それからしばらく経った、放課後のこと。

 女学校の門のそばで、女学生たちが集まってきゃあきゃあと騒いでいた。

「この巾着を、さやかさんが……本当に、見事な腕前!」

「裁縫の先生も、褒めてらしたわ」

「学問も裁縫も得意だなんて、なんでもおできになるんですのね!」

 女生徒たちの中心には、得意げな顔のさやかがいた。見事な刺繍の施された巾着を手に、満面に笑みを浮かべている。

「ふふ、みなさま褒めすぎですわ。裁縫の宿題として、限られた時間で縫ったものですから……お見せするのも、お恥ずかしいわ」

 恥じらいながら謙遜するさやかに、女生徒たちは憧れの目を向けている。

 そこに、千歳が歩み寄ってきた。自信のようなものを感じさせる、ゆったりとした足取りで。

「さやかさん」

「あら、お姉様。どうなさったの?」

 どことなく普段とは違う千歳の様子にわずかに困惑しながら、それでも悠然とさやかは言葉を返す。

 しかし彼女は、千歳の次の言葉に目を見開くことになった。

「わたし、もう我慢は止めます」

 そう言い放つと、千歳は懐から守り刀を取り出し、鞘から抜いた。周囲の女生徒が一瞬ぽかんとして、それから悲鳴を上げる。

「あなたの言いなりも止めます」

 その場の全員が凍りつく中、千歳は落ち着いた動きで守り刀を振るった。刃のないその刀は、巾着の縫い糸をひっかけ……ぷつりと断ち切った。

 まるで奇術でも使ったかのように、巾着はばらばらになった。その中に、巾着のものとは違う布が一枚まぎれこんでいる。

 その布には、巾着のものと似た見事な刺繍で、「ちとせ」と縫い取られていた。女生徒たちが我に返り、地面に落ちた布を見つめる。

「あなたがわたしにこの課題を押しつけたとき、この布を表地と裏地の間に忍ばせておきました。もしあなたがこの巾着を見せびらかしたなら、そのときは真実を明らかにしようと、そう思って」

 守り刀をまた懐にしまうと、千歳は淡々と語り始めた。

「そして先ほど、これまでのことを全て先生方に打ち明けてきました。……わたしがあなたの代わりに宿題をこなしていることは、みなさま既にご存じだったようですが」

 女生徒たちが動揺しながら、顔を見合わせている。

「それでは、失礼いたします。これから、約束がありますので」

 さやかと女生徒たちをその場に残し、千歳は校門のほうへと歩いていく。ずっと呆然としていたさやかが、ふと我に返りその後を追いかけた。

 しかしさやかの足は、ぴたりと止まってしまう。彼女はただ唇をわななかせながら、門のすぐ外を凝視していた。

「おや、待たせたか」

「いえ、わたしも今来たところです。わざわざここまで、ありがとうございます」

 校門のすぐ外には、忍が立っていたのだ。しかも彼は、さやかが見たこともない明るい笑みを、まっすぐに千歳に向けていた。

「何、気にしないでくれ。僕の学校よりも、こちらのほうがあのカフェーには近いから。それに、うら若き女性を高等学校の門の前で待たせるのも悪い」

 そう言って彼は、カバンから一冊の本を取り出す。表紙に美しい装飾のされた、薄い洋書だ。

「父から、面白そうな本を借りてきた。これなら、君でも読めるだろう。最初のほうを、カフェーで一緒に読もう」

「はい、楽しみです」

 仲睦まじく話す二人の距離は、ごく普通の友人というには明らかに近く、その表情も甘く優しいものだった。遠くからそのさまを見ていた女生徒たちが、きゃあと黄色い声を上げている。

 しかしさやかの耳には、そんな女生徒たちの声も耳に入っていないようだった。その華やかな面差しが、みるみる赤く染まる。先ほど面目を潰された怒りと相まって、彼女はすっかり頭に血が上ってしまっていた。

「忍様! どうしてそんな女を構いつけるんですの!」

 いつも彼女は、忍に対しては猫をかぶった、上品な姿しか見せていなかった。しかし今の彼女は、すっかり素が出てしまっていた。

「邪魔をしないでもらえるだろうか。これから僕たちは二人で話をするのだから」

 そんな態度の変化を指摘するでもなく、忍は冷静そのものの声でさやかに答えた。さりげなく、千歳をかばうように進み出ながら。

「ああ、そうだ」

 ふいに、忍が目を細めた。刃のような鋭い視線に、さやかが息を呑む。

「もし彼女の身に何かあったら、僕は遠慮なく動く。今までのことは水に流すよう彼女に頼まれたから、そこについては追及しない」

 彼は、具体的なことは何一つ口にしていない。けれどさやかには、それが何のことか分かってしまった。

「だが、次はない」

 そんなさやかに、忍が短く言い放つ。さやかはひっ、と喉の奥で小さく悲鳴を上げて、その場にへたり込んだ。

「行こうか、千歳君」

「はい、忍様」

 そうして二人は、そのまま歩み去ってしまった。呆然としているさやかのほうを、顧みることなく。



 しかしさほど進まないうちに、二人は亮司と行き合った。彼はさやかに会って、これからのことを相談しようとしていたのだ。

 さやかではなく千歳と歩く忍の姿を見て少し動揺しつつも、亮司は二人に軽やかに声をかけた。

「よう、忍。今日はいつもと違うお嬢さんをはべらせてるんだな?」

「人聞きの悪いことを言うな、亮司。僕は女遊びなどしたことはない」

 忍がむっとした顔で、亮司をにらむ。いつもと違うその気迫に、亮司がさらにたじろぐ。

「でも、いつものお嬢さんはどうした?」

「僕が一緒にいたいのはこの女性、千歳君だけだ。他の女性は、いくら来られてもお断りだ」

「そ、そうなのか……だが俺は、あのさやかって子のほうが可愛かったと思うがなあ?」

「あいにくと僕は、人間の見た目には興味がない」

 この年頃の男子にしては少々珍しくもある台詞を投げかけると、忍は胸を張って続けた。

「千歳君と話していると、次々と思いがあふれてくるんだ。もっと彼女と話したい、もっと彼女のことを知りたい、と。こんなふうに感じた女性は……いや、男性も含めて、だな……彼女が初めてだ」

 亮司は何も言えずに、朗々と語る忍をただ見つめていた。彼の顔からは、いつもの調子のいい笑みは消えていた。

「けれどその子、前にミルクホールの隅で小さくなってた子だろ? お前とろくに目も合わせずに。どうしてそんな子が、お前に急に近づいてきたんだか……何か、裏があるんじゃないのか?」

 それでもめげずに、亮司は千歳を貶める言葉を口にする。忍の目つきが、すっと鋭くなった。

 しかし忍がさらに何かを言おうとするよりも先に、千歳が進み出た。とても真剣な面持ちで亮司を見つめ、口を開く。

「さやかさんの機嫌を損ねないようにするためには、ああするしかなかったんです。でも、できることなら……わたしだって、忍様の近くに行きたかった。ずっと、そんな思いをこらえていたんです」

「そういうことだ。彼女がよこしまな理由で近づいてきたのではないと、僕は理解している」

 どことなく嬉しそうに言い切って、忍はまた亮司を見やる。その目元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。

「……君は昔から世話焼きだったから、僕のことを心配してくれたのだろう。だが僕もそろそろ一人前の男として、きちんと自分のことは自分で対応していくつもりだ。今までありがとう、亮司」

 懐かしそうにそう言って、忍はまた真顔に戻る。

「それでは、これで。彼女との会話を楽しむ時間を、これ以上減らしたくはないから」

 そう言い残して、忍は千歳を伴いその場を離れる。立ち尽くしたままその背中を見送る亮司の顔は、屈辱と悔しさにひどくゆがんでいた。



 さわやかな緑が生い茂る桜並木の下を、千歳と忍は歩く。二人並んで、微笑みながら、

「……忍様、今日持ってきてくださった本は、どのようなものなのですか?」

「恋物語だ。ごく普通の男女が出会い、少しずつ理解を深め、結ばれる……そんな話らしい」

 予想外の答えに、千歳が目を丸くする。忍の好みは、もっと難解な、複雑な本だ。それも社会や政治、それに哲学といった、そういった要素を含むもの。だから今回彼が選んだのも、きっとそのようなものだろう。彼女はそう考えていたのだ。

「僕がそんな本を選んだのが、意外だったか?」

「実は、その……はい」

 ためらいがちに答える千歳に、忍がふっと柔らかく笑いかけた。

「理由は簡単だ」

 彼は立ち止まり、千歳に向き直る。

「難解な話題を語り合うのも楽しそうだと思ったが、どうせなら人間の心の機微というものを、もっと学んでおきたかった。そして、もう一つ」

 そうして彼は、千歳の耳元にそっと顔を寄せた。

「君には、幸せな結末のほうが似合うから」

 そんな二人の背後を、花びらが一枚楽しげにひらひらと舞い、そして消えていった。