「僕、お米なんて食べたの久々だよ」
 七歳くらいの男の子が、社殿前の石段の上に座っておにぎりを頬張っている。ふわふわの髪に大きな瞳で、手と口元を米粒だらけにしている彼を、百代は微笑まし気に見つめる。
「そう、まだあるからたくさん食べていいわよ」
「握るのは俺たちだけどな」
「いっぱい作るから、まかせて」
 百代の後ろで、カガチとウズが口々に呟いた。ちなみにミズハは少し離れた場所で、借りてきた猫のように黙って大人しく座っている。
 男の子は名前を隼人というらしい。なんでも神様の噂を聞き、その巫女だという百代の後をつけていたのだとか。先ほど百代たちが感じた視線の正体も、彼だったのだ。
「でもあなた、こんなところに来て大丈夫なの? もちろんミズハはいい神様だけど……村では邪神って呼ばれてるでしょ?」
「じゃしん? っていうの、よくわからないし。神ってついてるから、神様ってことだよね?」
「そうね、その通りだわ」
 百代は隼人の頭を軽く撫でる。子供の素直さに助けられた。上手くいけば、この男の子から草田瀬の状況を聞き出せるかもしれない。
 おにぎりを食べ終えた隼人はぱっと笑顔を咲かせてミズハを見上げた。
「ねえねえ、さっき雨を降らせてたのは、神様だったんでしょ?」
「あー、うん……」
 ミズハは隼人から顔を逸らしながら、ぼそぼそと曖昧に呟いた。自分の眷属と似たような姿なのに、人間の子供はあまり得意ではないのだろうか。
 しかし隼人は大して気にした様子もなく、にこにことミズハを見ている。
「すごいねぇ、神様のお姉ちゃん」
「はぁ……!?」
 この発言にはさすがのミズハもばっと隼人を振り向いた。
「おい不敬だぞ、子供!」
「主さまが、女の子……」
 ウズとカガチも主の性別を間違えられて、複雑そうな顔をしている。
 一方の百代は、耐えきれずに吹き出した。
「あっはははは、お姉ちゃんって! 確かに髪の毛は長いけど!」
「百代……笑いすぎ」
 大笑いする百代を、ミズハは不服そうに横目で睨む。
「ごめんごめん、でもこんな……ふふっ、あなたが喋らないからよ」
「喋らないと女に見えるほど、女顔じゃないでしょ、僕」
「そんなことないわ。綺麗な顔をしてるわよ」
「……それ、今聞くのはすごく複雑なんだけど……」
 ミズハは悲しみと困惑が入り交じったような顔で唇を曲げている。
 百代とミズハのやりとりを聞いていた隼人は、こてんと首を横に倒す。
「神様、お姉ちゃんじゃなくてお兄ちゃんなの?」
「そうよ。髪が長くて真っ黒だけど、中身はすごく優しくて頼りになる他人思いのかっこいい神様なんだから」
「またそういうことを平気で言う……」
 褒めたつもりなのに、何故かミズハは不機嫌そうな声を上げながら、両手で顔を隠してしまった。少しは仲良くなれたと思ったが、彼の反応はいまだによく分からない。
 顔を隠したままのミズハの袖を、隼人は掴んで小さく引っ張る。
「頼りになる神様なら、悪い奴もやっつけられる?」
「……悪い奴? なにそれ」
「水源にいる奴。そいつのせいで、水が減っちゃったって、お父さんとお母さんが言ってた。だからご飯も全然食べられないの……」
 曰くひと月ほど前から村人たちが使っている川の水源が、「悪い奴」とやらのせいで枯れかけて、川の水が日に日に減っているらしい。そこに雨が降らないことも重なって、村では作物が育たなくなってしまったという。
 隼人は膝の上の空になった皿を悲しげに見つめる。彼の家もきっと、作物が取れずに苦しい思いをしてきたのだろう。
「でも神様のお兄ちゃんは、さっき雨を降らせてたし……あいつとは関係ない、いい神様だよね?」
「まあ、そうだね。水源云々とか、心当たりないし……」
 体を乗り出す隼人に、ミズハは若干身を引きながらも頷いた。例え子供が苦手なのだとしても、答えてやるミズハはやはり優しい。
「大丈夫よ、隼人くん。ミズハがいい神様なのは私が保証するわ。だからきっと、お願いすれば叶えてくれるはずよ」
「お願い?」
「そう、お願い」
 百代は首をかしげる隼人の手をそっと握った。
「神様に頼みたいことがあるときはね、その神様のことを信じてお願いするの。神様どうか願いを叶えてください、ってね」
 例えば雨を降らせてくれとか。例えば実りを豊かにしてくれとか。日輪国の人間は、信じる心を神に捧げて彼らに守ってもらっている。この国ができる、ずっと前から。
 そして神と人を繋ぐのが、人間でありながら霊力を持ち、異能という人智を超えた力を持つ巫女の役割――すなわち、百代の役割だ。
「神様のお兄ちゃん……」
 隼人はおずおずと両手を握った。
「どうか、悪い奴をやっつけてください……!」
 願った瞬間、蛍のような白い光が隼人の胸から生まれた。その光はふわふわと舞って、ミズハの体に吸い込まれていく。
 光を受け取ったミズハは目を見開き、自分の両手を凝視していた。隼人の願い――信仰で、少しは力が戻ったのだろう。
「調子はどうかしら、神様?」
「……悪くはないよ」
 ぶっきらぼうなミズハを見て、隼人は不安そうに顔をゆがめた。
「お願い、足りなかった?」
「……」
 ミズハは無言で隼人を見つめた後、その頭をふわりと撫でる。そしてそのまま立ち上がり、社殿の裏へと消えてしまった。
 隼人は撫でられた頭に触れながら、目を白黒させている。
「な、なに?」
「多分、任せとけってことよ」
 百代はミズハの消えた方向を見ながら頬を緩める。人間から久々に信仰をもらって、多少は神としての感情が動かされたのかもしれない。でなければ、人間嫌いな彼が頭を撫でるなんてしないはずだ。
「大丈夫、私も一緒にいくから」
 安心させるようにぽんと隼人の肩を叩いた時、社の入り口の方から焦ったような声が聞こえた。
「隼人! こんなところにいたの!?」
「あっ、お母さん!」
 隼人は表情をぱっと明るくしながら、その場を立って駆けていく。
 その小さな体を、鳥居の先に立つ女性が抱き留めた。
「駄目じゃない、ここに近づくと危ないって言ったでしょう?」
「危なくないよ、巫女のお姉ちゃんがおにぎりくれて、神様のお兄ちゃんに会ったの!」
「っ、その神様は……って、あら?」
 顔を上げた母親と目が合う。その茶色い髪には、見覚えがあった。
「もしかして……都の祭りで荷物を盗まれていた人?」
「泥棒を捕まえてくださった人ですか?」
 隼人の母親は、確かに百代が都の祭りで荷物を取り返してあげた女性だった。まさか草田瀬で会うとは思わず、百代は目を瞬かせる。
「あなた、この村の人だったのね」
「ええ、あのときはどうもありがとうございました。食べ物を買うお金を作るために質に行ったのですが、換えたお金を取られてしまって困っていたので」
「そうだったの、取り返せてよかったわ。私は百代、改めてよろしくね」
「私は、とよと言います。ところで、百代さんはどうしてこの社に?」
「昨日からここの社の巫女になったのよ」
「えっ、この社のですか……?」
 途端にとよは、不安げな顔をする。彼女も他の村人と同じく、ミズハのことを邪神として警戒しているのだろう。
「大丈夫よ、ミズハは悪い神じゃないもの」
「そうだよ、僕もお願い聞いてもらった!」
「っ、隼人!? なにを頼んだの!?」
 とよは焦ったように隼人の肩を掴んで揺さぶった。母親の剣幕に、隼人の目元がじわりと滲む。それに気づいた百代は、とよの肩を軽く引いた。
「とよさん、落ち着いて。ただ水不足を解決してって願いをしただけだから」
「水不足って、それはあの邪神が……!」
「ミズハは何もしてない……って言っても、信じられないのも無理はないわよね。だから無理に信じなくてもいいわ。けど隼人くんのしたことは怒らないであげて」
「……はい」
 とよは不安を顔に浮かべたまま、それでも小さく頷き百代の方に視線を戻した。
「すみません、取り乱してしまって」
「いいのよ、他の村の人はもっとすごかったもの。今日はもう遅いし、暗くなる前に隼人くんを連れて帰ってあげて」
 気づけば西日が差し始めていた。とよはぎこちなく頭を下げ、隼人を連れて踵を返す。
 鳥居の向こうへ去って行く二人の後ろ姿をしばらく眺めて、百代はとよの名を呼んだ。振り返った彼女に、百代は語りかける。
「明日から私とミズハで、水不足の原因を探しにいくわ。隼人くんの願いを叶えるためにね。それでもし、うまくいったら……」
 百代はそこで言葉を切り、とよをまっすぐに見た。
「助けた私に免じて、少しはミズハのことを信じてあげてくれない?」
 とよは百代の言葉に、少しだけ視線を彷徨わせた。しかし結局何も言わずに再び踵を返し、そのまま姿を消してしまった。
「ま、悪くはない反応ね」
 誰もいなくなった鳥居の向こう側を眺めながら、百代はつぶやく。
 最初から返答は期待していなかった。ずっと悪だと思っていたものが、今更善だと言われても、人間はすぐに信じられない。今まさにその被害を受けていると思い込んでいるなら尚更だ。だから足を止めてくれただけでも、好反応だったと言っていいだろう。
「いいのよ。これから行動していけば、きっと変えられるもの」
 地獄のような家と縁を切った。泥棒を止めて大事件を防いだ。邪神と呼ばれた神の巫女にだってなれた。だからミズハの立場だって取り戻せるし――死の運命も変えられるだろう。自分が、進み続けている限りは。
 天に向かって大きく背伸びし、夕風を感じながら目を閉じる。ふと頭の中に、先ほどのミズハの姿が浮かんできた。
 僅かながらも雨を降らせ、隼人の信仰を受け取り淡い光に包まれていた彼は、とても神様らしかった。
(ミズハがあの白い光いっぱいに包まれたら、どうなるのかしら)
 なにせミズハは穢れを纏っている今でさえ、目眩がするほど整っているのだ。きっと美しく、神々しい光景になるだろう。それこそ、多くの人が見とれてしまうような。
 その姿を想像すると――気持ちが高揚するのと同時に、何故だか少し胸が疼いて、百代は「はて?」と首をかしげたのだった。