鳥のさえずりが耳をくすぐり、百代はうっすら目を開く。ぼんやりとした視界の先に、見覚えのない木目調の天井が見えた。
 ここは一体どこだろう。確か昨日は巫女の試験に落第し、美輪家から追放され、草田瀬を目指して旅立ち、山で山賊と出くわして、その後――
「そうよ邪神!」
 百代は叫びながら、勢いよく上半身を起こした。体の上にかかっていた布団が、ばさりと音を立てる。
 そうだった。山賊から自分を助けてくれた黒い男が、探していた邪神だったのだ。だと言うのに百代は、途中で気を失ってしまっていた。
 百代は辺りをぐるりと見回した。百代が寝かされていたのは八畳ほどの部屋だった。部屋の隅には百代の風呂敷と木刀、小刀が並べて置かれている。床の畳はすっかり黄色く変色し、壁や天井に使われている木は所々傷が入っていた。かなり古そうな建物だ。
 自分の体を見下ろすと、着物が真っ白な浴衣に変わっていた。元から着ていたものは、昨夜山賊に切られてボロボロになったはず。ここに運んでくれた誰かが着替えさせてくれたのだろうか。
 どこの誰だろう、と首をかしげながら浴衣を眺めていると、しゅるしゅると奇妙な音が横で聞こえた。見ると枕元に一尺ほどの小さな蛇が、とぐろを巻いて百代を見上げている。
 見たことのない蛇だった。マムシでも、ヤマカガシでもない。黒地に白い霞が入ったような斑模様は、美輪家の書庫にあった生物図鑑に載っていた、どの蛇の姿とも一致しない。毒蛇とも言い切れないが、何故だか目の前の蛇はあまり恐ろしさを感じなかった。
「あなた、いつの間に入ってきたの? 毒蛇じゃないわよね?」
 問いかけると、蛇は赤い瞳で百代を見つめ、是と答えるようにちろりと細長い舌を出した。
「私、邪神を探しているんだけど。どこにいるか知ってる?」
 すると今度は否というように、蛇は頭を左右に揺らしている。
「不思議な子ねぇ」
 まるで本当に、百代の言葉が分かっているようだった。珍しい模様の上に、人と会話できる蛇がいるとは聞いたこともない。世の中には書物に書かれていないことも、たくさんあるのだろう。
「でもあなたが知らないなら、私が自分で探しにいかなくちゃ」
 百代は大きく伸びをし、掛け布団を剥いで立ち上がった。すると蛇は身を翻してするすると蛇行し、襖の隙間から部屋の外へ出て行ってしまった。
「あら、驚かせちゃったかしら」
 申し訳なさを感じながら、百代は布団をたたんで部屋を出た。
 襖を開けると囲炉裏のついた茶の間だった。その向こうには炊事場と、その横に玄関があり、百代の草履が綺麗に揃えて置かれている。服といい、靴といい、百代をここに連れてきた人はかなり丁寧な人らしい。
 草履を履いて外へ出ると、木漏れ日が百代の体を優しく照らした。
 そこは古い社だった。
 森の中にあるようで、境内は周辺を木々に囲まれている。駆け回れそうなほど広い地面には、いっぱいに落ち葉が重なっており、石畳の隙間には所々苔が生えていた。入り口の鳥居は朱の塗装が剥げ、すっかり黒くなってしまっている。神の住まいである社殿は木がところどころ腐り落ち、建っているのが不思議な程だ。
 百代がいたのは、その境内の中に建てられた小さな民家だった。恐らく巫女が寝泊まりするために造られた家だろう。境内の広さを考えると、この社にいた神はかつて多くの信仰を集め、巫女も複数抱えていたはず。だがなんらかの理由でそれらを失い、荒れ果ててしまったのだ。この様子では、神も無事では済まないだろう。
 境内を散策していると、社殿の裏からとぷりと水音が聞こえてきた。
 百代は草木をかき分けながら社殿の裏手へと回っていく。
 その先にあったのは、小さな池だった。緑色の濁った水の表面には、黒髪の男が佇んでいる。昨晩会った、邪神である。
 彼は百代の足音に気づいたのか、くるりとこちらを振り返った。
「ああ、起きたんだ。なら適当に出て行っていいよ」
 そしてまた百代から顔を逸らしてしまう。随分と素っ気ない態度だった。昨夜の態度や発言から、恐らく人間嫌いなのだろう。
 けれど百代は構わず彼の傍へ近づく。
「あなたがここに運んでくれたの?」
 邪神はやってきた百代に眉を潜めた。
「なんでこっちにくるの」
「あなたと話したいからよ」
「邪神と話したいなんて、物好きだね」
 彼は紅の瞳で百代を捉えて嘲笑する。光の中で見た真っ黒な彼は、その異質さが余計に際立っていた。体に纏わり付く黒霞は、昨晩よりも一層濃く見える。どうやらかなりの重症のようだ。
「物好きでもなんでもいいわ。で、質問に答えてくれる?」
「……そうだよ、君が急に倒れるから仕方なく。ついでに言うと、ここは僕の社だ。見ての通りぼろぼろで、僕しかいないけどね」
「そう。それでも泊めてくれてありがとう、助かったわ」
 ならば布団に寝かせてくれたのも、草履を綺麗に揃えてくれたのも、すべてこの神だということだ。人嫌いを表に出しながらも、意外と優しいところがあるのかもしれない。
 と、考えたところで、一つ重大なことを思い出す。
「まさか……私を着替えさせたのも、あなたなの?」
「そうだけど」
「……っっ!!」
 百代の顔が一気に熱くなる。胸元を手で押さえ、きっと邪神をにらみつけた。
 邪神は呆れたように小さく肩をすくめる。
「心配しないでも、木刀持って山賊に向かっていくような女に興味はないよ」
「失礼ね! それに興味があるとかないとかの問題じゃないわ」
 神とはいえ、男に体を見られたのだ。九度人生をやり直した百代でも、それを平気で流せるほどには達していない。
 視線で非難する百代に、邪神はにたりと口角を上げる。
「出て行きたくなった?」
「……ならないわよ。私はあなたを探していたんだから」
 だからこそ、たとえ素肌を見られようと、相手がどんなに失礼だろうと、ここに留まらなければならなかった。自分の未来を切り拓くために。
 邪神は呆れたようにため息をつき、百代を横目に睨んだ。
「それ、昨晩も言ってたけど、人違いじゃない? 人間が今の僕なんかを探してなんになるの」
「私の人生がかかってるのよ」
「はぁ?」
 訳が分からないというように眉をひそめる邪神に、百代は構わず問いかける。
「あなた、本当の名前は?」
「……ミズハ、水を司る蛇神だよ。今は人間からの信仰もないし神籍も剥奪されて、高天原から追放されてるけどね」
「そう、ミズハね。あなたに頼みがあるの」
 百代は訳が分からないといった様子のミズハをまっすぐ見上げた。
「私を――あなたの巫女にして」