クラリッサは、深い森を前に立ち尽くし、ぼんやりと風の動きを見ていた。
「――クラリッサ」
蹄の音に振り向くと、ユリウスが迎えに来てくれたところだった。腕を引かれて馬に乗り、クラリッサは背中をユリウスの胸に預ける。
「新当主はいかがでしたか?」
「先代よりも随分と素直で人が良さそうで、逆に心配事になりそうだった。君のことも気にしていた」
「私のことですか?」
「ああ。なにせ今回の疫病を終息させた功労者だ」
微かに振り向くと、ユリウスも少し首を傾けた。眼帯で塞がれていないほうの目が、クラリッサの目と至近距離で見つめ合う。
「先代辺境伯の提案にもあったが、君さえ望めば相応の地位を約束できると。それこそ、帝都の薬草庫を復旧させるのも容易なはずだが、話を受ける気はあるか?」
ユリウスの屋敷に住むようになったとはいえ、相変わらずクラリッサはこうして森までやってきては手を泥だらけにして草を採り、冬にはあかぎれも作りながら薬を調合する、そんな生活をしている。
しかし、宮廷薬剤師になれば、もっと環境の整った場所で薬の研究ができるだろう。いわば臨床からは離れ、日々カスパーや騎士団のための調剤に追われず、自分の好きな調剤に専念できる。
そんな提案を、クラリッサは丁重に断った。ユリウスは怪我が原因で辺境の騎士団長を辞すことになったものの、指導者の立場で残っているし、もし宮廷薬剤師になればユリウスと離れて暮らすことは免れない。
「私は結構です。そもそも今回の件は私ではなく、知識を受け継いできた一族に感謝すべきことですし。そうだ、それなら離散した一族を呼び戻していただけると嬉しいですよ。きっと皆よく働きます」
グラシリア家は草の虫と揶揄されるほど薬草研究が好きなものばかり、それがまた宮廷薬剤師にしてもらえるとなれば喜んで昼夜問わず調剤に明け暮れてしまうに違いない。
ふふ、と笑いながら、クラリッサは手綱を握るユリウスの左手に手を添えた。手綱は指の間に引っかかっているだけで、握ることはできていなかった。
「それに私は、ユリウス様とこの村で暮らしていくほうが幸せですから」
「……そうか」
ユリウスは、クラリッサの小麦色の頭に、ふわふわと顔を埋めた。
「それなら、よかった」
かつて偽物聖女と糾弾され追放された“聖女クラリッサ”、彼女はいまも辺境の村でひっそりと暮らしてる。



