草田瀬の邪神、ミズハ。元々は水神だった彼は、二百年前に草田瀬と都を大洪水に陥れ、邪神と呼ばれて信仰を失い、高天原によって自らの社に封印された。
日輪国に住まう神々は皆、人間の信じる心――「信仰」を受けて神としての力を発揮できる。しかし一方で、人間からの不信や悪評から生まれる「穢れ」にも蝕まれやすいのだ。
穢れを祓えるのは巫女が行う「清めの儀式」だけ。とはいえ普通の神であれば、少なくとも一人以上は巫女を抱えているため、多少穢れに蝕まれようと大した問題にはならない。しかし巫女がいないミズハのような神では、穢れが溜まっていく一方だ。彼の体の周りに漂う黒い霞は、溜まりに溜まった穢れが顕在化したものだろう。
穢れは徐々に神を蝕み、やがてその存在を消滅させてしまう。穢れに蝕まれた神のほとんどは、そうして人知れず消えてしまうが、稀に溜まった穢れによって自我を失い、暴走して災厄となる「神堕ち」になってしまう神がいる。
九度目までの人生で百代が調べた結果、その全てでミズハが神堕ちになっており、百代の死もその出来事に関わっていたと判明した。生贄は神堕ち寸前のミズハを討伐する際の囮として選ばれており、その後のあらゆる災害は神堕ちになった彼が引き起こしたものだったのだ。
これらを防ぐには、ミズハの穢れを消し、神としての立場を取り戻し、神堕ちになるのを防ぐしかない。ならば自分が彼の巫女になり、彼の穢れを清めて信仰を取り戻す手助けをすればいいのではないかと、百代は考えた。
幸い百代は無資格というだけで、巫女に必要な知識や技術や霊力は持っている。都なら無資格で巫女をしていれば捕まってしまうが、草田瀬のような田舎の村にわざわざ取り締まりに来る物好きはいないだろう。それに危険を冒してでも行動しなければ、未来はなにも変わらない。
「まあ、さっそく壁にぶち当たったけどね」
百代はため息をつきながら、社の近くに流れていた川辺に腰掛けていた。手にしているのは竹と植物のつるでできた釣り竿。用心棒をしていた時に、野宿で食糧調達をしていた経験を思い出して作ったものだ。ちなみに服は浴衣から、藤色の着物に着替えている。境内の家の箪笥の中から見つけて拝借している。
「巫女なんていらない。早く帰って」
巫女にしてほしいと言ったとき、ミズハは即座にそう答えた。
「どうしてよ。穢れを祓って信仰を集めれば、また普通の神に戻れるのに」
「神になんて戻りたくない。どうして今更封印が解けたのか知らないけど、僕はもうこのまま朽ちて消えたいんだ。だから放っておいてよ」
そう言って、彼は百代の前から姿を消した。
「とはいえ、引き下がれはしないんだけど」
ミズハは自分が消滅するだけだと思っているようだが、実際は神堕ちと化し日輪国に悲劇をもたらす災厄となる。自分が巻き込まれて死なないためにも、彼にはなんとかして正式な神に戻ってもらわなければならない。
――断られるなら、勝手に巫女として動くだけだ。
そう方針を変更したところで、昨日家を出てから何も食べていないことに気づき、まずは腹ごしらえをと釣りで食糧を確保し始めたところだった。
「いっそ祝の巫女にでもなれたら安泰だけど、そうもいかないものね」
祝の巫女とは、巫女の中でも神と深い縁を繋いだ特別な巫女のことだ。祝の巫女を持った神は、半永久的に穢れに蝕まれる恐怖から解放されるとされている。しかし祝の巫女になるには条件が特殊な上、百代の異能とは相性が悪いため、計画に入れるのは現実的ではない。
くん、と糸が引っ張られる。合わせて竿を引き上げると、太ったイワナが食いついていた。針からイワナを外し、脇に置いていた魚籠に入れる。中にいるのはこれで四匹。ひとまずは十分だろう。
魚を抱えて社に戻るも、ミズハは相変わらず姿を消したままだった。いれば一緒に食事しながら話でもと思ったが、期待はできなさそうだ。
炊事場はどの道具も古かったが、洗えばどれも十分使える。網や皿などの道具を揃えた百代は、イワナを洗って口へ木の棒を差し、火を起こした。
ぱちぱち爆ぜる炎の音を聞きながら、網の上に四匹のイワナを並べていく。一息つきながら顔を上げると、窓枠に朝見た斑の蛇がいるのに気がついた。
「あなた、今そんなところにいたら危ないわ。落ちて丸焼きになっちゃうわよ」
百代は腕を伸ばし、こちらに来るよう促してみる。けれど蛇は動こうとせず、ただじっと百代を見つめるだけだった。
「そう、来ないならいいけれど。落ちないように気をつけるのよ」
しゅる、と蛇は舌を出して返事をする。やはり言葉は分かっているらしい。
「あなた、ここに住んでいるの? 蛇だし、ミズハの友達かしら」
蛇は何も答えなかった。代わりに、イワナを載せた網の上を見下ろしている。
「これ? 私のご飯よ。さっき釣ったばかりなの。ミズハも食べるかなと思って多めに取ってきたんだけど……どこかに行っちゃったし、食べないかもね」
苦笑いすると、蛇は百代に首をかしげてみせた。どうしてミズハの分まで捕ってきたのかと聞かれているようだった。
「別に大した意味はないわよ。巫女を断られちゃったし、話す機会が欲しかっただけ。それに……一人には、しておきたくなくて」
百代は網の上のイワナを見つめた。その瞳は生気を失い、真っ黒で虚ろな色をしている。その色が、「放っておいて」と言ったミズハの目と重なった。
かつては人に尽くしていたのに、その人から疎まれ封印され、人からの嫌悪の証である穢れを真っ黒になるほど身に纏っていれば、絶望して成り行きに身を任せてしまいたくなるのも無理はない。きっともう、ミズハは新たな希望を見いだすこともできないのだろう。
その姿は、三度目までの人生の百代とそっくりだった。家族から蔑まれ、彼らの悪意を一身に抱えて過ごし、希望や期待をことごとく打ち砕かれて、次第に疲弊していったあの頃の自分と。
「まあ、私は事情があってミズハにちゃんとした神になってもらわなくちゃ困るから、独りよがりといえばそうだけどね」
言いつつ百代はイワナを裏返す。裏側は皮がこんがりと焼け、じゅうじゅうと音を立てていた。空っぽになった胃がきゅうと音を立てる。料亭の見習いだったいつかの人生では、これにすだちをかけたものを味見させてもらって感動したが、残念ながら柑橘などここにはない。
「そうだ、ミズハが食べないなら、あなたが食べる?」
しかし顔を上げると、蛇の姿は窓枠から消えていた。火の中にも炊事場にも落ちている様子はないので、外へ出て行ってしまったのかもしれない。
「……仕方ないわね。ミズハの分は一旦残しておこうかしら」
焼き上がったイワナのうち、二匹を皿の上に置き、もう二匹は自分で手に取った。片方のイワナに背中から思い切りかぶりつく。ぱりっと香ばしく焼けた皮とふっくらとした身が絶妙で、百代は無我夢中で食べ続けた。
(ようやく今回の人生でまともな食事を食べられたわ)
美輪家にいた頃に出された食事といえば、野菜の切れ端や魚のあらばかり。捨てる部分を使用人に命じてまでわざわざ自分の為に残してくるのは、一周回って律儀なのではと思ったが、やはり回帰し続ける中で普通の食事を食べた経験か、魚の丸焼きや具だくさんの汁物が懐かしかった。
「後で山菜でも採りに行って、夜は汁物でも作ろうかしら」
とはいえその前に、しなければならないことがある。
二匹のイワナを食べきった百代は、家の外に出て境内を見回した。相変わらず落ち葉だらけで、寂れた雰囲気が漂っている。まずはここをどうにかしなければ、人間からの印象がよくなるはずない。
幸い掃除はこれまでの人生すべてにおいて、美輪家でみっちり鍛えられている。どんなに汚れきった場所でも、完璧に綺麗にしてみせる自信があった。
社殿の脇にあった物置小屋から竹箒を取り出して、そこら中に散らばっている落ち葉を脇に掃いていった。右から左へ。広い場所では大胆に、隙間の方では繊細に。時間も腕の痛さも忘れて、百代はただひたすらに箒を動かしていった。
太陽は天の真上を通り過ぎ、次第に西へと傾いていく。ようやく百代が箒を止めた時には、遠くでカラスが鳴いている頃だった。
「山菜採りは明日かしらね」
百代は小さく肩をすくめる。
それでも時間を掛けた甲斐あって、境内は見違えるほどに綺麗になっていた。地面を覆っていた落ち葉は消え、鳥居から社殿までまっすぐ続く石畳が露わになっている。雑草や苔は残っているが、それは明日以降に続きをすればいい。
百代がぐんと大きく伸びをしていると、後ろからぽつりと声が聞こえた。
「しなくていいのに。こんなこと」
いつの間にか社殿の石段の前にミズハが腰掛けていた。その顔には、複雑そうな感情が浮かんでいる。そして彼のすぐ右側には、木の棒が二本乗った皿が置かれていた。
「あなた……炊事場のイワナ、食べたの?」
「僕に取ってたんでしょ。今更返せって言われても無理だよ」
イワナの話はミズハにしていないはずなのに、どうして知っているのだろう。とはいえ彼の言うことは本当なので、百代は軽く流すことにした。
「返せとは言わないけど……どう、美味しかった?」
「……まあ、久々に人間からもらったものだから」
ミズハはぼそぼそとそう言った後、百代の顔と自分の左側を見比べた。そこに座れということらしい。
促された通りにミズハの左側へ腰掛けると、彼は紅の瞳をこちらに流した。
「君、名前なんだっけ」
「百代よ、美輪百代」
「美輪ねえ。昔うちにも同じ苗字の巫女がいたな」
大して感慨もなさそうに、ミズハは言った。
「あら偶然ね。私は実家を出てきたから、苗字にあまり意味はないけれど」
「へえ、なら君もはぐれ者なんだ」
ミズハはうっすら笑った後、探るように百代を見つめる。
「どうして百代は、僕の巫女になりたいの」
「……色々と、事情があるのよ。詳しいことは言えないし、言っても信じてもらえないと思うけど」
いくら神とはいえ、百代が人生を何度もやり直している話をすんなり受け入れるとは思えなかった。それにミズハはまだ百代を警戒している。下手に話してこれ以上信用を失うわけにはいかない。
「たとえそうでも、僕は人間から見れば大災害を起こした邪神だよ。そんな神の巫女になるなんて、怖いと思わないの」
「だって私は、あなたが災害を意図的に起こしたとは思っていないもの」
それは回帰しながらあらゆる書物や伝承を調べて得た結論だった。
元々ミズハは水神の中でも、荒れた川を穏やかにしたり、汚れた水を綺麗にしたりといった、荒ぶるものを鎮めることを得意とする神だったようだ。そんな神が、突然理由もなく真逆の力を振るうとは考えにくい。
それに彼は、気を失った百代を自分の社まで運び、丁寧に扱ってくれたのだ。本当に人間を傷つけたいと思っている邪神なら、百代のことは昨夜の時点で山の中に放置していただろう。
「だから全然怖くなんてないわ。それで追い出そうとしたって無駄よ」
「…………」
ミズハはしばらく無言で百代を見つめていたが、やがて立ち上がり、社殿の奥へと入っていった。しばしの後に戻ってきた彼は手に澄んだ音の鳴る小さな道具を持っている。細長い柄に房のように鈴玉がついた、鍔付きの棒。柄の先端からは、色あせた五色の細長い布が伸びている。巫女が儀式で使う、神楽鈴だ。
ミズハはその神楽鈴を、百代に差し出してくる。
「巫女になりたいっていうなら、まずは僕の穢れを祓ってみなよ」
穢れを祓う清めの儀式をやってみろと、ミズハは言いたいのだろう。
百代の手の中でしゃらりと鈴が音を立てた。巫女の資格もなければ、学校も退学になった百代だが、過去九度の人生では、異能の実習以外の全ての授業で、学年一位をとっていた。当然、清めの儀式にも自信がある。これが巫女になる条件なら、乗らない手はない。
「いいわよ、やってあげるわ」
社殿の前で、ミズハと百代は互いに向かい合った。百代は彼の体に纏わり付く黒い穢れを見定め、体内の霊力を鈴に集めて鈴を振る。
清らかな音が、境内の空気を震わせた。
鈴がひとつ鳴るごとに、辺りの空気が澄んでいくのを感る。同時にミズハに纏わり付いた穢れも、少しずつ消えていった。青白い彼の肌にほんの少しだけ血の気が戻り、表情も和らいでいく。
だが儀式が進むに従って、百代の額から汗が滲んだ。体の奥から霊力がごっそり奪われる感覚がする。ミズハの穢れが濃いからか、予想以上に力の消費が激しいらしい。
けれども百代は手を止めなかった。ミズハの穢れが清められるように。千代に八千代に、穏やかでいられるように。祈りを込めて百代は鈴を響かせ続ける。
「……もういいよ、そこで止めて」
三割ほどの穢れが消えたところで、ミズハが静かにそう言った。
神楽鈴を止めた百代は、ぐらりと地面に膝をつく。
「はぁ、はぁ……なんで、まだ途中なのに……」
「あれ以上は、君が危ないから」
確かに、体の力が根こそぎ持って行かれたような感覚がする。巫女学校で行われた実習では難なく穢れを祓い落とせたのに、ミズハ相手では全く上手くいかなかった。これが練習と実践の差というやつなのだろうか。
荒い息をつきながら百代はそのまま地面に座り込んでしまう。足が鉛のように重くて、全く立ち上がれそうにもない。
百代を見下ろし、ミズハは呆れたようにため息をつく。
「……僕なんかのために、無理しすぎだよ」
そんな呟きが聞こえたかと思うと、不意に体がふわりと浮いた。ミズハに横抱きにされたと気づいたのはその直後だ。
「えっ、ちょ、なにしてるのよっ!?」
すぐ傍にミズハの顔があった。美しい彼に抱き上げられ、すっきり通った鼻筋や薄い唇が触れられるほど近づいている。その事実に顔がかっと熱くなった。
「暴れないで。落ちるから」
ミズハは平然とした様子で百代を抱いたまま境内の民家へ入り、寝室へ壁を背もたれにして座らせた。
「ほら、水でも飲んだら」
ミズハは炊事場から取った湯飲みを渡してくる。何も入っていないのではと思ったが、中にはミズハの言うとおり確かに水が入っていた。
「えっ、いつ汲んでたの?」
「腐っても僕は水神だよ。何もないところに水を生み出すくらいはできる」
そう言えば山賊から助けてくれたときも、ミズハはどこかから水の柱を生み出していた。力を失った状態でそれなら、本来の力を取り戻せば、より強力な力を振るえるようになるのだろう。さすが、二百年前の封印に高天原が関わる神なだけある。
水は冷たく澄んでおり、飲むごとに体の疲労感が取れていった。同時に失った分の霊力が戻っていくような感覚がする。ミズハが生み出した水には何か不思議な力でもあるのかもしれない。
やはりミズハは、穢れを纏っていても神なのだ。
だからこそ余計に、今の儀式の結果が気になってしまう。
「どうだったの、私の儀式は」
「……君は自分の力を過信しすぎだ」
呆れたようにミズハは呟く。しかし一拍置いて、ため息とともに言葉を吐き出した。
「でも、合格。ほんの少しでも、今の僕から穢れを祓ったのは実力がある証拠だからね。巫女としてここにいることを許してあげる」
「本当!? 巫女にしてくれるの!?」
「ただし、期限は三ヶ月だよ」
身を乗り出した百代を手の平で制止しながら、ミズハは続ける。
「三ヶ月間は、君が思うように巫女をしていい。けどその間に僕の穢れを祓いきり、信仰を集めて僕をまともな神に戻せなければ、出て行ってもらうから」
「それでいいわ!」
どのみち三ヶ月後までに事態を変えられなければ、死んでしまう運命だ。今更期限を区切られたところで大した問題はない。
百代はミズハに微笑みながら手を差し出した。
「これからよろしくね。私の神様」
「ん……よろしく」
ミズハもゆっくりと、百代の手を取ってくれた。ほっそりとした白い手はひやりと冷たくて、儀式で火照った体に心地いい。
――ひとまずこれで、第一関門は突破した。
未来のためにはむしろこれからが本番だが、それでも大きな一歩を踏み出せたことに安堵する。そのせいか、唐突に空腹感が襲ってきた。
「夕飯でも作ろうかしら。釣り竿があるし、もう一度川にでも行って魚を……」
百代の言葉に、ミズハはあり得ないとでも言いたげに眉間を潜めた。
「疲れてるのにまた出るつもり?」
「仕方ないじゃない。人間は食べないと生きていけないんだし。あなたにもらった水で元気になった気がするから、ささっと行ってくるわよ」
「……いいから。君はここで休んでて」
ミズハは眉間の皺を深めながら、襖を開けて出て行った。何か機嫌を損ねることをしてしまっただろうか。
ひとまず言われたとおりに大人しく待つことしばらく。
ミズハに呼ばれた百代は、炊事場に並んだ新鮮な川魚に山盛りの山菜、味噌や醤油、塩などの調味料を見て大歓声を上げたのだった。
***
日輪国に住まう神々は皆、人間の信じる心――「信仰」を受けて神としての力を発揮できる。しかし一方で、人間からの不信や悪評から生まれる「穢れ」にも蝕まれやすいのだ。
穢れを祓えるのは巫女が行う「清めの儀式」だけ。とはいえ普通の神であれば、少なくとも一人以上は巫女を抱えているため、多少穢れに蝕まれようと大した問題にはならない。しかし巫女がいないミズハのような神では、穢れが溜まっていく一方だ。彼の体の周りに漂う黒い霞は、溜まりに溜まった穢れが顕在化したものだろう。
穢れは徐々に神を蝕み、やがてその存在を消滅させてしまう。穢れに蝕まれた神のほとんどは、そうして人知れず消えてしまうが、稀に溜まった穢れによって自我を失い、暴走して災厄となる「神堕ち」になってしまう神がいる。
九度目までの人生で百代が調べた結果、その全てでミズハが神堕ちになっており、百代の死もその出来事に関わっていたと判明した。生贄は神堕ち寸前のミズハを討伐する際の囮として選ばれており、その後のあらゆる災害は神堕ちになった彼が引き起こしたものだったのだ。
これらを防ぐには、ミズハの穢れを消し、神としての立場を取り戻し、神堕ちになるのを防ぐしかない。ならば自分が彼の巫女になり、彼の穢れを清めて信仰を取り戻す手助けをすればいいのではないかと、百代は考えた。
幸い百代は無資格というだけで、巫女に必要な知識や技術や霊力は持っている。都なら無資格で巫女をしていれば捕まってしまうが、草田瀬のような田舎の村にわざわざ取り締まりに来る物好きはいないだろう。それに危険を冒してでも行動しなければ、未来はなにも変わらない。
「まあ、さっそく壁にぶち当たったけどね」
百代はため息をつきながら、社の近くに流れていた川辺に腰掛けていた。手にしているのは竹と植物のつるでできた釣り竿。用心棒をしていた時に、野宿で食糧調達をしていた経験を思い出して作ったものだ。ちなみに服は浴衣から、藤色の着物に着替えている。境内の家の箪笥の中から見つけて拝借している。
「巫女なんていらない。早く帰って」
巫女にしてほしいと言ったとき、ミズハは即座にそう答えた。
「どうしてよ。穢れを祓って信仰を集めれば、また普通の神に戻れるのに」
「神になんて戻りたくない。どうして今更封印が解けたのか知らないけど、僕はもうこのまま朽ちて消えたいんだ。だから放っておいてよ」
そう言って、彼は百代の前から姿を消した。
「とはいえ、引き下がれはしないんだけど」
ミズハは自分が消滅するだけだと思っているようだが、実際は神堕ちと化し日輪国に悲劇をもたらす災厄となる。自分が巻き込まれて死なないためにも、彼にはなんとかして正式な神に戻ってもらわなければならない。
――断られるなら、勝手に巫女として動くだけだ。
そう方針を変更したところで、昨日家を出てから何も食べていないことに気づき、まずは腹ごしらえをと釣りで食糧を確保し始めたところだった。
「いっそ祝の巫女にでもなれたら安泰だけど、そうもいかないものね」
祝の巫女とは、巫女の中でも神と深い縁を繋いだ特別な巫女のことだ。祝の巫女を持った神は、半永久的に穢れに蝕まれる恐怖から解放されるとされている。しかし祝の巫女になるには条件が特殊な上、百代の異能とは相性が悪いため、計画に入れるのは現実的ではない。
くん、と糸が引っ張られる。合わせて竿を引き上げると、太ったイワナが食いついていた。針からイワナを外し、脇に置いていた魚籠に入れる。中にいるのはこれで四匹。ひとまずは十分だろう。
魚を抱えて社に戻るも、ミズハは相変わらず姿を消したままだった。いれば一緒に食事しながら話でもと思ったが、期待はできなさそうだ。
炊事場はどの道具も古かったが、洗えばどれも十分使える。網や皿などの道具を揃えた百代は、イワナを洗って口へ木の棒を差し、火を起こした。
ぱちぱち爆ぜる炎の音を聞きながら、網の上に四匹のイワナを並べていく。一息つきながら顔を上げると、窓枠に朝見た斑の蛇がいるのに気がついた。
「あなた、今そんなところにいたら危ないわ。落ちて丸焼きになっちゃうわよ」
百代は腕を伸ばし、こちらに来るよう促してみる。けれど蛇は動こうとせず、ただじっと百代を見つめるだけだった。
「そう、来ないならいいけれど。落ちないように気をつけるのよ」
しゅる、と蛇は舌を出して返事をする。やはり言葉は分かっているらしい。
「あなた、ここに住んでいるの? 蛇だし、ミズハの友達かしら」
蛇は何も答えなかった。代わりに、イワナを載せた網の上を見下ろしている。
「これ? 私のご飯よ。さっき釣ったばかりなの。ミズハも食べるかなと思って多めに取ってきたんだけど……どこかに行っちゃったし、食べないかもね」
苦笑いすると、蛇は百代に首をかしげてみせた。どうしてミズハの分まで捕ってきたのかと聞かれているようだった。
「別に大した意味はないわよ。巫女を断られちゃったし、話す機会が欲しかっただけ。それに……一人には、しておきたくなくて」
百代は網の上のイワナを見つめた。その瞳は生気を失い、真っ黒で虚ろな色をしている。その色が、「放っておいて」と言ったミズハの目と重なった。
かつては人に尽くしていたのに、その人から疎まれ封印され、人からの嫌悪の証である穢れを真っ黒になるほど身に纏っていれば、絶望して成り行きに身を任せてしまいたくなるのも無理はない。きっともう、ミズハは新たな希望を見いだすこともできないのだろう。
その姿は、三度目までの人生の百代とそっくりだった。家族から蔑まれ、彼らの悪意を一身に抱えて過ごし、希望や期待をことごとく打ち砕かれて、次第に疲弊していったあの頃の自分と。
「まあ、私は事情があってミズハにちゃんとした神になってもらわなくちゃ困るから、独りよがりといえばそうだけどね」
言いつつ百代はイワナを裏返す。裏側は皮がこんがりと焼け、じゅうじゅうと音を立てていた。空っぽになった胃がきゅうと音を立てる。料亭の見習いだったいつかの人生では、これにすだちをかけたものを味見させてもらって感動したが、残念ながら柑橘などここにはない。
「そうだ、ミズハが食べないなら、あなたが食べる?」
しかし顔を上げると、蛇の姿は窓枠から消えていた。火の中にも炊事場にも落ちている様子はないので、外へ出て行ってしまったのかもしれない。
「……仕方ないわね。ミズハの分は一旦残しておこうかしら」
焼き上がったイワナのうち、二匹を皿の上に置き、もう二匹は自分で手に取った。片方のイワナに背中から思い切りかぶりつく。ぱりっと香ばしく焼けた皮とふっくらとした身が絶妙で、百代は無我夢中で食べ続けた。
(ようやく今回の人生でまともな食事を食べられたわ)
美輪家にいた頃に出された食事といえば、野菜の切れ端や魚のあらばかり。捨てる部分を使用人に命じてまでわざわざ自分の為に残してくるのは、一周回って律儀なのではと思ったが、やはり回帰し続ける中で普通の食事を食べた経験か、魚の丸焼きや具だくさんの汁物が懐かしかった。
「後で山菜でも採りに行って、夜は汁物でも作ろうかしら」
とはいえその前に、しなければならないことがある。
二匹のイワナを食べきった百代は、家の外に出て境内を見回した。相変わらず落ち葉だらけで、寂れた雰囲気が漂っている。まずはここをどうにかしなければ、人間からの印象がよくなるはずない。
幸い掃除はこれまでの人生すべてにおいて、美輪家でみっちり鍛えられている。どんなに汚れきった場所でも、完璧に綺麗にしてみせる自信があった。
社殿の脇にあった物置小屋から竹箒を取り出して、そこら中に散らばっている落ち葉を脇に掃いていった。右から左へ。広い場所では大胆に、隙間の方では繊細に。時間も腕の痛さも忘れて、百代はただひたすらに箒を動かしていった。
太陽は天の真上を通り過ぎ、次第に西へと傾いていく。ようやく百代が箒を止めた時には、遠くでカラスが鳴いている頃だった。
「山菜採りは明日かしらね」
百代は小さく肩をすくめる。
それでも時間を掛けた甲斐あって、境内は見違えるほどに綺麗になっていた。地面を覆っていた落ち葉は消え、鳥居から社殿までまっすぐ続く石畳が露わになっている。雑草や苔は残っているが、それは明日以降に続きをすればいい。
百代がぐんと大きく伸びをしていると、後ろからぽつりと声が聞こえた。
「しなくていいのに。こんなこと」
いつの間にか社殿の石段の前にミズハが腰掛けていた。その顔には、複雑そうな感情が浮かんでいる。そして彼のすぐ右側には、木の棒が二本乗った皿が置かれていた。
「あなた……炊事場のイワナ、食べたの?」
「僕に取ってたんでしょ。今更返せって言われても無理だよ」
イワナの話はミズハにしていないはずなのに、どうして知っているのだろう。とはいえ彼の言うことは本当なので、百代は軽く流すことにした。
「返せとは言わないけど……どう、美味しかった?」
「……まあ、久々に人間からもらったものだから」
ミズハはぼそぼそとそう言った後、百代の顔と自分の左側を見比べた。そこに座れということらしい。
促された通りにミズハの左側へ腰掛けると、彼は紅の瞳をこちらに流した。
「君、名前なんだっけ」
「百代よ、美輪百代」
「美輪ねえ。昔うちにも同じ苗字の巫女がいたな」
大して感慨もなさそうに、ミズハは言った。
「あら偶然ね。私は実家を出てきたから、苗字にあまり意味はないけれど」
「へえ、なら君もはぐれ者なんだ」
ミズハはうっすら笑った後、探るように百代を見つめる。
「どうして百代は、僕の巫女になりたいの」
「……色々と、事情があるのよ。詳しいことは言えないし、言っても信じてもらえないと思うけど」
いくら神とはいえ、百代が人生を何度もやり直している話をすんなり受け入れるとは思えなかった。それにミズハはまだ百代を警戒している。下手に話してこれ以上信用を失うわけにはいかない。
「たとえそうでも、僕は人間から見れば大災害を起こした邪神だよ。そんな神の巫女になるなんて、怖いと思わないの」
「だって私は、あなたが災害を意図的に起こしたとは思っていないもの」
それは回帰しながらあらゆる書物や伝承を調べて得た結論だった。
元々ミズハは水神の中でも、荒れた川を穏やかにしたり、汚れた水を綺麗にしたりといった、荒ぶるものを鎮めることを得意とする神だったようだ。そんな神が、突然理由もなく真逆の力を振るうとは考えにくい。
それに彼は、気を失った百代を自分の社まで運び、丁寧に扱ってくれたのだ。本当に人間を傷つけたいと思っている邪神なら、百代のことは昨夜の時点で山の中に放置していただろう。
「だから全然怖くなんてないわ。それで追い出そうとしたって無駄よ」
「…………」
ミズハはしばらく無言で百代を見つめていたが、やがて立ち上がり、社殿の奥へと入っていった。しばしの後に戻ってきた彼は手に澄んだ音の鳴る小さな道具を持っている。細長い柄に房のように鈴玉がついた、鍔付きの棒。柄の先端からは、色あせた五色の細長い布が伸びている。巫女が儀式で使う、神楽鈴だ。
ミズハはその神楽鈴を、百代に差し出してくる。
「巫女になりたいっていうなら、まずは僕の穢れを祓ってみなよ」
穢れを祓う清めの儀式をやってみろと、ミズハは言いたいのだろう。
百代の手の中でしゃらりと鈴が音を立てた。巫女の資格もなければ、学校も退学になった百代だが、過去九度の人生では、異能の実習以外の全ての授業で、学年一位をとっていた。当然、清めの儀式にも自信がある。これが巫女になる条件なら、乗らない手はない。
「いいわよ、やってあげるわ」
社殿の前で、ミズハと百代は互いに向かい合った。百代は彼の体に纏わり付く黒い穢れを見定め、体内の霊力を鈴に集めて鈴を振る。
清らかな音が、境内の空気を震わせた。
鈴がひとつ鳴るごとに、辺りの空気が澄んでいくのを感る。同時にミズハに纏わり付いた穢れも、少しずつ消えていった。青白い彼の肌にほんの少しだけ血の気が戻り、表情も和らいでいく。
だが儀式が進むに従って、百代の額から汗が滲んだ。体の奥から霊力がごっそり奪われる感覚がする。ミズハの穢れが濃いからか、予想以上に力の消費が激しいらしい。
けれども百代は手を止めなかった。ミズハの穢れが清められるように。千代に八千代に、穏やかでいられるように。祈りを込めて百代は鈴を響かせ続ける。
「……もういいよ、そこで止めて」
三割ほどの穢れが消えたところで、ミズハが静かにそう言った。
神楽鈴を止めた百代は、ぐらりと地面に膝をつく。
「はぁ、はぁ……なんで、まだ途中なのに……」
「あれ以上は、君が危ないから」
確かに、体の力が根こそぎ持って行かれたような感覚がする。巫女学校で行われた実習では難なく穢れを祓い落とせたのに、ミズハ相手では全く上手くいかなかった。これが練習と実践の差というやつなのだろうか。
荒い息をつきながら百代はそのまま地面に座り込んでしまう。足が鉛のように重くて、全く立ち上がれそうにもない。
百代を見下ろし、ミズハは呆れたようにため息をつく。
「……僕なんかのために、無理しすぎだよ」
そんな呟きが聞こえたかと思うと、不意に体がふわりと浮いた。ミズハに横抱きにされたと気づいたのはその直後だ。
「えっ、ちょ、なにしてるのよっ!?」
すぐ傍にミズハの顔があった。美しい彼に抱き上げられ、すっきり通った鼻筋や薄い唇が触れられるほど近づいている。その事実に顔がかっと熱くなった。
「暴れないで。落ちるから」
ミズハは平然とした様子で百代を抱いたまま境内の民家へ入り、寝室へ壁を背もたれにして座らせた。
「ほら、水でも飲んだら」
ミズハは炊事場から取った湯飲みを渡してくる。何も入っていないのではと思ったが、中にはミズハの言うとおり確かに水が入っていた。
「えっ、いつ汲んでたの?」
「腐っても僕は水神だよ。何もないところに水を生み出すくらいはできる」
そう言えば山賊から助けてくれたときも、ミズハはどこかから水の柱を生み出していた。力を失った状態でそれなら、本来の力を取り戻せば、より強力な力を振るえるようになるのだろう。さすが、二百年前の封印に高天原が関わる神なだけある。
水は冷たく澄んでおり、飲むごとに体の疲労感が取れていった。同時に失った分の霊力が戻っていくような感覚がする。ミズハが生み出した水には何か不思議な力でもあるのかもしれない。
やはりミズハは、穢れを纏っていても神なのだ。
だからこそ余計に、今の儀式の結果が気になってしまう。
「どうだったの、私の儀式は」
「……君は自分の力を過信しすぎだ」
呆れたようにミズハは呟く。しかし一拍置いて、ため息とともに言葉を吐き出した。
「でも、合格。ほんの少しでも、今の僕から穢れを祓ったのは実力がある証拠だからね。巫女としてここにいることを許してあげる」
「本当!? 巫女にしてくれるの!?」
「ただし、期限は三ヶ月だよ」
身を乗り出した百代を手の平で制止しながら、ミズハは続ける。
「三ヶ月間は、君が思うように巫女をしていい。けどその間に僕の穢れを祓いきり、信仰を集めて僕をまともな神に戻せなければ、出て行ってもらうから」
「それでいいわ!」
どのみち三ヶ月後までに事態を変えられなければ、死んでしまう運命だ。今更期限を区切られたところで大した問題はない。
百代はミズハに微笑みながら手を差し出した。
「これからよろしくね。私の神様」
「ん……よろしく」
ミズハもゆっくりと、百代の手を取ってくれた。ほっそりとした白い手はひやりと冷たくて、儀式で火照った体に心地いい。
――ひとまずこれで、第一関門は突破した。
未来のためにはむしろこれからが本番だが、それでも大きな一歩を踏み出せたことに安堵する。そのせいか、唐突に空腹感が襲ってきた。
「夕飯でも作ろうかしら。釣り竿があるし、もう一度川にでも行って魚を……」
百代の言葉に、ミズハはあり得ないとでも言いたげに眉間を潜めた。
「疲れてるのにまた出るつもり?」
「仕方ないじゃない。人間は食べないと生きていけないんだし。あなたにもらった水で元気になった気がするから、ささっと行ってくるわよ」
「……いいから。君はここで休んでて」
ミズハは眉間の皺を深めながら、襖を開けて出て行った。何か機嫌を損ねることをしてしまっただろうか。
ひとまず言われたとおりに大人しく待つことしばらく。
ミズハに呼ばれた百代は、炊事場に並んだ新鮮な川魚に山盛りの山菜、味噌や醤油、塩などの調味料を見て大歓声を上げたのだった。
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