実力テストが終わった放課後、桜井くんは早速雲雀くんの席に「ゆーきぃー」とやってきた。

「もー、やばい。マジでやばい。数学、五十分間ずっと鉛筆転がしてた」
「よく鉛筆なんか持ってたな」
「昨日の夜、頼みの(つな)ってことで筆箱に入れといた」

 ジャーン、と言いながら桜井くんは緑色のオーソドックスな鉛筆を見せつけてきた。

「これが俺の救世主だぜ」
「三国はどうした、三国は」
「だって四日教えてもらっただけじゃどうにもならなかったんだもん」
「なにがもんだ、可愛くねーよ」
「というか、桜井くん、ずっと喋ってたし……。私が教えてたことにしてほしくないんだけど……」
「言うじゃねーの、三国」

 笑いながら、雲雀くんはテストの問題用紙をご丁寧に整えた。配布された回答と一緒にカバンの中に入れるのを見て、もしかして答え合わせでもするつもりだろうか、なんて。

「なー、テスト頑張ったし、帰りどっか寄ってかねー? 飯食おー」
「いいけど、三国も来るか?」
「えっ」

 感じたのは困惑と焦燥と――ほんの少しの高揚。どうしてこの二人に誘われたのか分からないし、あの怪物をぶっ飛ばし、群青(ブルー・フロック)に頻りと誘われている二人にまるで対等のように扱われている理由が分からない――なにより、新しいクラスメイトに夕飯に誘われるなんてことが、嬉しい。そんな、相反するとまではいかなくとも、種類の違う感情が入り交じっていた。

「……いいの、私が行って」
「いいだろ。つか昴夜になんかおごってもらえ、今週の放課後ずっと勉強教えさせられてたんだから」
「え! ……そっか。ドリンクバーくらいならいける」
「それは別に……いいけど……」

 時刻は四時半。夕飯までにはまだ少し時間がある。

「……家に、電話する。夕飯要らないって」
「あーそっか、悪いな。携帯、持ってんの?」
「ん、一応……」

 いかんせん、おばあちゃんと二人暮らしだ。私に何かあることはなくても、おばあちゃんに何かあることは有り得る。そんな理由で、中学生のときから携帯電話は持たされていた。

 カバンの奥底から取り出した携帯電話には、ストラップも何もついていない。二つ折りのそれをパチンと開き、番号「1」に登録してある家に電話をかける。何度かコール音は鳴ったけれど、おばあちゃんは電話に出なかった。番号「2」に登録してあるおばあちゃんの携帯電話も同じく。

「……電話、出ないから、またあとでかける」
「メールは?」
「おばあちゃん、メールは分からないんだよね」

 桜井くんと雲雀くんがちょっとだけ止まった――気がした。でも二人は「んじゃ後にすっか」「どこ行く?」「だらだらしてても怒られねーって言ったら西中の近くにあるガスツじゃね」と話を続けるので、きっと気のせいだろう。

「三国、お前チャリ?」
「ううん、バス」
「えー、まじか。どうする、チャリおいてく?」
「ニケツすればいんじゃね。俺の、荷台ついてるし」

 話が読めずにいる私を無視し、雲雀くんは背中に引っかけるようにしてカバンを持った。

「行こうぜ、三国」

 ドキリと、胸の奥で心臓が跳ねた。

 その高揚感のせいで、教室内の観察はし損ねた。みんなが私を見ていたのか、見ていたとしたらどんな顔で見ていたのか、私の頭にはさっぱり情報が入ってこなかった。なんなら、そんなことは駐輪場に行くまで忘れていた。

「つかさあ、三国、俺らとつるんでていいの?」

 桜井くんに言われて初めて我に返った。そのくせ、桜井くんは私のカバンを受け取って自分の自転車の籠に入れてくれている。

「変な目で見られない? 俺らこんなだし」
「……分かんない」
「まあ分かんねーけど、多分そうなるぞ」
「桜井くんは金髪で、雲雀くんは銀髪だから?」
「うーん、まあ、そのくらいならよかったんだけど」
「三年ぶっ飛ばしちまったからな。蛍さんには断ったけど、遅かれ早かれ、群青(ブルー・フロック)に入る気がすんだよな」

 ガチャン、と雲雀くんは自転車の鍵を開けた。さっき話していたとおり、雲雀くんの自転車には荷台がついている。

「そうなったとき、俺らと仲良くしてると、面倒かもな。特に三国、見た目は真面目で普通の優等生だし」

 つい、苦笑いしてしまった。二人からそう見えているのだと思うと、なんだかほっとした。

 それに、いざ現場を見ると警戒せざるを得ないのに、ついついこうして一緒にいてしまうのは、この二人の性格がそこまで乱暴に思えないからだ。それこそ、二人に夕飯に誘われるのは、陽菜に夕飯に誘われるのと大差ない。

「大丈夫だよ。群青(ブルー・フロック)の人達は、女子には興味ないでしょ?」
「うーん、まああるっちゃあるけど、ないっちゃないな。つか俺らが言いたいのはそういうことじゃねーんだけど」
「……三国がいいならいいか。乗りな、三国」

 自転車に(またが)った雲雀くんはしごく当然のように荷台を(あご)で示した。乗れと言われても、どうやって? 自転車の二人乗りなんて、幼い頃におばあちゃんに乗せてもらった以外に経験がない。

「……これ、跨ればいいの?」
「まあどうでもいいけど。跨ってくれたほうが安定するから、横よりそっちにしてくれ」

 言われたとおり、おそるおそる自転車の荷台にお尻を載せた。自転車のサドルよりも表面積は広いのに、クッションがないせいですでにお尻に鉄柵(てつさく)が食い込んでいるようで痛かった。

「さすがにバイクで登校してねーからな」

 私の表情からそんなことを読み取れたのか、雲雀くんは笑った。

「免許あるの?」
「あったらよかったんだけどな」
「バイクの免許、十六歳からなんだよ」

 にやっと桜井くんは笑った。私達は今年十六歳、つまり二人の口調からすれば、無免許運転だ。

「……それはちょっと」
「大丈夫、三国乗せるまでには免許はとっとく」

 カラッとした笑い声と共に、雲雀くんがペダルを踏んだ。ぐん、と体が妙な浮遊感に襲われ、荷台についている両手を、つい、ぎゅっと握りしめた。

「なー、三国、どこらへん住んでんの?」

 私と雲雀くんの隣に、桜井くんが並んだ。自転車の二列並走は禁止だと注意する中学生のときの担任の先生と、そのホームルームの様子が脳裏(のうり)(よぎ)ったけれど、多分二人にそんなことを言っても意味がないし、今のところは他の自転車や歩行者の迷惑になっている気配はない。なにより、桜井くんの顔を見ながら話せるほうが嬉しかったから、口には出さずにおいた。

「……藍海(あいみ)区」
「んげ、じゃあ西中のほうのガスツ行ったら真逆じゃん」
「東中出身の時点でそうだろ、何言ってんだ」
「藍海区のほうにファミレスある?」
「あるよ。それこそ東中の近く」
「そっちにすっか」
「え、いいよ、その西中の近くのほうで」
「俺らと一緒に夜遅くまでウロウロしないほうがいーよ。三国がブスだったらいくら連れまわしても大丈夫なんだけど」

 多分褒められているのだけれど、あまり褒められている気がしなかった。

 二人は、そんな話をしながら自転車を()いだ。私の視界には、桜井くんの顔と雲雀くんの後頭部がずっと見えていた。風に揺れる金と銀が、春の水色の空の中に煌めく。

 今度は、失敗しないようにしよう――。雲雀くんの後ろで、そっと小さな決意をした。