そしてまた、ある日の午後。
さやかと千歳は二人は連れ立って、道を歩いていた。しかし今日はまっすぐ家には戻らず、途中の角を曲がって脇道に入っていく。
もう少し進んだところで、さやかがぴたりと足を止めた。彼女は髪のリボンに手をやってゆがみを直し、さっさっと服の埃をはたくと、目の前の建物をきらきらした目で見上げている。
「ふふ、ここね。さて、あの方はおられるかしら……」
二人の目の前にあるのは、小ぶりのミルクホールだった。古い民家を改装しただけの、飾りも何もない場所。
さやかはためらうことなく、その中に入っていってしまう。とまどいがちに、千歳もそのあとを追いかけた。
殺風景な店内には、黒い学生服姿の青年たちがつめかけていた。にぎわっていた店内が、さやかと千歳を見てしんと静まり返る。
このミルクホールは、近くにある高等学校の生徒たちのたまり場になっているのだ。そんなこともあって、この店に女性はやってこない。
バンカラ気質に染まった、ぼろぼろの学生服に傷んだマント、下駄ばきといった荒っぽいなりの男性たちは、特に若い女性には恐れられていたから。
そして彼らのほうも、正直女性慣れはしていない。そもそも、むやみやたらに女人を追い回し、色恋にうつつを抜かすなどもってのほかと、彼らは普段からそんなふうに公言していたのだ。
とはいえ、彼らも年頃の男性だ。美しい乙女たちのことは、どうにも気になってしまう。いつもよりほんの少しかしこまった様子で、ちらちらと二人を横目で眺めていた。
さやかはそんな彼らに少しも目をくれることなく、そわそわと店内を見回していた。やがて何かを見つけたかのようにぱっと顔を輝かせ、店の奥に歩み寄っていった。
「まあっ、忍様! いらしたんですね!」
さやかは奥の席で新聞を読んでいる青年の前で立ち止まり、しなを作りながら感極まったような声を上げた。
「……ああ」
忍と呼ばれた青年は短く答えると、また新聞に目を落としてしまった。まともに相手をするつもりはないらしい。
彼は上神戸忍、士族の子息で、今年十七になる。とかく粗暴ななりをすることが流行っているこの高等学校で、彼はその風潮に染まることなく、とても身ぎれいにしていた。
切れ長の目に、整った顔立ち。口さがない同輩たちからは女のようだとからかわれ、女学生たちからは活動写真の俳優のようだと褒めそやされる、そんな美貌の持ち主だ。
しかし彼は学問以外にはとんと興味がなく、群がる女生徒たちに対してもつれないことこの上ない。そんなことから、『高嶺の花の君』などというあだ名までついていた。
彼の噂を聞いたさやかは、わざわざ高等学校の校門まで足を運んだ。そうして忍を一目見るなりのぼせ上がってしまい、もっとゆっくり彼と話したいと、そう思うようになったのだ。
彼女はつてをたどって、忍がこのミルクホールによく顔を出しているという情報をつかんだ。そうして今日、こうしてミルクホールまでやってきたのだった。
「あんたはあっちにいってなさい。ほら、反対側の壁際、卓が一つ空いているでしょう」
忍にくるりと背を向けて、さやかが千歳の耳元でささやきかける。千歳は言われるがまま、しずしずと店の反対側に歩いていった。そうして、一人ぽつんと席につく。
にぎやかな店で一人きりという気まずさよりも、周りが男性ばかりという状況に対する落ち着かなさのほうが勝っていた。
周囲の生徒たちと目を合わせないように身をすくめながら、千歳はミルクを一杯注文する。
その間も、さやかは忍にせっせと話しかけていた。ただ忍は手にした新聞から一度も顔を上げることなく、生返事を繰り返すだけだった。
ちびちびとミルクを飲みながら、千歳はこっそりとため息をつく。先ほどから、彼女はずっと視線を感じていた。それに、どうやら自分のことを話しているらしいささやき声の数々も。
実のところ、その視線にこもっているのは好意と興味であり、ささやき声はみな彼女を褒めそやすものだったが、うぶな彼女にはそれに気づく余裕などなく、もじもじと縮こまっているだけだった。
居心地の悪さをどうにかしてごまかそうと、千歳はうつむいたまま横目で周囲の様子をうかがう。そうして、近くの壁際に置かれた本棚に、新聞や雑誌が置かれていることに気づいた。
緊張も落ち着かなさも忘れ、千歳は棚に近づいていく。並べられた雑誌を見つめる彼女の顔に、好奇心の輝きが浮かんでくる。
どこのミルクホールにも、新聞や雑誌、官報などが置かれている。さやかたち女生徒がよく行く別のミルクホールに置かれているのは、華やかな表紙の少女雑誌や、あでやかな女性が描かれた女性雑誌などがほとんどだった。
しかしここにあるのは、文学誌や社会、政治などの雑誌のような難解なものばかりだった。ここにやってくるのは高等学校の硬派な生徒ばかりだから、彼らに好まれるもの、となると必然的にこうなってしまうのだ。
千歳は並んだ雑誌をしばらく眺めていたが、やがて一冊を手にして席に戻っていった。そうして、熱心に読み始める。そのさまに、生徒たちが感心したように目を見張る。
「……あの雑誌を、あんなに楽しそうに……」
忍もまた、新聞から顔を上げ、そんな千歳を遠目に見ていた。
と、三人の生徒が席を立ち、千歳のもとに近づいていく。それでも千歳の視線は、雑誌に注がれ続けていた。
「お嬢さん、その雑誌が気に入ったのかな?」
そんな声に、千歳は驚いて顔を上げる。自分のすぐ近くに男性が三人も立っていることに気づき、びくりと身を震わせる。それから、消え入るような声で答えた。
「あ、はい……普段読まないものですが、興味深くて……いい勉強になりますし……」
その答えに、三人組は大いに気をよくしたようだった。
「向学心旺盛、うむ、誠に結構!」
「だったらその内容について、俺たちと熱く語り合わないか?
「いつも同じ顔触れで話していると、同じような議論になってしまってな。面白くないんだ」
彼らは口々に、熱心に言い立ててくる。
「その……あの……」
しかし千歳は泣きそうになりながら、そんなことをつぶやくことしかできなかった。彼らに悪気がないことは分かっていたが、彼女は彼らのことを、怖いと思ってしまっていたのだ。
そうやっておびえる千歳を見て、さやかがこっそりと楽しそうな笑みを浮かべている。さやかが黙ったことに気づいた忍が、小首を傾げながら顔を上げた。そうして、片方の眉をつり上げる。
「……おい」
そうして忍は、声を上げた。千歳にまとわりついている生徒たちに向かって。
「そちらの女性は、明らかに怖がっている。早く退いてやれ」
「だがなあ上神戸、こうやって女性と話せる機会って、そうないし……」
「あ、もちろん浮ついた意味合いじゃないぞ。研鑽し合い、互いを高めたいという意味であって」
「こちらのお嬢さんは、とても賢そうだから、つい」
少々気まずそうな表情で言い訳を口にする生徒たちを、忍は軽くにらみつける。
「それでもだ。学問について語り合いたいというのなら、それなりの態度というものがあるだろう。今の君たちは話をしようとしているのではなく、まるで彼女をかどわかそうとしているように見えるぞ」
それから忍はすっと立ち上がり、千歳に向かって深々と頭を下げた。
「僕の学友が、迷惑をかけた。彼らに悪気はないのだが、君に怖い思いをさせたことは謝罪させてくれ」
千歳はぽかんとしながら、忍に向かって頭を下げ返した。忍の横にいるさやかの顔を見るのが恐ろしいと、そう思いながら。
さやかと千歳は二人は連れ立って、道を歩いていた。しかし今日はまっすぐ家には戻らず、途中の角を曲がって脇道に入っていく。
もう少し進んだところで、さやかがぴたりと足を止めた。彼女は髪のリボンに手をやってゆがみを直し、さっさっと服の埃をはたくと、目の前の建物をきらきらした目で見上げている。
「ふふ、ここね。さて、あの方はおられるかしら……」
二人の目の前にあるのは、小ぶりのミルクホールだった。古い民家を改装しただけの、飾りも何もない場所。
さやかはためらうことなく、その中に入っていってしまう。とまどいがちに、千歳もそのあとを追いかけた。
殺風景な店内には、黒い学生服姿の青年たちがつめかけていた。にぎわっていた店内が、さやかと千歳を見てしんと静まり返る。
このミルクホールは、近くにある高等学校の生徒たちのたまり場になっているのだ。そんなこともあって、この店に女性はやってこない。
バンカラ気質に染まった、ぼろぼろの学生服に傷んだマント、下駄ばきといった荒っぽいなりの男性たちは、特に若い女性には恐れられていたから。
そして彼らのほうも、正直女性慣れはしていない。そもそも、むやみやたらに女人を追い回し、色恋にうつつを抜かすなどもってのほかと、彼らは普段からそんなふうに公言していたのだ。
とはいえ、彼らも年頃の男性だ。美しい乙女たちのことは、どうにも気になってしまう。いつもよりほんの少しかしこまった様子で、ちらちらと二人を横目で眺めていた。
さやかはそんな彼らに少しも目をくれることなく、そわそわと店内を見回していた。やがて何かを見つけたかのようにぱっと顔を輝かせ、店の奥に歩み寄っていった。
「まあっ、忍様! いらしたんですね!」
さやかは奥の席で新聞を読んでいる青年の前で立ち止まり、しなを作りながら感極まったような声を上げた。
「……ああ」
忍と呼ばれた青年は短く答えると、また新聞に目を落としてしまった。まともに相手をするつもりはないらしい。
彼は上神戸忍、士族の子息で、今年十七になる。とかく粗暴ななりをすることが流行っているこの高等学校で、彼はその風潮に染まることなく、とても身ぎれいにしていた。
切れ長の目に、整った顔立ち。口さがない同輩たちからは女のようだとからかわれ、女学生たちからは活動写真の俳優のようだと褒めそやされる、そんな美貌の持ち主だ。
しかし彼は学問以外にはとんと興味がなく、群がる女生徒たちに対してもつれないことこの上ない。そんなことから、『高嶺の花の君』などというあだ名までついていた。
彼の噂を聞いたさやかは、わざわざ高等学校の校門まで足を運んだ。そうして忍を一目見るなりのぼせ上がってしまい、もっとゆっくり彼と話したいと、そう思うようになったのだ。
彼女はつてをたどって、忍がこのミルクホールによく顔を出しているという情報をつかんだ。そうして今日、こうしてミルクホールまでやってきたのだった。
「あんたはあっちにいってなさい。ほら、反対側の壁際、卓が一つ空いているでしょう」
忍にくるりと背を向けて、さやかが千歳の耳元でささやきかける。千歳は言われるがまま、しずしずと店の反対側に歩いていった。そうして、一人ぽつんと席につく。
にぎやかな店で一人きりという気まずさよりも、周りが男性ばかりという状況に対する落ち着かなさのほうが勝っていた。
周囲の生徒たちと目を合わせないように身をすくめながら、千歳はミルクを一杯注文する。
その間も、さやかは忍にせっせと話しかけていた。ただ忍は手にした新聞から一度も顔を上げることなく、生返事を繰り返すだけだった。
ちびちびとミルクを飲みながら、千歳はこっそりとため息をつく。先ほどから、彼女はずっと視線を感じていた。それに、どうやら自分のことを話しているらしいささやき声の数々も。
実のところ、その視線にこもっているのは好意と興味であり、ささやき声はみな彼女を褒めそやすものだったが、うぶな彼女にはそれに気づく余裕などなく、もじもじと縮こまっているだけだった。
居心地の悪さをどうにかしてごまかそうと、千歳はうつむいたまま横目で周囲の様子をうかがう。そうして、近くの壁際に置かれた本棚に、新聞や雑誌が置かれていることに気づいた。
緊張も落ち着かなさも忘れ、千歳は棚に近づいていく。並べられた雑誌を見つめる彼女の顔に、好奇心の輝きが浮かんでくる。
どこのミルクホールにも、新聞や雑誌、官報などが置かれている。さやかたち女生徒がよく行く別のミルクホールに置かれているのは、華やかな表紙の少女雑誌や、あでやかな女性が描かれた女性雑誌などがほとんどだった。
しかしここにあるのは、文学誌や社会、政治などの雑誌のような難解なものばかりだった。ここにやってくるのは高等学校の硬派な生徒ばかりだから、彼らに好まれるもの、となると必然的にこうなってしまうのだ。
千歳は並んだ雑誌をしばらく眺めていたが、やがて一冊を手にして席に戻っていった。そうして、熱心に読み始める。そのさまに、生徒たちが感心したように目を見張る。
「……あの雑誌を、あんなに楽しそうに……」
忍もまた、新聞から顔を上げ、そんな千歳を遠目に見ていた。
と、三人の生徒が席を立ち、千歳のもとに近づいていく。それでも千歳の視線は、雑誌に注がれ続けていた。
「お嬢さん、その雑誌が気に入ったのかな?」
そんな声に、千歳は驚いて顔を上げる。自分のすぐ近くに男性が三人も立っていることに気づき、びくりと身を震わせる。それから、消え入るような声で答えた。
「あ、はい……普段読まないものですが、興味深くて……いい勉強になりますし……」
その答えに、三人組は大いに気をよくしたようだった。
「向学心旺盛、うむ、誠に結構!」
「だったらその内容について、俺たちと熱く語り合わないか?
「いつも同じ顔触れで話していると、同じような議論になってしまってな。面白くないんだ」
彼らは口々に、熱心に言い立ててくる。
「その……あの……」
しかし千歳は泣きそうになりながら、そんなことをつぶやくことしかできなかった。彼らに悪気がないことは分かっていたが、彼女は彼らのことを、怖いと思ってしまっていたのだ。
そうやっておびえる千歳を見て、さやかがこっそりと楽しそうな笑みを浮かべている。さやかが黙ったことに気づいた忍が、小首を傾げながら顔を上げた。そうして、片方の眉をつり上げる。
「……おい」
そうして忍は、声を上げた。千歳にまとわりついている生徒たちに向かって。
「そちらの女性は、明らかに怖がっている。早く退いてやれ」
「だがなあ上神戸、こうやって女性と話せる機会って、そうないし……」
「あ、もちろん浮ついた意味合いじゃないぞ。研鑽し合い、互いを高めたいという意味であって」
「こちらのお嬢さんは、とても賢そうだから、つい」
少々気まずそうな表情で言い訳を口にする生徒たちを、忍は軽くにらみつける。
「それでもだ。学問について語り合いたいというのなら、それなりの態度というものがあるだろう。今の君たちは話をしようとしているのではなく、まるで彼女をかどわかそうとしているように見えるぞ」
それから忍はすっと立ち上がり、千歳に向かって深々と頭を下げた。
「僕の学友が、迷惑をかけた。彼らに悪気はないのだが、君に怖い思いをさせたことは謝罪させてくれ」
千歳はぽかんとしながら、忍に向かって頭を下げ返した。忍の横にいるさやかの顔を見るのが恐ろしいと、そう思いながら。

