大きな茂みをかき分けて、百代は大きな息をついた。地面には落ち葉や枯れ木が散らばっていて、気を抜けば足を取られてしまう。頭上には木の葉が何重にも重なって、天からの光を阻んでいた。お陰で森の中は、昼間というのに薄暗い。
額の汗を拭いていると、先行く黒い背中が百代を振り返る。
「大丈夫? 休憩でもする?」
「心配いらないわ、一息ついただけだから」
百代はミズハにそう答えると、体に鞭を打って前に進んだ。本当は休憩したいところだが、座る場所のない斜面では、休まるものも休まらない。
百代とミズハが向かうのは、昨日隼人から聞いた異常があるという水源だ。ミズハの社がある山の隣山にあるらしく、ウズとカガチに社の留守番を頼んで、朝からミズハの案内で延々山登りを続けている。
動きやすいよう巫女装束で来たのだが、「悪い奴」との戦いに備えて木刀を持ってきたのがいけなかった。歩く度にあちらこちらに引っかかって、余計な体力が削られてしまう。
「それにしても、水源の異常に川の水がの減少なんて気付かなかったわ。ミズハの社の近くの川は、魚釣りだって普通にできたのに」
加えて草田瀬の川は、山を下って都に流れる大河となる。草田瀬の水源に異常が出たなら、下流である都にも影響は出るはずだ。けれども今世――そして今までの九度の人生の中でも、都の川が枯れたという話は聞いたことがない。
「草田瀬には川が二つあるからね。一つはうちの社の傍にある川。水源はうちの社から少し山を登ったところにあって、そこから都に下っていく。もう一つは今目指してる水源から生まれる川で、草田瀬の村はずれを通り、都に入らず海に流れ出るんだ」
なるほど、と百代は納得する。つまり都を通らない川に異常が出たため、都の方では大事と捉えられなかったのだ。故に前の人生まででは「草田瀬に雨が降らず水不足」という以上の情報は都に伝わってこなかったのだろう。
とはいえまさか水不足の解決に、農業知識ではなく武力を使うことになろうとは思わなかった。回帰を続けてきた百代はどちらも持っているため、大した問題はないのだが。
木刀を握り直しながら、百代は雑談混じりに話を続ける。
「川が二つあるのなら、一つが駄目になっても、もう一つから水を引けばしのげると思うけど……そういう訳にはいかないのかしら」
「まあ水を引くにも時間がかかるし。でも結局、邪神の社の傍を流れている川なんて、使いたくないっていうのが本音だと思うよ」
ミズハが言うには、彼がまだ神として立場を持っていた頃は、草田瀬の人間もミズハの社の傍の川の水を使っていたらしい。けれどミズハが邪神と呼ばれるようになってから、ぱったり使われなくなったそうだ。
「僕はあの川に何にもしてないのにね。なんて言っても、人間は信じないだろうけどさ」
ミズハは隣でうっすら悲しげに笑っている。その表情が痛々しくて、胸の奥がつきりと痛んだ。
「ねえ、ミズハ。ずっと聞きたかったんだけれど、封印される前――二百年前に何があったの」
災害を起こして邪神として封印された。そういう世間での噂は知っている。
けれど百代は他の誰でもない、ミズハ自身の言葉で真相を聞いておきたかった。彼の痛みを、本当の意味で理解するためにも。
ミズハは百代にちらりと横目で見た後、特に感情を動かすことなく口を開いた。
「大したことはないよ。巫女が全員やめちゃって、力が弱ってるところに大きな嵐が来た。それを止められなくて、嵐を僕のせいにされて封印されたんだ。それだけ」
「っ、そんな……」
ミズハが災害を起こしているはずはないとは思っていた。それでも彼の口から聞いた言葉は、百代の胸を強く締め付ける。
きっと辛かっただろう。嵐と止めたくても止められず、神としての矜恃をずたずたにされ、挙げ句やってもいない罪を押しつけられれば、全てに絶望するには十分だ。
かける言葉が見つからず、無言で唇を噛んでいると、頭にふわりと何かが乗った。
「馬鹿だなぁ。百代がそんな顔しなくてもいいのに」
ミズハが苦笑しながら百代の頭を撫でていた。儚くも優しいその笑みに、何かが溢れそうになってしまう。
「だって、ミズハは何もしていないじゃない。人間が……ごめんなさい」
「なんで君が謝るのさ。確かに人間は嫌いだけど、君は別に……嫌ってなんかないし」
それに、とミズハは百代の頭から手を離し、ぼそりと小さく呟いた。
「それに多分、あれは誰かに嵌められたんだ」
「えっ? なんて言ったの?」
「なんでもない。それより僕は、君のことも気になるんだけど」
一転してミズハは紅の目を細め、百代を睨んだ。鋭い眼光に射貫かれて、蛇にでも睨まれた気分になってくる。実際ミズハは蛇神なので、なにも間違ってはいないのだが。
「君が僕の巫女になった事情は、深く聞くつもりはない。でもせめて、誰とどこでどういう風に生きていたかくらいは、ちゃんと聞かせてくれてもいいんじゃない?」
「う……」
確かに巫女学校のことや家を出たこと以外は、ミズハに話していなかった。回帰に関わることは相変わらず話しにくいし、美輪家の話はして楽しいものでもないからだ。
だが躊躇っている間も、ミズハの視線はどんどん険しくなっていく。もはや沈黙で誤魔化すことはできそうにない。百代は小さくため息をついた。
「あまり面白い話じゃないわよ」
「別に良いよ。世の中、面白い話の方が少ないし」
「そ、なら安心だわ」
百代は肩をすくめて、美輪家での生活を思い出しながら語っていく。
「私の育った美輪家は、控えめに言ってもひどい家だったわね。特に妹の櫻子が」
もちろん両親からも無視や命令は当たり前だったが、最も因縁を付けてくる頻度が高いのが妹の櫻子だった。
――お姉様、街で水菓子を買ってきてくれないかしら。シグレ様が私と一緒に食べたいって言うから。無能なお姉様でも、それくらいはできるでしょう?
――学校での座学の試験が一位だったのですって? 馬鹿なお姉様。どれだけ頑張っても異能を使えないお姉様は、美輪家のお荷物で終わるのよ。
櫻子は異能の使えない百代が自分より霊力が高く、成績も優れていたことに我慢がならなかったらしい。何を話すにも二、三言目には異能がないことを揶揄され、買い物や掃除を指示されていた。
とはいえ今世では百代も黙っていなかった。言うべき時には言い返したし、自分がやる必要もないことはそう伝えた。
「『成績で負けて悔しいなら、遊んでばかりいないで、しっかり勉強したらどう?』なんて言い返した時の怒って真っ赤になった櫻子の顔は、今思い出しても笑えてくるわ。まあ言い返したら、余計に色々されたんだけどね」
櫻子に反抗すると、必ずと言っていいほど水の異能が飛んでくる。もちろん拳や物で傷つけられることも当然あり、家を出る時に髪を切られたのもその一つだった。
おそらく今回の人生は、過去一番櫻子からの攻撃を受けているだろう。とはいえ彼女から受ける痛みなど、百代にとっては大したことはない。九度も人生を繰り返しているうちに暴力に慣れてしまったし、なにより死ぬときの苦痛に勝る痛みはなかった……なんて話は、さすがにミズハにはできないが。
「そういう最悪な家だから、出てきてせいせいしてるの。これからは家族に振り回されずに済むもの。だからあまり、気にしないで」
百代は軽く笑みを作る。家族のことは既に乗り越えたようなものなのだ。あまり暗い雰囲気にはしたくない。
ミズハは百代の話を黙ったまま難しい顔で聞いていたが、やがて小さくため息をつく。
「ようやく、いろんな君の行動に納得したよ」
「私、そんなに影響を受けていたかしら?」
「すっごくね」
言われてもあまりぴんと来なかった。一体どのあたりがだろうか。
首をひねる百代に、ミズハは少々ぎこちない様子で言葉を続けた。
「ともかく、一つだけ。今は昔と違って、君を心配している人がいるのは知っていて」
「あら。それって、あなたのこと?」
「…………」
ミズハは無言で思い切り顔をそらす。それはもはや肯定しているようなもので、百代は思わず頬を緩めた。
同時に、温かいものがこみ上げてくる。思えば誰かに心配されるなんて、何度も繰り返す人生のなかで初めての経験だ。自分だけじゃない、他の誰かが味方についていてくれるのが、こんなにも嬉しいものとは知らなかった。
「それじゃ、ミズハにあまり心配かけないようにしないとね」
「……そうして」
ぶっきらぼうに呟くミズハに、温かい気持ちを抱きながら、目の前の茂みをかき分ける。
急に、視界が開けた。
斜面と木立の群れが消え、短い草で覆われた平らかな地面が広がっている。山の中へ偶然できた広場のようだ。だがその中心にいるものを目にしたとき、百代は喉の奥がひく、と鳴った。
「なにあれ、蛇……!?」
そこには巨大な黒い蛇が、とぐろを巻いていた。その状態で既に家ほどの大きさがある。体を伸ばせばその長さは計り知れない。
蛇は頭をもたげ、百代とミズハをじっと睨んでいた。その体の下には、小さな穴がある。そこから水がじわりと染み出し、山の下へ向かって細い線を描くように流れていた。
「あの下にあるのが、問題になってる水源だよ」
「じゃあ隼人くんが言ってた悪い奴って、あの蛇のこと!?」
言われてみればあの蛇が、水源の水をせき止めているように見える。ミズハが蛇神であることを考えると、これを見た者は、彼が異常を引き起こしていると考えるだろう。
「ひとまずあの蛇を倒さないとね」
百代は腰に差した木刀を抜く。とはいえ相手が想像以上に大きくて、どう立ち向かっていいものか分からない。
額から汗が流れていく。瞬間、蛇と百代の視線が交わった。
「っ!」
「百代!」
蛇が大口を開けて百代を飲み込まんと向かってくる。ミズハが庇うように前へ出たが、蛇の口は二人同時に飲み込めてしまうくらいに大きい。
「一か八か――せえぇえいっ!」
無駄な抵抗と知りながら、百代は蛇の頭に向かって振り下ろす。その切っ先が、鼻の頭に触れたとき――
ばしゃん!
大きな水音を立て、蛇の頭が半分に割れた。水しぶきが百代の顔に飛び散ってくる。頬に当たったのは匂いもなければ毒もない、ごく普通の水だった。
半分になった蛇の頭は、水が元の形を取り戻すように傷跡ひとつなく元通りに戻っていった。その後蛇はするすると首を引っ込め、元の位置で動かなくなる。
「……どういうこと?」
まるで起き上がり小法師だ。一度倒れて、勝手に元の位置へ戻っていく。その後、再び倒されるまでは、じっと動かず立っている。
「わかった。この蛇、水でできた人形だ」
「人形? こんなに大きいのが?」
「そう。水源の水をせき止めて、ここに来た人を驚かせるために置いてある。恐怖を感じて逃げ帰った人に、化け物が水源を占領しているなんて噂を広めさせるために」
ミズハは蛇の体に手を乗せる。形があればそのまま乗っているはずの手は、ずぶずぶと沈んでいった。
「じゃあこれって、誰かが意図的に仕組んだってこと?」
「十中八九、そうなるね」
百代の体に緊張が走る。そうだとすれば確実にミズハを狙ったものに違いない。
「犯人はどこかの神? 眷属としてこの人形を作って、ここに置いたとか?」
「いや、眷属だとウズやカガチみたいに個々の意志があるし、自分の力を分けて作るから、神同士だと誰が作ったかはすぐにわかる。でもこれはわからないし……どちらかというと、人間の異能を使って作った感じがするよ」
異能と聞いて、咄嗟に妹の櫻子が浮かんだ。彼女も水を操る強い異能を持っている。とはいえ水の異能を使う者はいくらでもいるので、彼女が犯人と決めつけることはできないのだが。
「この人形を崩せば水源も元に戻るだろうね。問題は、どうやって崩すかだけど」
ミズハは水の柱を生み出して、蛇の体に叩きつける。しかし水の柱は蛇の中に吸収されてしまった。
「百代の木刀も効かないみたいだったから、無闇に攻撃しても意味ないか。異能を使っている者に解除させるのが一番だけど、それが誰かは分からないし……」
ミズハは隣でため息をつきながら、水の柱を引っ込めている。
「異能に、水人形ね……」
その二つを聞いて、百代の中にとある記憶が思い浮かんだ。
あれは確か一度目から三度目の人生で、巫女学校を退学し生贄として捧げられる日野直前のこと。櫻子が異能の実技試験で好成績を収めたらしく、シグレ様のお陰だと上機嫌にすり寄っていた。その時の課題は水を操り、任意の形にするというもので、水系の異能を使う者の中では上級の技術らしかった。
「無能なお姉様にも、私の力を見せてあげるわ」
そう言って彼女は百代の前で、池の水を使って龍の姿を作り上げた。櫻子はそれを見せつけるようにして池の前に放置したまま去ってしまったが、百代は水を奪われた池の鯉たちがかわいそうで、なんとか龍を消せないかと試行錯誤した。そして龍と池の水表が繋がっている部分をたらいで完全に分断し、人形への水の供給を止めると、龍は水に戻ったのだ。
その後百代は龍を崩したと櫻子からめった打ちにされた。初め三回までの人生で、櫻子から暴力を受けたのはそれが最後だったから、よく覚えている。
もしもこの蛇が水の異能によって作られたもので、あの時の櫻子が使っていたものと同じ種類の技術であるならば。
「人形への水の供給を止めれば、崩れるかも……」
百代の呟きに、蛇を調べていたミズハが振り向いてくる。
「百代、異能の解き方を知っているの?」
「む、昔、似たものを見たことがあるの。でもこの蛇に水を供給しているのは水源だろうから、そう簡単にはいかないわよね。水源全体を塞ぐなんてできないし」
「いや、不可能じゃない。僕の力で一時的に水源から水が流れ出るのを止めれば、同じ状況を作り出せるはずだ」
「本当に!?」
身を乗り出した百代に、ミズハはこくりと頷いた。
「もちろん。それくらいの力はあるからね」
「なら、よろしく頼むわ。清めの儀式はできるから!」
百代は持ってきていた神楽鈴を取り出し、ミズハに捧げる音を鳴らす。
鈴の音の中でミズハは目を閉じ、そっと屈んで水源だった場所の地表に触れた。
ばしゃっ!
巨大な蛇の体が弾けた。百代は思わず拳を握る。
「よし、成功ね! さすがミズハ――」
「いや、喜んでる場合じゃないから!」
「えっ?」
太陽の光が遮られ、百代はふと上を見た。大量の水が、大波のように百代たちの上へと落ちてくる。蛇の体を作り上げていた水が崩れたのだ。
「うっ、嘘でしょ!?」
「百代、こっち!」
ぐいと、強い力に引っ張られ、温もりの中に閉じ込められた。ばしゃん、と直後に激しい水音が聞こえるも、体が濡れた様子はない。
「はぁ……水の結界を張れるくらいの力は戻っててよかった」
何が起こったのかわからず目を瞬かせている百代の耳元で、安堵のため息が聞こえてきた。恐る恐る顔を上げると、すぐそこにミズハの紅の瞳が見える。
「はっ……!?」
「大丈夫、百代? 濡れてない?」
ようやく状況を理解した。つまり水がかかる直前、ミズハが百代を抱き寄せたのだ。そしてなんらかの力を使って、濡れないように守ってくれた。
そしていまだに、百代はミズハに抱き留められたままでいる。
「だだだ、大丈夫よ。全然大丈夫だから!」
ミズハの胸を押し返しながら、百代は激しく首を縦に振る。心臓は破裂してしまいそうな程にばくばくと鳴っていた。
ミズハは純粋な善意で助けてくれたのだ。ミズハの胸が案外広かったとか、川辺の草木のようないい匂いがしたとか、そういうことは考えてはいけない。
「そう? ならいいんだけど」
首をかしげながらも、ミズハは百代を解放する。離れていく体温が少し名残惜しいなんて思ってしまうのは、きっと気が動転しているからだろう。
早く気持ちを落ち着けなければと、百代はミズハから視線を逸らす。すると蛇がいた場所に、小さな泉が湧いていることに気がついた。
「ミズハ、あれ!」
「水源が、元に戻ってる……」
蛇の消えた場所に滾々と湧く山水。そこからあふれ出た水流も勢いを増している。じきにこの水が山を下り、草田瀬の村まで届くだろう。隼人の願いである草田瀬の救済は、果たされたのだ。
水源に手を出した犯人など、不安な要素はまだ残っている。けれど今は望みをやりとげた達成感に浸っていたい。
そんなことを思いながら、百代はミズハと肩を並べて笑い合った。
額の汗を拭いていると、先行く黒い背中が百代を振り返る。
「大丈夫? 休憩でもする?」
「心配いらないわ、一息ついただけだから」
百代はミズハにそう答えると、体に鞭を打って前に進んだ。本当は休憩したいところだが、座る場所のない斜面では、休まるものも休まらない。
百代とミズハが向かうのは、昨日隼人から聞いた異常があるという水源だ。ミズハの社がある山の隣山にあるらしく、ウズとカガチに社の留守番を頼んで、朝からミズハの案内で延々山登りを続けている。
動きやすいよう巫女装束で来たのだが、「悪い奴」との戦いに備えて木刀を持ってきたのがいけなかった。歩く度にあちらこちらに引っかかって、余計な体力が削られてしまう。
「それにしても、水源の異常に川の水がの減少なんて気付かなかったわ。ミズハの社の近くの川は、魚釣りだって普通にできたのに」
加えて草田瀬の川は、山を下って都に流れる大河となる。草田瀬の水源に異常が出たなら、下流である都にも影響は出るはずだ。けれども今世――そして今までの九度の人生の中でも、都の川が枯れたという話は聞いたことがない。
「草田瀬には川が二つあるからね。一つはうちの社の傍にある川。水源はうちの社から少し山を登ったところにあって、そこから都に下っていく。もう一つは今目指してる水源から生まれる川で、草田瀬の村はずれを通り、都に入らず海に流れ出るんだ」
なるほど、と百代は納得する。つまり都を通らない川に異常が出たため、都の方では大事と捉えられなかったのだ。故に前の人生まででは「草田瀬に雨が降らず水不足」という以上の情報は都に伝わってこなかったのだろう。
とはいえまさか水不足の解決に、農業知識ではなく武力を使うことになろうとは思わなかった。回帰を続けてきた百代はどちらも持っているため、大した問題はないのだが。
木刀を握り直しながら、百代は雑談混じりに話を続ける。
「川が二つあるのなら、一つが駄目になっても、もう一つから水を引けばしのげると思うけど……そういう訳にはいかないのかしら」
「まあ水を引くにも時間がかかるし。でも結局、邪神の社の傍を流れている川なんて、使いたくないっていうのが本音だと思うよ」
ミズハが言うには、彼がまだ神として立場を持っていた頃は、草田瀬の人間もミズハの社の傍の川の水を使っていたらしい。けれどミズハが邪神と呼ばれるようになってから、ぱったり使われなくなったそうだ。
「僕はあの川に何にもしてないのにね。なんて言っても、人間は信じないだろうけどさ」
ミズハは隣でうっすら悲しげに笑っている。その表情が痛々しくて、胸の奥がつきりと痛んだ。
「ねえ、ミズハ。ずっと聞きたかったんだけれど、封印される前――二百年前に何があったの」
災害を起こして邪神として封印された。そういう世間での噂は知っている。
けれど百代は他の誰でもない、ミズハ自身の言葉で真相を聞いておきたかった。彼の痛みを、本当の意味で理解するためにも。
ミズハは百代にちらりと横目で見た後、特に感情を動かすことなく口を開いた。
「大したことはないよ。巫女が全員やめちゃって、力が弱ってるところに大きな嵐が来た。それを止められなくて、嵐を僕のせいにされて封印されたんだ。それだけ」
「っ、そんな……」
ミズハが災害を起こしているはずはないとは思っていた。それでも彼の口から聞いた言葉は、百代の胸を強く締め付ける。
きっと辛かっただろう。嵐と止めたくても止められず、神としての矜恃をずたずたにされ、挙げ句やってもいない罪を押しつけられれば、全てに絶望するには十分だ。
かける言葉が見つからず、無言で唇を噛んでいると、頭にふわりと何かが乗った。
「馬鹿だなぁ。百代がそんな顔しなくてもいいのに」
ミズハが苦笑しながら百代の頭を撫でていた。儚くも優しいその笑みに、何かが溢れそうになってしまう。
「だって、ミズハは何もしていないじゃない。人間が……ごめんなさい」
「なんで君が謝るのさ。確かに人間は嫌いだけど、君は別に……嫌ってなんかないし」
それに、とミズハは百代の頭から手を離し、ぼそりと小さく呟いた。
「それに多分、あれは誰かに嵌められたんだ」
「えっ? なんて言ったの?」
「なんでもない。それより僕は、君のことも気になるんだけど」
一転してミズハは紅の目を細め、百代を睨んだ。鋭い眼光に射貫かれて、蛇にでも睨まれた気分になってくる。実際ミズハは蛇神なので、なにも間違ってはいないのだが。
「君が僕の巫女になった事情は、深く聞くつもりはない。でもせめて、誰とどこでどういう風に生きていたかくらいは、ちゃんと聞かせてくれてもいいんじゃない?」
「う……」
確かに巫女学校のことや家を出たこと以外は、ミズハに話していなかった。回帰に関わることは相変わらず話しにくいし、美輪家の話はして楽しいものでもないからだ。
だが躊躇っている間も、ミズハの視線はどんどん険しくなっていく。もはや沈黙で誤魔化すことはできそうにない。百代は小さくため息をついた。
「あまり面白い話じゃないわよ」
「別に良いよ。世の中、面白い話の方が少ないし」
「そ、なら安心だわ」
百代は肩をすくめて、美輪家での生活を思い出しながら語っていく。
「私の育った美輪家は、控えめに言ってもひどい家だったわね。特に妹の櫻子が」
もちろん両親からも無視や命令は当たり前だったが、最も因縁を付けてくる頻度が高いのが妹の櫻子だった。
――お姉様、街で水菓子を買ってきてくれないかしら。シグレ様が私と一緒に食べたいって言うから。無能なお姉様でも、それくらいはできるでしょう?
――学校での座学の試験が一位だったのですって? 馬鹿なお姉様。どれだけ頑張っても異能を使えないお姉様は、美輪家のお荷物で終わるのよ。
櫻子は異能の使えない百代が自分より霊力が高く、成績も優れていたことに我慢がならなかったらしい。何を話すにも二、三言目には異能がないことを揶揄され、買い物や掃除を指示されていた。
とはいえ今世では百代も黙っていなかった。言うべき時には言い返したし、自分がやる必要もないことはそう伝えた。
「『成績で負けて悔しいなら、遊んでばかりいないで、しっかり勉強したらどう?』なんて言い返した時の怒って真っ赤になった櫻子の顔は、今思い出しても笑えてくるわ。まあ言い返したら、余計に色々されたんだけどね」
櫻子に反抗すると、必ずと言っていいほど水の異能が飛んでくる。もちろん拳や物で傷つけられることも当然あり、家を出る時に髪を切られたのもその一つだった。
おそらく今回の人生は、過去一番櫻子からの攻撃を受けているだろう。とはいえ彼女から受ける痛みなど、百代にとっては大したことはない。九度も人生を繰り返しているうちに暴力に慣れてしまったし、なにより死ぬときの苦痛に勝る痛みはなかった……なんて話は、さすがにミズハにはできないが。
「そういう最悪な家だから、出てきてせいせいしてるの。これからは家族に振り回されずに済むもの。だからあまり、気にしないで」
百代は軽く笑みを作る。家族のことは既に乗り越えたようなものなのだ。あまり暗い雰囲気にはしたくない。
ミズハは百代の話を黙ったまま難しい顔で聞いていたが、やがて小さくため息をつく。
「ようやく、いろんな君の行動に納得したよ」
「私、そんなに影響を受けていたかしら?」
「すっごくね」
言われてもあまりぴんと来なかった。一体どのあたりがだろうか。
首をひねる百代に、ミズハは少々ぎこちない様子で言葉を続けた。
「ともかく、一つだけ。今は昔と違って、君を心配している人がいるのは知っていて」
「あら。それって、あなたのこと?」
「…………」
ミズハは無言で思い切り顔をそらす。それはもはや肯定しているようなもので、百代は思わず頬を緩めた。
同時に、温かいものがこみ上げてくる。思えば誰かに心配されるなんて、何度も繰り返す人生のなかで初めての経験だ。自分だけじゃない、他の誰かが味方についていてくれるのが、こんなにも嬉しいものとは知らなかった。
「それじゃ、ミズハにあまり心配かけないようにしないとね」
「……そうして」
ぶっきらぼうに呟くミズハに、温かい気持ちを抱きながら、目の前の茂みをかき分ける。
急に、視界が開けた。
斜面と木立の群れが消え、短い草で覆われた平らかな地面が広がっている。山の中へ偶然できた広場のようだ。だがその中心にいるものを目にしたとき、百代は喉の奥がひく、と鳴った。
「なにあれ、蛇……!?」
そこには巨大な黒い蛇が、とぐろを巻いていた。その状態で既に家ほどの大きさがある。体を伸ばせばその長さは計り知れない。
蛇は頭をもたげ、百代とミズハをじっと睨んでいた。その体の下には、小さな穴がある。そこから水がじわりと染み出し、山の下へ向かって細い線を描くように流れていた。
「あの下にあるのが、問題になってる水源だよ」
「じゃあ隼人くんが言ってた悪い奴って、あの蛇のこと!?」
言われてみればあの蛇が、水源の水をせき止めているように見える。ミズハが蛇神であることを考えると、これを見た者は、彼が異常を引き起こしていると考えるだろう。
「ひとまずあの蛇を倒さないとね」
百代は腰に差した木刀を抜く。とはいえ相手が想像以上に大きくて、どう立ち向かっていいものか分からない。
額から汗が流れていく。瞬間、蛇と百代の視線が交わった。
「っ!」
「百代!」
蛇が大口を開けて百代を飲み込まんと向かってくる。ミズハが庇うように前へ出たが、蛇の口は二人同時に飲み込めてしまうくらいに大きい。
「一か八か――せえぇえいっ!」
無駄な抵抗と知りながら、百代は蛇の頭に向かって振り下ろす。その切っ先が、鼻の頭に触れたとき――
ばしゃん!
大きな水音を立て、蛇の頭が半分に割れた。水しぶきが百代の顔に飛び散ってくる。頬に当たったのは匂いもなければ毒もない、ごく普通の水だった。
半分になった蛇の頭は、水が元の形を取り戻すように傷跡ひとつなく元通りに戻っていった。その後蛇はするすると首を引っ込め、元の位置で動かなくなる。
「……どういうこと?」
まるで起き上がり小法師だ。一度倒れて、勝手に元の位置へ戻っていく。その後、再び倒されるまでは、じっと動かず立っている。
「わかった。この蛇、水でできた人形だ」
「人形? こんなに大きいのが?」
「そう。水源の水をせき止めて、ここに来た人を驚かせるために置いてある。恐怖を感じて逃げ帰った人に、化け物が水源を占領しているなんて噂を広めさせるために」
ミズハは蛇の体に手を乗せる。形があればそのまま乗っているはずの手は、ずぶずぶと沈んでいった。
「じゃあこれって、誰かが意図的に仕組んだってこと?」
「十中八九、そうなるね」
百代の体に緊張が走る。そうだとすれば確実にミズハを狙ったものに違いない。
「犯人はどこかの神? 眷属としてこの人形を作って、ここに置いたとか?」
「いや、眷属だとウズやカガチみたいに個々の意志があるし、自分の力を分けて作るから、神同士だと誰が作ったかはすぐにわかる。でもこれはわからないし……どちらかというと、人間の異能を使って作った感じがするよ」
異能と聞いて、咄嗟に妹の櫻子が浮かんだ。彼女も水を操る強い異能を持っている。とはいえ水の異能を使う者はいくらでもいるので、彼女が犯人と決めつけることはできないのだが。
「この人形を崩せば水源も元に戻るだろうね。問題は、どうやって崩すかだけど」
ミズハは水の柱を生み出して、蛇の体に叩きつける。しかし水の柱は蛇の中に吸収されてしまった。
「百代の木刀も効かないみたいだったから、無闇に攻撃しても意味ないか。異能を使っている者に解除させるのが一番だけど、それが誰かは分からないし……」
ミズハは隣でため息をつきながら、水の柱を引っ込めている。
「異能に、水人形ね……」
その二つを聞いて、百代の中にとある記憶が思い浮かんだ。
あれは確か一度目から三度目の人生で、巫女学校を退学し生贄として捧げられる日野直前のこと。櫻子が異能の実技試験で好成績を収めたらしく、シグレ様のお陰だと上機嫌にすり寄っていた。その時の課題は水を操り、任意の形にするというもので、水系の異能を使う者の中では上級の技術らしかった。
「無能なお姉様にも、私の力を見せてあげるわ」
そう言って彼女は百代の前で、池の水を使って龍の姿を作り上げた。櫻子はそれを見せつけるようにして池の前に放置したまま去ってしまったが、百代は水を奪われた池の鯉たちがかわいそうで、なんとか龍を消せないかと試行錯誤した。そして龍と池の水表が繋がっている部分をたらいで完全に分断し、人形への水の供給を止めると、龍は水に戻ったのだ。
その後百代は龍を崩したと櫻子からめった打ちにされた。初め三回までの人生で、櫻子から暴力を受けたのはそれが最後だったから、よく覚えている。
もしもこの蛇が水の異能によって作られたもので、あの時の櫻子が使っていたものと同じ種類の技術であるならば。
「人形への水の供給を止めれば、崩れるかも……」
百代の呟きに、蛇を調べていたミズハが振り向いてくる。
「百代、異能の解き方を知っているの?」
「む、昔、似たものを見たことがあるの。でもこの蛇に水を供給しているのは水源だろうから、そう簡単にはいかないわよね。水源全体を塞ぐなんてできないし」
「いや、不可能じゃない。僕の力で一時的に水源から水が流れ出るのを止めれば、同じ状況を作り出せるはずだ」
「本当に!?」
身を乗り出した百代に、ミズハはこくりと頷いた。
「もちろん。それくらいの力はあるからね」
「なら、よろしく頼むわ。清めの儀式はできるから!」
百代は持ってきていた神楽鈴を取り出し、ミズハに捧げる音を鳴らす。
鈴の音の中でミズハは目を閉じ、そっと屈んで水源だった場所の地表に触れた。
ばしゃっ!
巨大な蛇の体が弾けた。百代は思わず拳を握る。
「よし、成功ね! さすがミズハ――」
「いや、喜んでる場合じゃないから!」
「えっ?」
太陽の光が遮られ、百代はふと上を見た。大量の水が、大波のように百代たちの上へと落ちてくる。蛇の体を作り上げていた水が崩れたのだ。
「うっ、嘘でしょ!?」
「百代、こっち!」
ぐいと、強い力に引っ張られ、温もりの中に閉じ込められた。ばしゃん、と直後に激しい水音が聞こえるも、体が濡れた様子はない。
「はぁ……水の結界を張れるくらいの力は戻っててよかった」
何が起こったのかわからず目を瞬かせている百代の耳元で、安堵のため息が聞こえてきた。恐る恐る顔を上げると、すぐそこにミズハの紅の瞳が見える。
「はっ……!?」
「大丈夫、百代? 濡れてない?」
ようやく状況を理解した。つまり水がかかる直前、ミズハが百代を抱き寄せたのだ。そしてなんらかの力を使って、濡れないように守ってくれた。
そしていまだに、百代はミズハに抱き留められたままでいる。
「だだだ、大丈夫よ。全然大丈夫だから!」
ミズハの胸を押し返しながら、百代は激しく首を縦に振る。心臓は破裂してしまいそうな程にばくばくと鳴っていた。
ミズハは純粋な善意で助けてくれたのだ。ミズハの胸が案外広かったとか、川辺の草木のようないい匂いがしたとか、そういうことは考えてはいけない。
「そう? ならいいんだけど」
首をかしげながらも、ミズハは百代を解放する。離れていく体温が少し名残惜しいなんて思ってしまうのは、きっと気が動転しているからだろう。
早く気持ちを落ち着けなければと、百代はミズハから視線を逸らす。すると蛇がいた場所に、小さな泉が湧いていることに気がついた。
「ミズハ、あれ!」
「水源が、元に戻ってる……」
蛇の消えた場所に滾々と湧く山水。そこからあふれ出た水流も勢いを増している。じきにこの水が山を下り、草田瀬の村まで届くだろう。隼人の願いである草田瀬の救済は、果たされたのだ。
水源に手を出した犯人など、不安な要素はまだ残っている。けれど今は望みをやりとげた達成感に浸っていたい。
そんなことを思いながら、百代はミズハと肩を並べて笑い合った。


