「そういえば、次の高天原の会議に呼び出されたよ」
 朝食中、ミズハから出たその言葉に、カガチとウズは大歓声を上げた。
「ようやく主さまが、高天原に戻られるのですね!」
「主さま、おめでとう……!」
「こらこら二人とも、食事中だから落ち着いて」
 箸と茶碗を持ったまま飛び跳ねようとする二人をなだめながらも、百代は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
 高天原で行われる会議には、神と呼ばれる存在全員が一同に会する。そこに呼ばれて初めて、正式な神と認められたことになるのだ。
「おめでとう。思ったより早かったわね」
「本当だよ。あの神、まるで僕のことをずっと見てたみたいだ」
 ミズハは小さくため息をついた。「あの神」とはミズハの話に時々出てくる知り合いだろうか。ミズハの気安い態度から、随分と近しい関係なのだろう。
「会議では、巫女の資格の件も一緒に相談するつもり。だから百代にも一緒に来てもらいたいんだけど、大丈夫?」
 神々が集まる会議なら、もちろんシグレも出席するだろう。その隣には当然今の彼の祝候補である、櫻子がいるに違いない。自分を蔑んでいた神と妹に再び会う日が来るとは思わなかったが、けれども百代は恐れなど抱いていなかった。
 彼らの暴言にはとうの昔に慣れきっているし、今では隣にミズハがいてくれる。彼が百代の力を認めて求めてくれているのに、過去になんて負けるはずがない。
 それにミズハを狙う者の件もある。その誰かが会議の時に再びミズハに手を出してこないとも限らない状況で、行かない選択肢はなかった。
 せっかく三ヶ月を超えて生き延びたのだ。このままミズハの巫女として、平穏な人生を手に入れたい。
「もちろん。私も一緒に出席するわ」
「決まりだね。なら今日は、都へ買い物に行こう。さすがに僕も、着流しで行くわけにはいかないし」
 ミズハは自分の黒い着流しを指差し、苦笑いした。
 朝食を早々に終えた後、百代はミズハと社殿の裏で待ち合わせた。外出用の着物に着替え、腰に木刀を差し、言われた場所へ向かうと、ミズハは眉間に皺を寄せる。
「なんで木刀持ってきてるの?」
「だって何かあったら困るでしょう?」
 実際に都から草田瀬に来る際も、山賊に襲われた。今はいなくなっているが、それ以外の何かが出てくる可能性もある。
 ミズハはしばし百代を見つめていたが、やがて諦めたように苦笑いした。
「ま、いいか。百代らしいし」
 ミズハに手招きをされ、百代は池の前に立つ彼の隣にならんだ。池の水は元々緑に濁っていたが、ミズハの力が戻った後は深い青色に変わっている。
「どうして池に来るのよ。都に行くんじゃないの?」
「ここから都に行けるんだよ」
 ミズハはにやりと口角を上げると、百代の手を取った。
「一緒に飛び込んでね」
「飛び込むって、池の中に?」
「うんうん――そぉれ!」
 言われるが早いか、ミズハに手を引かれた百代の体は、池の中へ落ちていく。水面が近づき、咄嗟に目と口を閉じた――が、いつまで経っても水の中に落ちる感覚はない。
 妙だと思い目を開けた百代は、途端に大きく息を呑んだ。
「み、都だわ!?」
 都の中心を流れる大河。その川岸に、百代はミズハと共に立っていた。正面に遠くには神々の会議の主催地である、高天原の高い塔が立っている。都の中心である高天原の位置と、大河の位置から、今いるのは都の西の、商業地区だろう。
 辺りには着物や化粧でめかし込んだ人々が、賑やかに会話しながら歩いている。ほんの少し前まで静かな草田瀬の社にいたのに、夢でも見ているような気分だった。
「便利でしょ? 水があるところなら、どこでもすぐに移動できるんだ」
「すごいわね。ミズハと一緒なら遠いところでも行き放題じゃない」
 力を取り戻したミズハが、こんなことまでできるとは思わなかった。確かにこれなら、木刀はいらなかったかもしれない。素直に感心していると、ミズハは得意げに鼻を鳴らした。
「ふふ、どう? 神様らしい?」
「ええ、とっても。力を取り戻したミズハは頼りになるわね」
「でしょう? だからたくさん頼っていいよ」
「なら、大事な時にはよろしく頼むわ」
 嬉しそうに微笑むミズハと共に、百代は通りを都の中心に向かって歩いて行く。
 辿り着いたのは、高天原の塔にほど近い「神木通り」という商店が建ち並ぶ大通りだ。神木通りは主に神や巫女の為の着物や道具などを売る店が並んでおり、道を行き交うのも神や巫女らしき人物が多い。高天原の会議を控えているせいか、通りは活気に満ちていた。
 歩いていると、ちらちらと視線が集まってくる。神々からは興味や驚愕、巫女たちからは熱の籠もった目が、隣のミズハに向けられていた。
(目を引くものね、うちの神様は)
 神木通りの中でも、真っ白なミズハの姿はひときわ目立つ。加えて二百年ぶりに立場を取り戻した神で、顔は大変に整っているときた。色々な意味で、注目を集める要素は揃っている。けれど、彼らの目線に悪いものは混じっていない。
(よかったわ。色んな人に受け入れられるようになって)
 以前の穢れに染まった黒い姿では、こうもいかなかっただろう。ミズハが他人に受け入れられていると知り、なんだか自分のことのように嬉しくなった。
「ついた、この店だよ」
 ミズハが入ったのは、神木通りの中程にある、黒瓦の屋根の古い大きな商店だった。大きな木の看板には「呉久呉服店」と書かれている。小さな鳥居の形をした門をくぐると、巫女装束姿の女性が二人、百代たちに揃って頭を下げた。この店は神の社も兼ねているらしい。
 百代とミズハは二人の巫女に連れられ店に入る。店内には鮮やかな織物が、ところ狭しと並んでいた。細やかな刺繍が施され、つややかで深みのある色合いの織物は、どれも一目で上質なものだと分かる。美輪家にいた時は呉服店など連れて行かれたこともない百代は、思わずあっけにとられてしまった。
 奥の方から藍色の羽織を着た、物腰の柔らかそうな若い男性が、上品な所作で現れる。ここが社であるならば、彼はこの店の店主であり神なのだろう。
「いらっしゃいませ。今日はなにをお探しで――」
「やあクレヒサ。高天原の会議用の礼装が欲しいんだけど」
「ミ、ミズハ様!? おっ、お久しぶりでございます!」
 クレヒサと呼ばれた神は、信じられないとでも言うように目を剥いた。
「力を取り戻したとは聞いていましたが……本当に、おめでとうございます」
「ありがと。全部この百代が巫女になってくれたお陰だよ」
 ミズハの言葉は間違いではないが、改めて言われるとなんだかむずむずしてしまう。
 なんとなく話題を変えたくて、百代はミズハの着物の裾を引っ張った。
「ところで、この人は知り合いなの?」
「彼は着物の神のクレヒサ。彼の店には昔からお世話になってるんだ。百代の巫女装束や着物も、元々は彼のところから調達したものだよ」
「そうだったの? なら彼がミズハの『昔なじみ』かしら?」
 百代の言葉に、クレヒサが慌てて首を振った。
「いえいえ、そんな滅相もない! 私のような神がミズハ様の昔なじみなど……!」
「もう、クレヒサ。そんなに否定しなくてもいいでしょ? まあ確かに、百代に話してたあいつは別の神だけど」
 恭しく頭を下げるクレヒサの前で、ミズハは飄々と笑っている。その様子を見ていると、二人の関係が気になってしまった。
(ミズハが恐れられているわけではなさそうなのよね)
 クレヒサの反応はどちらかというと、身分が上の者に対する敬意に近い。それも、かなり身分差のある場合のだ。
 神としてのミズハの地位や功績に関する記録は、九度の人生の中で集めた資料には載っていなかった。故に実は、上位の神である可能性も否定はできない。
 後でミズハに聞いてみようかと考えていたところで、クレヒサに声を掛けられた。
「百代様はこちらへどうぞ。礼装を購入されるとのことなので、まずは採寸からさせていただければ」
 クレヒサの合図で、店に案内してくれた二人の巫女が百代の傍にやってきた。採寸へ連れられる前に、クレヒサは百代に頭を下げる。
「改めて、ミズハ様を救ってくださってありがとうございました。あの方の状況は、我々神の中にも心を痛めている者はいましたから」
「そうだったのですね。社には誰も来なかったから、てっきり神全員からも嫌われているのかと思っていました」
「あの方はご自分の弱い姿を、他の神には見られたくはなかったでしょう。それに、いずれにせよ私たち神には、どうすることもできませんから」
 クレヒサは憂いを帯びた顔で微笑んだ。
「神に力を与えられるのは、人の信じる心だけですからね」