スプリング・バック

 パッ、とスマホの明かりがついたことに気が付いて、起き上がる。するっと肌から布団が滑り落ちたけれど、隣の彼は私の挙動には全く気付かずに寝こけている。

 明かりがついたのは、彼のスマホだった。布団から出ても、まだ部屋の空気は冷え切ってはいない。パンツだけ履いた状態で、サイドテーブルに載った彼のスマホを手に取った。

 なんとなくそんな予感はしたけれど、LINEの通知だった。「まゆみ:バターサンド!」……たったの一言だったけれど、お土産の話だとは分かる。

 次いで、ポン、ポン、と「まゆみ:今日の健診でちょっと顔見えたよ」「まゆみ:画像を送信しました」立て続けに二つのメッセージが入る。一瞬何の話か分からなかったけれど、今日、ワインを飲んでる彼が「いま家で酒飲めないから」と話していたのを思い出せば、赤ちゃんの話だというのはすぐに分かった。

 彼が結婚していると知ったのは、一年前だった。

 札幌駅構内のカフェで彼が一人で座っているのを見て、二度見した。

 連絡もなくこんなところにいるはずがない、でも間違いなく彼だ、友達と旅行にでも来たのだろうか、友達と一緒なら話しかけるだけ迷惑かな――そんな呑気なことを考えていた私が次に目にしたのは、彼の隣に座る女性だった。

 一見年上に見えるけれど、彼女だけの年齢を推察すれば、そして彼が童顔だということを知っていれば、きっと二人の年はそう変わらないと分かる。彼女はいかにも観光客ですといった雑誌を持っていて、それを広げて彼に示す。彼は横からそれを覗きこむ。

 彼女は、もこもこの上着を着ていた。私だったら「動きにくい」と絶対に着ない服だ。ウィンドウ越しに見える足にはムートンブーツを履いている。私だったら「身長を盛れない」と絶対に履かない靴だ。笑った拍子に口元に持っていかれた爪にはきれいにジェルネイルが施されている。私だったら「爪が伸びたときに邪魔」と絶対にしないおしゃれだ。

 ただの彼女じゃないことは、そのジェルネイルをした綺麗な手の薬指に指輪があることを見れば分かった。

 それを問いただしたのは一ヶ月後、彼が出張で札幌にやってきて、私の部屋に来たときだった。

 彼は慌てた素振りなく、ただ申し訳なさそうな顔をした。

『離婚の話し合いをしてるところなんだ』

 は? 仕事だったらそう声に出ていたけれど、彼を前にそんな力強い声は出せなかった。

『彼女のほうがごねてて、なかなか話が進まなくて。麻那ちゃんが見たのは、最後に旅行してくれたら別れるって言うから……』

『……もう一ヶ月前だけど、別れたの?』

『……いま、色々細かいところを取り決めてるところ』

 仕事なら、彼の言動の矛盾や違和感には容易に気が付けただろう。結婚して二年だから、私と付き合い始めたときには結婚していたことに変わりはない。最後に旅行したいと頼まれて渋々付き合ったような顔をしていたけれど、そのくせあの日カフェから出た後は手を繋いで、彼女の代わりにスーツケースを引いて、誰が見ても仲睦まじい若夫婦だった。細かいところを取り決めているというけれど、少なくとも子供はいないらしいし、そう細かい取り決めが必要だとは思えないし、なんなら一ヶ月間ちっとも進まないはずがない。それでもって、彼が私の部屋に泊まるのは出張でやってきた金曜日と決まっていて、土曜日の昼には帰る――まるで新婚夫婦の日曜日を大切にするように。

 そういえば、彼と会うのは決まって平日の夜だけだったし、彼は私を「好き」だとは言ったけど「付き合って」とは一言も言わなかったし、仕事があったから気にしなかったけどクリスマスを一緒に過ごしたこともなかった。

 札幌への転勤が決まったと話したとき、彼が全く落ち込まなかったのは、東京で不倫するよりバレずに済むと思ったからなんだ、その日にそう気が付いた。

 不倫に間違いありません、きっとグーグル先生が太鼓判を押すに違いない行動しかなかったのに、私は何も気が付かなかった――気が付こうとしなかった。

『……そうなんだ』

 彼の説明を素直に呑み込んだし、それどころか「でも俺は本当に麻那ちゃんを好きだよ」なんて、それこそ不倫男の常套句《じょうとうく》というか、奥さんが一番であることや奥さんを好きであることと一切矛盾しないセリフに「分かってるよ」なんて物分かり良く頷いて、その夜も彼に抱かれた。そのうち奥さんと別れるんだろうし、なんて、漫画でしか見ないようなセリフを自分に言い聞かせた。

「……妊娠中ってセックスできないのかな」

 コト、とスマホを置きながら、暗闇の中で呟いてしまった。

 彼に問い詰めたあの日以来、彼は結婚していることを私に隠さなくなった。こうしてスマホを無防備に置いていて、好きに中身を見ていいですよと言わんばかり。それはきっと彼なりの心理戦みたいなもので、そうされると逆に見る気をなくすと期待されていたのだと思う。でも私は、寝ている彼の指を掴んでちゃっちゃとスマホを開き、私とのLINE履歴は毎回毎回削除されていること、私が既婚者であることを問い詰めた日の前後に離婚の「り」の字もなかったことを知った。





 そうだと思ったことはないのだけれど、同期の男子から見ると、私は「強すぎる」らしい。どうりで男友達が多くてもモテないはずだ。そんな私のことを「意外と甘えん坊で可愛い」と言ってくれたのは彼だけだった。