ミズハは社殿裏の池の畔に立っていた。静かに水面へ手をかざすと、小さな波が立ち、十数粒の水塊が浮かび上がる。続けて手の平を握ると、空中でそれらが一斉に弾けた。
閉じたり開いたりしながら、ミズハは自らの手を見つめている。僅かずつだが、神としての力が戻ってきていた。百代が信じ、尽くしてくれた成果は、確実に現れている。
「ずっと、もらってばっかりだな」
水不足の問題が解決できたのも、百代の努力の結果だった。特に最後の、水人形を崩す方法。どこで得たのかは知らないが、あの知識がなければ解決なんてできなかっただろう。自分はただ、最後に少し手を加えただけ。役に立てたとは、正直自分でも思えていない。
「僕だって……なにかしてあげたいのに」
水源に向かう道中で、ようやく百代の過去を知った。特に彼女に酷い仕打ちをしていたという妹には、神らしくもない強い怒りを覚えている。
けれど同時に納得もした。百代が全てを一人で背負おうとするのも、自分が傷つこうが気にしていないように振る舞うのも、育った環境が原因なのだと。きっと今まで誰かに寄り添ってもらった経験もなく、受けてきた暴力で痛みに慣れてしまっているのだろう。
君のことは別に嫌いじゃない。あの時そう言ったが、本当は少し違う。
百代のことは――特別だった。
傍にいてほしいし、傍にいたい。そして少しでも、彼女に寄り添いたい。
「神が人間に抱く感情じゃないっていうのは分かってるけどさ」
人を平等に守る神が、特定の誰かを救いたいと思うなんて、きっと許されないだろう。それでも抱いてしまった思いを止めることはできなかった。
「心配している、とは言ったけど。伝わってるかは微妙だよね……」
せめてもう少し力があれば、百代も自分を信用して頼ってくれるのだろうか。彼女のことは信じているし、自由でいてほしいとは思うが、己の傷を顧みない道は選んでほしくなかった。
ミズハは握った拳を見つめて唇を噛む。そのとき社殿の方から茂みをかき分け、百代と一緒に村へ行ったはずのウズとカガチが、息を切らせてやってきた。
「主さま、大変……!」
「あの馬鹿巫女が、また無茶なことをしようとしてるんです!」
百代の話と知り、ミズハの顔が険しくなる。
「百代がどうしたの?」
「百代さま、情報を集めるために狩りをしようとしていて……」
「隼人って子どもの家にあった鉄砲なんて見てたんですよ! 使ったことないっていってたのに!」
「はぁ!?」
つまり百代は、使ったことのない鉄砲を使って、狩りをしようと目論んでいるというのか。どういう流れで狩りをすることになったのかはわからないが、慣れていない銃火器を使うのはさすがに危険すぎる。
(やっぱり、伝わってなかったんだ……)
その身を案じていると伝えたつもりだったのに。やはり自分は彼女の傍に寄り添える力がないと思い知らされたようで悲しくなる。けれど、落ち込んでいる場合ではない。
「カガチ、ウズ、百代のところまで案内して」
「えっ、でも主さま。百代さまがいるのは人間の家だよ」
「何か案をくださればおれたちが……」
「いいから! 早く教えて!」
「「わかりました!」」
ウズとカガチの後について、ミズハは鳥居をくぐり社の外に出た。人間に姿を見られようが、その結果邪神だと揶揄されようが、今は構わない。百代が危ないことをしようとしているなら、何かが起こる前に止めたかった。これ以上彼女が、自分のために傷つかないように。
ウズとカガチに案内された家に辿り着くと、ミズハは扉を一気に開け放った。
「百代、いる!?」
茶の間にいた人間たちの視線が、一斉にミズハヘ集まる。
「あっ、神様のお兄ちゃんだぁ!」
「ミズハ!? どうしてここに!?」
隼人が手を振る横で、百代は混乱したような顔をしていた。百代の後ろには同じく混乱している二人の男女と、散乱した縄や木の板。それらで百代が何をしていたのか、問う余裕はミズハになかった。彼は百代に詰め寄り、その肩を掴む。
「百代、使ったことがないなら銃は駄目だよ。君がまた怪我しちゃう」
「銃? なんの話?」
百代は訳がわからないといった顔で、首をかしげた。とぼけているのだろうか。
「銃で狩りをするんじゃないの」
「えっ……いえ、銃は使わないわ。狩りはするけど罠猟よ」
「え……?」
ぽかんとしているミズハに、百代は床に置いている縄と木の板を指さした。
言われてみれば、罠猟で使うくくり罠によく似ている。ウズとカガチを振り向くと、二人は気まずそうにあさっての方へ目をそらした。
「じゃ、じゃあ……勘違い?」
「そうだと思うけど……」
「よかったぁ……」
一気に気が抜けたミズハは、玄関にへなへなと座り込む。
百代はからかうような笑みを浮かべた。
「なによ、私が銃を使うと思ったの? 私、銃で狩りをしたことはないわよ」
「だって君ならやりかねないでしょ……」
目的のために少しでも可能性があるのなら、使ったことのない手段でも危険を顧みず行うだろう。少なくとも今まで見てきた百代は、そういう人間に見えていた。
「信用されてないわねぇ。まあ、最初は銃を使おうとしてたのは本当だけど」
「えっ……」
「でも思い直したのよ。ミズハがいると」
ふわりと笑う百代に、とくりと胸が小さく動いた。
「僕?」
「ええ。本当に危ないことはしない方がいいかと思ったの。あなたが心配しそうだから」
胸がいっぱいで、言葉が出なかった。
自分の思いが伝わっていないわけじゃなかった。ほんの少しでも百代が自分を認めてくれた気がして、心の奥が温かくなる。
「それよりミズハ、大丈夫なの? 村にまできて」
百代は後ろの男女を目線で指しながら問うてくる。
「まあ、それは……大丈夫。でも君も無事ってわかったし、もう帰るよ」
「えっ、待ってちょうだい」
ミズハが踵を返すと、百代が慌てて腕を掴んできた。
「大丈夫なら、少し手伝ってくれると嬉しいんだけど。せっかくここまで来たんだし」
「いや、それは……」
百代の後ろにいる二人の人間を横目に見る。彼らはいまだにミズハをじっと見つめていた。隼人が「神様」と言ったことで、きっと二人は自分が邪神であることに気づいているだろう。その胸の内に、どんな否定の言葉を浮かべているか分からない。
「大丈夫よ、とよさんと恭平さんならきっと普通に接してくれるわ」
ね、と百代が後ろ振り向いた。とよと恭平は百代とミズハを見比べて口を開く。
「百代さん、その人がミズハ様……?」
「す、すみませんミズハ様。突然お綺麗な方がいらっしゃったものだから、びっくりしてしまって……」
思いがけず、ミズハは目を瞬かせた。
二人は今、ミズハの名を呼んだ。「邪神」ではなく、本来の名前で。
「ね、大丈夫でしょ?」
百代は得意げにしながら、呆けているミズハの腕を引き寄せる。
「改めて、この人がうちの神様のミズハよ」
「よろしくお願いします。それと、ずっと邪神と勘違いしていてすみません」
「これからは、あなたのことを信じることにしましたから」
恭平ととよは、ミズハに笑みを浮かべている。恐怖も不安も、何かを隠した様子もない、純粋な笑顔だった。邪神と呼ばれていた自分が向けられるのはあり得ない光景で、ミズハは言葉を失ってしまった。
「ほら、ミズハも」
百代に促され、ミズハはようやく一言「よろしく」と言えたのだった。
***
閉じたり開いたりしながら、ミズハは自らの手を見つめている。僅かずつだが、神としての力が戻ってきていた。百代が信じ、尽くしてくれた成果は、確実に現れている。
「ずっと、もらってばっかりだな」
水不足の問題が解決できたのも、百代の努力の結果だった。特に最後の、水人形を崩す方法。どこで得たのかは知らないが、あの知識がなければ解決なんてできなかっただろう。自分はただ、最後に少し手を加えただけ。役に立てたとは、正直自分でも思えていない。
「僕だって……なにかしてあげたいのに」
水源に向かう道中で、ようやく百代の過去を知った。特に彼女に酷い仕打ちをしていたという妹には、神らしくもない強い怒りを覚えている。
けれど同時に納得もした。百代が全てを一人で背負おうとするのも、自分が傷つこうが気にしていないように振る舞うのも、育った環境が原因なのだと。きっと今まで誰かに寄り添ってもらった経験もなく、受けてきた暴力で痛みに慣れてしまっているのだろう。
君のことは別に嫌いじゃない。あの時そう言ったが、本当は少し違う。
百代のことは――特別だった。
傍にいてほしいし、傍にいたい。そして少しでも、彼女に寄り添いたい。
「神が人間に抱く感情じゃないっていうのは分かってるけどさ」
人を平等に守る神が、特定の誰かを救いたいと思うなんて、きっと許されないだろう。それでも抱いてしまった思いを止めることはできなかった。
「心配している、とは言ったけど。伝わってるかは微妙だよね……」
せめてもう少し力があれば、百代も自分を信用して頼ってくれるのだろうか。彼女のことは信じているし、自由でいてほしいとは思うが、己の傷を顧みない道は選んでほしくなかった。
ミズハは握った拳を見つめて唇を噛む。そのとき社殿の方から茂みをかき分け、百代と一緒に村へ行ったはずのウズとカガチが、息を切らせてやってきた。
「主さま、大変……!」
「あの馬鹿巫女が、また無茶なことをしようとしてるんです!」
百代の話と知り、ミズハの顔が険しくなる。
「百代がどうしたの?」
「百代さま、情報を集めるために狩りをしようとしていて……」
「隼人って子どもの家にあった鉄砲なんて見てたんですよ! 使ったことないっていってたのに!」
「はぁ!?」
つまり百代は、使ったことのない鉄砲を使って、狩りをしようと目論んでいるというのか。どういう流れで狩りをすることになったのかはわからないが、慣れていない銃火器を使うのはさすがに危険すぎる。
(やっぱり、伝わってなかったんだ……)
その身を案じていると伝えたつもりだったのに。やはり自分は彼女の傍に寄り添える力がないと思い知らされたようで悲しくなる。けれど、落ち込んでいる場合ではない。
「カガチ、ウズ、百代のところまで案内して」
「えっ、でも主さま。百代さまがいるのは人間の家だよ」
「何か案をくださればおれたちが……」
「いいから! 早く教えて!」
「「わかりました!」」
ウズとカガチの後について、ミズハは鳥居をくぐり社の外に出た。人間に姿を見られようが、その結果邪神だと揶揄されようが、今は構わない。百代が危ないことをしようとしているなら、何かが起こる前に止めたかった。これ以上彼女が、自分のために傷つかないように。
ウズとカガチに案内された家に辿り着くと、ミズハは扉を一気に開け放った。
「百代、いる!?」
茶の間にいた人間たちの視線が、一斉にミズハヘ集まる。
「あっ、神様のお兄ちゃんだぁ!」
「ミズハ!? どうしてここに!?」
隼人が手を振る横で、百代は混乱したような顔をしていた。百代の後ろには同じく混乱している二人の男女と、散乱した縄や木の板。それらで百代が何をしていたのか、問う余裕はミズハになかった。彼は百代に詰め寄り、その肩を掴む。
「百代、使ったことがないなら銃は駄目だよ。君がまた怪我しちゃう」
「銃? なんの話?」
百代は訳がわからないといった顔で、首をかしげた。とぼけているのだろうか。
「銃で狩りをするんじゃないの」
「えっ……いえ、銃は使わないわ。狩りはするけど罠猟よ」
「え……?」
ぽかんとしているミズハに、百代は床に置いている縄と木の板を指さした。
言われてみれば、罠猟で使うくくり罠によく似ている。ウズとカガチを振り向くと、二人は気まずそうにあさっての方へ目をそらした。
「じゃ、じゃあ……勘違い?」
「そうだと思うけど……」
「よかったぁ……」
一気に気が抜けたミズハは、玄関にへなへなと座り込む。
百代はからかうような笑みを浮かべた。
「なによ、私が銃を使うと思ったの? 私、銃で狩りをしたことはないわよ」
「だって君ならやりかねないでしょ……」
目的のために少しでも可能性があるのなら、使ったことのない手段でも危険を顧みず行うだろう。少なくとも今まで見てきた百代は、そういう人間に見えていた。
「信用されてないわねぇ。まあ、最初は銃を使おうとしてたのは本当だけど」
「えっ……」
「でも思い直したのよ。ミズハがいると」
ふわりと笑う百代に、とくりと胸が小さく動いた。
「僕?」
「ええ。本当に危ないことはしない方がいいかと思ったの。あなたが心配しそうだから」
胸がいっぱいで、言葉が出なかった。
自分の思いが伝わっていないわけじゃなかった。ほんの少しでも百代が自分を認めてくれた気がして、心の奥が温かくなる。
「それよりミズハ、大丈夫なの? 村にまできて」
百代は後ろの男女を目線で指しながら問うてくる。
「まあ、それは……大丈夫。でも君も無事ってわかったし、もう帰るよ」
「えっ、待ってちょうだい」
ミズハが踵を返すと、百代が慌てて腕を掴んできた。
「大丈夫なら、少し手伝ってくれると嬉しいんだけど。せっかくここまで来たんだし」
「いや、それは……」
百代の後ろにいる二人の人間を横目に見る。彼らはいまだにミズハをじっと見つめていた。隼人が「神様」と言ったことで、きっと二人は自分が邪神であることに気づいているだろう。その胸の内に、どんな否定の言葉を浮かべているか分からない。
「大丈夫よ、とよさんと恭平さんならきっと普通に接してくれるわ」
ね、と百代が後ろ振り向いた。とよと恭平は百代とミズハを見比べて口を開く。
「百代さん、その人がミズハ様……?」
「す、すみませんミズハ様。突然お綺麗な方がいらっしゃったものだから、びっくりしてしまって……」
思いがけず、ミズハは目を瞬かせた。
二人は今、ミズハの名を呼んだ。「邪神」ではなく、本来の名前で。
「ね、大丈夫でしょ?」
百代は得意げにしながら、呆けているミズハの腕を引き寄せる。
「改めて、この人がうちの神様のミズハよ」
「よろしくお願いします。それと、ずっと邪神と勘違いしていてすみません」
「これからは、あなたのことを信じることにしましたから」
恭平ととよは、ミズハに笑みを浮かべている。恐怖も不安も、何かを隠した様子もない、純粋な笑顔だった。邪神と呼ばれていた自分が向けられるのはあり得ない光景で、ミズハは言葉を失ってしまった。
「ほら、ミズハも」
百代に促され、ミズハはようやく一言「よろしく」と言えたのだった。
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