その少しのち、二人は小さなカフェーにいた。大通りから一本奥に入った路地に面した、しゃれた雰囲気の店だ。

 見知らぬ場所に連れ込まれてがちがちに緊張している千歳に、忍が笑いをこらえながら声をかける。

「ここは僕の父がひいきにしているカフェーだ。純粋に珈琲をたしなむための店だから、心配しなくていい」

 カフェーの中には酒を出したり、客に女給をはべらせたりする店もある。しかしこの店は忍の言う通り、そういった店ではないようだった。店内には珈琲の香ばしい香りが漂い、落ち着いた雰囲気に包まれている。

 千歳は、ここまでやってくるつもりはなかった。忍と一緒にカフェーに入ったなどということがさやかに知られたら、どんな目にあうか分かったものではない。

 しかし忍の話が、どうにも気になって仕方がない。千歳は少しだけ悩んだものの、ほんの少しだけなら、さやかに知られなければ、きっと大丈夫だと自分に言い訳をして、忍についていくことを決めたのだった。

「さて、僕があの活動写真を観に来ていた理由だが」

 かぐわしい珈琲が二人の前に置かれるやいなや、忍は語り出す。

「先ほどの活動写真は、一見するとただの悲恋ものだ。しかしあの原作となった小説は、社会構造に対する問題を提起するような、そんな話なんだ」

 ミルクホールで新聞を読んでいたときの忍は、とても物静かで、大人びていた。しかし今の彼は、ほんのり頬を上気させて、いつになく雄弁に語っていた。まるで子どものような、そんな表情で。

「父の書斎にその本があって、苦労しながらではあったが読了していたんだ。あの話が活動写真になったと聞いて、気になっていた」

 しかしそこで、彼はふっと苦笑を浮かべる。

「……それが、女性好みの悲恋ものになっているらしいと聞いたから、なおさら」

 そうして彼は、意味ありげに笑って千歳を真正面から見つめた。

「で、君はさっきの活動写真をどう思った?」

 忍のまっすぐな視線に、千歳はどぎまぎしてしまう。年の近い男性にこんなふうに見つめられたのは、彼女が覚えている限りでは初めてだったから。

「……息のつまるような身分制度に苦しめられつつも、その中で幸せをつかもうとした二人の物語、かと……」

 きゅっと手を握りしめ、ほんの少しうつむきながら、千歳は先ほどの活動写真の内容を思い出し、そう口にした。

「わたしには恋物語というよりも、戦う者たちの物語のようだと感じました。手を携え、理不尽と戦っていく、同志のような二人……」

 語るうちに、千歳の口もなめらかになっていく。

「結局二人は、目の前に立ちふさがる壁を乗り越えることができずに、引き裂かれてしまいましたが……困難に立ち向かう姿はとても美しいと、そう思いました」

 視線を落としたまま彼女が語ったそんな内容に、忍が満足げな笑みを浮かべる。

「なるほど、いい感想をありがとう。僕もそう思う。原作の主題をきちんと残しつつ、人間の感情と生き様にスポットライトを当てた、面白い仕上がりになっていた」

 それから二人は、先ほどの活動写真について感想を述べ合った。自然と話にも熱がこもり、千歳の表情も明るくなっていく。

 気がつけば、二人は卓を挟んで真正面から見つめ合っていた。しかし千歳はおびえることも、恥ずかしがることもなかった。二人はただ純粋に、会話を楽しんでいたのだった。

 話がふと途切れたところで、忍がふうと息を吐いた。

「……君に出会えて、よかった。男連中はこんな活動写真を見ようともしないし、女性たちはただの恋物語としかとらえないだろうから」

 柔らかなその表情に、優しいその言葉に、千歳は思わず忍をまじまじと見つめてしまう。そうして、今の自分の状況に気がついた。特に親しくもない、というより顔見知り程度でしかない男性と、二人きりでカフェーに来て、あれこれと話していた。

 意識したとたん、かっと頬が熱くなる。彼女は動揺をごまかそうと、とっさに珈琲を口にした。そして、その苦さに目を丸くする。

「こ、珈琲を飲んだのは、初めてだったのですが……このような味だったのですね」

 無言で肩を震わせている千歳を見て、忍がくすりと笑った。

「その反応、懐かしいな。僕も小さなころは、この苦さに手を焼いたものだ。ほら、これを」

 忍はそう言って、小さなミルクピッチャーを千歳のほうに押し出してくる。千歳はそれを素直に受け取り、珈琲に加えた。

 深い焦茶色から優しい茶色へと姿を変えた珈琲を、彼女は慎重に一口飲む。そうしてほっと、表情を和らげた。

 そのとき彼女は、忍がじっと自分を見つめ続けていることに気がついた。そのまなざしに、ようやく取り戻したばかりの落ち着きが、あっという間に吹き飛んでしまう。

 何か、話をそらさなくては。緊張せずに話せそうな、そんな話題がいい。

 必死に考えた千歳は、じきにあることを思い出した。

「ところでその小説、題は何でしょうか? その、興味があって……女学校の書庫にあったら、読んでみたいなと思うのです」

 しかし返ってきたのは、流暢な英語だった。とっさのことに聞き取れずぽかんとしてしまった千歳に、忍は申し訳なさそうな笑みを浮かべて肩をすくめた。

「僕の知る限り、あの小説は日本語に翻訳されていないんだ。珍しい本ではないから、原書なら学校の書庫にはあるだろう」

「……原書……頑張れば、わたしにも読めるでしょうか……」

「ん? 君、洋書に興味が?」

 忍が驚いたように目を見張ると、千歳は照れ臭そうに視線をさまよわせて、かすかな声で答えた。

「はい。わたし、いつか英語の教師になるのが夢で……」

「そうか、いい夢だな」

 自分の夢を、肯定してもらえた。そのことに、千歳は胸が温かくなるのを感じていた。

 普段の彼女なら、こんな場で自分の夢について語ることなどなかっただろう。だが忍と思いのほか楽しい時間を過ごせたことで、彼女の警戒は少しだけ緩んでしまっていたのだ。

 そもそも、千歳がこの夢を誰かに話すこと自体、初めてだった。

 上の学校には行かせてやれると、皆木の両親はそう言っていたし、女学校の教師たちも、千歳には進学を強く勧めていた。同学年の女生徒たちの中でも、千歳は特に優秀だったから。

 でももし、このささやかな夢がさやかに知られたら、きっと、いや間違いなく、彼女はこの夢を叩き壊そうとする。だから千歳は、黙っていたのだ。

 さやか。その存在を思い出してしまい、千歳は我に返る。忍と話しているのがあまりに楽しくて、忘れていた。けれどこのまま、ここにいてはいけない。ついうっかり、長居してしまった。

「あ、いえ……その、失礼します!」

 だから彼女は、珈琲の代金をそっと卓の上に置くと、そのまま勢いよく立ち上がった。忍が止める間もなく、そのまま店を飛び出していく。

「……もう少し、話したかったんだが」

 一人残された忍は、自分の向かいに置かれた珈琲のカップを眺め、ぽつりとつぶやいていた。

「……残念だな」