三宅蒼真は、元陸上部である。
 蒼真は中学一年から三年までずっと陸上競技に打ち込んでいた。理由は、単純に足が速かったからである。小学生の頃の蒼真は背が低くてトロくさそうに見えたが、逃げ足だけは凄まじく、おにごっこの類では負けたことはない。おかげで紅太郎が上級生に絡まれてボコボコにされそうだったときもすぐに先生を呼びに行くことができたし、紅太郎が調子に乗ってドッチボールで保健室の窓を割ってしまったときにも一緒に逃げ切ることもできた。紅太郎にも「走りだけはオマエに敵わない」とお墨付きをもらっていた蒼真が中学に上がって陸上部に入ることは必然だった。
 しかし、蒼真は高校で陸上部に入ることはなかった。
 中学三年の夏の大会では好成績を収めたにも関わらず、それ以降は走ることをやめてしまったのだ。
 高校二年生になった蒼真が全力で走ることがあるとすれば、それは校内で紅太郎と追いかけっこをしているときか、授業に遅れそうになったときぐらいである。


 「廊下は走るな〜」
 「うぃーっす」

 ユニフォームに着替えた生徒たちが廊下を走っていく様子を見て男性教師が軽く注意を促した。おそらく部活に向かう一年生たちだろうか。彼らは教師の視界に入っているうちは足を緩めて競歩のような早歩きになったが、廊下の角を曲がった途端にまたバタバタと足音を響かせた。

 「ったく、何度注意しても無駄だなぁ……」
 「あはは……」

 呆れる教師の隣で蒼真は乾いた笑いをこぼす。校内中を紅太郎と走り回っていた蒼真にとっては耳の痛い話だ。しかし、蒼真は注意されたことはほとんどない。大抵、教師に見つかって怒られているのは紅太郎のほうだ。可哀想ではあるが、金髪のプリン頭はなにかと目立つので教師たちにもマークされているらしい。見た目こそ不良っぽいけれど本格的な不良ではないことは教師たちも理解しているはずなのに、紅太郎は昔から大人に叱られやすい。
 一方で蒼真は紅太郎と違って大人から気に入られることが多かった。

 「そういえば三宅は中学の頃は陸上部だったか?」
 「ああ、はい……」

 放課後、二年C組の担任教師と蒼真は進路指導室を出て職員室に向かっていた。
 長身でガタイも良い担任は白いシャツを腕まくりし、蒼真の成績がファイリングされた黒いファイルを脇に抱えている。

 「うちのクラスのアンカーは三宅で決まりって宮島先生言ってたぞ〜!」
 「あ、そうなんですか?」
 「いやぁ、すごいぞ〜! 現役のサッカー部や野球部を差し置いて帰宅部がアンカーって……うん! 文武両道! 体育祭も頑張ろうな〜?」
 「あんま期待しないでもらえると助かります……」
 「おいおい、謙虚か!」

 担任からバシンッと強めに肩を叩かれた蒼真は、またもや空笑いを浮かべた。何を言っても持ち上げられるのが居心地が悪い。大人たちがあからさまに期待を向けてくることが蒼真にとっては面倒だった。
 蒼真の進路指導自体は15分程度で終わった。成績も申し分が無く、このままキープ出来れば蒼真が進学を希望している私立大学への学内推薦も余裕で手に入れることが出来そうだった。しかし、もう少しランクを上げて難関と言われる国公立を目指してみてもいいのではないかと担任は提案してきた。蒼真の姉も国立大学を卒業しており、在学中に給付型の奨学金にも選ばれているほど優秀で、蒼真も自分の成績が当時の姉の成績と変わらないことを自覚していた。
 それでも蒼真は答えを濁した。

 『あー、ちょっと考えてみます……』

 担任もそれ以上は蒼真に詰め寄ることはなく、進路指導はすみやかに終了した。
 高校二年生の夏休み前という微妙な時期——蒼真はいまだに自分が進みたい方向を知らない。

 「大学に入ったらまた陸上やったりしないのか?」
 「あー、どうでしょうね……」
 「サークルや部活動もいろいろ調べてみるといいぞ。勉強するだけが大学生活じゃないしな! ……新しいことをやりたいなら、演劇サークルなんてどうだ?」
 「え、なんで……? 僕、演技なんてしたことないですけど……」
 「演劇も結構楽しいぞ? それに、オマエなら俳優もいけるんじゃないか?」
 「ええ……」

 生徒以上に夢と理想で溢れている担任を前にして蒼真は戸惑った。適当なこと言いやがって……という反発心が湧いてくる一方で、日頃から生徒たちに騒がれていることを大人にも言われると妙な期待を抱きそうになる。特に蒼真はわりと大人の言うことに左右されてしまうタイプなので、グラグラと心が揺れ動いた。

 「……うーん、じゃあ何もやることが思いつかなかったら俳優かインフルエンサーでも目指します」
 「いいなぁ、それ〜! 先生も応援してるよ」

 またも担任にバシバシと背中を叩かれた蒼真は肩を竦めた。
 そんな取り止めのない会話を続けているうちに気が付けば職員室に辿り着いていた。担任が職員室に忘れてきたプリントを受け取るために蒼真は廊下で少し待つ。
 すると担任より先に職員室から出てきたのは、体育教師の宮島と——蒼真と同じクラスの女子生徒、四谷だった。
 艶やかなウルフカットがトレードマークの四谷は、何故か陸上部の活動がない日にも関わらず部活の練習着に着替えていて、最新式のストップウォッチのストラップを手首に巻き付けていた。
 何をしているのだろうかと蒼真が好奇心からチラッと盗み見れば、四谷とバッチリ目が合う。

 「——じゃあ、三宅くんに頼みます」
 「は?」

 その直後、いきなり四谷が名指ししてきたので蒼真は狼狽えた。

 「ああ、三宅なら安心だな!」
 「え?」

 体育教師も何故か四谷に同意する。一体何のことやら分からない蒼真は、否定も肯定も出来ずに職員室前で立ち尽くす。

 「あれ、どうしました?」

 プリントを片手にひょっこり職員室のドアから顔を出した担任は、自分のクラスの女子生徒と体育教師、そして蒼真を見比べて首を傾げた。

 「神原先生! 三宅をお借りしてもいいですか?」
 「え、いいですよ?」

 なぜオマエが答えるんだ、神原!!と蒼真は叫びたくなったが、流石に担任に向かって突っ込むことも出来ず、蒼真だけを置き去りにして話はどんどんと進んでいく。
 そして蒼真はいつのまにか体育教師から青いファイルを手渡されていた。

 「よし! 終わったらファイルとストップウォッチを返しにきてくれ」
 「は、はい……?」

 まともな説明がひとつもないままに職員室の扉は閉まった。
 静まり返った廊下にはファイルを抱えた蒼真と、練習着姿の四谷のふたりだけが取り残される。

 「…………は!?」
 「うるさっ」

 蒼真の心からの叫びに、四谷は鬱陶しそうに眉を顰めた。


 放課後のグラウンドでは生徒たちが部活動に勤しんでいた。太陽の光に照らされる汗は、青春の輝きに満ちている。
 ウルフカットの毛先から50mトラックに滴り落ちる水滴も、そうだ。

 「何秒だった?」
 「えっと、6秒88——」
 「もっかい走る」
 「ねえ、ちょっと!? 何回目だよ!」

 記録を聞くなり踵を返す四谷に蒼真は思わず声を荒げた。かなりの回数を走っているが、それでも四谷はお気に召さないらしい。

 「いいじゃん、もう……さっきの6秒81で決まりでさ……」
 「もうちょっと行ける気がする」

 そう言って四谷はまたグラウンドの隅へと移動し、スタートラインに立つ。彼女は深呼吸を繰り返してからゆっくりと膝を折ってクラウチングの姿勢を取った。その様子に蒼真は溜息を吐き出し、トボトボとゴールのほうへと移動する。元陸上部は、自分が走っているわけでもないのにすっかり疲れ果てていた。
 蒼真が四谷から頼まれたのは、50メートル走のタイムの測り直しだった。

 『絶対間違ってる』

 現役の陸上部である四谷は、体育の授業中に計測されたタイムに文句があるらしい。どうやら体育祭のリレーのアンカーに四谷が選ばれなかったのである。四谷の代わりに選ばれたのは、バスケ部に所属している女子生徒だった。しかし、彼女のタイムは日本記録に迫る勢いで、計測ミスであることは明らかだった。
 おそらく原因は、生徒同士でタイムを計測させたこと、そしてストップウォッチの機種が人によって異なることだった。
 そのことに気付いた四谷は体育教師に対してクラス全員分のタイムの測り直しを要求したが、もちろん却下された。
 妥協案として、四谷ひとりのタイムの測り直しは許可された。それでも体育教師は忙しさを理由に、四谷のタイム計測を自ら引き受けることはしなかった。そこに偶然にも通りかかったのが元陸上部にして、二年C組の男子リレーのアンカーに選ばれた蒼真だったのだ。

 「紅太郎のせいってことはアンタのせいでもある」
 「どういう理屈?」

 四谷に暴論をぶつけられながらも蒼真は渋々タイム計測に付き合うことになった。進路指導はすぐ終わると思って紅太郎を教室で待たせているのだが、そもそも紅太郎が測ったタイムが気に食わない四谷は「帰りたきゃ帰るでしょ」と言い放った。仕方なく蒼真はスマホで紅太郎にメッセージを飛ばした。既読にはなったものの、返事がないのが恐ろしい。でも、これはオマエのせいなんだぞ!?と蒼真は開き直ることにした。

 「どうせなら部活の時に測ればいいじゃん……」

 蒼真が文句を垂れると四谷は舌打ちをする。

 「そんなことしたら練習する時間がなくなるでしょ」
 「そりゃこんだけ測り直したらね!?」

 蒼真は思わず言い返した。もはやこ何本走ったのかも分からない。四谷も汗だくで、息が切れている。これ以上粘ってもいいタイムが計測出来るとも思えなかった。

 「そんなにアンカーになりたいわけ……?」

 理解出来ないと言わんばかりの怪訝な表情を浮かべて尋ねてくる蒼真に四谷は真顔になる。

 「アンカーになりたいというより、プライドが許さないだけ」
 「ああ……」

 現役陸上選手の鋭い眼差しに蒼真は気圧される。計測ミスの記録に辿り着くことなんて不可能で、それを四谷も理解しているはずだ。それでも四谷は諦めようともしない。
 四谷の視線の先にはハッキリとゴールが見えている。
 進むべき道も、辿り着きたい場所も——全部分かっているような気がする。
 それが、とても羨ましかった。

 「でも、流石にちょっと休憩しない?」

 蒼真は最新式のストップウォッチを手放すと手首にストラップを引っ掛けてゆらゆら揺らす。
 苦笑いを浮かべている蒼真に四谷は仕方なく木陰に腰を下ろした。


 休憩は、沈黙が続くばかりだった。遠くから聞こえる学生の掛け声や、校舎から響く楽器の音に耳を澄ませる。学校を取り囲むフェンスには、吹奏楽部が賞を受賞したことやいくつかの運動部が大会に出場したことを知らせる大きな垂れ幕が掲げられている。そうして誰かの活躍を裏から眺めていた蒼真は片膝を抱え、ゆっくり瞼を伏せる。脳裏に浮かぶのは、エプロン姿でカウンターに立つ紅太郎の姿だった。
 風見ヶ丘高校に入学して、金髪の紅太郎と再会したときは驚いた。似合っているけれども生来の強面と相まって不良にしか見えなかったからだ。中学でグレてしまったのだろうかと蒼真は心配になった。もちろん、すぐにそれが杞憂だということは理解した。
 それよりも蒼真にとって衝撃的だったのは、紅太郎がバイトを始めたことだった。
 紅太郎はきっと運動部に入部するだろうから僕も同じ部活に入ろうかな、と目論んでいた蒼真にとって紅太郎が部活動ではなくバイトを選んだことは想定外だった。しかもファミレスや居酒屋などではなく、妙に雰囲気のある喫茶店——駅前にあるチェーン店よりもずっと美味しくて本格的な珈琲を淹れてくれる老舗で、紅太郎は修行を始めた。
 昔は珈琲なんて好きじゃなかったくせにいつのまにか飲めるようになっているし、最近は常連客にも評判が良い。仕事ぶりも非常に真面目で、腰が悪い店主の代わりに買い物にも行き、嫌な顔ひとつせずに配達にも走り、もはやあの店の看板娘ならぬ看板息子と化している紅太郎は蒼真の目に眩しく映った。今年の夏休みには珈琲豆の買い付けにも同行するらしい。ただの荷物持ちだと紅太郎は笑っていたが、店主の熱意ある指導にもめげずに真剣な表情で頷き、コーヒーサイフォンを前に険しい表情を浮かべる幼馴染はカウンターよりもずっと向こうにいる気がした。
 ——陸上部に入っておけばよかったのだろうか、と今更ながらに蒼真は思う。
 男子にしては脂肪がつきやすい体質なので早朝と夜の走り込みはいまだに続けているものの、蒼真は走ることが好きなわけではない。
 本当に好きなのは、誰かに褒められることや認められることだ。
 陸上は分かりやすい。タイムが伸びれば褒められる。大会で結果を出せば認められる。決められたレーンを走り抜ければいいだけだから誰にも邪魔されない。小柄な身体を馬鹿にされたり、突き飛ばされたりすることもない。
 大切なのは数字。
 そして誰よりも先にゴールに辿り着くこと。
 どこに行くかは自分で考えなくていい。蒼真にとってこれほど楽なことはなかった。
 でもそれが全部ひっくり返ったのは、中学三年の夏を越えた頃だった。
 身長が伸びてタイムも大きく変化した。日々、練習を積み重ねていたのが馬鹿らしくなるほど一気にタイムが縮まって、大会でも好成績を収めた。コーチにも褒められ、後輩たちには尊敬の眼差しで見られた。何故か女子生徒にも人気が出て、勧められた通りにSNSを始めたら凄まじい人数にフォローされた。スマホの画面に表示された数字を見て、蒼真は笑いが止まらなかった。
 ——なんだ、こっちのほうが楽じゃん。
 秋に最後の大会があったが、受験勉強に集中するという理由で蒼真は出場しなかった。部活もほぼ引退シーズンだったし、走ることはどうでもよくなった。毎日練習していた頃よりも、特に練習はしていないけれど身長が伸びた後のほうがずっと速いなら——最初からそういうものだったのだ。
 別に一番を目指しているわけではない。
 だったらもう、これでいいじゃないか。

 「——寝ぼけてんの?」

 ハッと目を開けば四谷が蒼真の顔を覗き込んでいた。グラウンドの端に生えている木の根元に座り込んでいた蒼真は、急に視界にへ降り注いできた光に目を細めた。ずっと目を閉じていたせいだろう。もう夕方なのに妙に辺りが明るく見える。

 「……まだ測るの?」
 「あと一回だけ」

 蒼真の問いかけに四谷が真っ直ぐに答える。あと一回と言われたら蒼真も立ち上がるしかない。最新式のストップウォッチを握り締めれば、カチカチとボタンを押して動作を確認する。

 「それ、使いにくくない?」

 軽くストレッチをしながら四谷がトラックへと移動する。

 「まあ……ややこしいけど、慣れたらそうでもないよ」
 「ふぅん。アタシは古いやつのほうが使いやすかった」

 四谷の言葉に蒼真は黙り込む。本当は蒼真も四谷と同じことを思っていた。中学時代に使っていたストップウォッチは古い機種だったので、無駄な機能がないシンプルなモノのほうが使いやすい。けれども、体育の授業で女子が渡してくれたものも、測り直しのために教師が準備してくれたものも、最新機種だったからそれを使った。わざわざ古い機種を使う必要なんてない。

 「古いやつで測ったタイムが嫌だったんじゃないの?」

 足を伸ばしている最中に蒼真が尋ねれば、四谷は鼻で笑った。

 「違う。アタシが嫌だったのは紅太郎の測り方が下手だったせい。何も分かってないんだって、アイツ」

 ——その瞬間、蒼真のこめかみで何か熱いものがはじけた。

 「そんなことねえよ!!」

 いきなり大声が出てしまって蒼真は自分でも驚いた。考えるよりも先に口が動くなんて経験は滅多にない。喉の奥が痙攣したようにひくついて、首の後ろと腹の下あたりが一気に重くなる。蒼真だって分かっている。四谷の言葉に他意なんてないことも。それでも、反射的に言い返してしまった。どうしてかは分からない。何も分からない。
 しかし、そんな蒼真よりもずっと驚いたのはもちろん四谷のほうだった。

 「……なに、急にキレてんの?」

 怪訝な顔で見つめてくる四谷に、蒼真は何も言えず俯くしかなかった。青々とした芝生と、赤茶色のトラック、そして白線とグラウンド用の靴が蒼真の目に入る。
 ——思い出されるのは、タイム計測を行なったあの日のこと。

 『四谷って、オトコだめらしいよ』
 『四谷が誰を好きでも、オマエらにはかんけーねえだろうが』

 あのとき、黙り込むしかなかった蒼真と、言い返した紅太郎は全く異なる生き物だった。
 紅太郎は〝何も分かってない〟やつではない。
 〝何も分かってない〟のは、蒼真のほうだ。


 入学したばかりの頃、紅太郎と再会できたことが嬉しくて蒼真はずっと紅太郎にまとわりついていた。一年の頃はクラスも違ったのに、わざわざ紅太郎のクラスまで押しかけて下校も一緒だった。同じ部活動に入れなかったのは残念だったが、これはこれで楽しいものだとまるで小学生に戻ったようにはしゃぎ回った蒼真は、ある日の帰り道に紅太郎にスマホの画面を見せた。SNSのフォロワー数は4桁を超えて5桁——その数字を見せれば紅太郎もきっと喜んで、褒めてくれると思い込んでいた。
 けれども——。

 『オマエ、もう走んないの?』
 『え?』

 紅太郎はスマホの画面ではなく、蒼真の顔を真正面から見つめていた。
 真剣な表情で蒼真に問いかける。

 『去年の大会ですげー良い成績とってたじゃん』
 『ああ、うん……まあ……』

 そんなこと、紅太郎は知るはずもないと蒼真は思っていた。大会の話なんて一言も言ってない。陸上部だったことも話していない。SNSアカウントのプロフィール欄にだって書いてない。それなのに紅太郎は当たり前のように知っていた。

 『うちの中学でもさ、オマエんとこの中学にすげー速えやつがいるって噂になってた』
 『……ふぅん』
 『だからぜってえ、オマエだろうなって』

 紅太郎は太陽みたいな笑顔を蒼真に向けた。それがあまりにも眩しくて蒼真は目を細めることしかできなかった。
 スマホの画面とは比べ物にならないぐらい輝いてて、蒼真は泣きそうになる。

 『もう、陸上はいいかなって……』

 声を震わせないように必死で感情を抑え込みながら蒼真が答えた。
 すると紅太郎からさっきまで浮かべていた笑顔が消える。

 『そっか』

 代わりに少し残念そうな穏やかな笑みを浮かべて紅太郎は前を向き直した。
 それ以上は何も言わない。
 蒼真が握り締めていたスマホには見向きもせず、表示されていた数字に興味も持たない。
 そんな紅太郎の隣を歩きながら蒼真は俯いた——というより、顔を上げられなかった。
 ——どうして、走り続けなかったんだろう。
 途方もない後悔が襲い掛かり、その日は夜になってもずっと胸の奥が痛かった。
 それと似たような痛みが、50メートル走のタイムを計測したあの日の夜から続いていた。
 ——どうして、止められなかったんだろう。
 本当は、蒼真だって紅太郎のように言い返したかった。
 下世話な話題で盛り上がる男子たちに向かって「そういう話はやめたら?」とか「失礼じゃない?」とか言えたらよかった。
 容姿についてあれやこれやと言われたり、変な憶測でモノを語られたり、存在自体を消費されるような言い方をされたりする苦痛を蒼真は誰よりもよく知っていたはずなのに。

 『マジ!? 超可愛いんだけど!』
 『やば〜い! 女の子みたぁ〜い』
 『えー! 今の蒼真くんとぜんぜんちがうじゃーん』
 『でも面影あるくない?』
 『わかるぅー! なんかさぁ、こう……ハーフっぽい感じとか』
 『ねー、マジでかわいい〜!』

 『意外と可愛いよな』
 『かわいいっつーか、美人系?』
 『髪型が好きじゃねーんだよな』
 『せめてショートカットにしてほしい』
 『マジでそれ』
 『わりとスタイルいいし、俺は好きだけどなぁ〜』

 ——知っていた、はずなのに。


 「……蒼真?」

 いきなり怒鳴ったかと思いきや黙り込んでしまった蒼真に、四谷が心配そうに声をかけた。
 その声に蒼真はハッとして慌てて取り繕おうとする。

 「あ、いや……えっとぉ……」

 じわりと目の奥が熱くなりそうな気配がして、蒼真は焦った。幼い頃から泣き虫だった蒼真は、涙が出る前の感覚をよく覚えている。怒鳴った挙句に急に泣き出したら四谷だって困るだろう。蒼真はグッと奥歯を噛み締めて笑顔を貼り付けると顔を上げた。

 「こ、うたろうのタイムもさ……測り直すのはどうかな?」
 「は?」

 110度ぐらいの角度で話題が転換したことに四谷は戸惑った。
 けれども蒼真は勢いに任せて続ける。

 「四谷さんのタイム計測が間違っているって言ってるわけじゃないんだけどさぁ……アイツのタイムもなんかおかしくないって思って」
 「どういうこと?」
 「もっと速いと思うんだよね。四谷さんたちが使ってたストップウォッチって相当古かったじゃん? あのストップウォッチが悪いんじゃないかなぁ……男子リレーのアンカーも考え直さないとね」

 ペラペラと必死に舌を動かした蒼真はその間になんとか込み上げてくる熱を目の奥の、奥へと押し込むことに成功した。よし、これで大丈夫。話題も絶妙に変えたし、これで何の問題もないはずだと意気込む。
 しかし、蒼真は気付いていない。
 自分が思っている以上に蒼真は詰めが甘いのだ。

 「……ハハッ」

 四谷は思わず笑ってしまった。蒼真の言い分はあまりにも面白かった。

 「アンタ、紅太郎が自分より速いと思ってるんだ?」
 四谷がそう問いかけると蒼真はキョトンとした表情を浮かべて眉を顰める。
 「思ってるけど……」
 「アハハハッ! それ、本気!?」

 四谷はツボに入ったかのように笑い出した。四谷の笑い声は次第に「ウヒヒヒヒッ……」という独特なモノへと変わっていく。蒼真はクセがあり過ぎるだろ……と思いながらも笑い続ける四谷の前で、眉間の皺を深くしていった。

 「なんでそんなに笑うの?」

 純粋な疑問を蒼真が投げかけると四谷は目尻に溜まった涙を指で拭き取りながら答えた。

 「いや、だって……紅太郎に期待し過ぎでしょ!」

 いくら運動神経が抜群とはいえ、紅太郎は中高共に運動部に所属しておらず、トレーニングも何もしていない。それなのにも関わらず、六秒台前半を保っているだけでも凄いことだ。けれども三年間も陸上に打ち込み、大会実績もある元陸上部には流石に勝てるはずがない。そんなの、誰が考えたって分かる。
 紅太郎自身だってこう思っているはずだ。
 ——走りでは蒼真に敵わない、と。
 不貞腐れて芝生に寝っ転がっていた時でさえ、紅太郎は蒼真の走りだけは目で追っていた。現役の運動部すらも蹴散らして走る蒼真は、おそらく陸上をやめた後もトレーニングだけは続けているはずだ。その地道な努力がクラストップのタイムを叩き出した。
 けれども、蒼真はそんな自分の輝かしい記録を棚に上げて、紅太郎にキラキラした目をずっと向けている。
 なんだか馬鹿馬鹿しくて四谷は笑うしかなかった。

 「どんだけ紅太郎のこと好きなんだよ……」

 ウヒウヒと奇妙な笑いを溢しながら四谷は何気なしに蒼真のほうを振り返った。
 四谷の言葉に含みも他意もない。ただ単に思ったことを言っただけだ。彼女はいつもそうだから。
 それだけだったのだが——。

 「……あー」

 やっと笑いを引っ込めた四谷は腰に手を当てながら唸った。傾き始めた夕陽がグラウンドにいる生徒たちを照らして、彼らの影を長く伸ばす。四谷と蒼真も例外ではない。特に蒼真は立ち位置のせいか影がよく伸びて、さっきまで休んでいた木の陰にまで届きそうだった。

 「……アンタ、俳優とかインフルエンサーとか目指すのはやめたほうがいいよ」

 四谷は呆れながら忠告した。
 それに対して蒼真は不機嫌な声を返す。

 「へえ、なんで?」

 四谷がニヤつきながら声を顰める。

 「……顔に出過ぎ」

 フッと鼻で笑われた蒼真は思わずストップウォッチを手放し、両手で顔を覆った。
 それでも真っ赤に染まった顔をすべて隠すことは出来ない。

 「ハロー、林檎ちゃん?」
 「ふざけんな」

 夕陽のせいだと元陸上部員は言い訳したが、現役陸上部員はウヒウヒと変な笑い声を漏らすだけだった。