三宅蒼真と一ノ瀬紅太郎は、一度も喧嘩したことがない。
小競り合いや戯れ合いは数えきれないほどあるが、本気で殴り合ったり、言い争ったりしたことがない。蒼真は紅太郎のがさつさや言葉足らずなところにムッとすることはあっても、それもクールでかっこいいのかもしれない……と思ってしまうし、紅太郎は蒼真の鈍感さや何かとネチネチとしつこいところにイラつくことはあっても、それも無邪気でかわいらしいのかもしれない……と思ってしまう。お互いの欠点を誰よりも理解しつつも、それについて指摘したり、ましてや攻撃することはなく、ふたりは自然とお互いにお互いを許容し合っていたのである。
だからこれからも喧嘩することはないのだろうとなんとなく思っていた。
しかし、愛が人を寛容にさせるものである一方で、恋は人を愚かにするものである。
そして、足して二で割っても元々が馬鹿だった場合——それは救いようがないのだ。
「なんで僕まで走らされたわけ……?」
蒼真はいまだに引かない汗を手の甲で拭うとシャツの襟口を摘んでパタパタと仰いだ。
その隣を涼しい顔をした四谷が歩いている。
「アンタが自分の記録に文句を言うからじゃん」
「文句言ってたのは四谷のほうだよね? しかも僕のタイムはほとんど変わんなかったし!」
蒼真が言い返しても四谷は素知らぬ態度で廊下の先をまっすぐ見つめていた。
四谷が最後の一本を走り終えた後、何故か蒼真まで50mのタイムを測り直す羽目になった。しかも制服姿のままで。お陰で白いシャツが汗に濡れて背中に張り付いてきて気分が悪い。それなのに四谷だけちゃっかり汗が染み込んだ練習着から清潔な制服に着替えているのだから蒼真は不満気だった。
スカートではなく、スラックスを履いている四谷の身長は160後半で、蒼真と並べば美少年アイドルユニットのような雰囲気になる。きっと二人が映った写真をSNSに投稿すれば凄まじい数のハートをゲット出来るだろうが、蒼真はカメラアプリを起動させることすら億劫で代わりにメッセージアプリを覗いた。
既読スルーされていたはずの紅太郎から絶妙な時間に返信がきていることに蒼真は気付く。牙影伝説のスタンプをじっと見つめながら蒼真はスマホの画面の下半分にキーボードを表示させたが、メッセージを送るよりも先に教室に辿り着くだろうと思ってアプリを閉じた。
しかし、二年C組の教室に紅太郎はいなかった。
「え? いないんだけど」
「どんまい」
ガランとした教室を前に紅太郎が幼馴染を置いて先に帰ったと思った四谷は適当なフォローを入れたが、蒼真はそうは思わなかった。紅太郎が下校のときに、ましてや蒼真が待っていてと頼んだのに、蒼真を置いて帰るわけがない。きっと紅太郎は別の教室かどこかにいるに違いないと蒼真は思った。
果たして——蒼真の予想は当たっていた。
「いいじゃん、やっぱり王道はテーマパークだよ!」
「なるほど……」
紅太郎の気配を追って四階の廊下を歩いていた蒼真は、二年A組の教室から聞こえてきた声に足を止めた。教室の後ろ側の扉は閉まっていたが前側の扉は全開で、ふたりの楽しそうな会話が聞こえてくる。
「思い出にも残るし……なにより映えるし、超ロマンチック〜!」
「ほう?」
「ブランシュ城の前でキスしてるカップルの写真、めちゃくちゃ見かけるもん」
「キス……?」
「ごめん、ハードル高過ぎたかも。キスじゃなくてもいい。ハグとか……手を繋ぐだけでもいいよ!」
「ううん……」
「とにかくこの夏はアップルランドで決まり! 行こうよ、夢の国へ一緒に!」
「そうだな」
——明るく声をはずませながらデートに誘う仁藤と、それに対して否定しない紅太郎。
そんなふたりのやりとりを耳にした蒼真は教室の後ろ側のドアを勢いよく開け放った。
「ふぅ〜〜〜〜〜〜〜ん?」
語尾にいくに連れて音程がゆっくり上がっていき、ピタッっと止まった。
まるでジェットコースターが落ちる直前みたいに。
「仁藤さんとテーマパーク行くんだぁ〜! コウちゃ〜ん?」
グラウンドで見た時とは違う意味で顔を真っ赤にしている蒼真に、四谷はドン引いた。あの可愛い林檎ちゃんはどこへやら——今の蒼真の顔は、地獄絵図の閻魔大王のようである。怒りに満ちていてもイケメン度合いが全く下がらないことを踏まえると阿修羅像の存在しない四番目の顔とも言えるかもしれない。そうやって四谷が日本史の資料集のページを脳内で捲っていると紅太郎が椅子を倒す勢いで立ち上がる。
「はぁ? なんで四谷といるんだよ?」
「えっ、アタシ!?」
突然紅太郎に名指しされた四谷はポーカーフェイスを崩して狼狽える。まさかこの場面で自分の名前が挙げられるとは四谷は思ってもみなかったが、恋は盲目であり、初恋は暴風雨なので、近くにいれば問答無用で巻き込まれるのだ。飛んで火に入る夏の虫ならぬ夏の恋の火花は、まさしく追尾型ミサイルである。
「宮島の手伝いっつってたのに、なんで他のやつといんだよ? しかも汗だくでよぉ!?」
先攻、一ノ瀬紅太郎。唸るような低い声と、顔の迫力が凄まじい。流石は喫茶店のバイトで「いらっしゃいませ」と挨拶しただけで新規客を追い払っただけある。
「は? そっちこそ涼しい教室でイチャつくなんて随分と楽しそうじゃん! そもそもコウちゃんのせいで僕は疲れ果ててるんだよ!? 可哀想だよねぇ!? 謝ってよ!」
後攻、三宅蒼真。迫力には欠けるものの、姉夫婦の喧嘩をよく見かけていた経験が活きている模様。なお、「謝ってよ!」は蒼真の姉の口癖であり、蒼真の義兄は「ごめんなさい」が口癖である。
「イチャついてねーよ! つーか、こっちの台詞だわ! オメーのせいでニトに迷惑が掛かってんだよ! 態度か面、どっちか改めろや! ブスになれ!!」
「ブスになれってなに!? 意味不明すぎない? この顔は天然だから無理なんですけど! 僕はニトさんに何もしてないし、ちょっかい出してんのはコウちゃんのほうでしょ!?」
「出してねーわ! いいから四谷と離れろ! 俺以外の誰にも興味持つな! ブスになれ!!」
「だからブスになれってなんなん!? 無理に決まってんだろうが! 逆整形しろってか!?」
——これが紅太郎と蒼真にとって生まれて初めての喧嘩であった。
おそらくこれ以上に馬鹿馬鹿しい喧嘩は、この世にふたつと存在しないであろう。
一方その頃、激しく言い争う蒼真と紅太郎の背後で仁藤は机に突っ伏す勢いで頭を抱えていた。
「うわぁああああ! やらかした!! 初恋好き好き暴走モードのときには何事もなかったから油断していた! クソッ! このタイミングか! 最後まで気を抜いてはいけなかった! うわぁあああああ!! トロールだぁあああああ!! 処してください!」
「なにいってんの?」
四谷は真顔で仁藤に突っ込む。半分どころか最初から最後まで仁藤が何を言っているのか四谷には分からない。「トロール」という単語だけは四谷もオンラインゲームを嗜んでいるので理解できた。だからと言って状況の把握は全く出来ていなかった。
「オメーの面が無駄にいいせいで、ニトにも俺にも迷惑が掛かってんだよ! アホ!」
「イケメンの何が悪いんだ!? 迷惑なんてかけた覚えなんてねーわ! バカ!」
「やめて! 私のためでもないのに争わないで!!」
「なにこれ」
吠えるバカ。
叫ぶアホ。
仲裁するドジ。
傍観するボケ。
放課後の教室は青春の匂いがする混沌に支配され、窓から差し込む橙色の光がティーンエイジャーたちを捉える。こんなに馬鹿馬鹿しいのに輝かしくて、賑やかで、どうしようもなく愛おしい瞬間が今しかないことを彼らは知らない。まばたきによって切り取られていく現実は、どんなに甘くても苦くても酸っぱくても——この世界に存在するあらゆる映画のシーンに勝る。何十年も先に、似たような色をした夕陽を見かけたときにふと思い出すのは、きっとこの瞬間だろう。
でも、あくまでもそれはふたりの喧嘩が丸く収まったらの話である。
「あやまれッーーーーーー!!」
「てめえがなーーーーーー!!」
喧嘩慣れしていないふたりは、まるで野生動物のように大声で威嚇し合う。四谷は思わず耳を塞いだ。完全に頭に血が昇っており、どこで止まればいいのかは紅太郎にも蒼真にも分からなくなっていた。
「ダサいんだよ、マジで!」
蒼真は思ってもいない罵倒が口から溢れ出した瞬間、ギューッと胸の奥が押し潰されるような感覚がした。
そんなわけがない。紅太郎は、いつだって格好良い。例え、蒼真が知らないところでダサい紅太郎が存在していたとしても紅太郎が蒼真のヒーローであることに変わりはない。いつだったかもう忘れてしまったけれど、泣いていた紅太郎に伝えた「どんなことがあってもコウちゃんは世界一カッコイイ!」という言葉に偽りはなく、蒼真はいまだって本気で思っている。それなのにどうして怒りは蒼真に嘘を吐かせてまで紅太郎を傷付けようとするのだろうか。
「——ッ!!」
紅太郎は蒼真の罵倒を聞いた瞬間に言葉を失い、声の代わりに手が出た。
口は悪くても実際は罵倒に関する語彙力がそこまで高くない紅太郎の怒りが支配するのは、言語ではなく筋肉である。胸倉こそ掴まなかったが、蒼真の手首を捉えた紅太郎は反射的にそれを捻り上げようとした。
そのとき、紅太郎の脳裏に浮かんだのは幼い頃に自宅の台所で母親と言い争っていた父親であった。母親の罵倒にカッとなった父親が彼女の細い手首を掴んだ瞬間を紅太郎は見ていた。父親は、紅太郎のことも母親のことも殴ったり蹴ったりしなかったが、あれだって明確な暴力だということは17歳になった紅太郎にもわかる。
そして父親と同じことを蒼真にしそうになった自分に気付いた紅太郎は顔色を失った。心が冷え切って、指先に力が入らなくなる。でも蒼真の手首を自ら離すことも出来ず、紅太郎は唇を噛み締める。泣きそうな蒼真の顔を前にして、この顔が見たかったんじゃない!と自分を責め立てるが、もうどうしたらいいのかわからなかった。
窓ガラスの向こうで夕陽がまた少し地平線へと傾く。
ふたりの男子高校生が、教室の中央で睨み合う。
そして——終わりは唐突にやってくる。
「ほざくなぁあああああああああああああ!!」
その日、一番の大声を出したのは紅太郎でも、蒼真でもなかった。
ガガガガッ——と凄い音を立てながら机を押して争うふたりの間に突っ込んできた仁藤は、まさしく少年漫画の主人公のようだった。
あまりの迫力とパッションに蒼真と紅太郎、ついでに四谷が圧倒されていると仁藤は机の上にドンと腰を下ろし、東京バックドロップの名シーンを再現する。
「いますぐ河川敷に行って殴り合うか、落ち着いたタイミングでテーマパークに行くか選びな!」
仁藤は蒼真と紅太郎の眼前に手のひらを突き出して叫んだ。この場で気付いた者はひとりもいなかったが、その仲裁台詞は仁藤が一番好きな漫画の台詞をオマージュしたものだった。ついに言ってやったぜ……!という達成感と興奮に鼻息を荒くする仁藤は蒼真と紅太郎の顔を交互に見比べた。
絶妙な沈黙がふたりの間に漂う。机の上に座って足を組む仁藤の肩越しに互いが見えた。どちらも戸惑った表情をしていたが、目を見ればなんとなく考えていることは伝わった。
蒼真と紅太郎は同時に口を開く。
「「……テーマパークで」」
そして、ふたりが出した結論を聞いた仁藤は机の上から滑り落ちた。
「いや、殴り合わんのかい!?」
本格バトル漫画好きの女子高校生は、現実は漫画のようにはいかないものだと大袈裟に肩を落とした。
——とはいえ、さっそくこの週末に夢の国へ……というわけにはいかないのが学生の厳しい現実である。
紅太郎と蒼真が喧嘩した日は期末試験まであと二週間ほどという微妙なタイミングであり、勉強が本分である高校生たちは予定を先延ばしにすることになった。
そしてスケジュールに関して検討に、検討を重ねた結果——蒼真たちがテーマパークに向かう日は、なんと夏休み中に決まった。
「点呼をとりまーす!」
早朝の駅前で手旗の代わりにアップルリリーちゃんのぬいぐるみを掲げ、ツアーガイドさながらに声を張り上げたのは言い出しっぺの仁藤であった。
「一ノ瀬紅太郎くん!」
「はい、元気です」
「三宅蒼真くん!」
「はい、寝不足です……」
「四谷紫乃ちゃん!」
「はい、なんでここにいるのかわかりません」
「よし、全員揃ってますね!」
個性豊かな返事を聞き終えた仁藤はニッコリと頷いた。紅太郎は相変わらず何を考えているか分からない表情を浮かべ、蒼真は夜中まで服装や荷物を準備していたせいで睡眠時間が削られてグロッキーになっており、四谷は本気でなぜここにいるのかわからないと言わんばかりの顔で三人を見つめていた。
「これ、本当にアタシがいる意味あるかな?」
今までにも何度も繰り返されてきた四谷からの質問に素早く答えるのは仁藤である。
「巻き込んでごめんね、紫乃ちゃん……でも流石に私もこのふたりのお守りをひとりでこなすのはキツくて……」
「今、〝お守り〟って言ったか?」
「間違えた。〝お世話〟です」
「言い換えてもあんま意味変わんないと思うけど」
しょんぼりと眉尻を下げる仁藤に赤ん坊扱いされた紅太郎が食ってかかるも、仁藤からの扱いは変わらなかった。先頭を歩く仁藤の後ろから四谷が続き、さらに後ろで紅太郎が最後尾を歩く蒼真のほうをチラチラと盗み見ている。
まだ朝が早いのでテーマパークの最寄駅も人はまばらかと思いきや、駅からテーマパークのエントランスに行くまでの道のりはほどほどに混雑していた。流石は夏休み一週目のテーマパークだ。親子連れ、カップル、観光客、そして学生たちと多種多様なお客さんが集っている。
「どうせならふたりで行かせればよかったじゃん」
四谷が歩きながらもしつこく文句を垂れると仁藤がフッと呆れたように笑う。
「いかないでしょ、このふたりだけじゃ……」
そして女子ふたりが揃って男子たちを振り返ればスマホの画面を必死になって覗き込んでいる姿がそこにある。
「なんかチケット消えた」
「そんなわけなくない!?」
悲壮感が感じられない表情で助けを求めてくる紅太郎に慌てて仁藤が駆け寄れば、ふたり分のスマホの画面を覗き込んで彼らの代わりに専用アプリを操作する。
「だからそこじゃないって!」
「どこだよ」
「こっち?」
「いや、これじゃね?」
「ちょっと! 変なところ触らないで、おじいちゃんたち!!」
入園チケットのQRコードを表示させるのにも苦戦している男たちと、熱心に世話を焼く仁藤の様子を四谷は呆れながら眺めていた。
仁藤からメッセージアプリを通じてグループトークに招待されたとき、四谷は通知を見間違えたのかと思った。
赤の他人を巻き込んで盛大に怒鳴り合った結果、蒼真と紅太郎はテーマパークにて決着をつけることにはなったものの、四谷から見て彼らが仲直りしたとは言い難かった。仁藤がその場を取り纏めた後もふたりの間には微妙な空気が流れていたし、次の日から学校で蒼真と紅太郎が絡む機会が減ったような気がした。
意図せず蒼真の紅太郎に対する気持ちを知ってしまった四谷は柄にもなく彼らを心配していた。このままふたりの間に亀裂が入ってしまったら、その一端は自分にもあるのではないかと責任を感じてしまいそうだった。
だからこそ四谷は仕方なく仁藤からの招待を受け入れてグループに参加した。
しかし、その心配が完全なる杞憂だと分かったのはそれからすぐ後のことだった。
「お願いだからグループトークでイチャつくのやめてくんない?」
四谷はアップルジンジャーソーダに突き刺さったストローに噛み付きながらまた文句を垂れた。
入園してすぐに朝食代わりの腹ごしらえを行うことにした若者たちはそれぞれが食べたいパークフードをテイクアウトして、入り口近くのオープンテラスに集っていた。四人で手分けして、ひとりがテーブルを押さえ、ひとりが飲み物を買いに行き、残りのふたりがバラバラの店でフードを買いに行ったわけだが、連携をとるために使用しているグループトークでのやりとりに四谷は苛立ちを覚えていた。
「……え、なんのこと?」
黙り込む紅太郎と仁藤の代わりに蒼真が恐る恐る聞き返せば、四谷は無言でトーク画面を見せつけた。
そこには、店に並んだ、注文を出来た、品物を受け取った、席に向かうなどの連絡事項が淡々と並べられていたが、なぜか途中から蒼真と紅太郎だけのやりとりになっている。その部分を四谷が爪で引っ掻いて見せると蒼真はムッとして紅太郎のほうを振り返る。
「だってコウちゃんが急にコーヒーゼリードリンクを飲みたいって言い出すんだもん!」
蒼真が紅太郎に責任転嫁すれば紅太郎もホットドッグにかぶりつきながら負けじと言い返す。
「オマエが味の感想を送りつけてきたから気になっちまったんだろうが」
「コウちゃん珈琲苦手でしょ!?」
「もう飲める」
「そういうことじゃなくてさ〜!」
また始まった小競り合いに四谷はげんなりと眉を顰めた。四谷がグループトークに参加してからというものの、こんな喧嘩のような、喧嘩ではないようなやりとりがずっと続いている。テーマパークに遊びに行くスケジュールを組む際にも、最初に予定していた日に紅太郎が追試を受けなくてはならないことが判明して(しかもよりにもよって赤点教科は英語だった)予定がずれ込み、そのことを蒼真が弄り倒したにも関わらず最終的に蒼真が紅太郎に勉強を教えることで落ち着いたし、さっきのコーヒードリンクの件も一悶着あったのに気が付けば蒼真が紅太郎とドリンクをシェアすることがすんなり決まった。
——じゃあ、最初からそうしろよ!
これこそが四谷の心からの叫びであった。
「つか、もう仲直りしたんでしょ?」
パークフードも当たり前のように分け合っている幼馴染たちに四谷は投げやりに尋ねた。仲直りしたなら四人でテーマパークに行くことはもちろん、四谷がついていく必要もない。いっそのこと途中で帰ってやろうかと四谷が不貞腐れていると、蒼真と紅太郎は気まずそうに顔を見合わせ、おずおずと答える。
「まだ……だけど……」
「は? 普通に喋ってんじゃん」
「フツーに話はするけど、微妙っつーか……」
「はぁ!?」
モジモジしている幼馴染コンビを前に四谷は頬の筋肉をぴくつかせた。あれだけ親しそうにしておいて何を言うのか。ここまで来る途中の電車内だって眠そうにしている蒼真に紅太郎が当然のように肩を貸していたではないか——そのことについても問い詰めたが、蒼真と紅太郎は何がおかしいのか本気で分かっていない様子だった。
「やば……いみわかんない……キレそう……」
「えっ!?」
ドリンクを持つ手を震わせる四谷にすぐさまフォローに入るのはやはり仁藤だった。
「ごめんね、紫乃ちゃん! このふたりは、ずっとこうなの!! 迷惑だよね!? でも今日が終わればきっと落ち着くはずだから……紫乃ちゃんのチケットも誕プレと迷惑料を兼ねてふたりに奢らせるから安心して! もうコレはコレで好きにやると思うから私たちは気にせずに楽しもう!?」
「コレって言うな」
早口で捲し立てながら瞳をうるうるさせる仁藤に四谷はこれ以上、責め立てることが出来なかった。そもそもこんなふたりに仁藤が何も言わないので、四谷だけが文句を言っているカタチになっているのもちょっと嫌だったのだが、四谷以上に仁藤のほうが紅太郎たちに対する扱いが雑なので、そういう感じでいいんだ……とホッとする。まあ、ここは可愛い女の子である仁藤に免じて許してやるかという気にもなってきた。チケットも奢りであるし。
「いいからアンタたちも紫乃ちゃんに謝るか、お礼言って!」
「ゴメンね、紫乃チャン」
「ありがとう、紫乃チャン」
「…………」
しかし、四谷の心に芽生えた寛容な気持ちも幼馴染たちの適当な謝罪と感謝によって立ち消えた。思わず四谷が無言で中指を立てると仁藤が「ここは夢の国だよ、紫乃ちゃん!」と言いながらぬいぐるみで物騒なハンドサインを必死に隠した。
「紫乃チャン、指が長くて綺麗だね」
「わりと手デカいよな。蒼真と同じくらいか?」
「いやいや流石に僕のほうが大きいから!」
「うそつくなよ」
「は〜? ほら見てよ!」
「ちっちぇえ」
「コウちゃんが無駄にデカいだけですぅ〜!」
四谷の指の長さを褒めたかと思ったら、自然な流れで互いの手の大きさを比べ始めた蒼真たちを見て四谷は悟った。もはやふたりに気を使う必要はなく、いっそのこと無視して開き直ったほうがいいのかもしれないと。
要するに、楽しんだもの勝ちである。
「……さっさとカチューシャ選びに行くよ」
四谷はそう宣言すると使い捨てのフォークで友人たちが選んだパークフードの一部を次々に盗んでいった。悲鳴が白いテーブルの上で飛び交う中、ペロリと朝食を平らげた四谷は残りのアップルジンジャーサイダーをジュゴゴゴゴ——ッと凄い音を立てて飲み干した。
それからというもの完全に開き直った四谷紫乃を筆頭に蒼真たちは夏のテーマパークを遊び尽くした。
カチューシャをつけることに抵抗がありそうだった紅太郎も驚くほどすんなり林檎の形をした耳をつけた。逆にギリギリまで抵抗したのは蒼真のほうであった。紅太郎がつけていたのはアップルランドのメインマスコットキャラクターであるジューシーくんのカチューシャだったが、蒼真はその恋人であるリリーちゃんのカチューシャを三人から押し付けられたのである。林檎の形ならともかく、ハートを頭に乗せるのは嫌だとリリーちゃんの目の形を模したカチューシャを蒼真は拒否した。しかし、最終的に紅太郎が「俺のジャージにリリーちゃんを縫い付けたのはオマエだったよな?」と過去のイタズラを持ち出してきたために、蒼真はハートのカチューシャをつけるしかなくなった。
「かわいいじゃん」
「当たり前でしょ」
ショップを出た直後に紅太郎がカチューシャの耳をつついて笑ってくるので思わず可愛げの無い返事をしてしまった蒼真だが、心臓はとんでもないことになっていた。園内に流れる陽気なBGMのテンポよりもずっと速い鼓動に気付いた蒼真は寝不足のせいだと自分に言い聞かせたものの、それで誤魔化されるような恋心ではなかった。なにせ十年モノだったので。
カチューシャを選んだ後は、アトラクションに乗りまくった。人気アトラクションに並ぶのは大変だったが、仁藤のプロ並みのアテンドのお陰でスムーズに遊ぶことが出来た。どうやら仁藤は単なる漫画好きだけには収まらず、テーマパークの達人でもあるらしかった。
「アップルランドではジューシーくんとアップルリリーちゃんがメイン展開されているけれど、最近ではジューシーくんのペットであるデリシャスやジョナサンもぬいぐるみやグッズを中心に人気を博しているの! この後、13時からもメインフロアでショーがあるから通り過ぎるときに見に行こうね。ブランシュ城にはポイズンアップルと棺が展示されてるからそこで写真を取ろう! クリスタルの棺は蓋がされてるけど、横に寝転がるのはOKなんだ。上手く写真を撮れば棺の中に入ってるようにも見えるからみんなでチャレンジしようね!!」
行列に並んでいる間もずーっと仁藤がうんちくを垂れていたので、他の三人が退屈することもなかった。
約二名、まともに聞いていない男子たちはいたのだが——。
「ながいながい」
「なんて?」
「棺が展示されているのは知ってたけど写真の撮り方までは知らなかった……よく知ってるね、翠結ちゃん」
「えへへ……ポイズンアップルの写真はふたりで撮ろうね、紫乃ちゃん♡」
いつのまにか下の名前でお互いを呼び合うようになっていた仁藤と四谷の尋常ならざる距離の縮まり方に関しては、コースター系の記念写真でちゃっかりふたりでハートマークを作っている仁藤と四谷の姿を見つけた時点で紅太郎はなんとなく察していたものの、蒼真は自分のことに手一杯だったせいで気付くことがなかった。
だから夕方になって仁藤と四谷が先に帰ると言い出したときには、蒼真は飛び上がるほどに驚いたものである。
「え! もう帰るの!?」
日が暮れてきてイルミネーションに光が灯り始めたエントランスホール前で、蒼真がノリで買った光るジューシーくんのオモチャを握り締めると仁藤は笑顔で頷いた。
「うん! この後、紫乃ちゃんのお家に泊まりに行くんだ〜」
「そういう予定なら先に言っといてよ……」
「いや、さっき決めた」
「さっき!?」
素っ頓狂な声を上げる蒼真に対し、紅太郎は何も言わなかった。ブランシュ城を出た後に絶叫系ではなく、ライド系に乗りたいと言い出した女子たちが男子と別行動を申し出た時点で紅太郎もこうなることを予想していた。どうやら四谷と仁藤は意外と性格も趣味も合い、相性もいいらしい。
「またあそぼ〜」
「夏休み中にも連絡するね! 今度は海に行こうよ! あ、でもクラゲが出るからお盆前にね! もし予定合わなくてお盆過ぎたらプールとか——」
「翠結、前見ないと転ぶよ」
「ありがとう、紫乃ちゃん!」
ふたりはお揃いの青林檎のカチューシャをつけたまま蒼真たちに手を振る。せめて駅まで送って行こうかと迷ったが、それはあきらかに野暮だったし、紅太郎が仁藤に提案する前に逆に釘を刺されてしまった。
『そういうのいいから! それより紅太郎くん!?』
「はい……」
『全然告白する気ないじゃん……』
『いや、だって……』
『だってじゃなーい!』
仁藤と四谷が帰る前にスーベニアショップで土産を選んでいたとき、紅太郎は仁藤に叱られた。時刻はもう18時近くで、10時間以上は蒼真と顔を合わせているが、紅太郎は告白する気配が微塵も感じられない。せっかく仁藤たちが気を利かせて午後はふたりずつで分かれて行動することになっても紅太郎は蒼真とツーショットを一枚撮っただけで手を繋ぐことすら出来ていなかった。これには後方待機腕組み保護者もご立腹である。
『しかも仲直りもしてないってどういうこと!? あの後、一緒に帰ってたよね?』
仁藤に突っ込まれて紅太郎は唸った。
蒼真と喧嘩した日、紅太郎はそのまま予定通りに蒼真と下校したのだが、蒼真の家まで来たのに怖気付いてしまい、蒼真の部屋に上がらず帰ってしまったのだ。玄関前で「やっぱ今日は帰るわ」と言い出した紅太郎を、蒼真は泣き出しそうな顔で見つめていた。いや、本当は泣いていたのかもしれない。でもちょうど実家に帰ってきていた蒼真の姉がそのタイミングで出てきたので、蒼真は姉と入れ違いに扉の奥に引っ込んでしまったのだ。紅太郎はその場に立ち尽くした。蒼真の姉が車で送ってくれると言い出すまで蒼真の家の玄関先から動けなかった。
翌日も学校で顔を合わせたが、蒼真はいつも通りの笑顔で紅太郎に挨拶をした。その態度に紅太郎がホッとしたのも束の間、蒼真は紅太郎に妙なイタズラや無駄なちょっかいを出すのをやめてしまった。紅太郎が喫茶店で待っていても口のうるさい常連客はやってこない。あまりにもそれがショックだった紅太郎は自ら蒼真に絡みに行ったり、下校の約束をとりつけたりしたのだが——蒼真は紅太郎を拒絶こそしないが以前のようなふざけた態度は控えてしまい、紅太郎は蒼真の部屋でふたりきりになっても告白はもちろん真面目な話を切り出すことも出来なかった。
紅太郎の動揺は露骨に成績に反映した。英語以外もテストはボロボロだったし、元英語部にも関わらずよりにもよって英語で赤点をとってしまったことは蒼真ほどではないにしろ顔をが真っ赤になるほど恥ずかしかった。紅太郎は蒼真にカッコ悪いと思われるのではないかと心配で堪らず追試も危ういのではないかと思われたが、そこでようやく喫茶店に蒼真が参考書が詰まった鞄を抱えてやってきたことでどうにか落ち着いてテーマパークに行く日取りも定められたのだ。蒼真はグループトークでは紅太郎の赤点を散々煽ったが(赤点太郎くんというあだ名がグループ内で流行ったのは流石に紅太郎も堪えたが、リスケすることになったのは自身の赤点のせいだったので甘んじて受け入れた)決して「カッコ悪い」とも「ダサい」とも言わず、丁寧に英語を教えてくれた。教師よりもずっと教え方が上手い蒼真に紅太郎は深く感心して惚れ直したのだが、まともに感謝すら伝えられていない。
『ブランシュ城の前でもチャンスあげたよね!? 紫乃ちゃんと写真撮ってるから先行ってていいよって……あれはそういうフリだったんだからね!?』
『わーってるよ、それくらい! でも城の前にはカップルがうじゃうじゃ集ってっから告白どころじゃねえよ!』
『そういう場所だもん!』
『いすぎだろ!? めっちゃ見られたわ、俺の蒼真が!』
『まだお前のじゃないわ! おばか!!』
仁藤が声を抑えながら説教を喰らわせても紅太郎に反省の色は見られなかった。
これでも紅太郎はテーマパークに着いてからずっと蒼真のことを見ていた。どのタイミングで手を繋ぎ、どのタイミングで愛を伝え、どのタイミングでハグをして、最終的にどのタイミングでキスをするか——そればっかり考えていたからだ。頼りになる大人たち——喫茶店の店主や蒼真の姉——に相談したところ、とにかく素直になることを勧められたので思ったことはほとんど口にするようにしていた。
蒼真が気に入ったコーヒードリンクは今後の参考になるかもしれないと思ったから、自分の分を買ってくれないならひとくち分けてほしいと頼んだ。カチューシャはどうしても自分がつけているジューシーくんの恋人であるリリーちゃんを蒼真につけてほしかったから、お願いした。実際にカチューシャをつけてみた蒼真は可愛かったから、かわいいと伝えた。蒼真の希望と体調を最優先したかったから、自分が乗りたい絶叫アトラクションは控えた。ふたりで写真を撮りたかったから、通りすがりのスタッフに撮影を頼んだ。蒼真が仁藤たちと同じタイミングで帰るか迷っていたから、もう少し一緒にいてほしいとねだった。
出来る限りのことはやっていると紅太郎は自分でも思ったが、告白するチャンスはまだない。
蒼真の横顔を見ているとなんとなく今じゃないってわかってしまって、紅太郎は何も言えなくなった。
でも今日中に伝えるという覚悟だけは決めてきた。
『20時にはブランシュ城前でショーがあってプロジェクションマッピングとか、花火とかあるからそのタイミングを逃したらもうないよ! ショーが終わったら帰るお客さんでめちゃくちゃ混雑するから気をつけて! 人混みになるからはぐれないようにして! ちゃんと成功したら……いや、たとえ失敗したとしても連絡してね! 一回の挫折で諦めないで! 次は海で再チャレンジすればいいだけだからね! スケジュール立てるから! わかった!?』
『オマエは俺のお母さんか』
『いいから、返事!』
『ハイッ……』
こうして鬼教官ならぬ鬼ゴッドマザーに紅太郎は戦場もとい夜のテーマパークに送り出されたのであった。
「夜になっても意外と人が多いな……」
「ほんとだ〜」
仁藤たちを見送った後、蒼真たちはブランシュ城の前まで戻ってきた。20時からショーがあるせいか2時間前でも場所とりをしている人たちで溢れ返っていた。地面に落ちているポップコーンをスタッフがさっと掃いて捨てるも、またどこかで誰かがフードを溢した。そういえば夕食の時間だなと思って紅太郎は蒼真に問いかける。
「なんか食いたいものあるか?」
その声が恐ろしく優しいせいで、蒼真はつい目を逸らしてしまう。
「んー、カレーとか?」
「そりゃ俺が食いたいもんだ。オメーが食いたいもん聞いてんの」
「あはは、いいじゃん。僕もカレー好きだしさ? ほら、アップルカレーだって!」
わざと無邪気にはしゃいで見せれば紅太郎は穏やかな笑みを浮かべながら蒼真についてきてくれる。それが嬉しいのに、しんどくて、蒼真は早く日が落ちきってくれないかなと思った。あたりが暗くなればほんのちょっぴり泣いてもバレなさそうだからだ。
紅太郎と喧嘩してから蒼真の心はめちゃくちゃだった。
仁藤と紅太郎のアレコレについては全て誤解だったと蒼真も気付いているが、それでもふたりが喋っているところを見るだけで頭がガンガンして気分が悪くなる。そこへ四谷や自分も加われば問題ない。でも紅太郎が自分以外の誰かとふたりで過ごすことを想像するだけでもうダメだった。
——紅太郎の隣は、僕のものだ。
そう叫びたくて仕方がないのに、それが出来ない。
小学生のときの蒼真には、出来た。
人目を憚らずに泣いて、紅太郎を困らせても構わなかった。
でも、今は違う。
『翠結ちゃんって漫画だけじゃなくてテーマパークのことにも詳しいよね。そういうバイトでもしてた?』
『ううん。バイトはしてない。でも大学生になったらスタッフに応募してみようかなって。実はこういうエンタメ系の運営にも興味あるんだよね』
昼食代わりに軽食をつまみながら雑談している最中に、ふと進路の話になった。真面目に話したわけではない。それこそお喋りの延長線上にあった。けれども、まるで当然のように未来のことを描いている友人たちに蒼真は置いて行かれたような気持ちになった。
『テーマパークも好きだけど、漫画のイベントなんかも最近はよくあるし……漫画やアニメとアトラクションのコラボなんてのも見かけるじゃん? ああいうのに携われたらなーって。あとは、海外でも日本の漫画って注目されてるから橋渡し的なのもできたらいいな〜!』
『わー、すご……めっちゃいろいろ考えてるじゃん』
『紫乃ちゃんはなんか気になってることあるの?』
『いやー、具体的にはまだだけど……あ、でも来年に成人すんのは楽しみかも』
『え、なんで〜?』
『選挙権もらえんじゃん。選挙、行ってみたいんだよね』
『あー! わかる! 選挙いきたい! ひとり一票の重みを感じたい!』
『そこなんだ……』
『漫画の人気投票は……ひとり一票じゃないし、組織票もあるからぁ……』
『すごい苦しそうな顔してる』
『草田ァ……』
『だれ?』
『ニトの好きな漫画のキャラ。人気投票圏外』
『力及ばず……』
立食用のテーブルに突っ伏す仁藤を紅太郎が呆れたように見下ろし、四谷が心配そうに背中を撫でた。
蒼真だけが、その輪に加われていないような気がした。
その後、顔を上げた仁藤が『蒼真くんは?』と聞いてくれたけれど、蒼真は自分がなんて答えたのか思い出せない。無難に大学受験すること、推薦が楽だけれど教師から国立大学を勧められていることぐらいは場を持たすために伝えたのかもしれないが、だとしたら見当違いな答え方をしてしまったと蒼真は思う。
あのとき求められていたことはそういうことじゃない。
彼らがしていたのは、もっと先にある輝く未来の話だ。
だから紅太郎も話を振られたときに、こう答えたのだ。
『好きなやつのために珈琲淹れられたらそれでいい』
仁藤たちがわざとらしく囃し立てる中でも、蒼真の意識はどこか遠くにあった。彼らが囲んでいるテーブルから蒼真だけが離れていて、どれだけ追いかけようと辿り着かない。そんな感覚に襲われて、恐ろしくなった蒼真は氷が溶けたドリンクを一気に喉の奥に流し込んだ。軽く咳き込んだら、皆が一斉に相馬の顔を心配そうに見つめる。そんな目で見ないでほしかった。
——「好きなやつって僕?」だなんて聞けるはずがない。
走ることをやめてしまった自分に、今更紅太郎の隣を歩く権利があるのか蒼真は疑問だった。
アップルカレーは意外と辛くて美味しかった。
「あんなにかわいい見た目してんのにがっつり辛いのかよ……」
「子ども向けだと思って頼んだ人いたら可哀想だよね」
林檎のかたちに模られたライスの上に中辛と辛口の間くらいのルーがかかっていたアップルカレーは蒼真の口には合ったが、紅太郎には辛すぎたようだ。真っ赤に染まったラーメンでも何杯でもいけます、って感じの見た目をしている紅太郎だが、カレーは中辛が好きだ。苦いものも辛すぎるものも得意ではない紅太郎はわりと子供舌である。しかし、その舌の繊細さが珈琲を淹れるときに案外役に立つらしい。
「水くれ、水〜」
「さっきからどんだけ飲むんだよ」
気合いと根性でカレーを完食した紅太郎に蒼真はペットボトルを渡す。もう残り少なかったので全部飲んでしまっていいと告げれば夜の園内をふたりでフラフラと歩いた。蒼真が乗りたいアトラクションは網羅してしまっている一方で、この時間から紅太郎が好きな絶叫系に並んでしまったらショーは見れないだろう。待ち時間が少ないライド系アトラクションに乗ろうかと思ったが、蒼真は気乗りしなかった。
「あ、すいません……!」
好奇心に身を任せて視線をあちらこちらに動かしていた蒼真は、走る子どもを追いかけてきた父親らしき男性にぶつかった。すぐに頭を下げて振り返れば子どもは蒼真が買ったオモチャと同じものを振り回しながら走っていく——その姿に過去の自分が重なった。興味が湧いたら一直線で走り出したら止まることを知らなかった蒼真は、いつも紅太郎に追いかけられていた。足が速い蒼真を見失わないように必死に走り回って汗だくになった紅太郎は、いつも同じことを言う。
「バカ、迷子になったら困るだろうが」
そうして、蒼真の手を握る——。
「ほら、いくぞ」
「え?」
蒼真は困惑した。紅太郎に手を引かれている。ショーが始まる時間が近付いてきたからか、人通りが多くなっている。みんなアトラクションに乗るのではなく、見やすい位置でショーを鑑賞したいらしい。皆、同じことを考えている人々の流れに逆らって、紅太郎は歩いていく。ギュッと蒼真の手を握り締めて決して離そうとしない。その手の強さと、温かさは小さい頃からずっと変わらなかった。
「なんだよ……」
呆然としながら顔を覗き込んでくる蒼真に紅太郎は気恥ずかしそうに眉を下げた。
「いや、だって……」
蒼真は、手を繋がれていることを意識するように自分からも握る力を強める。
「み、られない……かな……?」
辿々しく蒼真が尋ねると紅太郎はクッと喉の奥を鳴らす。
「通りすがりにいちいち手繋いでるかどうかなんて誰も確認しねーよ」
「それもそっか……」
「見るとしたらオメーの顔と、カチューシャぐらいだろ」
「ちょっと?」
揶揄ってくる紅太郎に蒼真は唇を尖らせる。
ふたりはどんどんと人混みから離れていき、緩やかな坂を登っていく。その間もずっと紅太郎は蒼真の手を繋いだまま絶対に離さなかった。
「ショー見るんじゃないの?」
「こっちのほうがよく見える」
紅太郎は知る人ぞ知る鑑賞スポットに蒼真を連れて行った。螺旋状の階段を登ってアトラクションでもなんでもない林檎のカタチをした建物の頂上に着く。そこからはライトアップしたブランシュ城がよく見えるのに、ほとんど人がいなかった。
「こんなとこ、よく知ってたね」
「まあな」
蒼真は繋いでいないほうの手を真っ白な手すりに添えた。言葉数少ないまま紅太郎はブランシュ城ではなく、蒼真の横顔を見つめている。その視線に気付かないほど蒼真も鈍感ではない。
「またニトさんに教えてもらったの?」
紅太郎が注いでくる視線の意味を理解していながら蒼真は幼馴染を煽った。これをきっかけに紅太郎がキレたり怒ったりしたらいいなと思った。そしたら何もかもが有耶無耶にできて、ただぼんやりと幼馴染のままでいられると思ったから。
でも一ノ瀬紅太郎は、そんな誤魔化しが通用する相手じゃないことも蒼真はわかっていた。
「そうだ」
紅太郎は蒼真を真正面から見つめて頷く。
「大好きなやつと一緒に見たくて教えてもらった」
紅太郎は決して目を逸らすことはない。
ずっと蒼真から目を離さなかった。
本当は、あの日からわかっていたのだ。
『……上がってく?』
生まれて初めて喧嘩した日、いつものように紅太郎を家に誘ったら断られた。
『やっぱ今日は帰るわ』
その瞬間、目の奥がグッと熱くなって蒼真は涙の兆しを感じた。それを紅太郎に気取られたくなくて顔を背けた。すると紅太郎はそんな蒼真に手を伸ばした。
『蒼真ッ……』
あまりにも必死過ぎる声に、蒼真は耳を疑った。もしも玄関から姉が出てこなかったら、蒼真は紅太郎の手に捕まっていただろう。けれどもガチャリと音を立てて扉は開き、紅太郎の手は宙を切った。
靴を揃えることすら忘れて階段を駆け上がった蒼真は、自分の部屋のベッドに飛び込んだ。枕と一緒に紅太郎がとってくれたぬいぐるみが跳ねる。うつ伏せになってウーウーと唸って、めちゃくちゃになった感情を落ち着かせるために固く目を閉じた。
再び蒼真が瞼を持ち上げたのは、制服のポケットからこぼれ落ちたスマホがフローリングの上で震えたからだ。ベッドに寝転がったまま蒼真は腕だけを伸ばしてそれを拾い、通知を見る。紅太郎を車で送っていたはずの姉からのメッセージだった。
『なにも気にせず、アンタが好きなように生きていいんだからね』
思わずスマホを放り投げてしまいそうになった。
——なんでみんな、そんなことが言えるの?
蒼真は顔を両手で押さえ込んで、涙が溢れ出ないように必死で耐えた。
——どうしてみんな、そんなやさしくまっすぐに生きられるの?
それでも結局、蒼真の手のひらを濡らした水は指の間を伝って床に落ちた。
「……泣くなよ」
紅太郎は、囁くような小声で蒼真を甘やかした。
繋いでいた手を離したかと思えば両手を蒼真の頬に添える。蒼真が自分の手で泣き顔を隠さないでいいように紅太郎が代わりに隠してやる。
「だってぇ……ッ!」
蒼真の涙は一度溢れ出すと止まらない。
昔からずっとそうだったし、小学校の卒業式の日が一番酷かった。
今の蒼真は、そのときと全く同じ泣き方をしていた。
「ぼく、はしるのやめちゃったんだよ……」
「うん」
「ほんとは、コウちゃんにほめてもらいたかったのに……」
「うん」
「ほめてもらうまえに、やめちゃったぁ……!」
紅太郎もまるであの日に戻ったときのようにやさしく頷いた。
蒼真の目から溢れた涙が紅太郎の手の甲すらも濡らしていくけれど、紅太郎は蒼真の頬に手を添えるのをやめない。世界一綺麗な涙をポケットの奥で縮こまっているグジャグシャのハンカチに吸わせてやるのは惜しかった。
「はしるのやめちゃったら、コウちゃんにおいつけないのにぃ……」
「今でもオマエのほうが速いだろうが」
「そういうことじゃなぃ……これは比喩だからぁ……」
「す、すまん……」
「コウちゃんは……文脈をよまないからぁ……テストも、赤点……とる……」
「ここで冷静な分析はやめてくんね……?」
苦笑いを浮かべながら紅太郎は蒼真の目尻を指で撫でた。次から次へと大粒の涙が溢れて、落ちていく。
「ぼく、なんもない……やりたいことも、できることもない……」
「できることはあるだろ、いっぱい……勉強も出来るし、運動も出来るし、ついでに顔も良いし——」
「それができてもいみない……もっとちゃんと……ちゃんとしたものがほしかった……」
「俺だってちゃんとしたものなんてねーよ」
「コウちゃんにはあんだよぉッ!」
「いや、ねーよ」
「あるよぉ……」
「ないって」
「僕があるっていったらあるんだよぉッ!!」
「さすがに暴君すぎねえ?」
グズグズと鼻を鳴らす蒼真を落ち着かせるように紅太郎は頬を柔らかく揉み込んだ。蒼真は嫌がりもせずに受け入れる。それでもずっと涙は出ている。
「なにもない、って……こわい……」
「うん」
「すっごくこわい……」
「うん」
「こわいよぉ……ッ!!」
「そうだな」
悲痛な叫びを聞かせてくる蒼真を紅太郎は抱き寄せる。急に夕立が来て、近くに雷が落ちた日。木に登ったはいいものの、高過ぎて身動きが取れなくなったとき。トイレに行きたかったのに、廊下が暗過ぎて進めなくなった夜。蒼真は似たような叫びを、紅太郎に聞かせた。その度に紅太郎はギュッと蒼真を抱きしめてやった。本当は紅太郎も怖かったけれど、蒼真が腕の中にいると思えば不思議と恐怖心は消えてしまう。そして蒼真はもう雷は怖くないし、木からひとりで降りれるし、トイレだって夜中でもひとりで行ける。
『いっしょにいてくれてありがとう、コウちゃん!』
蒼真が小さい頃から〝カッコイイ大人〟だってことを紅太郎だけがずっと知っていた。
「いつか、こわいもんはなくなる」
「……そんなん、わかんなくね?」
「俺にはわかんだよ」
「……なんでわかんの?」
「オマエは昔からそうだからだよ」
——走るのをやめてもリレーのアンカーに選ばれるのは、オマエが努力をやめていないからだ。
——やりたいことがまだ見つかってないと言いつつ、成績を上位でキープできる奴がどれだけいるだろうか。
——みんながオマエに優しくするのは、オマエがみんなに優しいからだ。
青春の影、濃い不安の中で震える蒼真に紅太郎が伝えてやりたいことはいくらでもあった。でも全部が全部、この瞬間に伝え切れるものではない。もっと長く時間をかけて、言葉だけではなく態度でも伝えてやらなくてはいけなかった。紅太郎が蒼真からもらった沢山の贈り物を、紅太郎もまた蒼真に届けてやりたかった。お互いが隣にいれば、何でも出来るんだって信じられるようにしてやりたかった。
そのためには、もっと近くにいなきゃいけない。
ずっと隣で歩き続けなくてはいけない。
互いを繋ぎ止めておかなければならない。
まだまだ発展途上の彼らには、足りないものが多過ぎた。
だからこそ、補い合えるように手を伸ばす。
ひとりで立てるように、ふたりで居るのだ。
「俺だってひとりじゃ迷うどころか流されちまうって」
紅太郎は蒼真の柔らかい茶髪を掻き上げた。ぐちゃぐちゃになった泣き顔がよく見える。紅太郎のポケットの中にあるハンカチといい勝負だった。
「だからオマエが必要なんだろうが」
紅太郎は改めて蒼真に向き直る。
馬鹿みたいに真っ直ぐな視線だった。
蒼真には持ち得ないもの。
そして紅太郎の長所と欠点を同時に生み出すもの。
光を決して見失わないという強い意志を宿した瞳の奥に、何かが見えた。
「珈琲だったらどこでも淹れられるしよ」
ゆっくりと紅太郎の手が蒼真の目の前に差し出される。エスコートというにはぶっきらぼうで頼りないけれど、
「俺がずっと手繋いでてやるから、死ぬまであちこち行こうぜ」
——それは愛の告白であり、途方もなく長い旅路への誘いだった。
人生は何があるか分からない。高校生のときの約束なんてあてにならないし、小学生のときだって彼らの意思とは関係なく一度離れてしまった。これから先にも、もしかしたら離さなくてはいけなくなる瞬間が来るかもしれないし、離したくなる瞬間があるかもしれない。それでも、今差し出された手をわざわざ振り払うような真似をする必要なんてない。
怖いなら、不安なら、迷子になりそうなら——手を繋いでいればいい。
「そう……かな……」
その手を恐る恐る握り返した蒼真は紅太郎の手の震えに気付いた。
顔に出ないだけで、案外紅太郎だって怖がっているのかもしれない。
だとしたら、もっと強く——握り返してあげないと。
紅太郎の側に、僕がいてやらないと。
「そうだろ」
紅太郎が笑った。
——その瞬間、蒼真の瞳の奥で何か輝くものがはじけた。
「えっ」
その正体を蒼真が確かめる前に、ドーンという大きな音が鳴った。振り返るとブランシュ城が色とりどりの光に照らされて、その背後から次々に花火が上がっていった。その迫力は圧巻である。
「うわ……すごい……」
蒼真が思わず呟くと紅太郎が聞き返した。
「え? なんて?」
しかし、その聞き返した声すら蒼真には聞こえない。大爆音の音楽が足元から響いていたからだ。
「おい、うるさすぎだろ!」
そんな紅太郎の叫びすら掻き消えて、蒼真と紅太郎はまともに会話すらままならなくなった。なんとか声を張ってみるものの、本当に全く聞こえない上に、足元から聞こえてくる音楽が大き過ぎて耳が潰れそうだった。どうやらショーで使っている巨大な音響スピーカーがすぐ近くにあるらしい。
「通りで人がぜんぜんいないわけだね!!!!!」
いつのまにか涙が引っ込んだ蒼真が叫ぶが、もちろん紅太郎には聞こえていない。
でも目が合えばなんとなく言いたいことは伝わる。
だからお互いに好き勝手に叫びまくった。
「あのクソ女ァ……とんでもねえ場所、勧めやがって!!」
「ショーはめちゃめちゃ綺麗だよ、コウちゃん!」
「こんな中でキスなんて出来るかッ!!」
「コウちゃん、見て! プロジェクションマッピング!!」
「ここでいきなりキスしたら俺が痴漢になるだろうが!!」
「すごいよ、コウちゃん! デリシャスくんもいるよ!」
「舐めやがってえええええ!! クソォオオオオオ!!」
「こういうときって、たまやーって言っていいのぉ!?」
「覚えてろぉおおおおおッ!!」
「かぎやぁああああああッ!!」
大爆音のポップな音楽の中では会話は全く成立せず、ふたりは見事にすれ違っていた。
蒼真はスマホを片手で構えて動画を撮り、紅太郎は身を乗り出すような勢いで手すりを握り締める。
それでも決して互いに繋いだ手だけは離さない。
ただそれだけで、よかった。
『アホがぁああああ——って、急に終わるな!』
『あははッ!! やっとコウちゃんの声が聞こえるようになった〜』
『ああ、くそ……ニトに文句言わねえと気が収まんねえ』
『お礼じゃなくて文句なんだ……ああ、じゃあこの動画送る?』
『いいな、ついでに音量最大にして聞けって書いとけ』
『わかった、そうするね〜』
蒼真が四人のグループトークに投稿した動画はそんな二人の声を最後に途切れていた。

