「出発前に、社殿まで木刀を持って来てくれる?」
 高天原の会議当日、ミズハは百代にそう告げられた。
 打ち合わせでもするのだろうか。しかしそれなら木刀は必要ないような。
 頭に疑問符を浮かべつつも、百代は準備を整える。クレヒサの店で購入した薄青の着物に藍色の袴を穿いて、鏡の前に立ってみた。鏡の向こうには、水のように清楚な姿をした少女がいる。
 百代は目を瞬かせた。美輪家で与えられていた古着でも、巫女の仕事着である白衣に緋袴でもない。どこかの令嬢と言われても不思議でないような少女が、目の前に立っていた。それが今の自分の姿だとは、あまり思えない。
「前にカガチから馬子にも衣装って言われたけど、その言葉がぴったりね」
 服や衣装を整えれば自分でもらしくなれるのかと、妙に感心してしまった。とはいえ見目がよくなるのはいいことだ。巫女である自分の見た目がよくなれば、それだけミズハの格も高く見えるだろうから。
 髪の毛をまとめて、ミズハからもらったかんざしで止める。かんざしを髪に挿した時、高天原に向かう最後の覚悟が決まった気がした。
 準備を終えた百代は、言われた通りに木刀を持って社殿へ入った。既に社殿へいたミズハは、着替えた百代の姿を見て頬を緩める。
「いい感じだね。かんざしも、よく似合ってる」
「ありがとう。前と比べて褒め言葉がうまくなったわね」
 前にもらった着物や巫女装束を着た時は、もっと素っ気ないことを言われた気がする。
「百代には言えるようになったんだよ」
 ミズハは楽しげに口角を上げた後、「ちょっとごめんね」と百代の頭に手を伸ばしてくる。ミズハの体が近づいて、抱きしめられるような形になり、百代の心臓が跳ね上がった。
 ミズハはしばらく百代の頭を弄ってから、おもむろに体を離す。
「かんざし、曲がっちゃってたから。もう大丈夫」
「そ、そう……助かったわ」
 百代はうるさくなった心臓をなだめながら、恐る恐る顔を上げた。
 ミズハは普段の黒い着流しではなく、朝に立ちこめる霞のような朧花色の着物に、藍色の羽織りを羽織っている。彼の礼装姿は普段の気楽で親しみやすい格好とは違い、気品と威厳に満ちていた。
 なだめたはずの胸が、再びざわつき始める。思えばここ最近、ミズハを見るとやけに気持ちが落ち着かなくなることが多かった。けれどその理由は、知りたいようで知りたくない気もする。
「そういえば、呼ばれたのはなんの用事?」
 余計な感情を振り払い、百代はミズハに問いかけた。彼は「そうそう」と頷き、百代の持つ木刀を指さす。
「その木刀に、僕の力を注いでおこうと思って」
「力を注ぐ……と、どうなるの?」
「一時的に僕の力を帯びた攻撃ができるようになる。まあ、説明するより見た方が早いね」
 ミズハは百代から木刀を受け取ると、その刀身を指でなぞった。一瞬木刀から青い光が溢れ出る。光が収まった後、ミズハは百代に木刀を返した。
「外に向けて振ってみて」
 言われた通り、社殿の入り口から境内に向けて、軽く木刀を振ってみる。すると木刀の切っ先がなぞった軌道から水の刃が出現し、前方へ飛んで行った。
「なにこれ、すごいわ!」
「使いこなせそうでよかった。それがあれば、今まで以上の相手とも渡り合えるはずだよ。効果は一日しか持たないのが難点だけどね」
「十分よ。けど、どうしてこんな力を?」
「高天原は決していい場所じゃないかね」
 ミズハは一転して真剣な表情になる。
「会議中の高天原は色んな神や巫女が集まる。当然君の妹やシグレもいるから、前に都で会った時みたいに争いにならないとも限らない。草田瀬が水不足になった件も、まだ解決していないしね」
「つまり何かあった時のために、対抗できる手段は持っておいた方がいい?」
「その通り。僕もいるし、何も起こらないことを祈ってるけど、万が一を考えてね。だからその木刀は、離さず持っていて」
「わかったわ。常に傍に置いておく」
 木刀を握りしめて頷くと、ミズハは微笑みながら手を差し伸べてきた。
「それじゃあ行こうか。高天原へ」
 百代はミズハの手を取って、社殿裏の池へ飛び込んだ。
 辿り着いたのは高天原の前の庭にある広い池の畔だった。正面には五重の高塔が天へ向かってそびえている。会議が行われるのは、その最上階にある大広間だ。
 着飾った神々が、おのおの自分の巫女を連れ立って塔の入り口へと向かっていく。他の参加者たちの波に乗り、百代とミズハも塔へと入った。入ってすぐの広間の中央には、何十人もの人が乗れそうな昇降機が設置されている。その場にいる参加者全員が上に乗ると、歯車の回る音と共に昇降機が上へと登り始めた。
 昇降機が最上階に到達すると、正面の大きな扉が軋みながらも開かれる。他の参加者たちは、導かれるようにして扉の向こうへ入っていった。
「ここが会議の会場の大広間。準備はいい?」
 隣のミズハが耳打ちをしてくる。百代は腰に差した木刀を握り、強く頷いた。
「もちろんよ。とっくに覚悟はできてるわ」
「さすが百代だ。なら入るよ」
 ミズハは微笑むと、静かな足取りで昇降機を降りた。その横に、百代は並ぶ。
 二人揃って大広間に足を踏み入れた。その瞬間、広間に満ちていたざわめきが消え、その場に集まっていた数百の視線が百代たちに集中する。
「ミズハ様だ。戻られたというのは本当だったんだな……」
「隣は巫女か。だがあの顔……追放されたという美輪の長女では?」
「前に神木通りで騒ぎを起こしていたな。果たしてどういう女なのか……」
 好奇、疑念、困惑。神々の様々な感情が視線と共に百代たちへと集まった。
 額から汗が伝っていく。自分よりも高位の存在に注目されるのは、九度の人生を経ても初めてだった。ミズハの巫女になってから経験のないことばかり起きていて、妙に緊張してしまう。これまで回帰の記憶に沿って過ごしてきた分、新たなことに慣れていないのかもしれない。
 だが、ここで怯むわけにはいかなかった。ミズハの巫女として、堂々とした姿を見せなければ。そう心に念じ、百代は前を見据えて歩んで行く。
 大広間は、数百人は入ろうかというほど広い部屋だった。床には一面に畳が敷かれ、左右の橋は鶴や龍などの動物が描かれた襖で区切られている。広間の奥には御簾が垂れ下がり更に奥の様子を隠していた。
 百代たちが御簾の傍まで歩み出た時、横から聞き覚えのある声がした。
「……お久しぶりですね、ミズハ様」
「ああ、シグレ。二百五十年ぶりだね」
 美輪家が奉る龍神シグレは、扇子で口元を隠しながら薄青の瞳でこちらを見ていた。その横では彼の祝候補である櫻子が、明らかな敵意を百代に向けてきている。
 ミズハはシグレと櫻子を見比べた後、薄く笑った。
「僕がいない間、水神の仕事は順調だったかな? 力のある水神は僕たち二人だけだったから、一人減って随分苦労したんじゃない?」
「いえ、ミズハ様のご心配には及びませんよ」
 シグレもまた、薄い笑みを浮かべている。
 口調は終始穏やかだったが、二人のやりとりにはどこかひりついたものを感じていた。水を司る神同士、百代の知らない因縁があるのかもしれない。
 それにしても、美輪家では神としての威厳を隠さなかったシグレが、ミズハに対しては敬語を使い、表面上は恭しい態度を取っている。クレヒサに続けてシグレよりも格上のミズハは、一体何者なのだろう。
 二人のやりとりを見ながらそんなことを考えていると、シグレが「ところで」と百代の方に視線を移す。
「何故君が、ミズハ様と一緒にいるのかな。百代?」
 穏やかな口調だったが、瞳は笑っていなかった。この神の侮蔑の視線は、櫻子の暴言と同じく何度も浴びて慣れきっている。百代は内心面倒に思いながらも、礼儀は崩さず口を開いた。
「私がミズハ様の巫女になったからです。櫻子から聞いていないのですか?」
「聞いているよ。私が言っているのは、君にミズハ様と立ち並ぶ権利があるのかということだ。巫女の資格も持っていないのに……身分不相応という言葉を知らないのかな」
「いいえ、不相応ではありません。ミズハは今の私を認めてくれていますから。ミズハが求めてくれる限りは、私も巫女としてできる限りを尽くすと誓っています」
「そうそう。僕は百代がいいから頼んだんだよ。こんなに優秀な巫女、日輪国のどこを探しても他にいないだろうね」
 ミズハ目を細めると、シグレを嘲るように笑みを深めた。
「ありがとう、シグレ。君が手放してくれたお陰で、僕は唯一無二の巫女を手に入れられた」
 シグレの目が一瞬つりあがった。
 しかしすぐに穏やかさを取り戻し、扇で自らを仰ぎながら百代を見下す。
「ミズハ様は知らないのですか? そこの女は異能を持たない無能なのです。無能では巫女の資格を得られないどころか、異能を使って我々神を助けられない。そんな能なしが優秀だなんて……さすがに笑ってしまいますよ!」
 シグレの高笑いに、百代はいい加減うんざりしてきた。百代は無能ではなく、「回帰」というれっきとした異能がある。それでも自分一人が揶揄されるだけなら構わないと今まで無能に甘んじてきたが、ミズハまで見下されるのは我慢がならない。
「……シグレ様。この際だから言っておきますが――」
「――彼女は能なしではない」
 百代が口を開きかけた時、御簾の向こうから深く静かな声が響いた。
 場にいた全ての神と巫女が、一斉に正座で並び、頭を伏せる。シグレと櫻子も、百代たちの隣で、緊張した面持ちで頭を垂れていた。
「全員、面を上げよ。そして蛇神ミズハと、その巫女の百代は、前へ」
 注目が集まる中、百代はミズハと共に御簾の傍に寄り、頭を下げる。
 隣でミズハが平伏したまま口を開いた。
「太陽神アマツヒノオオミカミ様。蛇神ミズハヤノオオカミ、御前に参じました」
「二人とも、楽にするがよい」
 言われた通りに頭を上げると、御簾の向こうで影が揺れた。
 太陽を司る神、アマツヒ。高天原の頂点であり、日輪国の全てを統べる神である。強大な力を持ち、日輪国をあらゆる苦難から守っているという。
 加えて彼は祝の巫女を持ち、その巫女の異能であらゆる未来を知ることができる。だからこそアマツヒは、日輪国に恒久の平穏をもたらすとされ、人間たちから多くの信仰を集めていた。
「よくぞ戻ってきてくれたな、ミズハ」
「いえ、全てはアマツヒ様のお力があってのもの。あなた様のご温情に感謝いたします」
 ミズハは終始恭しい態度でアマツヒと話している。さすがに最高神相手では、彼も態度を改めるらしい。
「ところでミズハよ。今日はそなたが神に戻った証として、神籍を与える予定なのだが……何やらそなたの方からも話があるとか?」
「ええ。恐れ多くもアマツヒ様に頼みがありまして」
 ミズハは一度言葉を切り、百代に小さく頷いた。
「ここにいる百代に、正式な巫女の資格をいただきたく。彼女は私が神としての立場を取り戻すために尽力してくれました。将来的には、私の祝の巫女として迎えたい。ですので是非、あなた様から資格を与えてくださいませんか」
 広間が一斉にどよめいた。百代の頭も一気に混乱する。
 この会議で巫女の資格をもらうとは聞いていた。だが祝の巫女の件は初耳だ。それに頼むと言っていた相手も、ミズハの「昔なじみの腐れ縁」の神だったはず。なのにまさか、国の最高神に進言するとは。
「恐れながらアマツヒ様!」
 広間のざわめきを割って、シグレの声が後ろから響いた。
「その女、美輪百代は異能が使えません。巫女の資格を与えるのは、慣例に反するかと」
「お姉様に異能がないのは確かです。美輪家の者として、お姉様が一度も異能を使った場面を見たことがないと証言します」
 続けて櫻子も声を上げる。シグレも櫻子も、百代の価値を落とすためなら無礼な振る舞いなど構わないらしい。
「静かに」
 アマツヒの一声で、ざわめきが瞬時になりを潜めた。
 再び静寂が訪れた広間に、アマツヒの声が響き渡った。
「そこの龍神も美輪の者も勘違いしておるようだが、百代は無能ではない。そのことは我が祝の異能でも確認済みだ。何よりミズハがここにいること自体、彼女が異能を持つ証明。そうであろう、百代よ」
「ええ、その通りです」
 確かにミズハを助けたのは、九回の回帰を行い、自分が生き延びるための行動を取った結果だ。しかしそれを見通しているとは、改めて最高神の力の偉大さを思い知る。
「巫女の役割の本質は、神を信じ、清め、人とのつながりを作り、信仰という力を集めること。人々に排除されていたミズハの穢れを清め、力を取り戻すことに成功した時点で、百代はそれを完璧にこなしておるといえよう。異能の行使は清めの儀式を行う霊力を測るため、試験に取り入れておったが……少し考え直さねばならぬようだな」
 最高神であるアマツヒの言葉に、もはや反論する者は出なかった。
 彼は御簾の向こうで影を揺らすと、穏やかに続けた。
「巫女と認められぬ中で、よくミズハを救ってくれた。これからは正式な巫女として、堂々と彼を助けてくれ」
 たった今、百代は巫女の資格を得て、名実共に正式なミズハの巫女となった。試験を受けた時より一瞬で――合格するより重い責任が肩にのしかかる。
 けれど、それを背負う準備はできていた。
「そのお役目、謹んで賜ります」
 御簾の向こうの影に、百代は深く頭を下げた。
 アマツヒは小さく笑った後に、宣言する。
「では、本日の議題に入ろう」