真夏の観測者たち

 
          ◯


 七月十五日。
 今日は第三月曜日で海の日なので、学校は休みだ。
 そして、遠野くんの空手の練習を見に行くと約束した日でもある。

 道場の場所は事前にネットで調べてわかっていたけれど、その最寄駅まで遠野くんが迎えにきてくれることになっていた。

 阪急電車の御影(みかげ)駅。
 北側の改札から外に出ると、目の前にはバスやタクシーの停まるロータリーがあった。その端の方で、すらりと背の高い彼がこちらに手を振っていた。

「一ノ瀬。こっちだ」

「遠野くん。ごめんね、待たせちゃった?」

「いや。いま来たとこ」

 Tシャツにハーフパンツにサンダル。昨日よりもさらにラフな格好の遠野くんは、なんだか『オフの日』って感じが強くて新鮮だ。

 彼に連れられて、私は駅の北側にある坂を上っていく。
 神戸の街は北側に山、南側に海があるので、北の方へ歩く場合はほぼ坂を上るのが決まりだった。

 目的の道場は、閑静な住宅街の中にあった。
 どうやら遠野くんの家の敷地と繋がっているようで、全体的にかなり広い。芝生のある庭をぐるりと回り込んで、やっとそこへたどり着く。

 入口で靴を脱いで中へ入ると、そこは学校の体育館に似た内装だった。広々とした床には一メートル四方ぐらいの大きさのマットが幅いっぱいに敷き詰められている。

「ちょっと着替えてくるから、ここでゆっくりしててくれ」

 遠野くんはそう言って、壁際に用意してあったパイプ椅子をすすめてくれる。私はそこに腰掛けて、改めて部屋の中を見渡した。

(遠野くんは、ここで毎日練習してるんだ)

 足元に敷き詰められた青と白のマットはまだ新しそうに見えるけれど、あちこちに何かが擦れたような跡があった。特に白いマットの上には赤い線のようなものが目立ち、おそらくは血の跡だろうと思われる。

 それから数分と経たないうちに、遠野くんが戻ってきた。
 上下が真っ白の道着(どうぎ)に黒帯。その立ち姿は見るからに強そうで、素人の私ですら息を呑む風格があった。

「とりあえず練習を始めるけど、今日は俺以外に誰もいないから組手(くみて)は無理だな。基本稽古と(かた)ぐらいか。あとは一ノ瀬にミットを持ってもらって、蹴りの練習ぐらいなら……いや、さすがに危ないか?」

 遠野くんはそう言いながら準備体操を始める。
 組手は二人で技を出し合って闘うもの。型は、決められた一連の動作を見せる演舞だと聞いている。

 準備体操とストレッチは、かなり入念にやっている様子だった。それが終わると、今度は基本稽古と呼ばれるものに移る。

「言っとくけど、すげえ地味だぞ。すぐ飽きると思うから、とりあえず短縮でやる」

 言い終えるが早いか、彼は両足を肩幅ほどに開いて立ち、わずかに姿勢を下げる。そうして左腕をまっすぐ前に伸ばし、右腕は腰の横で構える。

 そこから、ヒュッと風の音を立てて、彼は瞬時に左腕を引っ込め、代わりに右の拳を突き出した。
 『正拳中段突き』というものだった。組手で相手の胸や腹に突きを入れるときの動作の基本。
 
(わ……速い)

 彼の腕の動きは、目にも止まらぬ速さだった。こんなスピードで突きを繰り出されたら、相手はきっとひとたまりもない。

 彼はそれを何度か繰り返した後、ふう、と息を吐いて私を見る。

「……こんな感じだけど。地味だろ? 見てて面白いか?」

 苦笑いしながら聞く遠野くんに、私はすぐさま反論する。

「面白いよ! それにかっこいいし。遠野くんさえよければ、もうちょっと見ていたいな」

 私はそう素直な感想を述べる。
 彼の力強い突きも、引き締まった体の動きも、真剣な表情も、私の瞳にはすべてが魅力的に映っている。

「そうか? まあ、それならもうちょっと続けてみるか」

 再び苦笑してから、彼はまた真剣な顔に戻った。
 中段突きの次は、相手の頭を狙う上段突き。それから裏拳……と、次々と新しい動きを見せてくれる。

 二人きりの、贅沢な時間。
 彼を独り占めしているこの時間が、私は幸せで仕方なかった。