じさせない、軽やかな、しっかりとした足取りで。
真っ暗闇の中、何も考えられずにただ座り込んでいた千歳の耳に、ふと音が届いた。ぎし、ぎしという、木の床を踏みしめる音。
もしかして、さやかが戻ってきた? そんなはずはない。だったら、あれは誰?
そんなことを考えながら、千歳はぎゅっと身をこわばらせ、扉をじっと見つめる。がたん、という音がして、扉が開いた。
そこに立っていた人の姿を見て、千歳は驚きに凍りついた。
「忍、様……どうして、こんなところに……? それに、その守り刀……」
窓から差し込む月光に照らされて、忍が静かにたたずんでいた。その手には、なぜか千歳の守り刀が握られていた。
「あんた、抜け駆けしてたのね。何よあの手紙! あたしを差し置いて、忍様から文をもらうなんて!」
その言葉に、千歳がすうっと青ざめる。さやかから見えていないことに気づく余裕すらなく、必死に首を横に振った。
「あ、あれは、差出人も分からないもので……」
「じゃあなんで、大切に行李の中にしまっておいたのかしら?」
弱々しい千歳の声を、怒りに震えるさやかの声が遮った。
「……それに、聞いたのよ。あんた、忍様と一緒にカフェーに行って、活動写真の感想を語り合っていたんですって? だったらあの文の内容にも、説明がつくわね!」
その言葉を聞いた千歳が、ぴたりと動きを止めた。暗がりの中で、その目が虚ろに見開かれる。
忍は、自分とさやかの関係がかんばしくないことには気づいていただろう。それなのに、そんなことをさやかに話してしまったのか。もうそこまで、二人は仲良くなってしまっていたのか。千歳はそう、考えてしまったのだ。
実のところこの情報は、亮司からさやかにもたらされたものだった。しかしさやかは、もちろんそんなことを話しはしない。
「生意気な泥棒猫には、罰が必要よね。ここで一晩、じっくりと頭を冷やしなさいな」
はじかれたように千歳が扉に取りつき、開けようとする。しかし扉はびくともしない。
「あんたの力じゃ無理よ。心張り棒を、しっかりとかっておいたから」
そう言い放つさやかの視線の先には、斜めに立てかけられた頑丈な木の棒。扉の側面に食い込むようにして、しっかりと扉を押さえ込んでしまっている。
「どうして、そんなものが……」
「簡単よ。ちゃんと準備しておいたの」
「準備……って、だってここには、リボンがあるって……」
千歳がすっかりうろたえてしまっているのが嬉しくてたまらないらしく、さやかはふふんと鼻で笑う。
「嘘に決まっているでしょう。面白いように引っかかってくれて、すっとしたわ」
あまりのことに、千歳が黙り込む。さやかの笑みが、幸せそのものの、とろりとしたものに変わっていった。
「ああ、そうだわ。行李の中にあった風呂敷包み、確か守り刀……だったかしら? あれも、捨てておいたわ。あんたはうちの子になったんだから、あんなもの、必要ないわよね?」
「嘘……捨てたって、どこに!?」
「あらやだ、気になるの? そこから出られたら、探しにいってはどう? 下男に命じて下町のどぶ川に捨てさせたから、探すのは大変だろうけど」
いたぶるような声音でそう言って、さやかは立ち去っていってしまった。
「あっはは、すっとしたわ!」
ブーツのかかとが古い木の床にぶつかる鈍い音と軽やかな笑い声が、どんどん遠ざかっていく。
千歳は扉に手をかけたまま、呆然とその音を聞いていた。辺りがすっかり静かになってしまってから、ようやく我に返る。
ここは本校舎からは遠く、叫ぼうがわめこうが助けは来ない。どうにかして自力で脱出しなくてはならない。
それに、守り刀も探さなくてはならない。自分にとっては生みの親につながる大切なものだが、何も知らない者はただの鉄くずだと思うかもしれない。あれには装飾らしい装飾もなく、物を切ることすらできないのだから。
誰かの手に渡る前に、見つけ出さなくてはならない。混乱した頭で、千歳はそう決意する。
「早く、扉を破らなくては……ここから出ないと……」
扉に両手をかけて力いっぱい揺らし、体当たりをして。しかし古い木の扉は、びくともしなかった。千歳は息が上がるほど取っ組み合って、それでもまだあがいて。
彼女の手にはささくれが刺さり、必死に踏ん張り続けていた足は震えていた。それでも必死に扉に食らいついていた千歳だったが、床板の隙間に草履が引っかかり、転んでしまう。
「こほ、けほ……」
真っ暗な物置部屋の床に、千歳は倒れ込む。舞い上がった埃を吸い込んでしまい、力なく咳をした。
立ち上がらなくては。彼女はそう自分を叱咤したが、もう動くことができなかった。この部屋の暗闇がじわじわと彼女の胸の中まで忍び寄り、彼女を捕らえてしまっていたから。
上体だけを起こした姿勢のまま、千歳はただうつむいていた。
「わたし……そんなに悪いことをしたの……?」
やがて千歳の唇から、そんな言葉がこぼれ落ちた。
皆木の家にもらわれてきたのも、実の子として育てられたのも、彼女の意志によるものではなかった。
忍とはほんのひととき、楽しい時間を過ごしたが、それだけだった。さやかを出し抜くとか、忍と恋仲になりたいとか、そんなことはかけらほども考えていなかった。
千歳はただ、耐えてきた。自分が我慢すれば、みんな幸せに暮らせる。そう信じて。それなのに、さやかはあれこれと理由をつけて、自分を責め立てるばかり。
「いつまで我慢すれば、いいのでしょう……」
そんな弱音をつぶやいたきり、千歳は黙り込んでしまう。
動かなくてはいけないのに、もう動けない。苦しくてたまらないのに、涙さえ浮かんではこない。そのことが、余計に彼女をさいなんでいた。
一方そのころ、皆木の屋敷の裏路地。
年老いた下女と、ひょろひょろした若い下男が人目をはばかるようにしてこそこそと話していた。
「千歳お嬢様に、何かあったに違いないのに……ああ、どうしたら……」
「俺……千歳お嬢様に、なんて言って詫びれば……申し訳ねえ……」
おろおろしている下女と、泣くのを必死にこらえている下男。
この下女は、先日忍からの文を千歳に届けた、あの女性だった。そしてこの下男は、さやかに命じられて千歳の守り刀を捨ててきたところなのだ。
「泣いてないで、考えてくださいな。さやか様がにらみを利かせているから、旦那様と奥様は頼れないんですよ。それに、私たちも表立っては動けません。こうなったら誰か、お嬢様を探しにいってくださる方を見つけるしか……」
そこでふと、思い出した。あの文の差出人である美しい青年に、頼むことはできないか。
しかし彼女は、彼が何者なのかは知らなかった。かえすがえすも、あの方の名を聞いておかなかったことが悔やまれた。
「せめて、あの文を千歳お嬢様にくださった方が分かれば……」
「文……それ、たぶん上神戸忍様からのものだと思う。さやかお嬢様が、『忍様から文をもらうなんて!』って叫んでおられたから」
ため息をついた下女に、すかさず下男が答える。次の瞬間、二人の顔が希望にぱっと明るくなった。
「そうなのね、ありがとう。それじゃあ私が、そちらのお宅を訪ねてみますよ。さすがに二人もいなくなったら、さやかお嬢様に怪しまれてしまいますから」
「分かった。留守の間は、こちらでどうにかごまかしておく。……千歳お嬢様が無事に見つかることを、祈ってる」
そうして、下女は夜道を走り出した。年齢を感じさせない、軽やかな、しっかりとした足取りで。
真っ暗闇の中、何も考えられずにただ座り込んでいた千歳の耳に、ふと音が届いた。ぎし、ぎしという、木の床を踏みしめる音。
もしかして、さやかが戻ってきた? そんなはずはない。だったら、あれは誰?
そんなことを考えながら、千歳はぎゅっと身をこわばらせ、扉をじっと見つめる。がたん、という音がして、扉が開いた。
そこに立っていた人の姿を見て、千歳は驚きに凍りついた。
「忍、様……どうして、こんなところに……? それに、その守り刀……」
窓から差し込む月光に照らされて、忍が静かにたたずんでいた。その手には、なぜか千歳の守り刀が握られていた。

