私たちは夜陰に紛れ、人気のない裏路地を進む。しかし、前方から現れた兵士に道を塞がれた。兵士は私たちを見つけ、歓喜の声を上げる。

「見つけたぞ! 王太子妃だ! 生け捕りにしろ!」

 その言葉に、私はぞっとした。殺されるのではない。生きたまま、何かに利用される。その方が、よほど恐ろしい。
 彼らの欲にまみれた視線が、私の全身にまとわりついた。しかし、クロイツは私を背後に庇い、瞬時に剣を抜く。

「王太子妃殿下に向かって下賤な口を叩くな」

 低い声が、夜の闇に響く。彼の剣は、星の光を反射するように一閃すると、兵士たちの動きは止まった。血飛沫が闇に舞い、鈍い音が響く。彼の剣は、まさに死の宣告。その隙を逃さず、クロイツは私を連れて再び走り出した。
 彼は、私を守るためなら、いかなる命も躊躇なく奪う覚悟を秘めていた。私はその冷徹さに震えながらも、彼に命を預けるしかないことを悟る。
 混乱の最中、クロイツは私を小さな扉の前に導いた。

「こちらへ」

 彼が押し開けた扉の奥は、薄暗く埃っぽい空間だった。そこは、ひっそりとした商家の裏口で、夜の闇に紛れて、ひそかに灯りが漏れているのが見える。
 彼は慣れた様子で、裏口の扉をノックする。少しの間をおいて、中から警戒を帯びた声が聞こえ、扉がわずかに開いた。

「ん、クロイツか! お前、こんな時間に……」

 中から顔を出したのは、クロイツと同じくらいの歳の、精悍な顔立ちの男だった。彼の目に、私たちを見た驚きの色が浮かぶ。

「すまん、暫しかくまってくれ」

 クロイツの言葉に、男は一瞬躊躇するが、すぐに状況を察したのか、私たちを中へと招き入れた。

「訳アリだな。奥へ。ここならひとまず安全だ」

 男は私たちを店の奥の部屋に通し、すぐに扉を閉めた。部屋の中は、様々な雑貨や織物が積まれており、かろうじて身を隠せるほどの広さだった。
 男は息を整え、私たちに水を差し出してくれた。

「一体何が起こったんだ? 王都はひどい混乱だ。兵士たちが大勢行き交い、何かを叫んでいるが……」

 クロイツは簡潔に王宮で起こったことを簡潔に説明した。クーデター、国王陛下やアルバート様の安否、そして保守派の襲撃。男は、信じられないという顔でクロイツの言葉を聞いている。

「本当か! でもお前が冗談言うはずないしな……」

 顎に手を当て少し考えこんだあと、男は言葉を繋いぐ。

「そう言えば、通りで兵士たちが叫んでいる声は聞こえた。『事は成就した!我らが正義となる!』とか。そして、その後に耳を疑うような言葉が……」

 男は苦しげに顔を歪め、私たちに告げた。

「『国王は死んだ』と。そして、『王太子や公爵も無事に始末できた!』と……」

 その言葉を聞いた瞬間、私の心は引き裂かれた。アルバート様だけでなく、国王陛下までが…。そして、父までもが殺されたのだと知り、私の全身から力が抜けていく。耳に入ってくる話は、噂かもしれないが、どれもこれも恐ろしいものばかりだった。
 
 愛する夫を失い、さらに父までも。故郷も、家族も、何もかもが一度に失われた事実が、冷たい刃となって、私の心を深く突き刺す。私は、悲鳴を上げたいのに、喉が張り付いたように声が出ない。ただ、とめどなく涙だけが溢れ出す。

「やはりな。お前、王太子妃さまを護ってきたのか?」

 私の様子を見て確信したのか、男はクロイツに声を掛ける。

「知らない方が君の為になるだろ」
「確かにな」

 二人の間で交わされる言葉の端々から、互いへの深い信頼が感じられた。きっと親友なのだろう。

 二人は、私に構わず会話を続ける。

「しばらくここに居ろ。今すぐ逃げるのは危険だろ?奴らは王都の全ての門を固めているはずだ」
「君にこれ以上迷惑はかけられない」

 心配する男の提案に対して、クロイツは静かに首を振り答えた。

「それに、王都外れに、今は使っていないワイン貯蔵庫がある。ブドウの搬入のために、城壁の外への通用門もあるはずだ」
「なぜそんな場所を知っている?」

 男は訝しげに尋ねる。

「盗人のアジトとして利用されていたようで、討伐した兵から直接聞いた。そして先日、自ら確認した」
「お前、この騒動を予測してたのか?」
「いや、万が一に備えていただけだ」

 クロイツの言葉に、男は納得した表情をした。

「といってもすぐに出るのか?」

 その問いにクロイツは何も答えず頷く。

「そうか……」

 男の言葉はどこか寂しげだった。

「すぐにそこへ向かおうと思います。よろしいでしょうか?」

 クロイツの言葉に、私の中で小さな決意が生まれた。このまま悲しみに暮れているわけにはいかない。今は、生き延びること、それだけだ。男は、私をじっと見つめ、何かを察したように言った。

「さすがに、そのドレスでは目立ちすぎるでしょう。これに着替えてください」

 男は粗末な町娘の服装を差し出す。私は頷き、震える手で純白のドレスを脱ぎ捨て、泥と埃と血で汚れた肌を拭う。町娘の服は、私の身分を隠すには十分なものだった。着替えることで、王太子妃としての私が、この服と共に消え去る。その感傷よりも、生き残ることへの本能が勝っていた。
 私が着替える間にクロイツも甲冑を外し、平服に着替えていた。甲冑姿は目立ちすぎるうえに、そもそも重いから逃げるのは不向きなのだろう。

 身支度を終え、私たちは男に別れを告げ、再び夜の王都へと足を踏み出した。ワイン貯蔵庫へ向かう道中、私たちは信じられない光景を目にする。
 通りには血が流れ、黒い染みとなって石畳に広がっていた。王宮からは火の手が上がり、夜空を赤々と染め上げる。さらに、焦げ付いた煙の匂いが鼻腔を突き、街が死にゆく獣のように呻く。

 所々に倒れ伏す人影があり、彼らがもう二度と動かないことを知ると、私は反射的に視線を逸らした。
 けれど、その光景は、私の網膜にしっかりと焼き付く。

 途中、数人の追っ手と遭遇したが、クロイツは熟練の猟師さながらに、彼らを次々と撃退する。
 彼の剣技は、もはや人間の域を超えているように思えた。
 私はただ、彼の背中だけを頼りに、必死に彼の後を追う。

 ようやく朽ちかけたワイン貯蔵庫に辿り着き、クロイツは迷うことなく、壁に隠された通用門を探し当てた。
 重い扉が軋む音を立てて開く。そこは、王都の外だった。

 私たちは、王都を脱出し、いくばくか走って見晴らしのよい丘についた。振り返ると、クーデターの混乱からか、王宮から巨大な煙が立ち上っているのが見えた。その煙は、都市の輪郭を曖昧にし、影の中へと沈めていく。

 その景色を目にした瞬間、再び底知れぬ虚無感が押し寄せ、悲しみに打ちひしがれた。私はその場で、膝から崩れ落ちそうになる。

 それでも、クロイツは一切の躊躇なく、私の手を引いた。

「どこに逃げるの?」

 帰る場所はもうない。

「王太子妃殿下の御父上の領地へ」

 そして、彼は私を支え、そのまま走り続ける。

 私は、屍のような存在。

 しかし、彼の力強い腕が、私がまだ生きていることを教えていた。