カチュールの提案を拒絶した後も、私の心は葛藤の渦中にあった。

「深紅の女神の末裔」として民衆の旗頭になる。

 その預言に乗ることへの批判、私に果たしてそこまでの資格があるのかという不安、そして、その重責を負うことへの純粋な恐怖が、私を押し潰しそうに感じられた。
 シリエルの警告がなければ、私は辺境伯の館から逃れる具体的な機会を得られず、状況はさらに泥沼化していたかもしれない。しかし、その警告は、単なる危機回避の知識だけでなく、混迷するこの国で、自分がいかにあるべきかという、あまりにも大きな問いかけだった。

 侯爵家の客室に戻った私は、深く息を吐きながら、窓の外に広がる闇を見つめた。夜は更け、しんとした静けさが、私の心のざわめきを一層際立たせる。
 そんな私の傍に、クロイツが静かに寄り添ってくれる。彼は何も言わず、ただそこにいるだけで、私の心を落ち着かせる不思議な力を持つ。彼の存在だけが、私の心を繋ぎとめる唯一の錨だ。

 私は彼に、自分の感情を全てぶつける。戸惑い、不安、そして何よりも、この重荷から逃げ出したいという弱さを。

「クロイツ……私は、本当にあの預言の女神になれるとでもいうの? 民衆の希望を背負うなんて、私にはできないわ。公爵家の屋敷で守られてきただけの、無力な私に、そんな大それたことができるはずがない。私はただ、この国を正し、愛するあなたと共に生き抜きたいだけなのよ……」

 震えた私の声は、溢れ出した感情を塞き止められなかった。
 私は、彼がこれまでどれほどの苦難を乗り越え、私を護ってくれたかを知っている。
 彼の献身に報いるためにも、私は強くならなければならないと、心のどこかでわかっていた。
 しかし、「女神」という言葉の重みは、私の想像を遥かに超えていたのだ。

 クロイツは私の苛立ちを静かに受け止めた。そして、彼の口から出た言葉は、普段からは想像できないほど、微かな熱を帯びていた。

「マリー様。これは、わが友、ローレンが夢見た未来です」

 彼の声は、静かでありながら、確固たる響きを持っている。その言葉に、私は息をのんだ。彼の面差しに深い悲しみが滲むが、それ以上に、燃え盛るような決意の炎が、その瞳の奥に宿っていた。

「彼は、誰もが平和に暮らせる国を夢見ていた。貴族も平民も、身分に関係なく、誰もが笑顔で暮らせる世界を。そして、貴女(あなた)様は……」

 彼は一瞬言葉を詰まらせたが、私の手をそっと握り、その温もりを伝えた。

貴女(あなた)は、その夢を実現できる唯一の存在です。あの預言は、貴女(あなた)のためにあります」

 彼の瞳は、私をまっすぐに見つめ、強い信頼を宿している。その視線は、私がこれまで自分自身に見出せなかった強さを、見つけ出してくれたかのように感じられた。彼の言葉は、私の弱さを打ち破る鋭い刃そのものだった。


 その瞬間、私の脳裏に、幼い頃、書斎でローレン兄さんが私を抱きしめながら語った言葉が鮮明に蘇った。

「お前なら、きっとこの国の未来を、誰よりも素晴らしいものにできる。私がお前を守るから、心配いらない」

 兄の言葉、そしてクロイツの言葉。二つの声が、私の心の中で一つになった。クロイツの言葉は、亡き兄の遺志をどれほど重く受け止めているか、そして、その未来を私に託そうとしている彼の揺るぎない思いを、私に改めて認識させる。
 彼は、兄への誓いを果たすためだけでなく、私という人間を信じ、私と共に戦う覚悟を、改めて示してくれたのだ。

 今までの旅路で、クロイツがどんな時も私を守り、支え続けてくれたことを思い出す。

 荒野をさまよい、森を抜け、野盗と戦い、辺境伯の罠から逃れた日々。

 彼の献身、兄との絆、そして私への揺るぎない信頼。

 それらが全て私の中で繋がり、私の心を埋め尽くしていた漠然とした感情は、確かな愛へと変わる。彼への愛は、恐怖や不安を打ち消し、私に新たな勇気を与えてくれた。

 私は迷うことなく、彼の顔を両手で包み込む。彼の頬に触れる指先は、吸い寄せられ、熱を帯びた。彼の瞳が、私を静かに見つめ返している。その瞳には、私への深い愛情と、私の決断を待つ期待が満ちていた。

 そして、私は、自分から彼の唇に触れる。
 彼の唇は優しく、そして熱を帯びていた。触れ合った瞬間、私の全身を熱い電流が駆け抜け、閉じていたはずの瞳の奥に、兄の笑顔と、クロイツの揺るぎない信頼が稲妻のように閃く。
 それは、これまでの全ての喪失を洗い流し、新たな希望を灯す口づけであった。吐息が混じり合い、互いの温もりが肌を通して流れ込んでくる。その温もりこそが、暗闇を照らす唯一の光だと確信する。
 このキスは、私が預言の重責を受け入れ、この国の未来のために立ち上がる、という決意の証となった。

 彼の唇から離れると、私は彼をまっすぐ見つめた。そこには、私の決意を受け止める、静かで確かな意志が息づいている。
 私たちの手は、しっかりと握り合わされたままだった。

「もう迷いはありません、クロイツ」

 私が彼の名前を呼ぶと、彼の深緑の瞳が、微かに揺れた。そして、ゆっくりと、しかしはっきりと、私の名を呼んだ。

「……マリー」

 その言葉と共に、彼は私の顔をそっと引き寄せ、再び唇を重ねる。今度は、彼から。静かに、しかし深い情熱と、私を護り抜くという決意に満ちた、確かな口づけだった。

 夜明けとともに、新たな戦いが始まる。
 そして、その戦いは、きっと私たちを、より強い未来へと導いてくれるはずだ。