スプリング・バック



「次の異動先、ロンドンなの」
「え?」

 札幌駅のスターボコーヒーでフラペチーノを飲みながらそう口にすると、彼は素っ頓狂な声を上げた。この寒いのに冷たいものなんて飲んでられない、と彼はホットコーヒーを飲んでいた。

「……ロンドン?」
「そう。海外赴任希望は出してるってずっと話してたでしょ」
「あー……それは、うん、聞いてたけど……」

 ちら、と彼の足元に視線を遣る。紙袋の中にはバターサンドが入っていた。

 彼の奥さんは、彼の会社で受付をしているらしい。いつも笑顔で、よく気が利いて、受付だからと指先まで気を遣っておしゃれをしていて、飲み会でも男性を立てるのが上手で、怒ったところなんて見たことがない――それを、愚痴という名目で聞かされたことがあった。仕事の話をしてもろくに理解しない、手が荒れるのがイヤだといつもベタベタハンドクリームを塗っている、見た目に気を配りすぎて金遣いがおかしい、八方美人だ、と。

 どれもこれも、裏を返せばという話だった。仕事の話を理解して打開策を練るのは同僚でいいんだから、奥さんは「大変だね」「頑張ってるね」と受け入れてくれればいい。受付なんて綺麗じゃないとできないんだから手先まで含めて見た目に気を配るのは彼女の趣味以前に仕事としても必要なことだ。不愛想な女性より誰にでも優しく愛嬌ある態度を持つ女性のほうが取引先からの印象だって良いに決まってる。冷静になればそのくらい分かったのに、私はそれを「奥さんと別れたい理由」という視点でしか聞いたことがなく、「奥さんの好きなところ」だと考えたことはなかった。

 ズズ、とフラペチーノを啜る。奥さんは、体が冷えるからという理由で冷たいものは飲まないそうだ。

「海外出張の仕事なんてないでしょ?」
「ないなあ。でも、麻那ちゃんも、全く日本に帰らないわけじゃないよね?」
「何言ってるの、せっかくロンドンに住めるのに帰るわけないじゃん」

 鼻で笑うと、彼の困ったような笑顔が凍りついた。彼の前で、こんな態度を取ったことはなかった。

 初めて会ったときからそうだった。初めて出会ったとき、私は、彼の前では、未知の就職活動を前に先輩を頼りにする五つ年下の後輩で、付き合い始めた後も、年収にも仕事にも何の文句も言わない大らかな年上の彼氏に甘える五つ年下の小娘だった。

「奥さん、何ヶ月?」
「六ヶ月だけど」
「妊娠中って性交渉できないんだっけ」
「……さあ、したいと思わないし」
「なるほどね」

 なるほどね、心の中でも頷きながらストローに口をつけた。それはそれは、仕事で札幌に行くたびに無料《タダ》で五つも年下の若い女を抱けて、そのまま一泊して休めるなんて、なんていい生活だろう。女の私にも、その“便利さ”はよく分かった。

「札幌担当、外れたんだよね。私もロンドンに行く準備で忙しいし、丁度良かったかな。ってか辞令遅すぎだよね、海外転勤なめてんのかって」
「まあ、そうだね。急な話でびっくりするよね」
「うん、本当にびっくりした」

 まさかこのタイミングで決まるとは思っていなかった。……だから「不倫がバレたわけじゃなくてよかった」と胸を撫で下ろした。

 そして、途端に冷静になった。海外転勤に憧れていた、行きたくて最初から希望を出していた、それが通った、自分の仕事ぶりが評価された証拠だった。

 でも、もしかして、私の仕事上の評価は、彼との関係によって帳消しにされる危険がある?

 彼は仕事で札幌に来るたびに会ってくれる、でもプライベートで会いに来てくれたことなんてない。誕生日も、当然クリスマスも例外じゃない。会ってすることは、食事とセックス。デートもしなくはないけれど、それは次の日の昼過ぎに彼が帰るまで、私の家から札幌駅まで歩く間だけで、それでもって彼は札幌駅では「手ぶらだとうるさいから」と奥さんへのお土産を欠かさない。

 彼のことは好きだけど、別にいなきゃ生きていけないわけじゃない。でも仕事はないと生きていけないし、なんなら仕事は私を評価してくれていて、彼にとって私は奥さんの次だ。

 唯一、不倫を知っている友達が、それを聞いて爆笑した。

『仕事と比べるのが麻那らしいけど、うん、分かってよかったね。てかロンドン支社行けば、麻那より稼いで文句も言わない男なんていくらでもいるでしょ』

「いまの私って華の二十代で、好きに稼いで好きにおしゃれして好きに遊んで、人生で一番楽しい時期じゃん?」
「うん」
「それを、自分より稼ぎが悪くてうだつの上がらない既婚者と付き合って三年も無駄にするなんて馬鹿げてた」

 彼はパチパチと間抜けに何度か瞬きした。あまりにも急すぎる罵倒のせいで罵倒であることすら理解できない、そんな反応だった。

 昨晩「札幌担当から外れた」「岐阜か名古屋なら会いやすい」と言われて思ったのは、「あ、コイツ、私のことを出張先で便利に遊べる現地妻と思ってんな」だった。

 ズゴゴ、と残ったフラペチーノを飲みほし、コンッとテーブルに空のプラスチックカップを置き、椅子を引いてコートを羽織った。

「私も散々奥さんの愚痴聞いてあげたから、私の愚痴があったら奥さんに聞いてもらって。所詮不倫相手のくせに、自分より低スぺの男と付き合うなんて無駄だったって吐き捨ててフるとか、なんて偉そうな女なんだ、とかさ」

 あれ、でも、それで私が不倫してたってバレたら、私って奥さんに慰謝料とか請求されるのかな? 彼を置き去りに席を立ち、お店を出た後、冷気に当てられて、そんな風に冷静になった。

 でも、今までの彼の態度といい、まさかフラれるとは思ってなかったと言わんばかりの最後の呆然とした顔といい、彼に不倫を告白する勇気なんてないだろう。私に何を言ったって、結局彼は奥さんが一番大事なんだから。

 本当に、無駄な三年間だった――駅を出た後、雪降る空に向けて、ほ、と息を吐きだした。