——遠のいていく背中が輝いて見えたことを今でも覚えている。
「おい待て、このカス野郎ッ!!!」
廊下に一陣の風が吹いた。
真っ白なシャツの裾がたなびき、目の前を掠めていく。
「やーだよ♡」
「かわいこぶってんじゃねえ!! どつくぞ!!」
甘ったるい声を遮るように怒声が唸る。傷みきった金髪が階段の踊り場に差し込む真昼の陽光を反射した。バタバタと騒がしい足音が四階から三階へ降りてくる。
「どつくためにはまずは追いつかなきゃじゃない?」
「黙れ、鈍足ぅッ!!」
「自己紹介ありがとう!」
さらに三階から二階へ駆け降りていく二つの影。その距離は一定を保っている。
先頭を走るのは、柔らかな茶髪の——いかにもモテそうな面をした男子生徒。
「おっと……ごめんね?」
階段を上がってきた女子生徒とぶつかりそうになった三宅蒼真は、華奢な肩に手を添えると後ろから凄まじい勢いで追ってくる男に彼女が吹き飛ばされないようにそっと逃した。去り際にタレ目がきゅっと細まり、笑顔を見せる。それを目の前で食らった女子生徒は顔を真っ赤にして固まり、すこし遠くでキャアッ!と黄色い声が響いた。
しかし、そんなアイドル顔負けのファンサービスもあっという間に蹴散らされる。
「そぉおおおまああああああ!!!!!」
階段の五段飛ばし——俺こそがリンゴだ見たかニュートンと言わんばかりの大ジャンプを見せつけたのは、校舎の四階からしつこく蒼真を追ってきている金髪の男。
「ぶっころしてやる!!」
つり目をさらにきつく吊り上げた彼の片手が握るものは擦り切れた古い雑巾のように見えるが、その正体は学校指定のジャージである。その袖には、ハートマークのお目目が特徴的なリンゴのキャラクターがいた。
どうやら一ノ瀬紅太郎は、この可愛らしいアップリケが自分のジャージに縫い付けられていることがお気に召さなかったらしい。
犯人はもちろん——彼がずっと追いかけている優男だ。
「おこらないでよ、コウちゃ〜ん?」
「ころす」
「穴塞げるならなんでもいいって言うたやん!」
「ころす」
四階にある二年C組の教室から始まった鬼ごっこはまだ続いている。二階から一階へ凄い勢いで駆け降りていく彼らとすれ違った同級生たちは呆れたように振り返った。
「まーたやってんのかよ、紅太郎も飽きねえなぁ」
「先にちょっかい出してんのは蒼真のほうじゃね?」
「ソーマくんったらコウタロウチャンのこといじめすぎよォ〜」
「あれって、キュートアグレッション的な何かなん?」
「そもそもコウはキュートじゃねえだろ」
「どちらかというとセクシー」
「どこが? 胸元?」
「シャツ全開なだけだろ」
「むさくるしぃ〜」
そうしてゲラゲラと笑いながら階段を昇っていくクラスメイトのことなど知る由もなく、一階に降り立ったふたりの距離はまだ縮まらない。
「おい、止まれゴラァ!!!」
「やだやだぁ〜!」
「なんで息上がってねえんだよ、おかしいだろテメー!」
「鍛え方がちがうんだよ、ザコぉ〜」
「んだとてめぇ!!」
元陸上部の健脚を披露する蒼真に、持ち前の運動神経のみで食らいつく紅太郎。広々とした玄関ホールを通り過ぎ、外廊下から中庭に飛び出しても彼らは止まらない。生い茂った芝の緑が上履きに絡みつく。規則正しく蛍光灯が並んでいた天井は、晴れ渡った青空に変わった。何も遮るものがなくなった陽光が少年たちのうなじを焼く。
滲む汗。跳ねる息——次第に笑いが止まらなくなる。
「あははははッ! ねえ、これいつまでやんのお〜?」
「オメーが俺に捕まって土下座させられるまでだッ!」
「ねえ、アイス奢るからそろそろやめなぁ〜い?」
「コンビニのッ! 期間限定のやつッ!」
「キャラメルのやつぅ〜?」
「ちげえわ、ボケッ!! チョコのほうだよ! パリパリの!」
「どれだよぉ! 知らないよ! あははッ……」
足をもつれさせるようにしてスピードを徐々にゆるめた蒼真は、体育館の外壁に手をついた。日陰になっているからコンクリートの壁もそこまで熱くはない。ふう、と軽く息を吐けばチラリと隣を見る。数歩遅れで追いついた紅太郎が勢いを殺しながら壁にぶつかり、ずるずるとしゃがみ込む。お手本みたいなヤンキー座りだった。そんな紅太郎の頭を見下ろせば髪の根本から黒がじわじわと侵食してきているのが見えて、蒼真は唐突にプリンが食べたくなった。
「ねえ、コンビニいかない?」
「いく……」
疲れ果てて項垂れていた紅太郎の視界の端に蒼真の手が映った。紅太郎が躊躇いもせずにその手を掴めば、思いっきり引っ張り上げられる。
「重いよ、デブ」
「筋肉だ、カス」
そのまま嫌がらせのように紅太郎が蒼真にもたれかかりながらふたりは歩いていく。来た道ではなく、体育館側から回り込むように玄関へ。わざわざロッカーを開いて上履きを外履きに履き替える蒼真を横目に、紅太郎は履き古された上履きの踵を踏みしめながら両手をポケットに突っ込んで、空を見上げる。
「——あちいな、クソ」
最高気温は33℃。
アイスを奢ってもらうのには最高の天気だった。
「おい待て、このカス野郎ッ!!!」
廊下に一陣の風が吹いた。
真っ白なシャツの裾がたなびき、目の前を掠めていく。
「やーだよ♡」
「かわいこぶってんじゃねえ!! どつくぞ!!」
甘ったるい声を遮るように怒声が唸る。傷みきった金髪が階段の踊り場に差し込む真昼の陽光を反射した。バタバタと騒がしい足音が四階から三階へ降りてくる。
「どつくためにはまずは追いつかなきゃじゃない?」
「黙れ、鈍足ぅッ!!」
「自己紹介ありがとう!」
さらに三階から二階へ駆け降りていく二つの影。その距離は一定を保っている。
先頭を走るのは、柔らかな茶髪の——いかにもモテそうな面をした男子生徒。
「おっと……ごめんね?」
階段を上がってきた女子生徒とぶつかりそうになった三宅蒼真は、華奢な肩に手を添えると後ろから凄まじい勢いで追ってくる男に彼女が吹き飛ばされないようにそっと逃した。去り際にタレ目がきゅっと細まり、笑顔を見せる。それを目の前で食らった女子生徒は顔を真っ赤にして固まり、すこし遠くでキャアッ!と黄色い声が響いた。
しかし、そんなアイドル顔負けのファンサービスもあっという間に蹴散らされる。
「そぉおおおまああああああ!!!!!」
階段の五段飛ばし——俺こそがリンゴだ見たかニュートンと言わんばかりの大ジャンプを見せつけたのは、校舎の四階からしつこく蒼真を追ってきている金髪の男。
「ぶっころしてやる!!」
つり目をさらにきつく吊り上げた彼の片手が握るものは擦り切れた古い雑巾のように見えるが、その正体は学校指定のジャージである。その袖には、ハートマークのお目目が特徴的なリンゴのキャラクターがいた。
どうやら一ノ瀬紅太郎は、この可愛らしいアップリケが自分のジャージに縫い付けられていることがお気に召さなかったらしい。
犯人はもちろん——彼がずっと追いかけている優男だ。
「おこらないでよ、コウちゃ〜ん?」
「ころす」
「穴塞げるならなんでもいいって言うたやん!」
「ころす」
四階にある二年C組の教室から始まった鬼ごっこはまだ続いている。二階から一階へ凄い勢いで駆け降りていく彼らとすれ違った同級生たちは呆れたように振り返った。
「まーたやってんのかよ、紅太郎も飽きねえなぁ」
「先にちょっかい出してんのは蒼真のほうじゃね?」
「ソーマくんったらコウタロウチャンのこといじめすぎよォ〜」
「あれって、キュートアグレッション的な何かなん?」
「そもそもコウはキュートじゃねえだろ」
「どちらかというとセクシー」
「どこが? 胸元?」
「シャツ全開なだけだろ」
「むさくるしぃ〜」
そうしてゲラゲラと笑いながら階段を昇っていくクラスメイトのことなど知る由もなく、一階に降り立ったふたりの距離はまだ縮まらない。
「おい、止まれゴラァ!!!」
「やだやだぁ〜!」
「なんで息上がってねえんだよ、おかしいだろテメー!」
「鍛え方がちがうんだよ、ザコぉ〜」
「んだとてめぇ!!」
元陸上部の健脚を披露する蒼真に、持ち前の運動神経のみで食らいつく紅太郎。広々とした玄関ホールを通り過ぎ、外廊下から中庭に飛び出しても彼らは止まらない。生い茂った芝の緑が上履きに絡みつく。規則正しく蛍光灯が並んでいた天井は、晴れ渡った青空に変わった。何も遮るものがなくなった陽光が少年たちのうなじを焼く。
滲む汗。跳ねる息——次第に笑いが止まらなくなる。
「あははははッ! ねえ、これいつまでやんのお〜?」
「オメーが俺に捕まって土下座させられるまでだッ!」
「ねえ、アイス奢るからそろそろやめなぁ〜い?」
「コンビニのッ! 期間限定のやつッ!」
「キャラメルのやつぅ〜?」
「ちげえわ、ボケッ!! チョコのほうだよ! パリパリの!」
「どれだよぉ! 知らないよ! あははッ……」
足をもつれさせるようにしてスピードを徐々にゆるめた蒼真は、体育館の外壁に手をついた。日陰になっているからコンクリートの壁もそこまで熱くはない。ふう、と軽く息を吐けばチラリと隣を見る。数歩遅れで追いついた紅太郎が勢いを殺しながら壁にぶつかり、ずるずるとしゃがみ込む。お手本みたいなヤンキー座りだった。そんな紅太郎の頭を見下ろせば髪の根本から黒がじわじわと侵食してきているのが見えて、蒼真は唐突にプリンが食べたくなった。
「ねえ、コンビニいかない?」
「いく……」
疲れ果てて項垂れていた紅太郎の視界の端に蒼真の手が映った。紅太郎が躊躇いもせずにその手を掴めば、思いっきり引っ張り上げられる。
「重いよ、デブ」
「筋肉だ、カス」
そのまま嫌がらせのように紅太郎が蒼真にもたれかかりながらふたりは歩いていく。来た道ではなく、体育館側から回り込むように玄関へ。わざわざロッカーを開いて上履きを外履きに履き替える蒼真を横目に、紅太郎は履き古された上履きの踵を踏みしめながら両手をポケットに突っ込んで、空を見上げる。
「——あちいな、クソ」
最高気温は33℃。
アイスを奢ってもらうのには最高の天気だった。

