それからも、さやかのミルクホール通いは続いていた。忍には会いたいがあの武骨な学生たちの中に一人で突っ込んでいくのは恐ろしいらしく、毎回千歳を伴って。

 とはいえ、また忍が千歳をかばうようなことになってはいけないと、さやかはさらに熱心に、忍に話しかけ続けるようになっていた。その騒がしいお喋りを、忍は聞き流しているようだったが。

 そして千歳は、忍から一番離れた席に着き、じっと雑誌に目を落とし続けていた。一度たりとも、忍のほうを見ることなく。

 彼女のただならぬ様子に何かを察したのか、周囲の学生たちは彼女に声をかけることなく、そっとしてくれていた。

 いつも通りの、ただ耐えるだけの時間。忍との楽しいひとときを知ってしまった千歳には、それはとても辛く感じられた。

 けれど今日は、いつもと違っていた。

「よう、忍」

「……亮司(りょうじ)か」

 見慣れない青年が、ふらりとミルクホールに顔を出したのだ。まとっているのは他の学生たちのような学生服ではなく、腰にはベルトと短剣が、肩にも小さなエポレットが取りつけられた、軍服のような服だった。

 肩のエポレットを見せびらかすように軽くかがみながら、彼は忍のいる卓に歩み寄る。その場の全員の注目を集めていることが、嬉しくてたまらないという顔をしながら。

「久しぶりに会った幼馴染だというのに、つれないなあ。貴重な休みの日を潰してまで、わざわざお前に会いに来たんだぞ」

「……それはすまない。だがそういうことなら、僕の家のほうに来てくれればよかったんだが……そちらであれば、腰をすえてじっくり話もできた」

 忍は言外に、さやかが邪魔でろくに話ができないとほのめかしていた。しかし図太いさやかはその程度でたじろぐことはない。いつも通りにしなを作ったまま、忍に甘い視線を向けていた。

 青年はそんな彼女を見て面白そうに目を見張ると、素知らぬ顔で忍に話しかけた。

「ははっ、でも少しでも早く、お前の顔を見たかったんだ」

 親しげに話す忍と青年に、周囲の生徒たちがためらいがちに声をかける。

「な、なあ上神戸、そいつは誰だ?」

「見たところ、陸軍士官学校の……予科の生徒みたいだが?」

 すると青年はくるりと振り向き、周囲の生徒たちに一礼した。少々大げさで優雅な身振りに、生徒たちがどよめく。彼らは、こういった軟派な男は見慣れていないのだ。

「俺は佐渡川(さどがわ)亮司、そっちの忍の幼馴染さ。見ての通り、陸軍士官学校予科の生徒だ。やっと外出日になったんで、久しぶりにこいつの顔を見ようと思って、ここまでやってきたんだ」
 ミルクホールに響き渡るような朗々たる声でそう言い放ったかと思うと、亮司は空いた椅子を一つ引き寄せ、そのまま忍の隣に座ってしまった。さやかと亮司、二人で忍を挟み撃ちにするような格好だ。

「ところで忍、相変わらずもててるじゃないか。こんなむさ苦しい場所にこんな可憐な花が咲いているなんて、思いもしなかったぞ」

「恥ずかしいですわ、可憐な花だなんて……」

 からかうような亮司の言葉に、さやかが大げさに恥じらってみせる。

 しかし忍はそちらを見ることなく、ほんの少し視線を動かした。その先には、縮こまるようにして雑誌を読んでいる千歳の姿。

 その視線に気づいた亮司が、ふっと目を細めた。その場にいた者たちはその表情を笑顔だと受け取っただろう。しかし彼のそのまなざしには、奇妙に強い光が一瞬きらめいていた。

「それより、僕に話したいことでもあるんじゃないか? 君は昔から、あれこれと僕に話をしたがっていたから」

 ふうと小さくため息をついて、忍は新聞を卓の上に置く。そんな忍の肩に腕を回して、亮司は明るく言い放った。

「そのつもりだったんだが、気が変わったよ。今日はお前とこちらのお嬢さんのなれそめを、たっぷりと聞かせてくれ」

 彼の言葉に、忍はかすかに顔をしかめ、さやかは心底嬉しそうに笑った。なおも雑誌を読み続けていた千歳の手が、ぎゅっと固く握りしめられていた。



 その日さやかと千歳は、いつもより遅くまでミルクホールに滞在していた。亮司の明るいお喋りに、すっかりさやかが乗せられてしまったのだ。

 空がもうすっかり夕焼け色になったころ、さやかと千歳はようやくミルクホールを後にしていた。しかしそんな二人を、たったったという規則正しい足音が追いかけてきた。

「ごめん、俺はさやかさんともう少し話したいことがあるんだ。いいかな?」

 足音の主は、亮司だった。彼は人懐っこい笑みを二人に向け、それから千歳を見つめた。

「ええ、構いませんわ。お姉様、先に帰っていてちょうだい」

 返事をしたのは、さやかだった。千歳は二人に小さく頭を下げて、静かにその場を立ち去っていく。か細い背中が小さくなり、曲がり角の先に消えた。

 それを見ていた亮司が、隣のさやかにささやきかける。

「さやかさん、君は忍にずいぶんとご執心のようだったね」

「あら、いやですわそんな、照れてしまいます」

 ミルクホールでの彼女のふるまいを見ていれば、誰でもその結論にたどり着くだろう。しかし彼女は素知らぬ顔で、堂々と恥じらってみせた。

 亮司はそんな彼女に、ひときわ優しい笑みを向ける。

「君のその思いに、胸を打たれてね……ぜひ俺に、手伝いをさせてもらえないかな」

 思いもかけない提案だったのだろう、さやかは恥じらいの演技も忘れて、ぽかんとした顔で亮司をまじまじと見つめている。

「俺は普段寮で暮らしているけれど、外には知り合いも多い。それとなく、君と忍が近づけるよう細工をすることはできるよ」

「まあ、嬉しいですわ……でもどうして、そこまでしてくださるの?」

 すると亮司は、とびきり芝居がかった仕草で胸を張った。

「俺は愛の神クピド、恋する乙女の味方さ」

 そのきざったらしい物言いにさやかは一瞬目を丸くしたものの、すぐにおっとりと笑ってみせた。

「ふふ、素敵な神様ですのね。心強いですわ」

「ただしこの神様は、誰かに秘密を話したら飛び去ってしまう。このことは、俺と君だけの秘密だよ?」

「ええ、もちろん」

「それじゃあ、詳細についてはまた後日。数日は休みをもらえたから、その間にじっくり話そう。作戦会議、というやつさ」

「楽しみにしておりますわ」

 さやかは優雅に礼をして、亮司に別れを告げる。明らかに浮かれた足取りで、先ほど千歳が歩いていった道を進んでいった。

 そんな彼女を、亮司は黙って見送っている。その口元には、やけに下卑た笑みが浮かんでいた。

 亮司は、忍の幼馴染だ。

 しかし忍は士族の息子で、亮司はごく普通の平民、八百屋の息子だった。とはいえ、お互い身分など気にせずに、幼いころからしょっちゅうつるんでいた。

 忍は幼少からとても賢く、運動も得意だった。落ち着いた性格とその整った面差しもあって、みな彼に一目置いていた。

 亮司もそれなりに学問は得意だったし、腕っぷしは忍よりも上だった。人懐っこい笑顔で、多くの者に愛されていた。

 はたから見れば似た者同士の彼らだったが、亮司は忍に対して劣等感のようなものを抱いていた。忍は彼のそんな思いに、少しも気づいてはいなかったが。

 だから彼は、忍に今の自分を見せびらかしにきたのだ。自分はいずれ、誉れ高き陸軍の士官になるのだと。学問だけしか取り柄のない高等学校の連中とは違い、この国をこの身をもって守る、そんな存在になるのだと。

 そうしてやってきたミルクホールで、彼は面白いものを見てしまった。懸命に忍の気を引こうと頑張っているさやかと、明らかにうんざりしている忍の姿だ。

 忍は昔から、騒がしいものが好きではない。人も、場所も。彼にとってさやかは、最も苦手なたぐいの人間だ。

 だったらあの二人をくっつけてしまえば、さぞかし面白いことになるに違いない。ありがたいことに、さやかの身なりは裕福な家の娘のそれだった。であれば、士族の家に嫁いでもおかしくはない。

「……さて、面白くなりそうだな……」

 夕焼けの橙色に染まった彼の顔は、ひどく満足げにゆがんでいた。



 次の日から、千歳は一人で帰宅するようになった。

 亮司は知り合いの女性に頼み、さやかがミルクホールに通う際の付き添いを頼んだのだった。さやかは授業が終わるとカバンを千歳に押しつけ、軽やかな足取りでさっさと立ち去ってしまうようになっていた。

 人の好い両親は、「友人と遊びにいってきますわ」というさやかの言い訳を、少しも疑っていなかった。

 静かな離れで、千歳はひとりぼんやりと庭を眺める。二人分の宿題はもう終わってしまったし、さやかはまだまだ帰ってこないから、もうしばらくのんびりしていられる。

 喜ぶべきこの状況を、千歳は少しも楽しめずにいた。庭のみずみずしい緑の木々も、彼女の心を慰めてはくれなかった。

 忍に、会いたい。いつしか、そんな思いが彼女の胸に巣くってしまっていたのだ。

 たとえ直接言葉をかわせなくとも、その姿を見ることすらできなくてもいい。同じ空間に、ほんのひととき一緒にいられるだけでもいい。

 いっそ今からでも、あのミルクホールに行ってしまおうか。そんな考えを、千歳はあわてて打ち消した。そんなことをすれば、間違いなくさやかを怒らせる。

 今まで感じたことのない、孤独と寂しさ。それを持て余した千歳は、すがるようにしてまた守り刀を手にする。

 いつも、この守り刀を見ていれば元気になれた。辛いことも悲しいことも忘れられた。しかしなぜか、今は少しも心が軽くならない。

「守り刀にまで見放されたら、わたし……」

 相変わらず暗い顔のまま、千歳がうつむく。庭のほうから舞い込んできたひとひらの花びらに、気づくことなく。