その日は、朝からギルドが異様な熱気に包まれていた。大規模な討伐案件が急遽舞い込み、熟練の冒険者たちがこぞって受付に殺到したのだ。私はその対応に追われ、息つく暇もなかった。
午前中には、主要な冒険者のほとんどがギルドを出払い、ホールはまるで嵐が過ぎ去った後のように、ひっそりと静まり返ってしまった。
そのあまりの静けさに、かえって胸がざわつくほどだった。
カウンターには私一人。セシリアもステファニアも、休憩に入っている。普段ならば、こんな静かな時間帯はあまりない。
大規模討伐の依頼は、多くの冒険者の生活を支える稼ぎになる。だが、同時に、危険も伴う。
彼らが無事に帰還することを願いながら、私はほぼ空になった依頼掲示板を見上げた。この機会に、乱雑になった掲示板の整理をしてしまおう。
そう思い立ち、私は脚立を引っ張り出して掲示板の前に立った。
古くなった依頼書を剥がし、新しいものを貼り付ける。普段は他の受付嬢と分担する作業だが、今日は私一人だ。脚立の不安定さに気をつけながら、背伸びをして一番上の段の依頼書に手を伸ばした。
まさにその時。ギルドの重い扉が、軋んだ音を立てて開いた。
こんな時間に、一体誰だろう?
大規模討伐には向かわなかった冒険者だろうか?
私は脚立の上から振り返らず、手元の作業に集中していた。
「あの……」
聞き慣れた、少し控えめな声がギルドに響いた。その声に、体中の血液が、一瞬で沸騰したかのように駆け上がった。
ロイドだ。
こんな時間に来るなんて。彼がギルドにいるというだけで、私の胸は高鳴り、手のひらにじわりと汗が滲む。
脚立はぐらつきやすく、慎重に体重を預ける必要がある。だが、彼の声がギルドに響いたその瞬間、私の注意は全て彼に奪われ、不意にバランスを崩しそうになった。
「い、いらっしゃいませ!」
私は慌てて返事をしたが、彼が視界に入った途端、足元がおぼつかなくなった。剥がした依頼書が床に散らばり、私の体はぐらりと傾ぐ。
ああ、まずい。そう思った時には、もう遅かった。脚立がガタリと音を立て、私の体は宙に投げ出される。
「危ない!」
とっさにロイドの声が響き、同時に、温かい腕が私の体をしっかりと支えた。ふわりと、彼の体の匂いが鼻腔をくすぐる。甘いような、少し土っぽいような、彼独特の匂い。驚きと、そして安堵が同時に押し寄せ、私の体は彼の胸の中にすっぽりと収まってしまっていた。
彼の腕が、私の背中と膝の裏をしっかりと抱えている。視界には、彼の逞しい胸板と、その向こうの天井しか映らない。顔が、カッと熱くなる。こんな密着した状態で彼と触れ合うなんて、想像すらしたことがなかった。心臓の音が、ドクドクと耳元で鳴り響き、自分のものなのか、それとも彼のものなのか、分からなくなるほどだった。
「だ、大丈夫ですか、ルーシャさん!?」
ロイドの声が、すぐ近くで響く。心配と焦りが入り混じった彼の声に、私の胸は締め付けられる。彼は、きっと私が怪我をしていないか心配してくれているのだろう。
「は、はい……だ、大丈夫です……!」
私は、かろうじて声を絞り出した。視線を上げると、彼の顔が間近にあった。驚きに大きく見開かれた瞳と、少しだけ開いた唇。そのあまりの近さに、私の呼吸は完全に止まった。彼の吐息が、私の頬にかかる。その温かさに、私の脳裏は一瞬にして彼への想いで満たされた。
このまま、このままでいたい。この温かさの中に、ずっと包まれていたい。そんな願望が、理性を完全に凌駕した。
私は、無意識のうちに彼の首筋に手を回し、彼の唇を奪う。
柔らかく、少し乾いた感触。
それは、あまりにも突然で、あまりにも衝動的なキスだった。
思考するよりも早く、体が動いていた。彼の唇に触れた途端、世界の音が遠ざかり、代わりに胸の奥で鐘が乱打され、内臓が、まるで宙に浮くような奇妙な感覚に襲われた。ほんの一瞬の出来事だった。
唇が離れた瞬間、ロイドはハッと息を呑んだように、私から体を離した。そして、私をそっと床に降ろす。私はまだ、状況が飲み込めず、ただ立ち尽くしていた。
ああ、なんてこと。私は一体、何をしているんだ。
ロイドは、私の顔から目を逸らし、頬を真っ赤に染めていた。彼の表情は、驚きと戸惑いと、そして、どうしようもない恥ずかしさでいっぱいのようだった。その顔を見て、ようやく我に返る。
私は、取り返しのつかないことをしてしまった。受付嬢として、そして、彼に好意を寄せる一人の人間として、これは許される行為ではない。
「あ……その、ごめんなさい……っ!」
私がかろうじて謝罪の言葉を口にすると、ロイドはさらに狼狽したように、首を横に振った。
「いえ、あの……僕こそ、すみません……っ!」
彼はそう言うと、持っていた依頼書をカウンターに置くのも忘れ、くるりと背を向けて、まるで逃げるようにギルドの扉へと向かった。扉がバタン、と大きな音を立てて閉まる。ホールに、再び静寂が戻った。
私は、その場に崩れ落ちそうになった。膝から力が抜け、そのまま床に座り込んでしまう。私の唇には、まだ彼の感触が残っているような気がした。熱を帯びた唇にそっと指で触れる。これは夢ではない。現実だ。
一体、何が私を突き動かしたのか。彼を助けた感謝か、それとも抑えきれない感情の暴走か。どちらにせよ、彼に、とんでもないことをしてしまった事実は変わらない。
恥ずかしさ、後悔、そして、ほんのわずかな、しかし確かな喜び。
様々な感情が、私の胸の中で渦巻いていた。彼は、私のことをどう思っただろう?
気持ち悪い、と思われただろうか。あるいは、ただの事故だと、彼は考えてくれるだろうか。
私は、床に散らばった依頼書を呆然と見つめた。まさか、こんな形で、彼との関係に変化が訪れるなんて。
この衝動的なキスは、私たち二人の関係を、一体どこへ導いていくのだろう。私の心は、不安と、そして未知の期待で、激しく揺れ動いていた。
――――――――――――――――――――
お読みいただきありがとうございます!
次回の第11話「内省と決意」は明日18時頃更新です。
どうぞお楽しみに!
午前中には、主要な冒険者のほとんどがギルドを出払い、ホールはまるで嵐が過ぎ去った後のように、ひっそりと静まり返ってしまった。
そのあまりの静けさに、かえって胸がざわつくほどだった。
カウンターには私一人。セシリアもステファニアも、休憩に入っている。普段ならば、こんな静かな時間帯はあまりない。
大規模討伐の依頼は、多くの冒険者の生活を支える稼ぎになる。だが、同時に、危険も伴う。
彼らが無事に帰還することを願いながら、私はほぼ空になった依頼掲示板を見上げた。この機会に、乱雑になった掲示板の整理をしてしまおう。
そう思い立ち、私は脚立を引っ張り出して掲示板の前に立った。
古くなった依頼書を剥がし、新しいものを貼り付ける。普段は他の受付嬢と分担する作業だが、今日は私一人だ。脚立の不安定さに気をつけながら、背伸びをして一番上の段の依頼書に手を伸ばした。
まさにその時。ギルドの重い扉が、軋んだ音を立てて開いた。
こんな時間に、一体誰だろう?
大規模討伐には向かわなかった冒険者だろうか?
私は脚立の上から振り返らず、手元の作業に集中していた。
「あの……」
聞き慣れた、少し控えめな声がギルドに響いた。その声に、体中の血液が、一瞬で沸騰したかのように駆け上がった。
ロイドだ。
こんな時間に来るなんて。彼がギルドにいるというだけで、私の胸は高鳴り、手のひらにじわりと汗が滲む。
脚立はぐらつきやすく、慎重に体重を預ける必要がある。だが、彼の声がギルドに響いたその瞬間、私の注意は全て彼に奪われ、不意にバランスを崩しそうになった。
「い、いらっしゃいませ!」
私は慌てて返事をしたが、彼が視界に入った途端、足元がおぼつかなくなった。剥がした依頼書が床に散らばり、私の体はぐらりと傾ぐ。
ああ、まずい。そう思った時には、もう遅かった。脚立がガタリと音を立て、私の体は宙に投げ出される。
「危ない!」
とっさにロイドの声が響き、同時に、温かい腕が私の体をしっかりと支えた。ふわりと、彼の体の匂いが鼻腔をくすぐる。甘いような、少し土っぽいような、彼独特の匂い。驚きと、そして安堵が同時に押し寄せ、私の体は彼の胸の中にすっぽりと収まってしまっていた。
彼の腕が、私の背中と膝の裏をしっかりと抱えている。視界には、彼の逞しい胸板と、その向こうの天井しか映らない。顔が、カッと熱くなる。こんな密着した状態で彼と触れ合うなんて、想像すらしたことがなかった。心臓の音が、ドクドクと耳元で鳴り響き、自分のものなのか、それとも彼のものなのか、分からなくなるほどだった。
「だ、大丈夫ですか、ルーシャさん!?」
ロイドの声が、すぐ近くで響く。心配と焦りが入り混じった彼の声に、私の胸は締め付けられる。彼は、きっと私が怪我をしていないか心配してくれているのだろう。
「は、はい……だ、大丈夫です……!」
私は、かろうじて声を絞り出した。視線を上げると、彼の顔が間近にあった。驚きに大きく見開かれた瞳と、少しだけ開いた唇。そのあまりの近さに、私の呼吸は完全に止まった。彼の吐息が、私の頬にかかる。その温かさに、私の脳裏は一瞬にして彼への想いで満たされた。
このまま、このままでいたい。この温かさの中に、ずっと包まれていたい。そんな願望が、理性を完全に凌駕した。
私は、無意識のうちに彼の首筋に手を回し、彼の唇を奪う。
柔らかく、少し乾いた感触。
それは、あまりにも突然で、あまりにも衝動的なキスだった。
思考するよりも早く、体が動いていた。彼の唇に触れた途端、世界の音が遠ざかり、代わりに胸の奥で鐘が乱打され、内臓が、まるで宙に浮くような奇妙な感覚に襲われた。ほんの一瞬の出来事だった。
唇が離れた瞬間、ロイドはハッと息を呑んだように、私から体を離した。そして、私をそっと床に降ろす。私はまだ、状況が飲み込めず、ただ立ち尽くしていた。
ああ、なんてこと。私は一体、何をしているんだ。
ロイドは、私の顔から目を逸らし、頬を真っ赤に染めていた。彼の表情は、驚きと戸惑いと、そして、どうしようもない恥ずかしさでいっぱいのようだった。その顔を見て、ようやく我に返る。
私は、取り返しのつかないことをしてしまった。受付嬢として、そして、彼に好意を寄せる一人の人間として、これは許される行為ではない。
「あ……その、ごめんなさい……っ!」
私がかろうじて謝罪の言葉を口にすると、ロイドはさらに狼狽したように、首を横に振った。
「いえ、あの……僕こそ、すみません……っ!」
彼はそう言うと、持っていた依頼書をカウンターに置くのも忘れ、くるりと背を向けて、まるで逃げるようにギルドの扉へと向かった。扉がバタン、と大きな音を立てて閉まる。ホールに、再び静寂が戻った。
私は、その場に崩れ落ちそうになった。膝から力が抜け、そのまま床に座り込んでしまう。私の唇には、まだ彼の感触が残っているような気がした。熱を帯びた唇にそっと指で触れる。これは夢ではない。現実だ。
一体、何が私を突き動かしたのか。彼を助けた感謝か、それとも抑えきれない感情の暴走か。どちらにせよ、彼に、とんでもないことをしてしまった事実は変わらない。
恥ずかしさ、後悔、そして、ほんのわずかな、しかし確かな喜び。
様々な感情が、私の胸の中で渦巻いていた。彼は、私のことをどう思っただろう?
気持ち悪い、と思われただろうか。あるいは、ただの事故だと、彼は考えてくれるだろうか。
私は、床に散らばった依頼書を呆然と見つめた。まさか、こんな形で、彼との関係に変化が訪れるなんて。
この衝動的なキスは、私たち二人の関係を、一体どこへ導いていくのだろう。私の心は、不安と、そして未知の期待で、激しく揺れ動いていた。
――――――――――――――――――――
お読みいただきありがとうございます!
次回の第11話「内省と決意」は明日18時頃更新です。
どうぞお楽しみに!



