ゆっくりと意識が浮上する。
 大広間を出た後に廊下で考え事をして、その先の記憶がない。ぼやけた視界の先には、木の床と祭壇が映りこむ。周囲を確認しようと体を起こすと、強い目眩と頭痛に襲われた。
「ううっ」
 上半身の均衡を崩し、咄嗟に手を突こうとした。しかし両手は拘束されているのか使えない。あえなく床に崩れ落ちた。
「うふふ、芋虫みたいに床に倒れて。無様なお姉様」
 すぐ傍で聞こえた嘲笑は、この数日で何度聞いたか分からない。
 百代は今度こそ起き上がり、声の主をにらみつける。
「櫻子……またあなたなの」
「私だけじゃないわ。シグレ様もいるもの」
「会議ぶりだね、百代」
 扇で口元を隠したシグレは、目の前の百代を上から見下していた。その手には百代が携えていた木刀が握られている。
「社殿は懐かしいだろう? 百代の無能が分かってから、この社にはしばらく君を入れていないからね」
 シグレの言葉で、ようやく百代はそこがシグレの社の社殿の中だと気づいた。ただし外に通じる扉は全て閉じられていて、更には社殿の内側いっぱいに、百代たちを封じ込めるようにして水の結界が張ってあった。
「この結界は、僕たちと外を断絶するものだ。結界の中で何が起こっていようと、外の者には見えないし聞こえない」
 そう言ってシグレは扇で自分を軽く仰いだ。
 百代の額から汗が滑り落ちる。つまりは今、ここは無法地帯だ。想像以上に、危ない状況にいるらしい。
「どうしてこんなことを?」
「君が私の邪魔になるから、消えてもらおうと思ってね」
 シグレの瞳が不気味に細められる。本能的に背筋が凍るのを感じながらも、百代は恐れを押し込めて切り返した。
「心当たりがないのですが。いつ私がシグレ様の邪魔をしたと?」
「草田瀬の水不足を解消し、ミズハを助けて豪雨を止めただろう。まったく……君さえいなければ、今頃彼は消えていたのに」
 憎々しげに吐き捨てたシグレの言葉には、確かな敵意が滲んでいた
「じゃあ、水源に細工をして、ミズハに敵意が向くよう仕向けていたのは」
「仕組んだのは私だよ。水源に置いた水蛇人形は、櫻子に作らせたけれどね」
 百代は大きく目を見張る。草田瀬の水源を塞いでいた蛇人形と、それによって起こった水不足。あれは他でもない彼らの仕業だったのだ。あの水不足はおそらくどの人生でも起こっていたはず。なら一度目から三度目で櫻子が水人形を作る課題の試験で好成績を収められたのは、既にあの時ミズハを貶めるために異能を習得していたからなのだろう。
「なら……あの後、草田瀬で雨が降り止まなかったのもあなたたちのせいなの」
「ああ、私の力で雨を降らせた。草田瀬の様子を見に行かせた環から、水源が復活していると報告を受けた時は驚いたが……こちらもなかなか苦しかっただろう?」
「さすがはシグレ様でございました。あの時の雨は、とってもお見事でしたわ」
 恍惚とした笑みを浮かべながらすり寄る櫻子の頭を、シグレは緩やかに撫でている。そんな二人が、百代の目には至極不気味に映った。
「どうして……そんなことをしたのですか!?」
 確かにシグレも櫻子も、百代を虐げた悪だった。けれどミズハを絶望に陥れ――神でありながら草田瀬の人々を苦しめるほど邪悪とは、思いもしなかった。
 百代の叫びに、シグレは煩わしそうに舌打ちをした。
「彼が私よりも力のある神だからだよ。二百年前からね」
 シグレは比較的新しく生まれた神だった。加えてシグレは水神ではあったが、水を鎮め、田畑を癒やすミズハとは違い、暴風、豪雨などの荒ぶる天候を生み出すのが得意だったため、なかなか人からの信仰が集まらなかったという。
 それでも力を欲したシグレは、手っ取り早く力を手に入れるため、同じ水神であるミズハから信仰を奪うことにしたそうだ。直接の勝負では勝てないと分かっていたシグレは、当時ミズハの巫女であり、祝の巫女に憧れていた美輪家の女に目を付けた。彼女に祝候補にすることを約束して手を組み、彼女を使ってミズハの巫女を全員辞めさせて力を削いだ後、嵐を装ってミズハへの不信を高め、消滅寸前にまで追い込んだという。
「あの時はアマツヒがミズハを封印したことで、完全に消滅させることができなかった。けれど数ヶ月前に封印が解けたから、今度こそミズハを消してやろうと思ったのだ」
 そのために異能を使える櫻子に祝候補を乗り換え、彼女の力を借りながらミズハを貶めるために暗躍していたのだという。だが全てを百代に解決され、ミズハが立場を取り戻し、シグレの計画は失敗に終わった。
 百代は頭が沸騰する程の怒りを覚えた。
「ずっとミズハを苦しめていたのは、あなただったのね……!」
「仕方なかったのだよ。生き残るために努力した結果だ」
 シグレはわざとらしく目を伏せた。その仕草に、余計苛立つ。
「力が欲しかったなら、普通に信仰を集めればよかったでしょう」
「それは時間がかかるだろう? 私は待つのが嫌いなのだ。時間と労力を使って、集まるかも分からない物を求め続けるなど阿呆らしい」
 シグレは目を細め、ぱちりと扇子を閉じた。現れた口元は、高くつり上がっていた。
「会議の様子を見るに、ミズハは君に随分と執着しているようだったからね。君が痛めつけて殺される場面でも見れば、簡単に我を忘れて暴れてくれるだろう。そうなれば彼は、あっという間に穢れが溜まって邪神に逆戻りだ」
「……っ、卑怯よ」
 ミズハが抱く思いを百代への恋情を、百代は既に知ってしまっている。それに彼は、以前都でも百代を虐げた櫻子に対して攻撃的な様子を見せていた。そんなミズハが痛めつけられた百代の姿を見れば、どうなるかは想像に難くない。
 傷つけられる訳にはいかない。ミズハを守るためにも。
 百代はちらりと後ろに目を向けて、拘束されている腕を見た。腕は単なる縄ではなく、櫻子の異能で作り出した水の拘束具で縛られている。手の平の開閉はできるが、拘束具を引きちぎるのは難しいだろう。足を拘束されていないことだけが、不幸中の幸いだった。
 シグレは扇で自らを扇ぎながら櫻子を抱き寄せ、その耳に甘く囁く。
「愛しい私の祝、あれを半殺しにしておくれ。ミズハが来るまでは、くれぐれも殺してはいけないよ。すべてが上手くいった暁には、君を本物の祝の巫女にしてあげるからね」
「もちろんですわ。愛するシグレ様のために、この櫻子、全力を尽くします」
 櫻子はうっとりとした顔でシグレに答え、一転して歪んだ笑みを唇に乗せる。拘束された百代の前に歩み出ると、周囲にこぶし大の水球の群れを展開させた。
「ようやく本気で、お姉様をいたぶれるわ」
「今までも結構酷かったと思うけど?」
「さすがに手加減していたわよ。例え能なしでも、美輪家の長女が死体になって出てきたら醜聞だもの。けれど今のお姉様は、美輪家の人間ではないものね」
 櫻子がおもむろに手を上げる。水球の群れが、百代の周囲を取り囲んだ。
「覚悟してちょうだい、お姉様?」
 櫻子が上げた手を振り下ろす。水球が一斉に、百代へ向かって放たれた。
「くっ……!」
 百代は走りながらも必死に避けていく。しかし両手を塞がれた状態では、均衡がうまく保てない。水球が数個、足や腕をかすめていく。着物は破れ、肌が裂け、血が滲んできた。
「ふふふっ、無様なお姉様。異能があると言われていたけど、結局逃げ回るしかできないんじゃない」
 櫻子は新たな水球を作り出し、百代の周囲へ円形に並ぶ。
「串刺しになりなさい!」
 水球から針のように水が伸び、百代の体を貫こうとした。咄嗟に下へ屈み込み、針山にされるのを回避する。
(本当に、手加減をしていたのね)
 絶え間なく放たれる水球を避けながら、百代は奥歯を噛みしめる。
 櫻子の異能は謙遜なしに強力だった。草田瀬の水源に置いた蛇の人形を、数ヶ月間、遠くから維持していただけある。今の攻撃に比べたら、かつて百代が受けてきた暴力なんて生やさしいものだ。
「ほらほら、いつまで耐えられるかしら!?」
「っ!」
 銃弾のように飛んできた水の粒を受け身で避け、片膝を突いて櫻子を睨む。
 ぽたりと腕から血が落ちた。着物は既にボロボロになっている。今はまだ逃げ切れているが、このままでは確実にやられてしまうだろう。
 なんとかして、反撃しないと。
 勝つためには、敵以外にも目を向けろ。用心棒だったいつかの人生で学んだことを思い出しながら、百代は周囲に視線を巡らせた。
 百代を嘲りながら異能を発動させる櫻子。後ろで高みの見物をしているシグレ。彼が手にしている――ミズハの力が注がれた百代の木刀。
 少し振るだけで水の刃を生み出せるあの木刀があれば、手を縛られて自由に振るえない百代でも、多少は抵抗できるはず。
(一か、八かね)
 百代は足に力を込め、一気に駆けだす。
「っ、なにするつもりよ!?」
 櫻子の異能が後を追ってくる。しかし向かう先がシグレと分かったのか、一瞬攻撃が止んだ。その隙を狙って、百代は思いきりシグレに体当たりをする。
「ぐっ……!?」
 不意打ちをされたシグレはあっけなく体を崩し、木刀を取り落とした。百代は木刀を足で蹴り飛ばしてシグレから遠ざけ、縛られた両手で拾い上げる。
「シグレ様!」
 櫻子は急いでシグレに駆け寄り、その肩を支えた。注意が逸れたからか、周囲の水球が全て消える。同時に一瞬だけ、百代の腕の拘束が緩んだ気がした。
(もしかして……櫻子の注意が完全に逸れれば、拘束が解ける?)
 既に木刀は取り返した。できることは増えている。櫻子に反撃するのも不可能ではない。
「お姉様、よくもシグレ様を……!」
 シグレを抱き起こした櫻子は、顔を真っ赤にして百代を睨んでいた。背後に巨大な水球が出現する。それは全てを飲み込まんばかりに、激しく渦を巻いていた。
「お姉様なんて、溺れ死ねばいいんだわ!」
 櫻子の叫びと共に、水球が百代へ向かって飛んできた。百代は後ろで木刀を握りしめ、床を蹴って飛び上がる。空中で体をひねり、木刀の切っ先を水球に向けて、体ごと大きく木刀を振った。
 切っ先が描いた軌道から、水の刃が現れる。それは水球を真っ二つに切り裂いて、後ろにいた櫻子に直撃した。
「きゃあああっ!!」
 櫻子は数尺後ろに吹き飛ばされ、床に叩きつけられる。櫻子の注意が完全に失われ、百代の手の拘束が消滅した。
「これで真剣勝負ができるわね」
 百代は笑みを浮かべて木刀を構える。
 起き上がった櫻子は、憎々しげに顔を歪めた。
「その木刀……そんな力、前はなかったじゃない」
「ミズハの力を借りたの。こういう事態が起こった時のために」
「なによそれ……無能のくせに、変な力を付けないでよ」
 櫻子は声を震わせながら言葉を続ける。
「お姉様ばかりずるいじゃない。強い霊力があって、成績もよくて、長女というだけでシグレ様の祝候補になって。昔はお父様とお母様だって、お姉様に期待していたわ。私のことはどうしたって、見てくれなかったのに」
「……けれど、今は何も持っていないわ」
 百代が静かに否定すると、櫻子は両手を天にあげ、狂ったように笑い始めた。
「そうよ、今はみぃんな私のものになった! お姉様が無能になって、家を追放されたから! お父様とお母様の愛も、シグレ様の祝候補の座だって、みんなみんな私のものだわ! なのに……!」
 櫻子は再び、恨みの籠もった目で百代を睨む。
「なんなのよ、お姉様は。無能のくせに、ミズハ様の巫女になって、祝候補にしたいって言われて、アマツヒ様に認められて、戦う力まで手に入れて……どうしてまた私を超えようとするの? どうして無能のままでいてくれないのよ!」
 櫻子の異能で、再び周囲に水球の群れが展開される。その数は優に五十を超えている。
「死になさい、お姉様!」
 櫻子の叫びと共に水球が小刀の形に変化し、百代に襲いかかってくる。だが百代は、もう逃げなかった。
「ごめんなさいね。ミズハのためにも、傷つくわけにはいかないのよ!」
 木刀の柄を握り、大きく空間を切り裂いた。現れた巨大な水の刃が、櫻子の攻撃を打ち消していく。
 櫻子は舌打ちをしながら、水の小刀を新たに作り出す。
「っ、小賢しいのよ! そもそもどうして剣をそんなに使えるわけ!?」
「あなたが知らないところで、ずっと鍛錬していたのよ!」
 飛んでくる櫻子の異能を木刀で切り裂きながら、百代は叫ぶ。
 そう、百代はずっと鍛錬していた。そして知識を蓄え、三ヶ月の死の運命を変えるため、繰り返す人生の中であらゆる努力を行ってきた。現状を諦めたまま何かが起こると期待して待っているだけでは、欲しいものは手に入らないと知っていたから。
 人生をやり直すという回帰の異能は強力かもしれないが、やり直した後の人生は己の身一つで切り抜けなければならない。だからこそ、百代は異能ではない別の武器をいくつも作った。その結果、草田瀬でミズハと出会い、村の問題を解決し、ミズハの立場を取り戻したのだ。
(――ああ、そうだわ)
 一つの結論が、百代の胸にすとんと落ちる。
 自分の最大の武器は、回帰の異能ではない。
 今まで努力で手にしてきた知識と経験――未来を拓く力、その全てだ。
 百代は周囲を取り囲んでいた水球の群れを払いのけ、櫻子に木刀の切っ先を向ける。
「あなたが私を嫌う理由はわかったわ。けれど私も、あなたたちに虐げられていたあの頃のままじゃない。望む未来に進むためには、自分の力と意志で選び続けなければならないもの。だから――望みがあるなら、あなたもそろそろ変わりなさい」
「黙って――!!」
 激情を露わにした櫻子が異能の水球を連射してくる。
「はぁああああっ!!」
 百代は木刀から生み出した水の刃で櫻子の異能を一掃し、床を蹴って彼女の元へと走る。武道の心得のない櫻子の後ろは、簡単に取れた。
 目を見開く櫻子のうなじへ、百代は木刀の柄頭を突きつける。
「シグレは自分の欲のためにミズハを貶めた。そんな彼が、本当にあなたを愛しているのかしら。いい加減目を開いて、自分で真実を見極めてみたら?」
 百代は櫻子の耳元で囁くと、柄頭で彼女のうなじを打つ。気絶した櫻子は、あっけなく地面に崩れ落ちた。
 倒れた櫻子の体を見つめていると、突如横から巨大な水の渦が襲ってきた。気を抜いていた百代は吹き飛ばされ、結界の壁に体の右側を叩きつけられる。
 痛む右腕を押さえながら起き上がると、呆れ混じりのため息がその場に響いた。
「はぁ……暴走しかけた挙げ句に負けるとは。肝心なところで役立たずだね」
「シグレ……!」
 百代が木刀を構えながらにらみつけると、シグレは不気味に口角を上げる。
「おや、呼び捨てなんて。人間のくせに不敬だよ」
「あなたなんかを敬う気なんて起きないわ」
「家を出てから随分と生意気になったようだね」
 シグレは小さく鼻を鳴らし、扇を開いて口元を隠した。
「だがミズハの力を借りたとは言え、強い異能を持つ櫻子に生身の状態で勝利するとは称賛に値する。どうかな。もう一度、私の巫女にならないか? そうすれば命は見逃してあげよう」
「お断りよ。私はミズハの巫女だもの」
「即答か。残念だよ」
 シグレはぱちりと扇を閉じ、その手を軽く振った。直後、シグレの背後に、百代の数十倍はあろうかという巨大な濁流の渦が現れる。それは龍の形をとり、頭上から百代をにらみつけた。
「私にかしずかない美輪家の人間に、価値はない」
 龍は大口を開いて百代に襲いかかってくる。その激しい流れと水圧を受ければ、百代の体はひとたまりもないだろう。しかし逃げるには間に合わない。逃げる場所さえどこにもない。覚悟を決めて、百代は木刀を構えた。
 しかし百代がそれを振るう前に――周囲に張り巡らされていた結界が弾け飛んだ。
「そこまでだよ」
 蛇の形を取った清流の渦が現れ、龍を飲み込み洗い流した。
 背後から足音が近づいてきて、百代のすぐ隣で止まる。
「百代、無事?」
 白い蛇神――ミズハがそこに立っていた。
 穏やかな顔をしているが、額には汗が滲んでいる。百代が消えたことに気づいて、必死に探してくれていたのだろう。喜びと共に、安堵が生まれた。なんとか瀕死の姿を、彼に見せずに済んだらしい。百代は構えを解いて、ミズハに微笑む。
「おかげさまでね」
「そっか。間に合ってよかった」
 ミズハは小さく頷くと、正面のシグレを紅の目でにらみつけた。
「シグレ、よくも百代を攫ってくれたね」
 ミズハの怒りに呼応するように、周囲の空気に不穏なものが混じっていく。けれどシグレはミズハの威圧をものともせず、扇の向こうでくつくつ笑っている。
「残念ですよ、ミズハ様。あと一歩遅ければ、私がその女をくびり殺すところをお見せできたのに」
 もはや悪意を隠そうともしないシグレに、ミズハの表情が暗くなる。
 このままではまずい。百代はミズハの服の裾を引き、こちらを向かせた。
「挑発に乗らないで。あいつはあなたを怒りで暴走させるつもりなのよ。ちゃんと見て、ミズハ。私は無事で、生きているわ」
「……そうか。そうだね……ありがとう、百代」
 深呼吸をしたミズハは、幾分平静を取り戻したようだった。不穏な気配を押し込めた後、改めてシグレに向き直る。
「観念するんだ、シグレ。君がしたことはすべて調べがついている」
 だがシグレの余裕は変わらない。扇で自らを仰ぎながら、嘲るようにミズハと百代を見下している。
「調べがついたところで、何ができるのですか? あなたがいなかった二百年の間に、私も美輪家を初めとする人間たちからの信仰を得ているのです。いま私を捕縛などすれば、何も知らない彼らの不信を買って、あなたが穢れてしまいますよ?」
 シグレの言い分は最もだった。神の力や存在価値は、神同士の関係性では基本的に揺るがない。圧倒的な力を持って殺しにかかれば別だが、下手に他の神に手を出せば、人間から悪と見なされ、穢れを受けて自分が力を失うことになる。神に力を与えるも殺すも、無条件でそれができるのは基本的に人間だけなのだ。
 シグレはその仕組みの裏を突いている。計画的で、邪悪な振る舞いだった。
「くくく……いいですねえ、あなたの悔しがる顔。ずっとそれが見たかった」
「そこまでして力を手に入れて、何がしたいの」
「あなたの上に立ちたかった……それ以外ないでしょう?」
 シグレはぱちりと扇を閉じ、その先でミズハを指した。
「ずっと目障りだったんですよ。権力も力も必要ないという素振りを見せて、大した苦労もせず人間どもに信仰されているあなたが。荒ぶる水の力を持つ私は、力を使えば使うほど、信じてもらえなくなったというのに」
 ミズハに対する嫉妬。信じてもらえない不安と焦燥。それらが一つ溜まるごとに、シグレは歪んでしまったのだろう。暗い感情によって思考や行動を変えられてしまうのは、人も神も同じなのかもしれない。百代は草田瀬の村人や櫻子のことを考えながらシグレを睨む。
「前回はアマツヒのせいで失敗しましたが……今度こそ、そこの百代を使って、あなたを破滅させてあげましょう。あなたたちが何もできないうちに」
 百代は軽く唇を噛んだ。反抗しようにも安易に傷つけられないのがなんとも歯がゆい。
 そのときふと、視界の端でぴくりと動くものがあった。それに気づいた百代の頭に、一つの考えが浮かぶ。
 もしかすると、状況を変えられるかもしれない。
 百代はわざと大げさに声を上げながら、シグレの前へ歩み出た。
「本当、口が達者ね。計画も見事だわ。そうやって美輪家の人々をずっと騙していたのかしら?」
「騙していた? そんなことはないよ。互いに利益のある協力関係を結んでいただけだ」
 シグレは百代の話に乗ってきた。百代が見たものには、まだ気づいていないらしい。そのまま気づかれないようにと祈りながら、百代はシグレとの会話を続ける。
「でもあなた、櫻子に愛を囁きながら、全然愛してなんかいなかったわよね」
「いやいや、嘘は言っていないよ。美輪家の人間はみんな愛している。私の忠実な駒としてね」
 おかしくて堪らないというように、シグレは高らかに笑う。
「本当、美輪の者は馬鹿でかわいらしいよ。櫻子も、その前も、一番初めの巫女もそうだった」
 調子づいたシグレは、そのまま饒舌に話し始めた。
 ミズハの元で巫女をしていた美輪の女に、祝の巫女という餌を吊り下げて誘ったこと。その巫女は霊力と不老不死の欲しさにシグレに従い、ミズハを簡単に裏切ったこと。それから病で死ぬまで、彼女はシグレの祝になれると信じて疑わなかったことを。
「その後も、その後も。美輪の女は祝の巫女にしてやると言って軽く愛を囁けば、簡単に私の望む通りに動いてくれた。美輪の一族も少し願いを叶えてやれば私のことを深く信じて。君たちは私の知る人間の中で、最も欲望に忠実で馬鹿な醜い人間たちだよ」
 シグレは百代に嘲笑する。これが、彼の本性なのだろう。一応は美輪家にいた百代でも、聞くに堪えない醜悪な振る舞いの数々。吐き気を催さずにはいられない。
 だがお陰で勝機は見えた。百代はシグレの後ろにいる人物に、大声で呼びかける。
「だそうよ、櫻子。これでもまだシグレに愛されてるって思うわけ?」
「は……!?」
 シグレが血相を変えて後ろを振り向く。そこには昏睡状態から醒めた櫻子が、顔を真っ青にして座っていた。先ほど百代が見たのは彼女だったのだ。
「し、シグレ様……今のお話は、どういうことです……?」
「ち、違うよ、櫻子。あれは言葉の綾というもので……」
 櫻子の傍により、必死に言い訳をするシグレへ、ミズハが後方を差しながら声を掛ける。
「弁明しないといけない人は、他にもいると思うけど」
 ミズハが社殿の入り口の扉を開け放つ。そこには百代の両親や美輪家の使用人、シグレの社の巫女たちが集まっていた。ミズハが結界を破った時点で社殿の声は外に漏れており、騒ぎを聞いた人々が集まってきいたのだ。
「シグレ様、今の話は本当ですか?」
「美輪家は二百年も、いいように利用されて……?」
「嘘ですよね? 嘘だと言ってくださいシグレ様!」
 父が。母が。使用人たちが。絶望を浮かべながら、口々にシグレへ叫んでいる。
「やめろ……それ以上言うな……!」
 どろり、と。シグレの体から黒い霞が溢れ出した。穢れだ。
 二百年と長く深く関わっていた分、シグレは美輪家の人々に、多くの信仰をもらっていたはずだ。それが今、自身の言葉で不信に転じた。深く信じていただけに、裏切られた時の不信も大きいのだろう。シグレの体はあっという間に、黒い穢れに蝕まれていく。
「くそっ……おい櫻子、早く浄化するのだ!」
 シグレに怒鳴られた櫻子は反射的に傍の棚に置かれていた神楽鈴を手に取るも、二、三度音を鳴らした後に腕を下げ、そのまま床にへたりこんでしまう。
「おい、止めるんじゃない!!」
 シグレが強要しようとも、櫻子は動こうとしなかった。
「このままでは消滅するではないか……!」
 一人叫ぶシグレに、百代は呆れながらため息をついた。
「神は人を守り、信じられてこそ力を得られる。なのに人を都合の良い道具としか見ていなかったなんて。今の状態は人を軽んじたあなたの自業自得よ」
「そうそう。君はそのまま消滅した方が日輪国のためだね」
 頷くミズハに、シグレは怒りに顔を歪ませた。
「あと少しで、私がこの国一の水神になれたのに……!」
 黒霞がシグレの体を飲み込んでいく。そのまま彼は、穢れに飲まれて消えるだろう。その場にいた誰もがそう思った。だが――そう簡単に幕は引かない。
「このまま、終わるか……!」
 黒霞の向こうから低い唸り声が聞こえたかと思うと、突如、霞に飲まれかけていたシグレの体から、黒い渦が発生し始めた。
「なぜ貴様が生きて、私が消滅しなければならない……! どうせ消えるなら、貴様も道連れにしてやる……!」
 黒い渦は激しさを増し、次第に社殿を飲み込んでいく。その光景を、百代はよく知っていた。
「神堕ち……!」
 ミズハが神堕ちになりかけたあの時と、今のシグレの状態は全く同じだった。あの時は百代の呼びかけによりミズハへの信仰が戻ったことで神堕ちになるのを食い止めたが、シグレの巫女である櫻子は彼の告白に絶望している。シグレが人の信仰を取り戻すのは、もはや不可能に近かった。
 シグレの神堕ち化は、避けられない。百代は集まっていた人々に向かって大声で叫ぶ。
「全員、はやく社殿の外へ! 災厄が起こるわ!」
 百代の声で、社殿入り口に集まっていた人々は全員走って逃げていく。
「百代も、早く!」
「ええ!」
 ミズハの声で、百代も入り口へと踵を返す。しかし歩を進める前に、不意に後ろを振り向いた。
 社殿中央には黒い渦。周囲を破壊しながら、次第に大きく成長している。その傍には、櫻子がいまだ座り込んでいた。呆然とした顔で渦に飲まれたシグレを見上げている。
 百代は小さく舌打ちをして、櫻子の元へと走る。
「立ちなさい、櫻子!」
「おねえ、さま……?」
 腕を引いて無理矢理立ち上がらせると、櫻子は虚ろな瞳を向けてきた。信じていたものに裏切られ、何も考えられないのだろう。とはいえ同情には値しないが。
「言っておくけれど、これは私のためだから。あなたと違って、私は例えどんな悪者でも、血の繋がった人間に死なれちゃ寝覚めが悪いの」
 百代はそう告げると、櫻子の腕を引っ張りながら社殿の外へと走った。