夜が明けた。辺境伯領を目指す旅は続く。森の奥深くは相変わらず薄暗く、静寂に包まれている。足元から響く枯れ葉の音、風が木々を揺らす微かな音が、この世界の現実を突きつける。マリー様は、私の隣を黙々と歩いている。その小さな背中を、私はただ見つめていた。
昨夜のことが、頭から離れない。
あの焚き火の傍で、彼女が語った兄ローレンとの思い出。無邪気な少年時代の話、そして、国王陛下を護るために命を散らした彼の最期。
悲しみと後悔に満ちたその声は、私の胸の奥深くまで響いた。そして、その中に確かに灯されていた、未来への希望。彼女の瞳に輝く、決して諦めぬ光を、私は忘れることができない。あの時、私の胸に広がった温かさは、一体何だったのか。
ローレンの最期の言葉は、私の全てだった。血に染まった彼の唇が紡いだ「この国の未来を、そして……妹を頼む」という言葉。
それは、彼を救えなかった贖罪の念であり、託された誓いでもあった。それが、私という存在を形作る、唯一の楔だった。
私は、感情というものを排除して生きてきた。騎士としての任務を全うすること。友との誓いを果たすこと。王都の喧騒も、宮廷の陰謀も、私にはただ取るに足らない事柄に過ぎなかった。感情に囚われることは、騎士にとって最大の敵だと、そう教えられ、信じてきた。
しかし、マリー様と共に過ごすこの日々は、私の内に明確な変化をもたらす。
彼女の疲労困憊した姿を見れば、休ませてやりたいと願わずにはいられない。しかし、彼女はあきらめなかった。その強さに、私は静かな驚きを覚える。
危険に晒されれば、どんな犠牲を払ってでも護りたいと、抗しがたい衝動に駆られる。それは、ただの任務ではない。そして、彼女が僅かにでも安堵した表情を見せれば、私の心が静かに、しかし確かに和らぐのを感じるのだ。
これは、ローレンの遺言を果たすためだけの感情なのか?
私は自問する。
護るべきは、王太子妃という立場だけではない。彼女という、一人の人間、マリーという存在そのものを護りたいと、強く願っている。その想いは、これまでの私の「義務」という枠を超えて、確かな形を帯び始めているように感じられる。それは、凍てついた私の心が、ゆっくりと温められていく感覚だった。
何故、これほどまでにこの女性のことが気になるのか。彼女の小さな身のこなし、ふとした仕草、そして、ふとした瞬間に垣間見える、希望を宿した眼差し。それら一つ一つが、私の意識を捉えて離さない。彼女の笑顔を見たいと願うのは、なぜなのか。冷徹だったはずの私の心は、彼女の存在によって、静かに、しかし容赦なく揺さぶられている。
騎士として、常に冷静であるべきと学んできたはずだ。しかし、彼女を前にすると、その鍛え抜かれた心が、まるで別の意思を持つかのように乱される。これは、私の知るいかなる感情とも異なる。抗いようのない、未知の引力だ。
だが、同時に、私の胸には別の感情が渦巻く。彼女は亡きローレンの妹であり、そして王国の王太子妃であり、公爵令嬢だ。私ごとき一介の騎士が、そのような感情を抱くなど、許されるはずがない。それは、ローレンへの裏切りであり、何よりも彼女への冒涜だ。身の程を知れ。私の内なる声が、そう厳しく囁く。
それでも、この想いは消え失せない。抗おうとすればするほど、深く根を張っていく。
これから様々な危機が彼女に訪れるだろう。しかし、私には、どんな犠牲を払ってでも、マリー様を護り抜く覚悟がある。それが、ローレンへの誓いであり、そして、この身を焦がす、まだ名もなき感情が求めることだ。私の心が、静かに、しかし明確にそう訴えかけていた。
再び、隣を歩くマリー様の背中を見つめる。風をはらんだ深紅の髪の下、彼女の背中はか弱く見えた。だが、その中に、この国の未来を背負う、途方もない強さを感じる。
今は、この胸の内にある感情を、彼女に伝える術も、その時でもない。私は、彼女を護る。ただ、この身を以て、彼女を護り続けること。
それが、今の私にできる、唯一のことだ。
そして、この過酷な旅路を歩む意味なのだと、確信していた。
昨夜のことが、頭から離れない。
あの焚き火の傍で、彼女が語った兄ローレンとの思い出。無邪気な少年時代の話、そして、国王陛下を護るために命を散らした彼の最期。
悲しみと後悔に満ちたその声は、私の胸の奥深くまで響いた。そして、その中に確かに灯されていた、未来への希望。彼女の瞳に輝く、決して諦めぬ光を、私は忘れることができない。あの時、私の胸に広がった温かさは、一体何だったのか。
ローレンの最期の言葉は、私の全てだった。血に染まった彼の唇が紡いだ「この国の未来を、そして……妹を頼む」という言葉。
それは、彼を救えなかった贖罪の念であり、託された誓いでもあった。それが、私という存在を形作る、唯一の楔だった。
私は、感情というものを排除して生きてきた。騎士としての任務を全うすること。友との誓いを果たすこと。王都の喧騒も、宮廷の陰謀も、私にはただ取るに足らない事柄に過ぎなかった。感情に囚われることは、騎士にとって最大の敵だと、そう教えられ、信じてきた。
しかし、マリー様と共に過ごすこの日々は、私の内に明確な変化をもたらす。
彼女の疲労困憊した姿を見れば、休ませてやりたいと願わずにはいられない。しかし、彼女はあきらめなかった。その強さに、私は静かな驚きを覚える。
危険に晒されれば、どんな犠牲を払ってでも護りたいと、抗しがたい衝動に駆られる。それは、ただの任務ではない。そして、彼女が僅かにでも安堵した表情を見せれば、私の心が静かに、しかし確かに和らぐのを感じるのだ。
これは、ローレンの遺言を果たすためだけの感情なのか?
私は自問する。
護るべきは、王太子妃という立場だけではない。彼女という、一人の人間、マリーという存在そのものを護りたいと、強く願っている。その想いは、これまでの私の「義務」という枠を超えて、確かな形を帯び始めているように感じられる。それは、凍てついた私の心が、ゆっくりと温められていく感覚だった。
何故、これほどまでにこの女性のことが気になるのか。彼女の小さな身のこなし、ふとした仕草、そして、ふとした瞬間に垣間見える、希望を宿した眼差し。それら一つ一つが、私の意識を捉えて離さない。彼女の笑顔を見たいと願うのは、なぜなのか。冷徹だったはずの私の心は、彼女の存在によって、静かに、しかし容赦なく揺さぶられている。
騎士として、常に冷静であるべきと学んできたはずだ。しかし、彼女を前にすると、その鍛え抜かれた心が、まるで別の意思を持つかのように乱される。これは、私の知るいかなる感情とも異なる。抗いようのない、未知の引力だ。
だが、同時に、私の胸には別の感情が渦巻く。彼女は亡きローレンの妹であり、そして王国の王太子妃であり、公爵令嬢だ。私ごとき一介の騎士が、そのような感情を抱くなど、許されるはずがない。それは、ローレンへの裏切りであり、何よりも彼女への冒涜だ。身の程を知れ。私の内なる声が、そう厳しく囁く。
それでも、この想いは消え失せない。抗おうとすればするほど、深く根を張っていく。
これから様々な危機が彼女に訪れるだろう。しかし、私には、どんな犠牲を払ってでも、マリー様を護り抜く覚悟がある。それが、ローレンへの誓いであり、そして、この身を焦がす、まだ名もなき感情が求めることだ。私の心が、静かに、しかし明確にそう訴えかけていた。
再び、隣を歩くマリー様の背中を見つめる。風をはらんだ深紅の髪の下、彼女の背中はか弱く見えた。だが、その中に、この国の未来を背負う、途方もない強さを感じる。
今は、この胸の内にある感情を、彼女に伝える術も、その時でもない。私は、彼女を護る。ただ、この身を以て、彼女を護り続けること。
それが、今の私にできる、唯一のことだ。
そして、この過酷な旅路を歩む意味なのだと、確信していた。



