あのキスから数日後、ギルドは重苦しい空気に包まれていた。先日の大規模討伐で一息ついたばかりだというのに、南の山脈から大量発生したワイバーンの緊急討伐依頼が張り出されたのだ。空を舞う強大な魔物ゆえに危険度は極めて高い。しかしながら、熟練の冒険者たちは数日前から大規模討伐に赴いているため、受ける冒険者がいない。
早く熟練の冒険者たちが戻ってこないかと、皆が待ち焦がれている中、ロイドがギルドに姿を現した。彼の顔を見た途端、私の心臓が凍りついたかのように、一瞬で鼓動を止めた。
彼は私と目を合わせようとせず、まっすぐに依頼掲示板へと向かった。あのキスの気まずさが、まだ残っているのだろう。
そのぎこちない彼の様子に、私の胸は締め付けられる。
今しかない。そう確信した。
ギルドのホールに人がまばらになったタイミングで、私は意を決して彼に声をかけた。彼はまた、薬草採集の依頼を選んでいるところだった。
「ロイドさん、少しお話いいですか?」
私の声は、ひどく震えていた。彼が振り返った時、その瞳が少しだけ戸惑いに揺れるのが見えた。まだ、あのキスのことが頭にあるのだろう。
「はい、なんでしょうか、ルーシャさん」
彼はいつも通り丁寧な言葉遣いだったけれど、その声にはどこか緊張が混じっている。私は彼の正面に立ち、深呼吸をした。胸の奥にしまい込んでいた全ての感情を、今、彼にぶつけるのだ。
「ここでは、なんなので、あちらの客間にいきませんか?」
「わかりました」
私は、彼を連れて冒険者ギルドの客間に向かう。受付にいるステファニアとセシリアが驚きの表情を浮かべていたように思えたが、そんなことを気にしている場合ではない。
彼と客間に入るや否や、私は口を開いた。
「先日、その……私がしてしまったこと、本当にごめんなさい。あの、脚立から落ちそうになった時に、取り乱してしまって……」
そこまで言って、言葉が詰まった。言い訳をするつもりはない。ただ、彼に謝罪し、そして自分の本心を伝えたいのだ。
ロイドは、私の言葉を聞きながら、少しだけ俯いた。彼の頬が、うっすらと赤く染まるのが見て取れる。
「あれは、僕の方こそ、すみませんでした。ルーシャさんを危険な目に遭わせてしまって……」
彼はそう言って、困ったように眉を下げた。彼の優しさが、かえって私の心を締め付ける。彼はきっと、私が事故で動揺していたのだと、そう思っているのだろう。違う。そうじゃない。
私は、もう言い訳はしないと決めていた。顔を上げ、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
彼の澄んだ瞳の奥に、これから何が語られるのか、という緊張が揺れているのが見えた。
「違うの、ロイドさん。あのキスは……事故なんかじゃないの。私、ロイドさんのことが、好きなの」
私の口から出た言葉は、想像していたよりもずっと明確で、そして重かった。ロイドの瞳が、驚きに見開かれる。彼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。
彼の表情が、まるで凍りついたかのように固まってしまった。私は、言葉の続きを待った。彼がどう答えるのか。期待と、そして恐怖が、私の心を激しく揺さぶった。
しばらくの沈黙の後、ロイドはゆっくりと息を吐き出した。
その表情には、困惑と、申し訳なさが入り混じっていた。彼の次の言葉を予感した私の心の中では、警鐘が激しく打ち鳴らされる。
「ルーシャさん……ありがとうございます。その、気持ちは、すごく、すごく嬉しいです。ルーシャさんが僕を、そんな風に思ってくださっていたなんて……」
彼の言葉は、とても丁寧で、そしてどこか優しかった。だが、その優しさが、私にはまるで鋭い刃のように突き刺さった。
嬉しい、という言葉の後に続く言葉を、私は聞きたくなかった。
「でも、僕には……故郷に、将来を誓い合った相手がいるんです」
その瞬間、私の頭の中に、雷が落ちたかのような衝撃が走った。目の前が、真っ暗になる。彼が口にした「故郷」「将来を誓い合った相手」という言葉が、まるで呪文のように私の心を縛り付ける。
彼には、既に大切な人がいた。私が知る由もなかった、彼の大切な存在が。
その瞬間、私の全身から一瞬にして力が抜けていくのを感じた。心臓は、まるで時を止めたかのように静まり返えった。ああ、そうか。彼は、私の「特別」だったけれど、彼の「特別」は、私ではなかったのだと、突きつけられた。
「その子は、僕が冒険者になるって言った時も、ずっと応援してくれて……いつか、必ず迎えに行くって、約束してるんです。だから……」
ロイドの声は、震えていた。彼は、私を傷つけないように、必死で言葉を選んでいるのが分かる。その彼の優しさが、私にはかえって残酷だった。彼の瞳には、遠い故郷の誰かの影が映っている。そこには、私の入る隙など、どこにもなかった。
「ごめんなさい、ルーシャさん。僕には、その子のことを裏切ることは、できません」
彼の言葉は、穏やかで、しかし確固たるものだった。私の恋は、そこで完全に終わりを告げた。呆然と立ち尽くす私に、ロイドは困り果てたような、しかし、どこか決意の宿ったような表情を向けていた。
私の視界が、ぼやけていく。熱いものが、目の奥に込み上げてくるのを感じた。涙だった。こんなところで、冒険者の前で、情けない姿を晒したくなかった。
「そ、そう……だったのね。ごめんなさい。私、知らなくて……」
私はかろうじて声を絞り出した。喉の奥がカラカラに乾き、息が苦しい。知らなかった。彼の背景に、そんな大切な存在がいたなんて。私が一方的に彼に恋焦がれ、舞い上がっていただけだったのだ。
ロイドは、私から目を逸らし、再び俯いた。彼もまた、気まずさに耐えているのだろう。この空間が、ひどく息苦しく感じられた。
「いえ……僕も、もっと早く言うべきでした。本当に、ごめんなさい」
彼の謝罪の言葉が、私の心をさらに抉る。彼に謝らせてしまったことへの罪悪感と、拒絶された痛み。全てが混じり合い、私の胸の中で黒い塊となって膨れ上がっていった。
私は、もうここにいることができなかった。彼の顔を見るのも、彼の声を聞くのも、今の私には耐えられない。これ以上、情けない姿を見せるわけにはいかない。
「わ、分かったわ。じゃあ、これで。ここは私が片付けするから、先に戻って」
私はそう言うと、彼を客室から追い出した。
片付けることなど何も無い。誰もいない客室でそのまま壁にもたれかかった。そして、ずるずるとその場に座り込んでしまう。私の頬を、熱いものが伝っていく。涙だ。止めようにも止められない。
「故郷に、将来を誓い合った相手がいる」
彼の言葉が、耳の中で何度も繰り返される。あまりにも純粋で、あまりにも真っ直ぐなその言葉が、私の心を容赦なく砕いていく。セシリアやステファニアの存在など、比ではなかった。彼は、私には届かない、遥か遠い場所にいたのだ。
モーリスを失った時とは違う種類の痛みだった。あの時は、突然の喪失と、彼を奪った世界への憎悪だった。だが、今回は違う。私の想いが、最初から届くことのない場所にあったことへの絶望。そして、自分の愚かさ、思い上がった自分自身への嫌悪感だった。
馬鹿だ。私はなんて馬鹿なんだ。また、冒険者に恋をして。また、こんなにも苦しい思いをするなんて。過去の誓いを破り、その結果がこれだ。彼は、私など見てもいなかった。彼の心には、ずっと故郷の誰かがいたのだ。
涙が止まらない。喉の奥から、押し殺した嗚咽が漏れそうになる。胸が張り裂けそうだ。この痛みに、私はどうすればいいのだろう。立ち直れるのだろうか。今はただ、この全てを忘れてしまいたかった。
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お読みいただきありがとうございます!
次回の第13話「自責と愛憎」は明日9時頃更新です。
どうぞお楽しみに!
早く熟練の冒険者たちが戻ってこないかと、皆が待ち焦がれている中、ロイドがギルドに姿を現した。彼の顔を見た途端、私の心臓が凍りついたかのように、一瞬で鼓動を止めた。
彼は私と目を合わせようとせず、まっすぐに依頼掲示板へと向かった。あのキスの気まずさが、まだ残っているのだろう。
そのぎこちない彼の様子に、私の胸は締め付けられる。
今しかない。そう確信した。
ギルドのホールに人がまばらになったタイミングで、私は意を決して彼に声をかけた。彼はまた、薬草採集の依頼を選んでいるところだった。
「ロイドさん、少しお話いいですか?」
私の声は、ひどく震えていた。彼が振り返った時、その瞳が少しだけ戸惑いに揺れるのが見えた。まだ、あのキスのことが頭にあるのだろう。
「はい、なんでしょうか、ルーシャさん」
彼はいつも通り丁寧な言葉遣いだったけれど、その声にはどこか緊張が混じっている。私は彼の正面に立ち、深呼吸をした。胸の奥にしまい込んでいた全ての感情を、今、彼にぶつけるのだ。
「ここでは、なんなので、あちらの客間にいきませんか?」
「わかりました」
私は、彼を連れて冒険者ギルドの客間に向かう。受付にいるステファニアとセシリアが驚きの表情を浮かべていたように思えたが、そんなことを気にしている場合ではない。
彼と客間に入るや否や、私は口を開いた。
「先日、その……私がしてしまったこと、本当にごめんなさい。あの、脚立から落ちそうになった時に、取り乱してしまって……」
そこまで言って、言葉が詰まった。言い訳をするつもりはない。ただ、彼に謝罪し、そして自分の本心を伝えたいのだ。
ロイドは、私の言葉を聞きながら、少しだけ俯いた。彼の頬が、うっすらと赤く染まるのが見て取れる。
「あれは、僕の方こそ、すみませんでした。ルーシャさんを危険な目に遭わせてしまって……」
彼はそう言って、困ったように眉を下げた。彼の優しさが、かえって私の心を締め付ける。彼はきっと、私が事故で動揺していたのだと、そう思っているのだろう。違う。そうじゃない。
私は、もう言い訳はしないと決めていた。顔を上げ、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
彼の澄んだ瞳の奥に、これから何が語られるのか、という緊張が揺れているのが見えた。
「違うの、ロイドさん。あのキスは……事故なんかじゃないの。私、ロイドさんのことが、好きなの」
私の口から出た言葉は、想像していたよりもずっと明確で、そして重かった。ロイドの瞳が、驚きに見開かれる。彼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。
彼の表情が、まるで凍りついたかのように固まってしまった。私は、言葉の続きを待った。彼がどう答えるのか。期待と、そして恐怖が、私の心を激しく揺さぶった。
しばらくの沈黙の後、ロイドはゆっくりと息を吐き出した。
その表情には、困惑と、申し訳なさが入り混じっていた。彼の次の言葉を予感した私の心の中では、警鐘が激しく打ち鳴らされる。
「ルーシャさん……ありがとうございます。その、気持ちは、すごく、すごく嬉しいです。ルーシャさんが僕を、そんな風に思ってくださっていたなんて……」
彼の言葉は、とても丁寧で、そしてどこか優しかった。だが、その優しさが、私にはまるで鋭い刃のように突き刺さった。
嬉しい、という言葉の後に続く言葉を、私は聞きたくなかった。
「でも、僕には……故郷に、将来を誓い合った相手がいるんです」
その瞬間、私の頭の中に、雷が落ちたかのような衝撃が走った。目の前が、真っ暗になる。彼が口にした「故郷」「将来を誓い合った相手」という言葉が、まるで呪文のように私の心を縛り付ける。
彼には、既に大切な人がいた。私が知る由もなかった、彼の大切な存在が。
その瞬間、私の全身から一瞬にして力が抜けていくのを感じた。心臓は、まるで時を止めたかのように静まり返えった。ああ、そうか。彼は、私の「特別」だったけれど、彼の「特別」は、私ではなかったのだと、突きつけられた。
「その子は、僕が冒険者になるって言った時も、ずっと応援してくれて……いつか、必ず迎えに行くって、約束してるんです。だから……」
ロイドの声は、震えていた。彼は、私を傷つけないように、必死で言葉を選んでいるのが分かる。その彼の優しさが、私にはかえって残酷だった。彼の瞳には、遠い故郷の誰かの影が映っている。そこには、私の入る隙など、どこにもなかった。
「ごめんなさい、ルーシャさん。僕には、その子のことを裏切ることは、できません」
彼の言葉は、穏やかで、しかし確固たるものだった。私の恋は、そこで完全に終わりを告げた。呆然と立ち尽くす私に、ロイドは困り果てたような、しかし、どこか決意の宿ったような表情を向けていた。
私の視界が、ぼやけていく。熱いものが、目の奥に込み上げてくるのを感じた。涙だった。こんなところで、冒険者の前で、情けない姿を晒したくなかった。
「そ、そう……だったのね。ごめんなさい。私、知らなくて……」
私はかろうじて声を絞り出した。喉の奥がカラカラに乾き、息が苦しい。知らなかった。彼の背景に、そんな大切な存在がいたなんて。私が一方的に彼に恋焦がれ、舞い上がっていただけだったのだ。
ロイドは、私から目を逸らし、再び俯いた。彼もまた、気まずさに耐えているのだろう。この空間が、ひどく息苦しく感じられた。
「いえ……僕も、もっと早く言うべきでした。本当に、ごめんなさい」
彼の謝罪の言葉が、私の心をさらに抉る。彼に謝らせてしまったことへの罪悪感と、拒絶された痛み。全てが混じり合い、私の胸の中で黒い塊となって膨れ上がっていった。
私は、もうここにいることができなかった。彼の顔を見るのも、彼の声を聞くのも、今の私には耐えられない。これ以上、情けない姿を見せるわけにはいかない。
「わ、分かったわ。じゃあ、これで。ここは私が片付けするから、先に戻って」
私はそう言うと、彼を客室から追い出した。
片付けることなど何も無い。誰もいない客室でそのまま壁にもたれかかった。そして、ずるずるとその場に座り込んでしまう。私の頬を、熱いものが伝っていく。涙だ。止めようにも止められない。
「故郷に、将来を誓い合った相手がいる」
彼の言葉が、耳の中で何度も繰り返される。あまりにも純粋で、あまりにも真っ直ぐなその言葉が、私の心を容赦なく砕いていく。セシリアやステファニアの存在など、比ではなかった。彼は、私には届かない、遥か遠い場所にいたのだ。
モーリスを失った時とは違う種類の痛みだった。あの時は、突然の喪失と、彼を奪った世界への憎悪だった。だが、今回は違う。私の想いが、最初から届くことのない場所にあったことへの絶望。そして、自分の愚かさ、思い上がった自分自身への嫌悪感だった。
馬鹿だ。私はなんて馬鹿なんだ。また、冒険者に恋をして。また、こんなにも苦しい思いをするなんて。過去の誓いを破り、その結果がこれだ。彼は、私など見てもいなかった。彼の心には、ずっと故郷の誰かがいたのだ。
涙が止まらない。喉の奥から、押し殺した嗚咽が漏れそうになる。胸が張り裂けそうだ。この痛みに、私はどうすればいいのだろう。立ち直れるのだろうか。今はただ、この全てを忘れてしまいたかった。
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お読みいただきありがとうございます!
次回の第13話「自責と愛憎」は明日9時頃更新です。
どうぞお楽しみに!



