頭の中が、真っ黒だった。
 ――憎い。苦しい。消えろ。消えてしまえ。
 穢れに飲み込まれたミズハの心は、呪詛のような言葉で埋め尽くされている。
(結局何をしようと、僕はあいつらにとって邪神のままなんだな)
 どれだけ尽くしても。尽くすために努力しても。
 結局、人間が自分を見る目は変わらない。自分たちが苦しむ責任を邪神と呼んだ自分に押しつけ、排除することで救われた気になる。今も、二百年前も、まったく変わらない。
 しかもあまつさえ、彼らは一方的に守れとまで要求してきた。何も捧げはしないくせに、欲しいものは与えろと言ってくる傲慢な人間。彼らにはもう、疲れてしまった。
 体の内でいつも使うものとは違う、暗い力が爆発する。
 自分はきっと神堕ちになる。このまま思考さえも失って、絶望のままに全てを害する災厄になるだろう。穢れに飲まれて最期を迎えるとは思っていたが、まさか堕ちるとは予想していなかった。
(でも、いいか。全部、どうなっても)
 どれだけの被害が出ようと、もう構わない。人間のように傲慢な生き物など、全て消えてしまえばいいのだ。
 ミズハはたゆたう思考を穢れに委ね、最後の意識を手放しかける。
 しかし。黒く染まった心の中に、一つの声が響いてきた。
「一方的に守れと言うんじゃなくて、少しは信じて祈ってみなさいよ!」
(――百代だ)
 ミズハの意識が浮上する。
 たった一人。邪神と呼ばれ続けていた自分を、一心に、一点の曇りもなく思いを捧げ続けてくれた巫女が、人間たちと戦っている。今もなお、ミズハが神の立場を取り戻すと信じて。
 百代の言葉に続いて、人間たちの信仰が集まってくるのを感じた。
 一つ、二つ、三つ――信仰は止まることなく集まり続ける。一つ体に入る度、穢れの束縛が弱まった。
 体が次第に軽くなる。奥底から力が溢れてくる。多くの信仰で満たされていく感覚は、実に二百年ぶりだった。
 神楽鈴の、美しい音色が響いてくる。
 この三ヶ月間、幾度も自分の苦しみを和らげてくれた鈴の音が、残った穢れを浄化していった。薄目を開けると、神楽鈴を手にした百代がミズハをまっすぐ見つめている。
「次は、あなたの番よ」
 豪雨の中、凜と佇む彼女は、強く美しい。唇に乗せた笑みは、ミズハの心へ光を与えてくれた。
(僕の番、か)
 正直、人間を助けたい気持ちはほとんど残っていない。百代のお陰で再び生まれかけていた神としての役割を果たすという希望も、先ほどの罵倒で崩れ去ってしまっていた。
 それでも、百代が信じてくれるなら。
 百代が神である自分を望んでくれるなら。
 ただ一人――彼女の為だけに神に戻ろう。
 湧き上がる力に身を委ね、ミズハは片手を天に掲げた。

   ***

 地上から伸びる光の柱が、雲を貫き、空を開いた。
 豪雨はやがて小雨になり、灰色の雲の切れ間から、陽光が地上に降り注ぐ。
 溢れかけていた濁流は次第に穏やかさを取り戻し、せせらぎの音を奏で始めた。
 水滴が日の光にきらめく中、真っ白な神が天から舞い降りる。
 神は一心に信じて祈り続けた巫女の手を取った。
「これが、僕の答えだよ」
 陽光に照らされる純白の長髪に、燃えるような紅の瞳。
 慈しむような微笑を浮かべた神々しい姿に、人々はみな地面にひざをつき、巫女は目を見張ったのだった。

   ***