先だっての事件以来、さやかの千歳に対する風当たりはさらに強くなっていた。さすがの千歳も、少々辛いと感じてしまうほどに。

 けれど、今日は休日だ。さやかは友人たちと、遊びに行っている。千歳も皆木の両親にひとこと断って、一人で街へと出かけていった。

 先日ミルクホールで読んでいた雑誌に、これから上映される活動写真のことが記されていた。その中の一つに目を留めた千歳は、どうにかして観に行きたいと思っていたのだ。

 さやかに用事を言いつけられなかった幸運に感謝しながら、彼女はほんの少し浮かれた足取りで街を歩く。

「あった……」

 やがて千歳は、目的の場所にたどり着いた。たくさんの(のぼり)が立っている、大きな活動写真館だ。高鳴る胸をそっと押さえながら代金を払い、中に入る。

 ちょうど今日から始まる演目は、海の向こうで作られた作品だ。激動する社会に翻弄される男女の悲しい恋物語。そんな題材のせいか、女性席はもうほとんど埋まっているのに、男性席は半分も客が入っていない。

 千歳は席に着き、わくわくしながら客席を見渡していた。辛い日々からほんのひとときとはいえ解き放たれたからか、その表情は明るく、生来の愛らしさが引き立っていた。

 と、壇上に弁士が姿を現した。さわさわというお喋りの音で満ちていた客席が、とたんに静まり返る。

 客席が薄暗くなり、前の大きなスクリーンに白黒の映像が映し出された。西洋の街並みに、淡い色の髪をした人々。この帝都とはまるで違う、異国の風景。

 現実離れした世界の物語に、千歳はすっかり引き込まれていた。熱く語る弁士の声、ピアノとバイオリン、それに三味線の伴奏。そういったものも、大いにムードを盛り上げていたのだった。

 やがて活動写真は終わりを告げ、客席にはまた元の明るさが戻ってくる。千歳の周囲の女性客たちは、みなハンケチを取り出してしきりに目元を押さえていた。

 千歳も余韻に酔いながら、ふらりと活動写真館を退出した。このまま帰ってしまうのも惜しく思われた彼女は、道に立ったままぼんやりと辺りを眺めている。まだ夢の中にいるような、そんな心地で。

 すると、先ほどまで彼女がいた活動写真館から、一人の人影がゆったりと姿を現した。その人物は千歳に気づくと、朗らかに声をかけてくる。

「やあ。やはり君も来ていたのか。会えるとは思わなかった」

 振り返ってその人物を見た千歳は、目を真ん丸にして立ち尽くしてしまった。なんとそれは、忍だったのだ。友人も誰も連れておらず、一人きりだ。

 休日だからか、彼は質素な着物と袴をまとっている。学生服のときとは、また異なる凛とした印象を与えるたたずまいだった。

「か、上神戸様!?」

 うわずった声で、千歳が叫ぶ。びくりと身を震わせ、走り去ってしまいそうになり……ぎりぎりのところで踏みとどまった。

 早く彼から離れないと、またさやかに怒鳴られてしまう。しかしいきなり逃げてしまっては、彼に失礼だ。

 だからここは軽く言葉をかわすに留めて、一刻も早く、礼儀正しく彼の前を立ち去ろう。そう決めて、千歳は改めて忍に向き直る。

「奇遇、ですね……あの、それで『やはり』とは……?」

「忍でいい。先日君は、やけに熱心に雑誌を見ていただろう。あの雑誌に、この活動写真の宣伝が載っていたのを覚えていたんだ。それで、もしかしたら、と思った」

 さらりとそう言った忍が、何かを思い出したように首を傾げた。

「……ところで、あの雑誌は面白かったか? 文芸誌の中でも特に哲学寄りで、女性が好むようなものとは思えなかったが」

 突然の問いかけに、千歳はばっと身をこわばらせた。それからそろそろと、口を開く。

「はい……普段読み慣れないものでしたが、それだけに興味深かったです……次の号が出たら、そちらも読んでみたいと思いました……」

「そうか、ならよかった」

 そんな会話をかわしつつも、千歳の頭には別の疑問が浮かんでいた。

 今の演目は、若い男性が好むようなものではない。ならばどうして忍は、わざわざ一人でこの活動写真を観に来たのだろうか。そんな疑問だ。

「君、僕がどうしてこの活動写真を観に来たのか、不思議に思っている顔だな?」

「あ、それは……」

 あわててごまかそうと、千歳が大急ぎで首を横に振る。そんな彼女を温かな目で見つめていた忍が、ふと何かを思いついたようにつぶやいた。

「……そうだな。熱気が残っているうちに、感想を語り合いたい気分だ」