しとしとと天から静かに滴が落ちてくる。ここ十数日、草田瀬の空は厚い灰色の雲に覆われたままだ。雨期は終わったはずなのに、雨が降り止む気配はない。
百代は薄桃色の和傘を携えて、草田瀬の景色を眺めながら歩いて行く。畑では村人たちが農作業に精を出していた。彼らの顔は皆一様にして暗い。
心苦しさを感じながらも、畑に近づきいつものように、作業中の村人へ声をかけた。
「調子はどう?」
「ああ、百代ちゃんか」
傍にいた若い男が、土いじりをやめて立ち上がる。畑を見渡した後、ため息をついた。
「まあ、今のところは大丈夫そうだが……このまま雨が続くと作物に影響が出ちまうな」
「そうね。早く降り止めばいいんだけど。もしなにかできそうなことがあれば言ってちょうだい」
百代の提案に、若い男は躊躇いがちに口を開いた。
「なら、この雨を止めるってのは……?」
「それは私じゃなくて、社に来てうちの神様に頼んでくれると嬉しいわ」
「ああ……そうだよな」
神という言葉を出すと、あからさまに男の目が泳いだ。最近再び返されるようになった反応に百代は奥歯をかみしめる。それでも笑みは崩してはならない。余計な感情を見せれば、悪化してしまうのは目に見えている。
「大丈夫よ。もし来てくれたら、私がちゃんと取り次ぐから」
「そ、そうだな。まあ、考えとくよ」
男は屈んで土いじりに戻りかけて、もう一度顔を上げる。そこには不安が浮かんでいた。
「なあ、百代ちゃん……この雨、あんたのところの神の仕業じゃないよな?」
「違うわよ。何度も言っているでしょう。ミズハは草田瀬のことを守りたいと願ってる、優しい神よ」
百代が言い返すと、男は「だよな」とぎこちなく笑いながら、今度こそ土いじりに戻っていった。
百代は和傘で顔を隠しながらその場を離れ、一人小さくため息をつく。
「なんで雨が止まないんだ」
「やっぱりあの神のせいじゃないか?」
「でも百代ちゃんは俺たちによくしてくれてるしな」
雨が降り始めてから、そんな噂が村で囁かれるようになった。
百代も直接聞く度にミズハは邪神ではないと説明しているものの、今のところあまり効果はない。なにも気にせず接してくれるのは、隼人、とよ、恭平の三人だけだった。
二百年間、邪神と呼んでいたミズハのことをなかなか信じられない気持ちもわかる。だからこそ、これまではゆっくりでいいと思っていたのだが、今はそうも言っていられない。
約束の三ヶ月が、もう目前に迫っているのだ。
鳥居をくぐり、社に戻った百代は、社殿の石畳へ腰掛けた。社殿の屋根の端からは、ぽたぽた雨水が落ちてきている。急に悔しさとやるせなさが押し寄せてきて、百代はすぐ横の柱へ体を預けた。
しゅる、と隣で何かが這う音がした。目だけを横に動かすと、黒と白の斑模様のいつかの蛇が、首を起こして百代をじっと見つめている。
「あら、あなた。久しぶりね」
百代は柱から体を離して蛇と向き合った。
「あなた、ミズハの眷属なの? 前から聞きたかったのよね」
蛇は答えず、百代をじっと見つめたままでいる。答える気はないらしい。
「そう、まあいいわ。あなたが眷属だろうとなかろうと、私の話し相手になってくれているのは変わらないものね」
蛇はちろりと小さく舌を出す。蛇の体は以前より、黒い模様が濃くなっている気がした。
ミズハにそっくりだ、と百代は思う。
彼の体は今、濃い穢れに蝕まれていた。
村人の態度が軟化により一時的にはよくなっていたミズハだが、雨が降り始めてからは再び穢れが溜まり始めた。もちろん百代も努力はしたものの、儀式で清めるよりも、穢れが溜まる速度の方が早く、既にいつ穢れに飲まれてしもおかしくない状態になっていた。
彼が穢れに飲まれれば、災厄が起こる。百代は巻き込まれて死んでしまう。けれど自分が死ぬことより、ミズハが災厄になってしまう方が怖かった。
ミズハはこの状況になっても、巫女の百代を責めなかった。
「君の努力は知ってるから、気にしないで」
何度謝っても、彼はそう言って微笑んでいる。濃い黒霞を体に纏い、以前は見せなかった柔らかい表情を浮かべる姿は、百代の目に痛々しく映った。
初めは生き残るためにミズハの立場を取り戻そうとしていたのに、今では彼自身を助けたいと思っている。不器用で人嫌いだが、それでも情を分け与えられる優しい彼を、多くの人を傷つける災厄にはしたくなかった。
「でもまだ、時間はあるわよね」
そっと手を伸ばし、蛇の頭に指で触れる。蛇は大人しく、頭を撫でさせてくれた。ひんやりとした体とうろこの感触に、何故だか百代は安堵を覚える。
「うん、最後まで頑張らないと。まだできることはあるはずだもの」
――頼りにしている。
そうミズハは言ってくれた。ならばその言葉に報いることができるよう、自分ができることをやるしかない。
がらりと家の方で扉が開き、カガチがあくびをしながら外へ出てきた。百代の姿を見つけると、眠そうに目を擦りながら近づいてくる。
「帰ってたのか。新しい食材、主さまが炊事場に置いていたぞ」
「そう、なら夕飯の準備をしなくちゃね」
百代は和傘を開き、蛇に手を振ってから、家の方へ戻っていった。
降り注ぐ雨は、ぱたぱたと傘を鳴らしている。
百代は灰色に染まりきった天を睨んだ。
「お願いだから、止みなさいよ……」
神に願うでもなく、呟いた。
***
百代は薄桃色の和傘を携えて、草田瀬の景色を眺めながら歩いて行く。畑では村人たちが農作業に精を出していた。彼らの顔は皆一様にして暗い。
心苦しさを感じながらも、畑に近づきいつものように、作業中の村人へ声をかけた。
「調子はどう?」
「ああ、百代ちゃんか」
傍にいた若い男が、土いじりをやめて立ち上がる。畑を見渡した後、ため息をついた。
「まあ、今のところは大丈夫そうだが……このまま雨が続くと作物に影響が出ちまうな」
「そうね。早く降り止めばいいんだけど。もしなにかできそうなことがあれば言ってちょうだい」
百代の提案に、若い男は躊躇いがちに口を開いた。
「なら、この雨を止めるってのは……?」
「それは私じゃなくて、社に来てうちの神様に頼んでくれると嬉しいわ」
「ああ……そうだよな」
神という言葉を出すと、あからさまに男の目が泳いだ。最近再び返されるようになった反応に百代は奥歯をかみしめる。それでも笑みは崩してはならない。余計な感情を見せれば、悪化してしまうのは目に見えている。
「大丈夫よ。もし来てくれたら、私がちゃんと取り次ぐから」
「そ、そうだな。まあ、考えとくよ」
男は屈んで土いじりに戻りかけて、もう一度顔を上げる。そこには不安が浮かんでいた。
「なあ、百代ちゃん……この雨、あんたのところの神の仕業じゃないよな?」
「違うわよ。何度も言っているでしょう。ミズハは草田瀬のことを守りたいと願ってる、優しい神よ」
百代が言い返すと、男は「だよな」とぎこちなく笑いながら、今度こそ土いじりに戻っていった。
百代は和傘で顔を隠しながらその場を離れ、一人小さくため息をつく。
「なんで雨が止まないんだ」
「やっぱりあの神のせいじゃないか?」
「でも百代ちゃんは俺たちによくしてくれてるしな」
雨が降り始めてから、そんな噂が村で囁かれるようになった。
百代も直接聞く度にミズハは邪神ではないと説明しているものの、今のところあまり効果はない。なにも気にせず接してくれるのは、隼人、とよ、恭平の三人だけだった。
二百年間、邪神と呼んでいたミズハのことをなかなか信じられない気持ちもわかる。だからこそ、これまではゆっくりでいいと思っていたのだが、今はそうも言っていられない。
約束の三ヶ月が、もう目前に迫っているのだ。
鳥居をくぐり、社に戻った百代は、社殿の石畳へ腰掛けた。社殿の屋根の端からは、ぽたぽた雨水が落ちてきている。急に悔しさとやるせなさが押し寄せてきて、百代はすぐ横の柱へ体を預けた。
しゅる、と隣で何かが這う音がした。目だけを横に動かすと、黒と白の斑模様のいつかの蛇が、首を起こして百代をじっと見つめている。
「あら、あなた。久しぶりね」
百代は柱から体を離して蛇と向き合った。
「あなた、ミズハの眷属なの? 前から聞きたかったのよね」
蛇は答えず、百代をじっと見つめたままでいる。答える気はないらしい。
「そう、まあいいわ。あなたが眷属だろうとなかろうと、私の話し相手になってくれているのは変わらないものね」
蛇はちろりと小さく舌を出す。蛇の体は以前より、黒い模様が濃くなっている気がした。
ミズハにそっくりだ、と百代は思う。
彼の体は今、濃い穢れに蝕まれていた。
村人の態度が軟化により一時的にはよくなっていたミズハだが、雨が降り始めてからは再び穢れが溜まり始めた。もちろん百代も努力はしたものの、儀式で清めるよりも、穢れが溜まる速度の方が早く、既にいつ穢れに飲まれてしもおかしくない状態になっていた。
彼が穢れに飲まれれば、災厄が起こる。百代は巻き込まれて死んでしまう。けれど自分が死ぬことより、ミズハが災厄になってしまう方が怖かった。
ミズハはこの状況になっても、巫女の百代を責めなかった。
「君の努力は知ってるから、気にしないで」
何度謝っても、彼はそう言って微笑んでいる。濃い黒霞を体に纏い、以前は見せなかった柔らかい表情を浮かべる姿は、百代の目に痛々しく映った。
初めは生き残るためにミズハの立場を取り戻そうとしていたのに、今では彼自身を助けたいと思っている。不器用で人嫌いだが、それでも情を分け与えられる優しい彼を、多くの人を傷つける災厄にはしたくなかった。
「でもまだ、時間はあるわよね」
そっと手を伸ばし、蛇の頭に指で触れる。蛇は大人しく、頭を撫でさせてくれた。ひんやりとした体とうろこの感触に、何故だか百代は安堵を覚える。
「うん、最後まで頑張らないと。まだできることはあるはずだもの」
――頼りにしている。
そうミズハは言ってくれた。ならばその言葉に報いることができるよう、自分ができることをやるしかない。
がらりと家の方で扉が開き、カガチがあくびをしながら外へ出てきた。百代の姿を見つけると、眠そうに目を擦りながら近づいてくる。
「帰ってたのか。新しい食材、主さまが炊事場に置いていたぞ」
「そう、なら夕飯の準備をしなくちゃね」
百代は和傘を開き、蛇に手を振ってから、家の方へ戻っていった。
降り注ぐ雨は、ぱたぱたと傘を鳴らしている。
百代は灰色に染まりきった天を睨んだ。
「お願いだから、止みなさいよ……」
神に願うでもなく、呟いた。
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