よくあるように、事務所の地下が地下鉄の駅と直結しているお陰で、事務所を出ても傘をさす必要はなかった。その代わり、地下鉄が地上に出れば、電車の音に負けないくらいの強い雨が窓を叩き始めた。普段ならデスクワークばかりで、事務所から出る必要なんてないのに、こんな日に限って当番だなんて、ついてない。

 警察署で、被疑者――逮捕されている人と面会できる部屋は一つしかない。しかし、警察署に被疑者は大勢いるし、その被疑者一人一人に、面会を希望する人がいたり、いなかったりする。当然、面会室の手前のソファには順番待ちの人が何人も並ぶことはよくある。その人数は時と場合によるので、運が良ければ待たずに面会できるし、運が悪ければ何時間も待たされる羽目になる。

 そしてどうやら、今日は運が悪い日らしい。濡れたコートと傘を片付けながら、静かに溜息を吐いた。面会室前のソファには、五人座っている。

 その五人の様子を簡単に観察する。中年男性二人、若い男性一人、中年女性一人、若い女性一人……。中年女性と若い女性はコソコソと何かを喋っているので、きっと連れだろう。男性三人はそれぞれスマホを見たりパソコンを見たりしているので、きっと弁護士だ。

 弁護人以外の面会は三十分と限られている。女性二人はきっと一般面会だろうけれど、おそらく男性三人は弁護人だ。となると、今日の待ち時間は長そうだ……。午後一時を回ったばかりの時計をみながら、壁に凭れ、溜息を吐いた。

『この犯人とか、知り合いだったりするんですか?』

 仕事をするスペースもないせいで、岡本さんの話を思い出してしまった。床におろしたカバンの中から、そっと手帳を取り出す。その手帳の中に挟んである、四つ折りの記事を取り出した。

 年が変わる度に手帳を新調するけれど、その度に、この記事を古い手帳から新しい手帳へと入れ替える。そろそろ保存に良い、プラスチックのケースか何かに挟んだほうがいいんじゃないかと毎年思っているのに……なかなか、そんなことをする気が起きない。

 本当は、年が変わるたびに捨てようと思っているから。

 その記事を開くと、週刊誌の記事らしい、二ページに渡ったタイトルと写真とが目につく。『不良同士の抗争に犠牲者』という煽りの横には、死亡した新庄篤史の写真がある。ぬっ、という擬態語が似合いそうな顔立ちで、薄ら笑いを浮かべている顔写真だ。

 更にその隣には、一色市にある青海(おうみ)神社が映っている。記事中には「群青がいわば根城にしていた神社(写真左)」と書かれていた。

『「群青」のメンバーはK.Sくんが起こした事件について「普通、殺しまではしない」と口を揃えた。』

 この部分を読むたびに、このマスゴミめ、とよく聞く揶揄(やゆ)で内心悪態を吐いたものだった。「群青」のメンバーはそんなことを言ったのではない。「群青」のメンバーは――雲雀(ひばり)侑生(ゆうき)は「いくら不良同士の抗争つったって、普通、殺しまではしない。アイツが殺したっていうなら、それは事故か、そうじゃなくても何か別の理由があるに決まってる」と話したのに。今でもはっきりと、表情まで思い出せるほど、侑生はそう伝えたのに。この週刊誌の記者は、読者が求めない声は聞こえなかったかのように、こうまとめた。

 そんなことを思い出してしまったこともあり、まるでタイムトラベルでもするかのように、自分の思考が記憶の中へ吸い込まれ始めるのを感じた。

 もう、十年以上前だ。この事件が起こったのは二〇〇九年、そして――私が群青(ブルー・フロック)に出会ったのは、それよりももっと前。

 この事件の犯人とされている、桜井(さくらい)昴夜(こうや)に出会ったのは、それよりももう少し、前の話だ。