匂いたつ土の香りに、薬草を摘んでいたリサは顔を上げた。その瞳は曇りのない春空、髪は春の穏やかな日差しの色。ただ、見つめる先の空には分厚く濁った雲が流れ、眩しい太陽はその姿を隠そうとしていた。

「……濡れる前に帰らなきゃ」

 念のためカゴに布をかけ、小屋へと急ぐ。うなじの後ろで結んだ三つ編みが、パタパタとしっぽのように跳ねた。

 すると、ちょうど扉の前にカスパーがその隻腕で杖をついて立っていた。カスパーはリサの家から少し離れたところに住んでいて、年のせいか膝が痛くて仕方がないといつも嘆いている。

 リサが駆け寄ると、気付いたカスパーが振り向き、その白い眉尻を嬉しそうに下げた。

「ああ、リサ。よかった、留守かと思ったんだけれど」
「ごめんなさい、ちょうど薬草を摘みに行っていまして。もしかしてしばらく待っていらっしゃいました?」

 挨拶もそこそこに扉を開け、リサは椅子を勧める。カスパーは膝が悪くて長く立っていられないし、なによりもうすぐ雨が降るから普段より痛みがひどいはずだ。

「ありがとう、リサ。大丈夫だよ、本当に来たばかりだから」
「お薬が切れましたか? それともなにか別に気になることが……」
「いや、いつもの薬をもらいに来ただけだよ。リサのお陰で、膝の痛み以外はすっかりよくなってね」

 カスパーは左足の膝小僧の内側を撫でる。いつもの症状だと確認できたリサは「それならよかったです」と摘んだばかりの薬草を脇に置いた。

「お薬をご用意しますから、少しお待ちくださいね……あら」

 調合済みの薬を棚から取り出しているとき、リサの耳に、遠くから蹄の音が届いた。

「……馬の音がしませんか?」
「ん? 私には分からんよ、年を取ると耳が遠くてねえ」

 いいや、間違いなく聞こえる……。リサは薬を置き、注意深く耳を澄ませた。二頭以上いるし、その音はどんどん近くなっている。この小屋は辺境の村のそのさらに端で、何かの通り道というわけでもない。ということは、目的地はこの小屋……。

 もしかして、バレてしまった。さっと顔から血の気が引くのを感じたとき、ドンドンドンとけたたましいノック音が響いた。

「聖女はここか?」

 次いで、バンッと大きな音と共に扉が開けられた。あまりの乱暴さに、開けられたというよりは蹴り上げられたかのようだった。古く粗末な扉は、ギイギイと揺れながら、前後だけではなく上下にも揺れていた。

 やってきたのは騎士の二人組だった。固まっているリサととぼけた顔で振り向くカスパーを見比べ、彼らはリサに対して(まなじり)を厳しく吊り上げる。

「貴様……貴様が聖女だな? 今すぐ来てもらおう」
「ち、違います……私は、聖女ではありません」

 ふるふるとリサは弱々しく首を横に振った。騎士の一人が「嘘をつけ!」と声を張り上げる。

「この村に聖女がいると聞いた。村の病人や怪我人を治療して回っているようだな。ここから10キロと離れない国境沿いで紛争が生じ、死傷者が多くでた。いまは沈静化しているが、このままではこの村も危ないのだぞ。それを、ただ一人の老いぼれの治療に忙しいからと嘘をつくのか?」
「いえ、それは誤解でして……私はあなた方が求めるような聖女ではなく」
「騎士様、この子のいうとおりです」

 ゆっくりとカスパーが腰を上げ、それを見たリサは慌ててその腕に手を置き押しとどめようとする。しかし、カスパーは老人とは思えない強さでリサを制しつつ立ち上がった。

「この子はなにも特別な力で我々を治してくれるわけじゃない。そこをご覧ください、これでもかと葉っぱが並んでおるでしょう。この子がそこの山で摘んでくるもんです」

 騎士の視線は疑うように棚を一瞥する。カスパーもその視線を追って「あの葉っぱを擦って、それはもう苦い苦い薬を作るんですよ」と冗談交じりに顔をしかめた。

「しかし、その薬がよく効きましてね。うちの村では少々怪我してもそんなおおごとにはならんくなったし、そこのばあさんは腰が痛まんくなったし、あっちの子どもが元気に生まれたのもそう。私も、ない腕が痛むことはなくなりました。だからうちの村では、この子を聖女のようだと言っとるんですよ」
「ふん、詭弁だな」

 失ったはずの腕が痛むことは仲間からよく聞いて知っている。だからこそ、それを和らげるなど聖女の特別な力によるものに違いないと、騎士は一蹴した。

「そのような薬があるものか。大方、薬草を煎じるふりをして聖女の力を使っているのだろう」
「もしそうなら、この子は落ちこぼれの聖女ですぞ。なんたって薬は苦いし、飲んでも立ちどころに傷が癒えるわけではありませんからなあ」
「いま痛みが消えたと言ったではないか」
「そりゃ、薬を飲んでる間だけですな。正確には薬をちゃんと飲んで、何日か経ったらちょっとマシになっとる。もちろん我々年寄りにとってはありがたいことですけども、それだけですからなあ」

 困ったもんだと言わんばかりにカスパーはかぶりを振った。

「それでももし聖女なら、酒を薬に変えてくれんかねえ」
「カスパーさん、お酒は駄目だって言ってるでしょ!」

 ホッホッホと笑ってはいるが、あながち冗談でもなさそうだ。かばってくれたとは分かりつつも、リサはつい呆れてしまった。

 騎士たちは顔を見合わせる。確かに薬草が置いてあるし、もしかすると本当に聖女ではないのかもしれない。しかし、カスパーがリサのために嘘をついている可能性もある。なにより騎士団が危機に瀕しているのは事実だ。

「話は分かった、だが一度騎士団まで来ていただく」
「え……」
「我が国の状況をその目で見てもらう。そうすれば気も変わるだろう」
「だ、だから私は、聖女ではないのです! 離してください!」
「やめなさい!」

 リサは問答無用で腕を掴まれ、それを止めようとしたカスパーは思わず杖を離してしまい、盛大に転んでしまった。

「カスパーさん! 離してください、カスパーさんは膝が悪いんです!」
「お前が大人しく来ればいい話だ! いいから来い!」

 痛い……! 抵抗したその腕に爪が食い込んだ。

 もしこのまま連れていかれてしまったら、カスパーさんの薬はもちろん、他の方への薬も処方することができなくなる……! リサは頭の中に村の人々の顔を浮かべ、薬の処方順序を素早く確認した。

「カスパーさん、カスパーさんの薬は棚の2段目、右から3つめです。申し訳ないんですが、明日か明後日にはピーアさんがいらっしゃるのでそのときは3段目一番右側の薬とそのすぐ下の薬を合わせていただいて――」
「こちらは急いでいるんだ! 喚いてないで早く――」

 そのとき、再び蹄の音が響いた。騎士まで含めてそろって顔を向けると、まるで疾風のような勢いで馬が駆けてくる。