そして次の日、やはり昼時に再び蹄の音が聞こえてきた。三度目となればさすがに音で区別がつく、ユリウスの馬だった。

 ノックされる前に扉を開けると、やはりユリウスが馬から降りるところだった。リサが出てきているのを見て眉を吊り上げたが、すぐに「忙しい時間帯にすまないな」と口早に謝罪した。

「いえ……あの、今日は一体……?」
「昨日もらった薬が大変よく効いて助かった」
「あら、それはよかっ――」
「だからその礼をしに来た」
「え? いえあれは扉のお礼で……」

 お礼にお礼は不要です、そう口にする前にユリウスは馬から荷物をおろす。その手にあったのはパンや肉にワイン――騎士団内で配給される食事だった。

「これ……これは、ユリウス様のものではないのですか?」
「俺が礼をするのに俺以外のものを持ってくるわけあるか」
「そういう意味ではありません!」

 薄々気付いていたことだが、リサは遂に確信した。

 このユリウスという騎士団長は、“いい人”なのだ。部下が勝手に村娘を訪ねたことに謝罪し、その不始末と思しきものを当然のように引き受け、自分以外の村と部下の安否しか頭にない。そのせいでところどころ会話が噛みあわない。持ってきた食事も、どう見ても丸々一食分だ。見るからに豪勢ではないところも、このユリウスならば「騎士団長にも部下と同じ食事を」と指示した様子が分かるようだ。

 馬鹿正直と紙一重ともいえる“いい人”。困惑しているうちに、ユリウスは食事の入ったバスケットをリサに押し付けた。

「確かに渡した。では」
「いえ、あの、ですから、薬は扉のお礼でしたし、薬が少々多すぎたとしてもこの食事こそお礼にしてはいただきすぎで……」
「俺は見合うと判断した」

 リサの薬にはそれだけの価値があった――そう言ってもらえるのは嬉しく、つい頬を緩めてしまうが、もらい過ぎには変わりない。その不釣り合いな対価関係を受け入れるわけにはいかなかった。が、ユリウスは耳を貸さずに馬に乗ろうとしている。

「では、一緒にいただきませんか」

 手綱を引き、今にも駆けようとしていた手が止まる。急に命令を変えられた馬はブルルッと少し憤慨し、ユリウスの手が「悪かった」とその首を撫でた。

「……それは貴様にやった。俺の食事ではない」
「私がいただいたものですから、私が誰と食べようと自由でしょう?」

 じと……と黒い目が再びリサを睨み付ける。しかし、初めて会ったときとは異なり全く怖くない。なんならおそらく、睨んでいるつもりはない。考え込んで難しい顔になっている、その程度なのではないか。目つきが悪くて損するタイプかもしれない。

「……では世話になる」

 ユリウスを小屋に招き入れたリサは、テーブル越しにユリウスを見て少々不思議な気分になった。ただでさえこの村には若い男はいないうえ、ユリウスは平均的な男性よりも体格がいい。そのせいで、小屋の中にいるユリウスが、ごっこ遊びの家の中に入ってきた大人のように見えてしまうのだ。

 山羊の乳とチーズを用意しながらユリウスを見ていたリサは、その違和感にふふっと笑いを零してしまう。

「なんだ。俺の顔がおかしかったのか」
「いえ、珍しいお客がいるものだと思ってしまったのです。いま、騎士団はお昼の休憩時間ですか?」

 パンにナイフを入れると、思ったよりは硬かったが、それでも普段口にするパンよりはずっと柔らかかった。この土地では豪華な食事をとることはできないとはいえ、騎士団であればそれなりのものは配給されているのだろう。

 午後、カスパーが来る予定だからとっておこう。そうしてパンの半分をユリウスの前に置き、もう半分をバスケットに戻すと、途端にユリウスの顔が険を帯びた。

「やってくる村の連中に分けるつもりか?」
「え? ええ……」
「俺は貴様の薬の対価としてこの食事を持ってきたんだが」

 トンッと指がテーブルを打つ。

「対価に不釣り合いだと半分返すのはまだ分かる。が――施しの精神はご立派だが――俺にも失礼だと思わないのか」

 そう言われて初めて自分の過ちに気付き、リサははっと息をのむ。今度は本当に睨まれていた。

「……それは……そのとおりでございました。せっかくのご厚意を無下にしまして、失礼しました」
「大体、そのたった半分のパンで何ができる。一人の老人に与えてそれで終いだ。そのとき他の連中にはなにを渡す? 同じパンを食わせてやれないなら、まあ確かに貴様は“聖女のようだ”とは呼ばれなくなるだろうな」

 鋭い言葉に、キリッと胸が痛んだ。

 “なぜ私はだめなのですか?”“私が貴族ではないからですか?”――そう言われたことがあった。

 “他人を差別するあなたは聖女なんかじゃない”と。

「……パンを渡すのは、貴様ではなく我々だ」

 顔を上げると、ユリウスはもうリサを睨んではいなかった。

「人は貪欲だ。与えられたものに最初は感謝しても、いつか当たり前になり、感謝しなくなる。過剰に与えれば、その過剰さを裕福さと勘違いして筋違いの恨みや妬みさえ抱く。身の丈に合わぬ施しを与えれば、貴様も村人も不幸になるぞ」
「……この村の人は、そんな方ではありません」
「そうかもしれんな。しかし過剰な善意は他人を狂わせる」

 黙り込んだリサの前で、ユリウスは自分のパンをかじった。自分のものをバスケットに戻して村人へ分け与える足しにすればいい――なんて躊躇いは微塵も見えなかった。

「失うことに合理はなくとも、得るためには対価が必要だ。貴様は仕事をしたから食事という対価を得た。村の連中も食事を欲するなら対価を要する。分かったら黙って食え」

 “この子を治して”“だって“簡単に治すことができるんでしょう”――リサはまた昔のことを思い出す。

「……はい」

 そっとパンにかじりつく。切ったときに感じたとおり、スープに浸す必要がないほど柔らかかった。

 でも、本当に、自分だけがこれを食べていていいのだろうか。心がまだ晴れないでいると、ユリウスが溜息を零した。

「……村の連中が既に対価を払っているのは承知している」
「……え?」
「この地は辺境ゆえに紛争も多く、騎士団(われわれ)のために特別な負担も課せられてきた。そのわりに、いやそれゆえにというべきか、生活が貧しいのはここ数日で見てとれた。責任を持って我々が対処するから、余計なことはするな」

 それきりユリウスは黙って食事を続けた。リサもパンをかじりながら、じっとユリウスの言葉を考えていた。

 食事を終えると、ユリウスは「邪魔をした」とすぐに立ち上がり小屋を出て行く。答えを得たリサは、その後ろ姿を追いかけた。

「私の薬、買い取っていただけますか?」

 馬に乗ったユリウスは答えなかった。リサはさらに付け加える。

「薬草を摘むだけでしたら、私以外の人にもできます。森に入る体力のない人には煎じてもらいます。それでいかがでしょう?」

 そこまで聞いて、初めてユリウスは笑みを零した。会って三度目にして初めて見る笑みに、リサの心臓が少し跳ねる。

「いいだろう。いつ取りにくればいい」
「三日後……いえ、二日後の夕暮れに」
「承知した。質のいいものを頼む、リサ」

 あれ、名前、知ってたんだ。後ろ姿を見送りながら、驚きの混ざった不可解な感情が、胸を鳴らしていた。