渦は社殿の屋根を突き破り、天へと延びる。澄んだ青空は黒く厚い雲に覆われていき、地上に激しい雨が降り始めた。急な異変に都の人々は皆、建物を探して逃げ惑う。轟雷の中で、渦の中心から黒霞を体に纏わせた黒龍が現れ、雄叫びを上げた。
 黒く染まった禍々しい龍は、天を泳ぎながら地上に向かって威嚇するように吠え続ける。龍の怒りに呼応するように、雨風が強まっていった。
「まさかシグレが、神堕ちになるなんて……」
「僕が神堕ちになりかけたとき、強い負の感情を持っていたから……シグレも同じように、僕への恨みで神堕ちになってしまったのかも。ごめん、早く気づけばよかった」
 苦しげに顔をゆがめるミズハに、百代は首を横に振る。
「いえ、今はいいわ。それよりこれからのことよ」
「そうだね」
 ミズハは頷くと、手の平から蹴鞠ほどの水球を作り、百代に渡す。
「これでアマツヒに連絡を取れる。百代はこっちの状況をあいつに知らせて」
「わかったわ。けど、ミズハは?」
 百代が水球を受け取ると、ミズハは小さく微笑んだ。
「僕はあれを抑えにいかないと」
 ミズハは天を突くほどの巨大な白蛇に姿を変える。大蛇の存在に気付いた黒龍は、地響きのような声を上げ、口から濁流を吐き出した。白蛇はそれに対抗するよう、体の周囲から水柱を生み出す。蛇の水柱と龍の濁流がぶつかり、空中で弾けた。
 目の前で繰り広げられているのは、神と神の戦いだ。人間の自分には手を出せない。
 百代はもどかしさを感じながらも、己のやるべきことに意識を向けた。
「アマツヒ様! 聞こえますか!?」
 水球に呼びかけると、表面が大きく揺らぎ、アマツヒの姿が映し出された。
「百代か。その様子、シグレの神堕ちの件だな?」
「ええ、その通りです」
 さすがは日輪国の最高神。既に事態はある程度把握しているらしい。
「今はミズハが抑えていますが、雨も雷も激しくなっています。このままでは被害が大きくなる一方かと」
「シグレの荒ぶる神の性質が出ているのであろう。今、こちらも討伐の準備をしている。あと少し、時間を稼いでくれ」
「わかりました」
 そのまま会話を終えようとすると、アマツヒが「ああ待て」と制止をかける。
「月夜が言いたいことがあるらしい」
「月夜様が?」
 アマツヒの祝の巫女の月夜とは、会議の場でもその後の会話でも一言も交わさなかった。そんな彼女が、自分に一体なにを言うというのだろう。
 百代が戸惑っていると、水球に銀髪の女性が映し出される。
「百代さん、先に謝罪を。本当はもう少し時間を与えて差し上げたかったのですが、そうも言っていられなくなりましたから」
 月夜は感情の読めない瞳で、水球の向こうから百代を見つめる。
「忘れないでください。神が真に必要としているのは、人間の信じる心なのです」
 その一言を届けた後、水球の表面が再び揺らぎ、彼女の姿が消えていった。
「どういうことかしら?」
 月夜には未来視の異能がある。今のも、その異能で何かを見た上での言葉だろう。しかし神が人の信じる心を必要としているのは、この国の常識だ。今更それが、なんだと言うのか。
 百代の思考は、しかし天を裂くような悲鳴で途切れた。
「ミズハ!」
 黒い龍が、白い蛇の首元に噛みついている。蛇の体が横に倒れたと思うと、ぱっとその姿が消えた。代わりに境内の中心へミズハが倒れている。
「ミズハ、大丈夫!?」
 百代はミズハに駆け寄ると、その体を抱き起こした。
「あはは……やっぱ神堕ち相手はきついなぁ。災厄と呼ばれるだけあるよ」
 ミズハは笑っていたが、その体はぼろぼろだった。着物は破れ、顔や足に傷がつき、頬からは血が滲んでいる。
 災厄となったシグレに、ミズハの力は一歩及んでいないのだろう。けれど雨風は強くなる一方で、アマツヒの救援はいまだ来る気配がない。ミズハが抑えていなければ、都に甚大な被害が出てしまう。
 百代は拳を強く握る。この状況を変えられる方法を、一つだけ知っていた。
 ――祝の巫女の契約。
 それを結べば、神の力が飛躍的に上がる。ミズハもシグレを凌ぐ力を手に入れて、完全に押さえ込めるはずだ。けれど百代は最後の一歩を生み出せない。
 百代はミズハを想っているし、ミズハも自分を愛していると言ってくれた。だから契約の条件の一つ「心の底から互いだけを想う」は達成しているだろう。けれど百代が抱く迷いから、「互いに全てを差し出す」というもう一つの条件を満せないでいる。
 ――やはり、怖いのだ。無能になって、ミズハの役に立てなくなることが。
 巫女は異能で神を助ける。十度の人生の中で何度も告げられ、目にし、頭の中に深く根付いているこの国の常識。その考えは、簡単に破れるものではなかった。
 百代は回帰を繰り返してミズハに出会ったし、前世の記憶を使って問題を解決に導いたこともある。今だって回帰の異能があったなら、失敗してもやり直せる可能性が残っているのだ。シグレを断罪した上で神堕ち化させない方法は、いくら考えても思いつかないけれど。
 躊躇う百代の腕の中で、ミズハがうめき声を上げながら体を起こした。大きく息をつきながらもよろめく足で立ち上がり、再びシグレの元へ向かおうとする。
「本当にいけるの、ミズハ?」
 百代の問いに、ミズハは空を見上げて答える。
「さあね。正直僕としては、都がどうなろうと構わないんだけど……アマツヒが来るまでは、せめて時間を稼がなきゃ」
「都を気にしていないなら、どうして戦ってくれるのよ」
「それはもちろん、君がいるからさ」
 ミズハは振り返り、困惑している百代へ視線を移した。
「草田瀬の村人は恐怖で僕の言葉を聞き入れず、百代以外の美輪の人間は、自分たちの欲望のためにシグレを妄信した。結局、自分のことしか考えていない卑しい人間を、救いたいと思う気持ちはとうの昔に失せてるよ。災厄に飲まれて死のうがどうでもいい」
「そう……」
 彼は未だに、人への絶望を抱いたままなのだ。思えば周囲の影響を顧みずに、怒りを露わにしていたのもその証だろう。
 人間の業の深さに百代はうつむく。しかしミズハは、ふっと笑った。
「でもね、他の人がどれだけ疑おうと、百代はずっと信じてくれたでしょ?」
 顔を上げると、ミズハは赤い瞳を愛おしげに細めていた。荒れ狂う嵐の中にありながら、彼は穏やかに語り続ける。
「僕のためにもがき、進み、信じ続けてくれた君は、いつだって僕に力をくれていたんだ。回帰の異能のことはわからないけど……君のその信仰に、僕は助けられていたんだよ」
「……私の、信仰……?」
「そう。だから僕は、信じ続けてくれる君のために戦う。君が信じてくれる神でありたいから、人間たちを救うんだ」
 ミズハは再び、天を見上げて微笑んだ。
「僕は神様だからね。信じてくれる人の願いは叶えないと」
 ミズハの言葉に、百代の胸が大きく脈打つ。
 確かに百代は忘れていた。
 神に力を与えるのは、人の信じる心だけということを。
 ――信じ続けるという行為そのものが、神にとって最も役に立つということを。
 強い異能があれば、神のためにできることが増えるかもしれない。けれどどんなに強い異能を持っていたからといって、神を信じ続けられなければ意味がないのだ。シグレの本性を知って絶望し、彼の穢れを清められなかった櫻子のように。
(ミズハを信じ続けることなら、できるわ)
 ミズハは初めて百代を気遣ってくれた相手だった。百代に居場所を与えてくれ、無資格の巫女だった自分に価値を与えてくれ――そして、祝の巫女として望むほどに、自分を愛し、共にいたいと言ってくれた。そんな相手を信じ続けるなんて、簡単だ。
 それに回帰の異能がなくなったとしても、自分には今まで得た知識と経験という武器がある。それを使えば、この先もミズハを助けて戦えるだろう。邪神と呼ばれていたミズハの立場を取り戻した時のように。
 心の枷が外れていく。残ったのは――ミズハに対する信頼と愛情だけだった。
「待って、ミズハ」
 百代は再び黒龍の元へ向かおうとするミズハの腕を掴んで振り向かせた。赤い瞳を大きく見開いた彼に、百代は小さく微笑む。
 そしてほんの少しだけ背伸びをし――その唇に口付けをした。
「も、百代!? 今のは……!」
「さっきは答えられなかったけれど。私も、あなたを愛しているわ」
 更に目を見張るミズハの額に、百代は自分の額を合わせた。
「この体も、この心も、運命さえも。私の全てを、未来永劫あなたに託すわ」
 合わせた額から光が溢れる。祝の巫女の契約が――成立した証だった。
 体の奥から、あたたかなものが湧き上がってくる。祝の巫女となったことで、霊力が上がったのだろう。それはきっと……ミズハの方も同じはずだ。
 額を離し、未だ信じられないというような顔をしているミズハに微笑みかける。
「ミズハ、私は選んだわよ」
「じゃあ次は……僕の番だね」
 ミズハも百代に微笑み返すと、再び巨大な白蛇の姿になる。水を操りながら黒龍を圧倒し、その首元に深く噛みついた。黒龍はもがいた後に、光となって消えていく。
 雷は止み、豪雨は去った。空には晴れ間が戻っていく。都の災厄と過去の因縁は――こうして終焉を迎えたのだった。