雨の勢いは、日に日に増していった。
その日は朝から豪雨となり、激しい雨音が屋根を打ち付けていた。さすがに家から出られず、百代は朝食を終えた後、茶の間で静かに茶を啜っている。
隣に目を向けると、ミズハが壁にもたれかかって目を閉じていた。その横ではウズとカガチが、互いに頭を預けて安らかな寝息を立てている。
百代は湯飲みを置き、そっとミズハの傍に寄る。長い黒髪を避けると、一層青白くなった顔が露わになった。その瞼は、百代が触れても固く閉じられたまま動かない。
ここのところ、三人は眠っている時間が増えてきた。しかし数日前までは触れると目を覚ましていたのに、今では起きる気配がない。確実に近づいているミズハの終わりを予感して、百代は心臓が握りつぶされる心地がした。
沈黙の中、雨音だけがごうごうと鳴っている。
日輪国では本来、これほどの豪雨は滅多になかった。少しでも異常気象が起こると、神々がそれを操り鎮めてしまうからだ。けれど草田瀬でその役割を担うはずのミズハは、力を失っていて止めることができないでいる。
都付近の村でこれだけ雨が続けば、流石に都でも話題にのぼる。しかし前回までの人生では、草田瀬で長雨が降った話は一度も聞いていない。水不足を解消し草田瀬の運命を変えたことで、前回までで起こらなかったことが起こっているのだろう。故に長雨の原因を探ろうにも、百代にはとっかかりさえ分からない。
百代は己の無力さに唇を噛む。
雨が止まないのも、ミズハが眠り続けているのも。すべて自分の力不足のせいだった。
そのとき、外から雨音とは異なる音が聞こえた。
濡れた地面を踏みならす音。怒りを孕んだざわめき声。
嫌な想像が頭をよぎった。寝室の壁に立てかけていた木刀を手に取り、腰に差す。どうか予想が外れますようにと祈りながら、百代は玄関から飛び出した。
外は桶をひっくり返したような土砂降りだった。雨で白んだ視界の向こうに、大勢の人影が見える。彼らの正体に気づいた時、百代の全身の血が引いていった。
「ああ、そんな……」
鳥居をくぐり、境内へ踏み入ったのは、どれだけ百代が促しても社に来ようとしなかった村人たちだった。ただし全員が鍬や鋤などの農具を携え、顔には怒りの表情を浮かべていた。どう見ても、神に祈りに来た様子ではない。
村人たちは社殿の前に立つ百代を見つけ、傍まで近寄ってくる。
一人の村人が、百代の前へ歩み出てきた。数日前に畑で話した男だった。彼は百代を見て一瞬視線を迷わせた後に、口を開く。
「……百代ちゃん、邪神はどこにいる?」
「ここにいるのは邪神じゃなくてミズハよ。訂正しなさい」
百代が男をにらみつけた時、家の扉ががらりと開く。
「百代? どうしたの」
騒ぎに目を覚ましたのか、ミズハが境内に現れた。
その姿を見た村人たちの目の色が、一斉に変わる。
「そっ、その黒い奴が邪神だ!」
「とっ捕まえろ! やっちまえ!」
「神だからって恐れるな! じゃねぇと、こっちが死んじまう!」
村人たちは口々にそう言いながら、ミズハへ飛びかかっていく。
「やめなさい!」
百代はなんとか村人たちよりも先にミズハの元へ駆けつけると、彼の腕を引いて自分の後ろへ隠した。
「ミズハ、少しずつ境内の方へ」
片手ですらりと木刀を抜くと、村人たちと睨み合う。ミズハを守りじりじりと境内の方へ後退しながら、百代は村人たちに叫んだ。
「急に襲うなんてひどいじゃない。どうしてこんなことをしているのかしら」
「この雨はそいつのせいなんだろ。お陰で川は氾濫寸前だ、このままじゃ俺たちの村は流される!」
「川が氾濫……!?」
百代は木刀を構えたまま、視線を横に向ける。社殿横の木の間から、魚釣りをしている川がちらりと見えた。激しく流れる水は土砂が混じって茶色く濁り、水量は増えて今にも川の縁を越えそうだった。
草田瀬には川が二本ある。きっともう一本の川も、似たような状況だろう。二つの川が同時に氾濫すれば、草田瀬の被害は計り知れない。
村人たちは今、自分の居場所と命が脅かされているのだ。でも、だからと言って。
「ミズハはなにもしていないわ!」
「だがこんな大雨聞いたことねぇ。邪神がやったとしか思えねぇだろ」
一人の叫びに、他の村人が「そうだ、そうだ」と農具を振り上げ賛同する。
百代は必死に首を振った。
「違う! そもそもミズハは、何かができる力も残っていないのよ」
「それも嘘かもしれねぇ。百代ちゃんも騙されてるんじゃねえの?」
「そんな訳ないでしょう。私はちゃんとミズハの事を知った上で信じているのだから。あなたたちだって、ミズハが水不足を解決したのを知ってるでしょう?」
百代がにらみつけると、村人たちがせせらわらう。
「あれも自作自演だったんじゃねぇの? 俺たちを騙すためにわざと解決したんだろ」
「ほんとはずっと怪しいと思ってたんだよな。信じきらなくて正解だったぜ」
「っ、あなたたち……!」
なにを言っても無駄だった。彼らはもう、ミズハがこの雨の原因だと決めつけてしまっている。百代は目を険しくしながら、木刀を握る手に力を込めた。
「この三ヶ月、あなたたちと仲良くなれたと思っていたわ。少しは信じてくれてた時もあったと思ってたんだけど、違った?」
村人たちは百代の言葉に一瞬うろたえた。集まっている村人たちの中には、百代と関わりを持った者も多くいる。彼らもこの三ヶ月の全てを、なかったものと考えているわけではないのだろう。しかし。
「けど……俺たちはそいつを恨む以外、どうしていいのかわからねぇんだよ」
「でなきゃ、このまま死んじまうんだ。まだ俺は死にたくねぇ……!」
恐怖。混乱。怒り。
それらが村人たちの間に蔓延していく。村人の、誰かが叫んだ。
「そいつが邪神じゃないっていうなら、今すぐこの雨を止めてみろよ!」
百代の背後を――ミズハを指さし、声を上げる。続けて他の者も口を開いた。
――止めてみろ。
――邪神じゃないなら。
――神の力を見せてみろ。
村人たちは口々にミズハへ言葉をぶつける。それは祈りではなく、呪いだった。
どうにかしろと言われても、ミズハになにかできるわけがない。他でもない村人たちに信じられていないせいで、ミズハは力を失っているのだから。
なのに村人たちの混乱と不理解が産んだ言葉をぶつけられたミズハが、どんな思いをするかは想像に難くない。興奮状態の村人たちへ、百代はあらんかぎりの声を上げる。
「ちょっと、落ち着いて――」
突如、周囲の温度が急激に下がった。ぞわりと背筋が粟立ち、本能的な恐怖を感じる。村人たちも異変を感じ取ったらしく、ぴたりと罵倒が止んだ。
雨音だけが響く静寂の中、百代の背後から笑い声が聞こえてきた。
「ふふふふっ、あはははは……っ! そうだった、君たちはそういう生き物だよ」
「ミズハ……?」
振り向くと、ミズハが頭を押さえ、くつくつと喉を鳴らして笑っていた。
「いい加減うんざりだ。せっかく穏やかに消滅できると思ってたのに台無しだよ」
体にまとわりついた黒霞――穢れは一層濃くなり、ミズハの姿を飲み込む寸前だった。虚ろな紅の瞳は百代の姿を映していない。絶望を浮かべて村人たちを眺めている。
「もうさ、君たち全員、いなくなってしまえばいいのに」
ミズハの体が、穢れに完全に包まれた。黒い霞が渦を巻き、周囲に広がっていく。ざ同時に雨風が激しさを増した。天では唸るような雷鳴が轟き、空を裂いて地に落ちた。
今と似た光景を、百代はよく知っている。
暴風。豪雨。洪水。落雷。
巡る人生の中で幾度も経験し、幾度も渦中に巻き込まれて命を落とした災厄。
その始まりが、いま目の前で起こっている。
ミズハが――神堕ちになろうとしているのだ。
「やっぱり、そいつが邪神なんじゃないか」
村人の、誰かが言った。
瞬間、百代の中で何かが弾ける。
「いい加減にしなさい!」
叫んだ勢いで、木刀を地面に取り落とした。かぁん、と高い音が雨音を裂いて境内に響く。驚いた村人たちは、一歩後ろに引き下がった。
けれど百代は構わず前に出る。心の中にあったのは、災厄への恐怖でも、死への絶望でもなく――村人たちへの怒りだった。
「怖いのも、混乱するのも、他人を簡単に信じられないのもわかるわ。でも少しは、人の話を聞きなさい」
ミズハはなにもしていない。今回も、二百年前も、そして恐らく、百代が巡ってきた九度の人生でも。人間の偏見と不理解で、理不尽に虐げられ、邪神に仕立て上げられてきただけだ。そうして絶望の中、神堕ちに変貌したのだろう。
その目でミズハが悪だと確かめもしていないのに、恐怖に負けて勝手に悪者を決めつける、人間の弱さがひどく情けない。ミズハが神堕ちとして起こした災厄は、人間の自業自得のようなものだった。
それでも、このままミズハがミズハでなくなってしまうのは嫌だった。九度も繰り返してきた人生の中で、初めて自分を気遣い心配してくれた優しい神を、邪神のまま世に語り継がせたくない。
「今のあなたたちは、ミズハを本気で信じてみようともしていないでしょう。なのに助けてと言われて、ミズハが何かできると思う?」
彼らが直面した事実だけを考えれば、ミズハに疑いが向くのも理解不能ではない。けれど日輪国の神は、人から力を得なければなにもできないのだ。守ってもらいたいのなら、信じて祈る必要がある。日輪国に生まれた人間なら、子どもでも知る常識だ。
「この国の人間なら、神に願い事をするときはどうすればいいのかくらいわかっているわよね。だったら一方的に守れと言うんじゃなくて、少しは信じて祈ってみなさいよ!」
百代の叫びに村人たちは慄いた。迷いや困惑を浮かべながら、互いに顔を見合わせている。しかし祈ろうとする者は一人もいない。
やはり、駄目なのだろうか。
俯きかけたそのとき、小さな足音が百代の元へ近づいてくる。
「巫女のお姉ちゃん!」
「隼人くん!? ここにいたら危ないわ!」
百代は隼人を家の方へ連れて行こうとするも、彼は首を横に振る。
「僕、お願いしに来たんだ。川のお水が溢れて大変だから、神様のお兄ちゃんに助けてくださいって。お祈りしたら、叶えてくれるんだよね?」
「隼人くん……」
「ねえお願い、神様のお兄ちゃん。村を助けて……!」
必死に頭を下げる隼人の体から、白い光が生まれて真っ黒に染まったミズハの体に入っていく。一瞬、ミズハの周りの穢れの渦が、弱まった気がした。
続けて二つの足音が、忙しなく近づいてくる。
「隼人、やっぱりここにいたのか!」
「危ないから家から出ちゃ駄目でしょう!」
恭平ととよは隼人の元へ駆け寄ると、彼の体を屈んで支える。
「お父さん、お母さんも。一緒に神様のお兄ちゃんにお願いして」
「ミズハ様に……?」
恭平ととよは緊迫した顔の百代と穢れに飲まれかけているミズハ、そして戸惑う村人たちを見て、何かを察したようだった。
とよは百代の傍にやってきて、そっとその手を握りしめる。
「とよさん……」
「大丈夫ですよ、百代さん。私、言ったでしょう? ミズハ様を信じると。隼人も、夫も……他の方がどうであろうと、私たち家族は、あなたとミズハ様を信じていますから」
とよは目を閉じ、己の胸に手を当てる。そこから現れたのは、隼人よりもほんの少しだけ大きな白い光。恭平から生まれた光と交差しながら、ミズハの体に入っていく。穢れの渦が勢いを失い、ミズハの指がぴくりと動いた。
村人たちは、三人の祈りと渦の変化をしばらくじっと見つめていた。
不意に、一番前にいた男が頭を下げた。
それを皮切りに、一人、また一人と、村人たちが静かに祈りを捧げていく。たくさんの白い光が重なり、混ざり、合わさって、ミズハの元へと集まった。遠い昔に失われていた信仰が――彼の元へと還っていく。けれどその光に抗うように、穢れはいまだミズハの周りで渦を巻き続けていた。
その穢れを祓い、彼を真に解放するのは――巫女である、自分の役目だ。
百代は社殿の中へと走り、箱に収められていた神楽鈴を持ち出す。そして百代は村人たちの前に立ち、ミズハと正面から向き合った。
雨音をかき消すように、高らかに鈴の音が響く。
凜と力強い清めの音色は、豪雨の中でも確かにミズハの元へ届いた。
千代に八千代に、ミズハが健やかでいられるように。彼の苦しみが、取り払われるように。祈りと共に鳴り響く鈴は、ミズハの穢れを次第に浄化していく。
最後の鈴を響かせて、全ての穢れを祓った百代は、光の中のミズハを見上げた。
「次は、あなたの番よ」
舞台は整えた。後は、彼の選択だ。
***
その日は朝から豪雨となり、激しい雨音が屋根を打ち付けていた。さすがに家から出られず、百代は朝食を終えた後、茶の間で静かに茶を啜っている。
隣に目を向けると、ミズハが壁にもたれかかって目を閉じていた。その横ではウズとカガチが、互いに頭を預けて安らかな寝息を立てている。
百代は湯飲みを置き、そっとミズハの傍に寄る。長い黒髪を避けると、一層青白くなった顔が露わになった。その瞼は、百代が触れても固く閉じられたまま動かない。
ここのところ、三人は眠っている時間が増えてきた。しかし数日前までは触れると目を覚ましていたのに、今では起きる気配がない。確実に近づいているミズハの終わりを予感して、百代は心臓が握りつぶされる心地がした。
沈黙の中、雨音だけがごうごうと鳴っている。
日輪国では本来、これほどの豪雨は滅多になかった。少しでも異常気象が起こると、神々がそれを操り鎮めてしまうからだ。けれど草田瀬でその役割を担うはずのミズハは、力を失っていて止めることができないでいる。
都付近の村でこれだけ雨が続けば、流石に都でも話題にのぼる。しかし前回までの人生では、草田瀬で長雨が降った話は一度も聞いていない。水不足を解消し草田瀬の運命を変えたことで、前回までで起こらなかったことが起こっているのだろう。故に長雨の原因を探ろうにも、百代にはとっかかりさえ分からない。
百代は己の無力さに唇を噛む。
雨が止まないのも、ミズハが眠り続けているのも。すべて自分の力不足のせいだった。
そのとき、外から雨音とは異なる音が聞こえた。
濡れた地面を踏みならす音。怒りを孕んだざわめき声。
嫌な想像が頭をよぎった。寝室の壁に立てかけていた木刀を手に取り、腰に差す。どうか予想が外れますようにと祈りながら、百代は玄関から飛び出した。
外は桶をひっくり返したような土砂降りだった。雨で白んだ視界の向こうに、大勢の人影が見える。彼らの正体に気づいた時、百代の全身の血が引いていった。
「ああ、そんな……」
鳥居をくぐり、境内へ踏み入ったのは、どれだけ百代が促しても社に来ようとしなかった村人たちだった。ただし全員が鍬や鋤などの農具を携え、顔には怒りの表情を浮かべていた。どう見ても、神に祈りに来た様子ではない。
村人たちは社殿の前に立つ百代を見つけ、傍まで近寄ってくる。
一人の村人が、百代の前へ歩み出てきた。数日前に畑で話した男だった。彼は百代を見て一瞬視線を迷わせた後に、口を開く。
「……百代ちゃん、邪神はどこにいる?」
「ここにいるのは邪神じゃなくてミズハよ。訂正しなさい」
百代が男をにらみつけた時、家の扉ががらりと開く。
「百代? どうしたの」
騒ぎに目を覚ましたのか、ミズハが境内に現れた。
その姿を見た村人たちの目の色が、一斉に変わる。
「そっ、その黒い奴が邪神だ!」
「とっ捕まえろ! やっちまえ!」
「神だからって恐れるな! じゃねぇと、こっちが死んじまう!」
村人たちは口々にそう言いながら、ミズハへ飛びかかっていく。
「やめなさい!」
百代はなんとか村人たちよりも先にミズハの元へ駆けつけると、彼の腕を引いて自分の後ろへ隠した。
「ミズハ、少しずつ境内の方へ」
片手ですらりと木刀を抜くと、村人たちと睨み合う。ミズハを守りじりじりと境内の方へ後退しながら、百代は村人たちに叫んだ。
「急に襲うなんてひどいじゃない。どうしてこんなことをしているのかしら」
「この雨はそいつのせいなんだろ。お陰で川は氾濫寸前だ、このままじゃ俺たちの村は流される!」
「川が氾濫……!?」
百代は木刀を構えたまま、視線を横に向ける。社殿横の木の間から、魚釣りをしている川がちらりと見えた。激しく流れる水は土砂が混じって茶色く濁り、水量は増えて今にも川の縁を越えそうだった。
草田瀬には川が二本ある。きっともう一本の川も、似たような状況だろう。二つの川が同時に氾濫すれば、草田瀬の被害は計り知れない。
村人たちは今、自分の居場所と命が脅かされているのだ。でも、だからと言って。
「ミズハはなにもしていないわ!」
「だがこんな大雨聞いたことねぇ。邪神がやったとしか思えねぇだろ」
一人の叫びに、他の村人が「そうだ、そうだ」と農具を振り上げ賛同する。
百代は必死に首を振った。
「違う! そもそもミズハは、何かができる力も残っていないのよ」
「それも嘘かもしれねぇ。百代ちゃんも騙されてるんじゃねえの?」
「そんな訳ないでしょう。私はちゃんとミズハの事を知った上で信じているのだから。あなたたちだって、ミズハが水不足を解決したのを知ってるでしょう?」
百代がにらみつけると、村人たちがせせらわらう。
「あれも自作自演だったんじゃねぇの? 俺たちを騙すためにわざと解決したんだろ」
「ほんとはずっと怪しいと思ってたんだよな。信じきらなくて正解だったぜ」
「っ、あなたたち……!」
なにを言っても無駄だった。彼らはもう、ミズハがこの雨の原因だと決めつけてしまっている。百代は目を険しくしながら、木刀を握る手に力を込めた。
「この三ヶ月、あなたたちと仲良くなれたと思っていたわ。少しは信じてくれてた時もあったと思ってたんだけど、違った?」
村人たちは百代の言葉に一瞬うろたえた。集まっている村人たちの中には、百代と関わりを持った者も多くいる。彼らもこの三ヶ月の全てを、なかったものと考えているわけではないのだろう。しかし。
「けど……俺たちはそいつを恨む以外、どうしていいのかわからねぇんだよ」
「でなきゃ、このまま死んじまうんだ。まだ俺は死にたくねぇ……!」
恐怖。混乱。怒り。
それらが村人たちの間に蔓延していく。村人の、誰かが叫んだ。
「そいつが邪神じゃないっていうなら、今すぐこの雨を止めてみろよ!」
百代の背後を――ミズハを指さし、声を上げる。続けて他の者も口を開いた。
――止めてみろ。
――邪神じゃないなら。
――神の力を見せてみろ。
村人たちは口々にミズハへ言葉をぶつける。それは祈りではなく、呪いだった。
どうにかしろと言われても、ミズハになにかできるわけがない。他でもない村人たちに信じられていないせいで、ミズハは力を失っているのだから。
なのに村人たちの混乱と不理解が産んだ言葉をぶつけられたミズハが、どんな思いをするかは想像に難くない。興奮状態の村人たちへ、百代はあらんかぎりの声を上げる。
「ちょっと、落ち着いて――」
突如、周囲の温度が急激に下がった。ぞわりと背筋が粟立ち、本能的な恐怖を感じる。村人たちも異変を感じ取ったらしく、ぴたりと罵倒が止んだ。
雨音だけが響く静寂の中、百代の背後から笑い声が聞こえてきた。
「ふふふふっ、あはははは……っ! そうだった、君たちはそういう生き物だよ」
「ミズハ……?」
振り向くと、ミズハが頭を押さえ、くつくつと喉を鳴らして笑っていた。
「いい加減うんざりだ。せっかく穏やかに消滅できると思ってたのに台無しだよ」
体にまとわりついた黒霞――穢れは一層濃くなり、ミズハの姿を飲み込む寸前だった。虚ろな紅の瞳は百代の姿を映していない。絶望を浮かべて村人たちを眺めている。
「もうさ、君たち全員、いなくなってしまえばいいのに」
ミズハの体が、穢れに完全に包まれた。黒い霞が渦を巻き、周囲に広がっていく。ざ同時に雨風が激しさを増した。天では唸るような雷鳴が轟き、空を裂いて地に落ちた。
今と似た光景を、百代はよく知っている。
暴風。豪雨。洪水。落雷。
巡る人生の中で幾度も経験し、幾度も渦中に巻き込まれて命を落とした災厄。
その始まりが、いま目の前で起こっている。
ミズハが――神堕ちになろうとしているのだ。
「やっぱり、そいつが邪神なんじゃないか」
村人の、誰かが言った。
瞬間、百代の中で何かが弾ける。
「いい加減にしなさい!」
叫んだ勢いで、木刀を地面に取り落とした。かぁん、と高い音が雨音を裂いて境内に響く。驚いた村人たちは、一歩後ろに引き下がった。
けれど百代は構わず前に出る。心の中にあったのは、災厄への恐怖でも、死への絶望でもなく――村人たちへの怒りだった。
「怖いのも、混乱するのも、他人を簡単に信じられないのもわかるわ。でも少しは、人の話を聞きなさい」
ミズハはなにもしていない。今回も、二百年前も、そして恐らく、百代が巡ってきた九度の人生でも。人間の偏見と不理解で、理不尽に虐げられ、邪神に仕立て上げられてきただけだ。そうして絶望の中、神堕ちに変貌したのだろう。
その目でミズハが悪だと確かめもしていないのに、恐怖に負けて勝手に悪者を決めつける、人間の弱さがひどく情けない。ミズハが神堕ちとして起こした災厄は、人間の自業自得のようなものだった。
それでも、このままミズハがミズハでなくなってしまうのは嫌だった。九度も繰り返してきた人生の中で、初めて自分を気遣い心配してくれた優しい神を、邪神のまま世に語り継がせたくない。
「今のあなたたちは、ミズハを本気で信じてみようともしていないでしょう。なのに助けてと言われて、ミズハが何かできると思う?」
彼らが直面した事実だけを考えれば、ミズハに疑いが向くのも理解不能ではない。けれど日輪国の神は、人から力を得なければなにもできないのだ。守ってもらいたいのなら、信じて祈る必要がある。日輪国に生まれた人間なら、子どもでも知る常識だ。
「この国の人間なら、神に願い事をするときはどうすればいいのかくらいわかっているわよね。だったら一方的に守れと言うんじゃなくて、少しは信じて祈ってみなさいよ!」
百代の叫びに村人たちは慄いた。迷いや困惑を浮かべながら、互いに顔を見合わせている。しかし祈ろうとする者は一人もいない。
やはり、駄目なのだろうか。
俯きかけたそのとき、小さな足音が百代の元へ近づいてくる。
「巫女のお姉ちゃん!」
「隼人くん!? ここにいたら危ないわ!」
百代は隼人を家の方へ連れて行こうとするも、彼は首を横に振る。
「僕、お願いしに来たんだ。川のお水が溢れて大変だから、神様のお兄ちゃんに助けてくださいって。お祈りしたら、叶えてくれるんだよね?」
「隼人くん……」
「ねえお願い、神様のお兄ちゃん。村を助けて……!」
必死に頭を下げる隼人の体から、白い光が生まれて真っ黒に染まったミズハの体に入っていく。一瞬、ミズハの周りの穢れの渦が、弱まった気がした。
続けて二つの足音が、忙しなく近づいてくる。
「隼人、やっぱりここにいたのか!」
「危ないから家から出ちゃ駄目でしょう!」
恭平ととよは隼人の元へ駆け寄ると、彼の体を屈んで支える。
「お父さん、お母さんも。一緒に神様のお兄ちゃんにお願いして」
「ミズハ様に……?」
恭平ととよは緊迫した顔の百代と穢れに飲まれかけているミズハ、そして戸惑う村人たちを見て、何かを察したようだった。
とよは百代の傍にやってきて、そっとその手を握りしめる。
「とよさん……」
「大丈夫ですよ、百代さん。私、言ったでしょう? ミズハ様を信じると。隼人も、夫も……他の方がどうであろうと、私たち家族は、あなたとミズハ様を信じていますから」
とよは目を閉じ、己の胸に手を当てる。そこから現れたのは、隼人よりもほんの少しだけ大きな白い光。恭平から生まれた光と交差しながら、ミズハの体に入っていく。穢れの渦が勢いを失い、ミズハの指がぴくりと動いた。
村人たちは、三人の祈りと渦の変化をしばらくじっと見つめていた。
不意に、一番前にいた男が頭を下げた。
それを皮切りに、一人、また一人と、村人たちが静かに祈りを捧げていく。たくさんの白い光が重なり、混ざり、合わさって、ミズハの元へと集まった。遠い昔に失われていた信仰が――彼の元へと還っていく。けれどその光に抗うように、穢れはいまだミズハの周りで渦を巻き続けていた。
その穢れを祓い、彼を真に解放するのは――巫女である、自分の役目だ。
百代は社殿の中へと走り、箱に収められていた神楽鈴を持ち出す。そして百代は村人たちの前に立ち、ミズハと正面から向き合った。
雨音をかき消すように、高らかに鈴の音が響く。
凜と力強い清めの音色は、豪雨の中でも確かにミズハの元へ届いた。
千代に八千代に、ミズハが健やかでいられるように。彼の苦しみが、取り払われるように。祈りと共に鳴り響く鈴は、ミズハの穢れを次第に浄化していく。
最後の鈴を響かせて、全ての穢れを祓った百代は、光の中のミズハを見上げた。
「次は、あなたの番よ」
舞台は整えた。後は、彼の選択だ。
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