「……あんた、なんてことをしてくれたのよ」

 ミルクホールを出てしばらく歩き、家からもミルクホールからも離れた通りに出たところで、さやかがいきなり振り返った。

 その形相は、まさに鬼と呼ぶにふさわしいものだった。不機嫌なさやかの顔を見慣れている千歳ですら後ずさりしてしまうほどに凶悪で、恐ろしいほどの迫力をたたえていた。

「ほんっとうに、どこまで図々しいのよ! もらいっ子のくせに!!」

 ここが道のど真ん中であることも忘れ、さやかは叫ぶ。千歳はまるで殴られたかのように背中を丸め、身をこわばらせていた。

「忍様はあたしのものだって、そう釘を刺しておいたでしょう!」

 そんな千歳の態度を喜ぶ余裕すらなく、さやかはまくしたてる。

「それが何よ、忍様に助けられて、でれでれしちゃって……」

「で、でれでれなんてしてません……」

「してたわよ!」

 金切り声で叫んで、さやかは千歳の肩をどんと突く。その拍子に、千歳がよろめいて……すぐ後ろの小川に、落ちた。

 驚きに目を丸くするさやかの前で、ばしゃんと水音を立てて、千歳がしりもちをつく。幸いなことに小川は浅く、溺れるようなことはなかった。けれど千歳は、すっかり濡れ鼠になってしまったのだった。

 よろよろと小川からはい上がる千歳の姿を見て、さやかが鼻で笑った。

「ふん、いい気味」

 そうしてそのまま、さやかは歩み去ってしまう。千歳はぼたぼたと水を滴らせながら、さやかの後を追った。

 いつものように二人分のカバンを抱えたまま、千歳はさやかの少し後ろを歩く。しかしいつもとは違い、千歳の歩いた後には黒く湿った土の跡が残されていった。

 肩をいからせ、足元の砂を蹴立てながら大股で歩くさやか、消え入りそうにうつむきながら、とぼとぼと歩く千歳。さやかの眉間には深々としわが刻まれ、千歳の長いまつげは涙をこらえているかのように震えていた。

 やがて、皆木の家が見えてくる。さやかはいつものように自分のカバンを千歳からひったくると、小走りで門の中に駆け込んでいった。

「お父様、お母様、大変です!」

 その剣幕に、何事だと顔色を変えた両親が玄関から飛び出してくる。ちょうどそのとき、うつむいたままの千歳が門のところにたどり着いた。

「お姉様が足を滑らせて、川に落ちてしまったの!」

 そう言ってさやかは、そっと千歳の背を支えるような動きをする。もっとも彼女の手は、千歳の背中には触れていなかったが。

「それと、お姉様を助けようとしたときに、カバンを川に落としてしまって……ごめんなさい」

 自分の分のカバンを掲げて、さやかがしおらしげに頭を下げる。それを見て、両親が同時に眉を下げた。

「いいんだよ、さやか。お前たちが無事なら、それで。カバンも中身も、また買い直せばいい」

「千歳、早く着替えていらっしゃいな。誰か、女中をやって……」

「いいえ、お母様。あたしがお手伝いします」

 にっこりと笑って、さやかが進み出る。その態度に、両親は感心したように息を吐いた。

「そうか。ならば頼むよ」

「本当に、仲がいいのねえ……」

 二人の言葉を聞いた千歳が、何かを言いたげに唇を震わせた。けれどさやかの視線を感じ、そのまま黙りこくってしまう。

「それじゃあ、行きましょうか、お姉様」

 庭を回り込むようにして、二人は離れにやってくる。縁側でブーツを脱いださやかは、濡れたカバンを千歳に投げつけた。力いっぱい。

「明日、先生にあんたが謝るのよ! 宿題ができないのも、教本が駄目になったのも、全部全部あんたのせいなんだから! 責任、取りなさいね!」

 そうして一人だけ、さっさと離れの中に消えてしまう。縁側の障子が、ぴしゃんと鋭い音を立てて閉まった。

 残された千歳は縁側に上がることすらできずに、ただ庭に立ち尽くす。両手で顔を覆って。

「うう……」

 我慢だ。ここで自分が本当のことを訴えたら、皆木の両親は驚き、悩み、悲しんでしまう。自分さえ、我慢していれば。そうすれば、この家の平和は守れる。

 千歳はそう自身に言い聞かせたが、その目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。けれどその涙は濡れた袖にぱたりと落ち、すぐに見えなくなってしまった。