一ノ瀬紅太郎は、元英語部である。
 紅太郎は中学一年の六月から三年までずっと英語に打ち込んでいた——わけではない。確かに英語に触れてはいたものの、その実はほぼ漫画研究会だった。その原因は、仁藤翠結である。ペアもしくはグループで何かしら英語に関する発表を行うというのが当時の英語部の主な活動のひとつだったのだが、仁藤翠結は人気少年漫画の英語訳に関する研究を行っていた。しかも選ぶ漫画がメジャーではあるものの、あきらかに女子中学生はターゲット層ではない本格的なバトル漫画ばかりだったのでペアやグループを組んでくれる相手がおらず、仁藤はひとりで黙々と研究を進めていたのである。
 そこに紅太郎が途中入部し、誰とも組んでいない仁藤とペアになった。
 だからこそ一ノ瀬紅太郎は仁藤翠結が目的のためならひとりで行動することができることも知っていたし、仁藤翠結は一ノ瀬紅太郎が意外とお節介な性格であることも知っていた。
 そのうえ、実は——二人揃って高校デビューしていることも当然お互いに気付いているのであるが、何も突っ込まずにここまで来ていた。


 「圧倒的大感謝〜ッ!!」

 仁藤は土下座する勢いで紅太郎に感謝の意を示した。両手のひらを合わせて顔の前に持ってくるポーズは仁藤がよくメッセージの文末で使っている絵文字によく似ていた。それが英語圏ではハイタッチの意味でも使われると紅太郎が知ったのは、もちろん英語部での活動中である。

 「本当にありがとう! お陰でこれからも無難な学校生活が送れるよ〜。明日なんか奢るね!」
 「いや、別にいい」

 紅太郎はぶっきらぼうに言い捨てたが、内心ではいまだに困惑していた。ここまで運んできた机の位置を気にしつつ、他に何か嫌がらせをされていないか身を屈めて丁寧に確認する。

 「あっ! 引き出しの中がヤバいのはそういう仕様なので気にしないで〜?」
 「そうか……」

 突っ込むかどうか迷っていた部分について仁藤が先に補足してくれたので紅太郎は安堵した。仁藤の指摘がワンテンポ遅ければ机の中が荒らされていると騒ぐところだったが、これは最初からそういうものであるらしい。

 「本当に先生に言わなくていいのかよ?」
 「うん、大丈夫。大ごとにしたいわけじゃないから」

 紅太郎の心配に対して仁藤は穏やかな笑みを浮かべながら顔の前で片手を振った。それでも紅太郎が険しい表情を浮かべたままなので、仁藤は冗談めかして理由を述べる。

 「そもそもどこからどこまで先生に話せばいいか分かんないし……とりあえず、校舎裏の自転車置き場に私の机がワープしていた話から始めないといけないじゃない?」

 クスクスと笑いながら話す仁藤につられて紅太郎もついつい口元を緩ませる。

 「……さも自転車みてえなツラしてニトの机が並んでたのはヤバかったよな」
 「あれ、めちゃめちゃシュールだったよね!?」

 証拠も兼ねて撮っちゃった〜という仁藤がスマホの画面に自転車がいくつか並んでいる中になぜか混じっている机の写真を表示すれば紅太郎は耐えきれずにクッと喉の奥を鳴らした。


 行方不明になった机を探して学校中を歩き回っていた仁藤を紅太郎が見つけたのは、放課後のことだった。
 蒼真が進路指導のために担任教師に連れていかれた後、暇を持て余していた紅太郎はしばらく蒼真の席に座ってボーッとしていたのだが——それから10分も経たずに教室を出た。スマホにはすでに通信制限が掛かっているし、校内に飛んでいるWi-Fiを使うのも諸説あるさまざまな理由で憚られたので、紅太郎はデジタルデバイスに頼らない暇つぶしの旅に出たのである。
 蒼真の邪魔をしないように進路指導室を避けて紅太郎がウロウロしていると廊下の奥でガチャガチャと音が鳴っているのに気付いた。当然暇なので好奇心が赴くままにそこへ向かう。

 「あ、えっ! うそ! 閉まってる!! さっきまで開いてたのに!?」

 そこで紅太郎が目の当たりにしたのは、外階段から廊下へと通じる扉のノブを回したり、引っ張ったりしている仁藤であった。

 「……なにしてんだ、オマエ」

 開かない扉を開けようとしている中学の同級生を前に紅太郎は眉を顰めながらも鍵を開けてやり、廊下に招くと共に仁藤から事情を聞き出したのである。

 「——机がない?」
 「わっはは〜! そうなんだよね〜!」

 明るく振る舞っている仁藤だが、それが嫌がらせの類であることはあきらかだった。そういえば以前に外階段で仁藤がひとりで昼食をとっていたという話を紅太郎は蒼真から聞き及んでいた。一年のときに紅太郎と同じクラスだった仁藤はいつも決まったグループと一緒に昼食をとっていたはずだ。二年になってから急にそれをやめたとは考えづらい——人間関係の機微や、特に不和について意外と聡い紅太郎は瞬時に仁藤が置かれている状況、そしてその原因を割り出した。

 「ハブられてんのか、オマエ」
 「いや、直接本人にそういうこと言う!?」

 躊躇いなく言い放った紅太郎に思わず仁藤は突っ込むが、紅太郎の険しい表情は変わらなかった。むしろさらに眉間の皺が濃くなっていく。

 「…………蒼真か」

 今度は言いにくそうにたっぷり間を開けて紅太郎が〝原因〟を呟けば、仁藤は「ウフフフフ……」とわざとらしい笑い声を漏らす。それがもはや答えのようなものだった。


 ——結果から言えば、仁藤の机は意外なところから見つかり、その光景にふたりで爆笑してから紅太郎が机と椅子を抱えて二年A組の教室まで戻した。いくら紅太郎が運動神経抜群のパワータイプとはいえ、机を自転車置き場から四階まで移動させるのは重労働だった。嫌がらせにしたってここまでやるものかと紅太郎が呆れるも、仁藤はあっさりとそれを肯定する。

 「蒼真くんってめちゃくちゃ人気だからねぇ……女の子たちもピリピリするっていうか……」

 仁藤翠結が三宅蒼真に気に入られているという〝誤解〟がSNSを通じて女子の間に蔓延しているということを仁藤から聞いて紅太郎は改めてSNSの恐ろしさと、幼馴染の人気を噛み締めた。

 「私以外にも蒼真くんと少しでも仲良くする子がいたら晒されてたみたい。まあ、今までの子は自分から蒼真くんに絡みに行っただけだから晒されて牽制されるだけで済んでたけど……私の場合は……」
 「蒼真のほうから絡みに行ってたからな……」
 「そうなんですよねー」

 わかりやすく頭を抱える紅太郎の隣で仁藤は棒読みで答えた。

 「俺がニトにガキんときの蒼真の写真を見せちまったからな……」

 片手で顔を隠しながら深い溜息を吐く紅太郎に、仁藤は慌ててフォローを入れる。

 「いやいや! 見たいって言ったのは私ですし! そもそも私が美少女時代の蒼真くんの写真を見たせい……というよりは、私が蒼真くんと紅太郎くんの関係値を十分に把握していなかったことによる立ち回りのミスが原因かと……」
 「なにいってんだ?」

 ブツブツと呟き始めた仁藤は何故か漫画の話でもないのに漫画語りモードになっており、今までの自分の行動を振り返りながらひとりで分析を始めてしまう。

 「気付くのが遅かった……漫画だったら初登場の時点で感じ取れるものがあったはずなのに、リアルだとやっぱりいろいろ見逃すというか……三次元での人間関係むずかしい〜! 外階段ランチで確信を持てたけど、そのときにはもう遅いからなぁ〜! クッ! これは完璧な初動ミスです! 対アリ!!」
 「ほんとに何言ってんだ?」

 蒼真のせいで嫌がらせをされているにも関わらず好きな漫画を語っているときのように興奮気味になっている仁藤を前に紅太郎は訝しげな表情を浮かべる。仁藤はこうなるとしばらく戻ってこないことを紅太郎は知っているので、マシンガントークを無視してポケットに入れっぱなしだったスマホを確認することにした。
 蒼真から進路指導後に体育教師に捕まって雑用を任されたという旨のメッセージが紅太郎のスマホに届いたのは、仁藤の机を探している最中のことだった。一応、既読にはしたものの面倒だったのでスタンプすらも返していない。蒼真は紅太郎からすぐ返事が来ないと夜中であっても容赦なくスタンプ爆撃をしてくるタイプだが、何も音沙汰がないということは向こうも向こうで大変らしい。まあ、オマエのせいで仁藤はもっと大変だったんだけどな!という文句は仁藤の「大ごとにしたくない」という意思を汲んで飲み込むことにする。

 「あ! それ、牙影伝説のスタンプじゃない?」

 適当にスタンプでも返しておくか、と紅太郎が「OK」の意味を込めたスタンプを送ったところで仁藤がようやく戻ってきた。仁藤の前の席を勝手に拝借して腰を下ろした紅太郎の手元を、仁藤は自分の席から身を乗り出して覗き込む。

 「買ったんだ〜」
 「ああ、蒼真が読み始めたから……」

 紅太郎が蒼真に送ったのは劇画風で無駄に顔が濃いキャラクターが親指を立てて「構わん!」と言っているスタンプだった。仁藤とのやりとりではデフォルトのスタンプしか使わない紅太郎がわざわざスタンプに課金した理由に仁藤はつい笑ってしまう。

 「んふふ……」
 「なんだよ」
 「いやぁ〜? べつにぃ〜?」

 何やら含みがある仁藤のリアクションに紅太郎は目を細めて問い詰めようとしたが、その直前で巧みに話題をすり替えられる。

 「そういえば紅太郎くんが金髪に染めたのも蒼真くんのためなんでしょ?」

 ニヤニヤしながら仁藤が一年以上前の話を掘り返せば、紅太郎は露骨に苦い顔をした。
 そしてそのまま黙り込んでしまう紅太郎に仁藤が切り込む。

 「蒼真くんは、ビーストのアキラが好きなんだよね?」

 ——初期に出てきた優等生キャラの、と仁藤が付け足せば紅太郎の顔はさらに渋くなった。

 「それでアキラと同じ金髪にしたんだけど、似合い過ぎて逆にヤンキーみたいになっちゃったんだよね?」
 「うるせえなぁ……」
 「しかも蒼真くんにグレたって心配されちゃったんだよね?」
 「だまれ……」

 目を閉じて無視しようとする紅太郎に仁藤は中学時代のように悪ノリをする。

 「アキラは優等生だけど〝喧嘩部〟のエースで〝喧嘩〟も強いから、アキラの真似してちょっ〜と喧嘩しようとしたけど、いまどき喧嘩してる人もいなくて、普通に夜中にウロウロしてたら補導されかけて、慌てて逃げたらその翌日には噂になってて、尾鰭がつきまくってあだ名が番長になった紅太郎く〜ん? 聞いてますぅ〜?」
 「ころ……ッ!」

 煽られて思わず最上級の悪態を吐きそうになるが、ニコニコと笑顔を浮かべている仁藤を見て紅太郎は途中で罵倒を飲み込み、代わりに溜息を吐いた。仁藤は中学時代もとい——カッコ悪い時代の紅太郎のことをよく知っている。英語部の活動中でも、それ以外でも、何かあってもなくても、すぐに蒼真が、蒼真が——と、仁藤が知らない幼馴染の名前を出していたことも。

 「ごめんね、紅太郎くん……私だけ蒼真くんに『可愛い』って褒められちゃって……」
 「オマエ、マジで調子乗んなよ?」

 わざとらしくかわい子ぶりっ子する仁藤に、紅太郎が本格的に苛立ちを見せ始めると仁藤はすぐに弄ることをやめた。引き際をよく知っているからこそ仁藤は紅太郎と友達でいられるのだろう。
 普段はわりと温厚——というより心に波風が立たないタイプなのに蒼真関連になると紅太郎は情緒豊かになる。蒼真のちょっとした悪戯にも反応してキレたフリをして悪ふざけばかりしている紅太郎の様子を仁藤は風見ヶ丘高校に入学してから頻繁に見かけた。中学の頃から蒼真の話題になるとテンションの振り幅が激しくなっていたが、あんなにイキイキしながら誰かを追いかけ回している紅太郎を仁藤は今まで見たことがなかった。

 「本当に紅太郎くんって蒼真くんに甘いよね……こうして私の机探しを手伝ってくれたのも、半分以上は蒼真くんのためだよね?」

 仁藤の問いかけに紅太郎はすぐに言い返したかったのだが、上手い返しが見つからなかった。「そんなわけがない」と言えば嘘になる。かといって「そうだ」と頷くのは癪だし、仁藤のことを大事な友達だと思っているからこそ手伝った部分もあるので照れ臭い——誤魔化す方法が見つからなくて、紅太郎は視線を逸らしながらボソリと呟く。

 「……蒼真のせいってことは俺のせいでもある」

 悔し紛れの言い訳だったが、それすらも仁藤には見抜かれていた。

 「ンフフ……」
 「おい、笑うな」
 「ンフフフ……! ウフッ……!」
 「口閉じろ」
 「だって〜! フフフフッ……」

 じわじわと笑いが止まらなくなった仁藤は、両手で顔を覆いながら呟いた。

 「本当に蒼真くんのことが大好きなんだね……」

 ——その瞬間、紅太郎の瞳の奥で何か輝くものがはじけた。
 突然視界が晴れて、バチバチと火花が散ったように輝き始めた。まだ夕方なのに、教室の中なのに、紅太郎にはいくつもの星が見えた。そのどれもが眩しくて、全てに蒼真の面影を感じた。まるで走馬灯みたいに蒼真との思い出が紅太郎の目の前を通り過ぎていく。笑顔も泣き顔も怒った顔も拗ねた顔も——ひとつ残らず覚えている。
 そして、今まで見てきたもの以外の、まだ見たことがない蒼真の表情も全部見たいと思った。
 画面越しや写真越しではなく、直接この目で。すぐ近くで。出来れば隣、もしくは真正面から。
 三宅蒼真を、三宅蒼真の人生を、ずっと見ていたい。
 その感情を自覚した途端、紅太郎の身体中が熱くなってとてつもないエネルギーが湧き上がってくるのを感じた。今すぐにでも走り出したくなるような衝動が押し寄せてきて紅太郎はグッと拳を握り締める。瞳孔がこれ以上ないくらいに開いていく。

 「ああ」

 紅太郎は、頷いた。

 「好きだ」

 蒼い星が凄まじい勢いで落下してきて、紅太郎の胸を貫き、林檎型のクレーターを作った。
 その形はちょっと歪なハート型にも見える。

 「すげー好き……」

 気付いたばかりの感情の名前を紅太郎は何度も呟いた。勝手に口から溢れ出して止まらない。壊れた蛇口のように紅太郎はとめどなく蒼真への想いを繰り返す。
 しかし、それに戸惑ったのは仁藤のほうである。

 「うわー、好きだ……」
 「え、なに?」
 「好き過ぎてやばい」
 「どうした?」
 「めっちゃ好き」
 「はぁ!?」
 「好きってすげぇ……」
 「あの! すみません、間に合ってます!」
 「は? オマエのことじゃねえよ」
 「じゃあ、なに!?」

 いきなり大量の〝好き〟をぶちまけた紅太郎に仁藤は声を荒げる。まさか紅太郎がここにきて初めて蒼真に対する感情に気付いたとは思ってもいないので紅太郎の奇行に仁藤は困惑した。一方で紅太郎は急にIQが上がったかのようにひとりで納得し始める。

 「なるほどな……」
 「だから何が?」
 「ニト……すまないが、蒼真のことは諦めてくれ……」
 「いや、マジでなに!? 怖いんだけど!!」

 ついに紅太郎が壊れてしまったと思った仁藤は恐怖のあまり席から立ち上がった。
 しかし、それを追うように紅太郎も立ち上がったので仁藤は悲鳴を上げた。

 「なんで!?」
 「聞いてくれ」
 「何を!?」
 「俺は、蒼真のことが好きだ」
 「そうだね!?」
 「だから告白をする」
 「急に!?」
 「どうしたらいい?」
 「は!?」

 初恋暴走モンスターと化したコウタロウに対して、勇者ニトーは果敢にも立ち向かった。
 しかし、討伐は見事に失敗した。