風見ヶ丘高校、二年C組の一ノ瀬紅太郎は運動神経抜群である。
得意な教科は小学校の頃からずっと体育で、苦手な種目はひとつもない。ドッチボール、サッカー、バスケ、バレー、テニス、野球、卓球——あらゆる球技で見事な活躍ぶりを披露してきた。蒼真が覚えている限りでも、鉄棒で調子に乗って回り過ぎて吐いたり、空に届きそうなくらい高くまでブランコを漕ぎまくった挙句に大ジャンプをして傷だらけになったり、上級生に煽られて校庭を逆立ち歩きで一周して血が頭に昇って倒れそうになりながらも千円せしめたり、紅太郎はさまざまな武勇伝を残している。
しかし、中学生になった紅太郎が所属していたのは運動部ではなかったらしい。
高校に入ってからは部活に参加すらしていない。そのため、紅太郎が飛び抜けた運動神経を披露する場面は蒼真との鬼ごっこや、それこそ体育の授業など限られた場面だけだった。
「なんでこの時期にタイム測るんだろうねぇ?」
「知るかそんなん」
蒼真が背中合わせの相手に尋ねれば、紅太郎はまともに答えもせずに鼻でわらった。それから紅太郎はグイッと上半身を起こし、身を縮めるように背中を丸める。そうすればシーソーのように今度は蒼真の足が地面から離れて背骨がギチギチと伸びた。蒼真の視界に広がる青空にはところどころ白い雲が浮いていた。夏の雲は妙に立体感があるなぁと蒼真は目を細めながら空を眺めていたが、いつまで経っても背中から下ろしてくれない紅太郎に負けじと上半身を起こすと地に足をつけた。
二人組を作るとき、蒼真と紅太郎は必ずお互いを選んだ。小学生のときからそうだった。あの頃はまだ身長差がそれなりに大きくて、背中合わせで背骨の伸ばし合いなんてしたら蒼真はまともに紅太郎を持ち上げられなかったし、逆に紅太郎は蒼真を持ち上げすぎてひっくり返らせてしまうなんて事故も引き起こした。それでも懲りずに教師が「隣同士で二人組でつくって〜」という指示を出せば「隣同士」という言葉が聞こえなかったフリをして、紅太郎はズンズン人をかき分けて蒼真の元に向かったし、蒼真もすぐに振り返ってニコニコしながら紅太郎に駆け寄っていった。
その癖は十年近く経っても変わらない。変わったのはふたりの身長差がそれほど大きくなくなったこと。そして紅太郎が多少横暴になったことだ。無言でズンズン歩いてきたツンツン頭の小学生は、プリン頭の高校生に進化して「蒼真」とデカい声で呼びつける。他のクラスメイトが蒼真に近付く前に紅太郎の低い声が響くものだから蒼真はよそ見をしている暇がない。しかも紅太郎は蒼真を呼びつけるだけ呼びつけて一歩も動かず仁王立ちしている。お前が来いよ……と思わなくもないのだが、しばらく経つともう一度デカい声で名前を叫ばれるので蒼真は仕方なく紅太郎の元に急いで駆けていくことにしている。
「C組、集まって〜」
準備体操が終われば、男子と女子で分かれてタイム50メートル走が始まる。まずは男子が走り、次に女子が走る。そして女子と男子それぞれがペアになってお互いのタイムを測るのだ。これに関しては流石に紅太郎と蒼真が組むわけにはいかないので、蒼真は最新式のストップウォッチを片手に小股で駆け寄ってきた女子に計測を頼み、紅太郎はひとりでボーッとしている知り合いの女子をひとり捕まえた。本当は隣同士で競い合いたかったけれど、名前の順でレーンが組まれるせいで蒼真と紅太郎は離れた列に並ぶことになる。
「遠いなぁ……」
蒼真の独り言は数列前の紅太郎には届かなかった。
「一ノ瀬、6秒23」
ガムテープで補強されたストップウォッチを片手に女子生徒が測り終えたばかりの記録を伝えれば紅太郎は崩れ落ちるように芝生に寝転がった。素肌を惜しげもなく晒すように体操着をめくり上げれば顔を覆う。
「おっせえ……」
もはや半分脱いでいるような状態で地面に倒れている紅太郎を見下ろしながら、ボーイッシュなウルフカットの女子——四谷は無表情のまま呟いた。
「なんで? わりと速いと思うけど」
「慰めとかいらねえから」
「は?」
不貞腐れて動かなくなった紅太郎に面倒臭さを感じた四谷はそれ以上のフォローは入れずに、視線をグラウンドへと戻した。すると先ほど走り終わったばかりの男子生徒が数名の女子たちに囲まれているのが見えた。キャアキャアと甲高い歓声を浴びている男——三宅蒼真は、その整った顔に苦笑を浮かべている。
蒼真は辺りを見回して誰かを探しているようだった。その様子に四谷は軽く手を挙げると自分の足元を指差し、ついでに無駄に長い紅太郎の足を軽く蹴った。
「——紅太郎、何秒だった?」
取り巻きの女子たちを上手く捌いてからふたりに駆け寄ってきた蒼真に、四谷は片手に握りしめたままのストップウォッチを見せた。
「6秒23」
「速いじゃん」
「ふざけんな」
蒼真が褒めたのにも関わらず、紅太郎は物騒な悪態を吐きながら起き上がった。めくれ上がっていた体操着が重力に従って剥がれ落ち、明らかに不機嫌な紅太郎の顔が晒される。まるで今にも噛みついてきそうなシベリアンハスキーだ。けれども、このハスキーが見た目よりも随分と人懐っこく、本気で噛みつくわけがないということは幼馴染がよく知っている。
「そっちは?」
四谷が蒼真に50メートル走のタイムを尋ねた。紅太郎の眉間の皺がさらに深まる。唸り声まで聞こえてきそうな勢いだ。
それなのにも関わらず蒼真は四谷ではなく、紅太郎の方へわざわざ視線を向けながら答えた。
「5秒9——」
「うぜえええええッ!!」
蒼真が言い終えないうちに紅太郎の雄叫びがグラウンドに響いた。
最後の一桁がかき消されたせいで今度は四谷の眉間に皺が移る。
「うっるさいな……聞こえなかったんだけど」
「クソが」
「あは、負け犬の遠吠え?」
「黙れ、表出ろ」
「ここがオモテなんだよなぁ」
そんなやりとりをきっかけに〝いつものやつ〟が始まる予感がして、四谷は何も言わずに蒼真たちから離れた。グラウンドの至る所で群れを作っている女子生徒たちには加わらず、四谷はひとりでフラフラと歩く。
「おい、待てッ!」
「待たなぁい♡」
そして四谷の読み通り、紅太郎と蒼真は喧嘩という名のじゃれ合いを始めた。ここはドックランだったのかと勘違いしそうになるくらいの勢いで縦横無尽にグラウンド中央の芝生を踏み荒らし、バスケの1ON1を彷彿とさせる正面対決を経てから最終的には手押し相撲に辿り着いた。両手を組み合いながら押したり引いたりフェイントしたり——単純な力比べをしたい紅太郎に対して頭脳戦を持ち込もうと蒼真は足掻いたのだが、勝敗はいつも通りだった。
「体力有り余ってんなぁ〜」
「あ?」
芝生に押し倒された蒼真の腰に跨って紅太郎が休憩しているとクラスメイトが話しかけてきた。両手をジャージのポケットに突っ込んだまま屈むことももせず、視線だけで蒼真たちを見下ろす。蒼真の記憶が正しければ彼はサッカー部だったはずだ。B組の女子と付き合っているが、同じクラスの他の女子にもちょっかいを掛けている。蒼真ほどではないにしろ顔が整っていて自己プロデュースが上手いタイプだ。
そういう分析はパッと思いつくのに、蒼真はクラスメイトの名前をすぐには思い出せない。
「そんだけ元気なら部活入れよ」
「フツーにだりぃ」
「それはダルくねえのかよ」
蒼真が立ち上がれないように太腿の裏を踏みつけるという最悪のマウントの取り方をしながら人間ソファを楽しんでいる紅太郎を、クラスメイトは笑った。そのうち他の男子生徒たちも何人か群がってくる。皆、揃いも揃って運動部に所属している男子たちだ。体育の授業なのに学校指定の体操服ではなくわざわざ部活で使っている運動着やTシャツをこれみよがしに着ているので、すぐにわかる。
「一ノ瀬、バスケ部こねえ?」
「いかねぇ」
「じゃあバレーは?」
「やんねえ」
「サッカーやろうぜ、サッカー」
「興味ねえ」
蒼真は芝生に倒れ伏したまま頭上で繰り広げられる問答を黙って聞いていた。単純にこの体勢から立ち上がるのが難しいというのもあったが、こういう場面で口を挟むのは野暮だと理解していたからでもある。
それに蒼真の予想通りであれば、もうしばらく待てば心地良い優越感に浸れるはずだ。
「てか、コウタロウって放課後なにしてんの?」
「バイト」
「なんの?」
「喫茶店」
「きっさてぇ〜ん?」
「文句あんのか」
「いやぁ……?」
「毎日シフト入れてんの?」
「週3」
「ゆるくね?」
「バイトならそんなもんじゃねーの」
「しらねぇ〜」
「なら暇な日に部活やれよ」
「暇な日はない」
「なんで?」
「漫画読むのに忙しい」
「はぁ〜?」
クラスメイトたちの勧誘を適当に受け流す紅太郎に、蒼真は喉の奥でククッと笑った。バレては気まずいので四つん這いの体勢のまま拳を握りしめて俯く。青々とした芝生の根元に豆粒ぐらいのサイズの小石が落ちていた。蒼真がそれを指で跳ね飛ばすと小石はまるでボールのように緩やかな放物線を描いて遠くに飛んでいき、蒼真の目には見えなくなった。ナイスショット。もしくはナイスゴール。
紅太郎はお揃いのユニフォームを着て、決められた白線の内側を駆け回るようなことはしない。放課後の紅太郎は忙しいのだ——幼馴染の家に押しかけて、漫画の最新刊を読まなきゃならないのだから。
でもそれをわざわざクラスメイトたちに説明する義理もなかった。
「じゃあ三宅は?」
「ん?」
矛先が移ったのは、紅太郎が腰の上から退いてようやく蒼真が立ち上がったタイミングだった。手のひらについた草や砂を払っている蒼真をクラスメイトたちがじっと見つめる。
「陸上部とかどうよ」
「中学まで入ってたんだろ?」
「ああ、まあ……」
蒼真は曖昧に頷く。紅太郎は何も言わずに胸の前で腕を組んでいた。視線だけ蒼真のほうへ向けている。
「高校ではいいかなって」
薄っぺらい笑顔でなんとか切り抜けようとするが、それが効くのは女子だけで、男子生徒たちは引き下がらない。
「えー、でもタイムよかったらしいじゃん?」
「そうそう、青木たちが騒いでた」
「『ええ〜、そーまくん5秒台じゃ〜ん! 超はやぁ〜い♡』」
「あはは、似てねぇ〜」
蒼真のタイム計測を担当した女子の物真似をクラスメイトのひとりが披露する。どう考えても誇張され過ぎていて耳障りだったのに、紅太郎と蒼真以外はゲラゲラ笑っている。
「いいじゃん、陸上部。そんだけ速いんだったら入れよ」
妙な上から目線で煽るサッカー部員のクラスメイト——その名前が武下だと思い出したのは、青木という女子生徒が彼のことを「タケ」と呼んでいたからだ。「タケと付き合うかもしれないんだよねぇ〜?」と恋愛相談もどきの話をベラベラ喋りながら蒼真の反応をチラチラ見ていた。どうでもいい話だったからすっかり忘れていたな、と蒼真は鬱陶しい前髪を掻き上げる。
「うちのクラス、陸上部いないし今更入るのむずくない?」
そうやって蒼真がやんわりと話を流そうとするのに武下はしつこい。
「男子はいねーけど、女子なら四谷がいるじゃん」
ニヤニヤしながら乾いた唇を舌で舐めると武下は視線を遠くのほうへ向けた。その先には、トラックを避けてグラウンドの芝をさくさくと歩いている四谷がいる。彼女は誰とも喋らず、細い手首に古いストップウォッチのストラップをぶら下げて暇そうにしていた。
「意外と可愛いよな」
「かわいいっつーか、美人系?」
「髪型が好きじゃねーんだよな」
「せめてショートカットにしてほしい」
「マジでそれ」
好き勝手に言い合うクラスメイトたちの会話に蒼真は加わらず黙って聞いていた。紅太郎も何も言わない。その意味を理解していない武下たちはさらに盛り上がる。
「わりとスタイルいいし、俺は好きだけどなぁ〜」
「オマエじゃ相手にされねえって」
「わかんねーだろぉ?」
「性格キツそ〜」
「え〜? ああいうのが男に沼るとこ見たいじゃん」
「蒼真だったらイケんじゃね?」
「蒼真なら誰でもいけるっしょ」
「それなぁ〜」
蒼真は笑顔と言うには曖昧な表情を浮かべたままジャージのポケットに手を突っ込んだ。この会話はいつ終わるんだろうと空を見上げる。紅太郎の背中の上で見た時とはだいぶ雲の形が変わっている。巨大な入道雲が遠くからゆっくりと近付いてきていた。
「三宅でも四谷だけは無理だろ」
武下が鼻で笑った。含みがある言い方に蒼真は思わず眉を顰める。反応してはいけないと分かっているのに、意外と短気なところがある蒼真は口を滑らせる。
「へえ、なんで?」
——聞き返してはいけなかった。
武下がニヤつきながら声を顰める。
「……四谷って、オトコだめらしいよ」
「どゆこと?」
クラスメイトが興味津々で掘り下げようとすれば、武下は視界の端に四谷を捉えながら続けた。
「オンナが好きらしい」
その瞬間、蒼真は自分がしでかしたミスに気付いて表情をこわばらせる。
けれど、もう遅い——クラスメイトたちは、下世話な話題に盛り上がり始めてしまった。
「えー! ガチ?」
「ガチ、中学一緒だったやつが言ってた」
「そういうキャラなんじゃね?」
「いや、本気っぽい。四谷が女とキスしてるとこ見たって」
「うっわ! すげっ!」
「はぁ〜? もったいねぇ〜」
ギャハギャハと笑う男子生徒たちを前に蒼真は立ち尽くしていた。何か言わないと、言い返さないといけないのに頭が真っ白になって何も言葉が思いつかない。煽られたとは言えども、この話題の切り口を作ってしまったのが自分だという罪悪感と、上手く言葉にならない感情——恐怖に近い何かが蒼真の脳を支配して動けなくなる。ドッドッドッドッ、と心臓の音が耳の奥で聞こえたかと思えばキーンと耳鳴りがする。男子生徒たちの声が水中にようにくぐもって遠のく。
蒼真は、きつく唇を噛み締めた。痛いぐらい強く。
「——馬鹿じゃねえの」
蒼真の意識を引き上げたのは、聞き覚えがある低い声だった。
「つまんねえ話しやがって」
唸り声のような悪態を吐けば、紅太郎はクラスメイトたちを睨みつけた。その視線があまりにも鋭くて茶化すことも難しかった。
「もっとマシな話しろよ、くっだらねえ……」
紅太郎は苛立ちを隠さぬままに舌打ちをする。本気で不機嫌な紅太郎の迫力は凄まじい。蒼真と戯れ合っているときは比べ物にならないくらいピリピリしていて、少しでも身じろいだら殴られるのではないかという予感を目の前にいるクラスメイトたちにばら撒く。彼らは紅太郎が単に運動神経がいいだけの男ではないと知っている。——それこそ、中学時代の噂で。
「……いや、でもさぁ」
果敢にも食い下がろうとしたのは武下だった。しかし、紅太郎はピシャリと跳ね除ける。
「四谷が誰を好きでも、オマエらにはかんけーねえだろうが」
ついにクラスメイトたちは押し黙り、紅太郎から視線を逸らして俯いてしまった。気まずい沈黙が垂れ込める。
その場で唯一、紅太郎の横顔を見つめていたのは蒼真ただひとり。
紅太郎はもちろん蒼真を庇ったわけではないだろう。特別に四谷を守りたかったという事情もない。単に自分が気に食わないことをはっきり述べただけだ。
ただ、それだけでも——蒼真にとっては十分だった。
「C組の男子〜! ストップウォッチを持って集まってくださ〜い」
沈黙が晴れたのは、ひとりの女子生徒の声がグラウンドに響いたからだ。それを合図に紅太郎の周りにいた男子生徒たちは足早に指示された場所へと向かい、ペアを組んでいる女子生徒からストップウォッチを受け取る。どうやら男子のタイム計測が一通り終わったので、次は女子のタイム計測に移るらしい。
「いくぞ」
立ち尽くす蒼真の肩を紅太郎が軽く叩いた。
「ああ、うん……」
紅太郎は蒼真と足並みを揃えることもせず、大股で歩いていく。その先には四谷が待っていて、古いストップウォッチの使い方を丁寧に教えてやっていた。
ワンテンポ遅れた蒼真が足取り重くトラックを横切ると、蒼真とペアを組んでいた青木が駆け寄ってくる。
「蒼真くん、おねが〜い」
「……いいよ」
蒼真は自分よりもずっと背の低いポニーテールの女子生徒を見下ろしながら最新式のストップウォッチを受け取る。蒼真が中学のときに使っていたものとは別物で、色んな機能が追加されているせいで何がなんだか分からなかったが、青木は使い方を教えてくれる気はなさそうだ。適当にボタンを押しているうちに蒼真はなんとかタイムの計測機能だけは使えるようになった。
「私、結構足遅いからさぁ〜! 笑わないでねぇ〜?」
「笑わないよ」
蒼真はぎこちない笑みを浮かべながら青木に頷くとストップウォッチの表示を眺める。コンマ以下の数字が目まぐるしく変わっていく。
——何も、笑えなかった。
蒼真は、晴れた空を見上げる気力もないまま変化し続ける数字をただじっと見つめていた。

