なんの変哲もない男子高校の放課後、に思われた。
だがそれは一般生徒が何も知らないだけで、放課後のそこかしこで行われているのは女子のいない学校で持て余した男子たちの性欲処理である。
そしてその一端がここでも繰り広げられていた。
啼く男と、そして啼かせる男。リョウタにとっては日常であり、なんの痛痒も感じなかった。
というのは大嘘で、リョウタは絶賛啼かされている最中である。
それもそのはず、リョウタはこの狭い学校という籠の中で、『受け専』と呼ばれる立場であり、日々他の知らない男子から組み敷かれる役割だからだ。
相手の男は満足したのか、リョウタからモノを引き抜くと、端金を乱雑に置いて去っていく。
(そんなに男とやるのがいいのかね?外で女でも見つけろっての…。)
リョウタは置かれた金を見遣りながらそう思った。だが客がいなくなってはリョウタもおまんまの食い上げだ。本音は隠すに限る。
まァ、客は生徒だけじゃないから、いいんだけど。
そう、驚くことに、リョウタのような『受け専』を利用するのは生徒だけではない。
腐った世の中だ。だがリョウタもそう言いながら、受け専をやめるつもりはなかった。
なぜなら、受け専をしている間だけは、居場所が与えられる気がしていたから。
リョウタは家庭にどうも馴染めなかった。それは幼い頃からの話で、三つ上の兄だけが唯一の理解者だったと言ってもいい。だがその兄も、大学に進学して家を出てしまい、リョウタはますます孤立した。そしてその孤独感がリョウタを受け専へとのめり込ませた。
リョウタを抱く男どもは性欲を満たし、リョウタはその行為によって自らを傷つけることで満足感を得るようになっていた。一種の自傷行為だった。
だが、リョウタを愛していない両親は、そんなリョウタの行為に気がつくわけがなかった。
そんな生活が半年ほど続いただろうか。すべてがどうでも良くなっていたリョウタに転機が訪れる。それはあまりにも突然の出来事で、リョウタ自身でさえ咄嗟に理解できなかった程だ。
いつものように、見知らぬ生徒ーいや、こいつは何度か見た覚えがあるがどうでもいいーに買われていると、突如密事が行われている教室のドアが開け放たれた。
(なんだ、まじめぶった先公にでもバレたのかな…。)
リョウタははぁ、とため息をつき、乱入者をうろんげな瞳で見遣る。だがそこにいたのは、同じく制服を纏ったこの学校の生徒だった。逆光で顔は良く見えない。
(え、何何何?)
事態を飲み込めないでいると、乱入した生徒はずかずかとこちらへ向かってきた。
(まさか三角関係で刺されたりしないよな…。)
リョウタは命が惜しくなったわけではないが、そんなことを考える程には混乱していた。
向かってきた乱入者は、リョウタの上に乗っかっている輩をいとも簡単に引っぺがすと、リョウタを起こし、その腕を引いて歩き始めた。リョウタは更に混乱の度合いを深めていた。
なんとか死守したズボンだが、穿く暇も与えず腕を引く人物は廊下を歩き続ける。
(いや、流石に恥ずかしいんだけど…。)
いくら人気の少ない放課後遅くとはいえ、下半身丸出しで廊下を歩くのは恥ずかしすぎる。リョウタにだって羞恥心くらいある。
リョウタは腕を引く人物が誰なのか確かめようと顔を窺った。だが、脳内にヒットする人物はいない。つまり、この学校の生徒だけど、知らない人なのだ。
ほどなくして、奇跡的に誰ともすれ違わず屋上へ続く階段の踊り場に着いた。
ずっと断固として離さないという強い意志すら感じられるほど力強く腕を引いていた生徒がようやく腕を解放してくれる。
振り向いた生徒の顔をやっと正面から見て、リョウタはハッとした。
(この人ー。)
知っている訳ではないが、この学校ではあまりにも有名な存在。校内屈指のイケメンと名高い三年生の先輩だ。その上ものすごく頭がいいとか、裏の世界では難攻不落だとかで、ある意味どこへ行っても有名な人物だ。周囲の高校でも女子が放っておくはずもなく、モデルのスカウトなんかも来るらしい。だが、難攻不落なのだ。誰も彼の弛んだ姿を見たことがないと言われている。
(そんな完璧超人センパイがなんで…?)
なんで自分の所へ来るのか。
なんで自分の事を引っ張り出したのか。
なんであの場所が正確に分かったのか。
はてなだらけのリョウタに、ようやく先輩は口を開いた。
「なぁ。余計なお節介だったら悪いんだけど。」
先輩はゆっくりとリョウタに語りかける。
「お前、なんか事情があるだろ。」
「え?」
リョウタは驚きを隠せなかった。今までどれだけ痴態を晒そうとも、それに気づかれたことは一度たりともないからだ。
「なん…別に……。」
なんで悟られた?リョウタが返答に詰まっていると、先輩はふぅ、と一息ついて、またリョウタに語り始める。
「なんで、とか思ってる?」
リョウタはぎくりとした。何この人。人の心が読める機能とかついてるんじゃ…。そう思いつつ観念したようにリョウタは頷いた。
「お前ら、いつも実習棟の方でやってるだろ。その渡り廊下が見える位置にある階段、俺の昼寝の場所なんだよな。」
こんな完璧に見える人が昼寝とかするんだ…という驚きはさておき、本当になんでもお見通しな事に恐れ入る。
「お前結構有名なんだぞ。断らない受け専、とかでさ。大抵のやつは選り好みするって話らしいぞ。」
有名な受け専とか言われても恥ずかしいだけなのだが。確かに誰だろうと断った試しはない。
(だって、メチャクチャにしてくれるなら誰でもいい訳で…。)
リョウタは、階段に座って俯きつつ、先輩の話をそんな事をぼんやり考えながら聞いていた。
「そんなお前だけなんだよな。いつも思いつめたカオしてさ。渡り廊下通っていくの。」
「え…。」
そんな顔してたっけかな。リョウタは今まで自覚したことはなかった。そして誰からもそんなことを指摘されたこともなかったのだ。
「お昼寝してるんじゃないんですか…。」
さっきそう言ったはず。なのに、なんで人間観察してるんだよ。という謎の反抗心から、少しだけむくれてリョウタは突っ込む。
「最初はただそれだけだったさ。でも、お前の様子が明らかにおかしかったから。そこから気になって、お前が通る時は、気にするようにしてた。」
先輩は何事もないようにそう言ってのける。
(そんなにおかしかったのかな、俺。)
リョウタは誰かに気にかけられたことなんて、ほとんどなくて、唯一兄だけが、少し心配してくれていたけど。両親ともうまくやれなくて、学校でも友達なんていなくて。自分の言動なんて、誰も気にしていないと思っていた。
「お前さ、受け専やめたら?」
先輩はそう優しく諭してくれる。でもー
「俺は俺なりに受け専っていう立ち位置に満足してますし。あとお前じゃないです。リョウタです。」
(さっきからお前お前って。なんか失礼だろ。)
そうすると、意外な答えが返ってきた。
「ごめん。そうだよな。でも、あったことほぼないやつからいきなり名前呼ばれるのもキモくね?って思っちゃってさ。ちゃんと知ってる、ごめんなリョウタ。」
お名前調査済みだったー…。そりゃそっか。有名な受け専って把握してる時点で名前とかクラス学年くらいバレるよな…。少し引いたリョウタだったが、回り回ってみれば自分のせいである。そして先輩は更に続ける。
「でも受け専で満足、はどう考えても嘘だろ。じゃなきゃあんな顔しないと思うんだけど。」
痛いところを突かれた。でもリョウタは受け専でいる以外に自分を保つ術を知らなかった。
「どうせ俺みたいなモブ男誰も気にしてないし、どこで何してようがいいじゃないですか。」
リョウタは吐き捨てるように言った。本音だったし、本当にどうでもよかった。
だが、先輩の答えはリョウタに衝撃を与えた。
「気にしてるだろ‼︎俺が‼︎」
それまでとは打って変わって強い口調の先輩に、リョウタはかなりびっくりさせられた。
そして、顔を上げてみると、真剣な眼差しでこちらを見ている先輩の姿があった。
あとさりげなく階段の壁で壁ドンされている。
流石校内屈指のイケメンの目力は半端なかった。見つめられていると、だんだんこっちが気恥ずかしくなってくる。そんなことはお構いなしに、先輩は更に続ける。
「なんか悩みがあるなら誰かに相談するとかあるだろ。ほら、今なら俺が聞くし。あんな思い詰めた顔して、いつかどっかいなくなるんじゃないかって不安にさせんなよ…。」
先輩は本当に心配そうにしていた。
(いや、いつか本当に消えるつもりではあったけど…。)
それは高校卒業の時。大学に行ったところで将来の夢があるでなし、大学なんて行こうものなら高校時代のこの副業のことを持ち出されて、強請られたりするかもしれない。
何しろリョウタにとっては何もかもが悪い方向へとしか考えられない状態にあった。
でもー
リョウタは一旦先輩に全てを打ち明けてみようと思った。今までこんなに真剣に、薄い関わりしかない人が一生懸命に、リョウタを心配したり、諭してくれることは経験になかったから。
リョウタの話を聞き終わった先輩は、静かに頭を撫でてくれた。そしてこう言った。
「辛かったな、リョウタ。でも、その話を聞いて確信したことが二つある。」
「確信したこと…?」
先輩は元の優しく静かな口調に戻っていた。
「まず。受け専はやめろ。リョウタの為にだ。もう少し自分を大事にしろ。」
(自分を大事に…か。考えたこともなかったな……。)
リョウタは自分を傷つけることでしか、自分を認識できなかった。それを止めるべきと言っているのだ。一朝一夕にやめられるのだろうか。もちろんそれはリョウタの意志の強さにもよるが、今まで断らなかったせいで、一定数客がついてしまっているということもある。突然やめますと言って、やめられる話ではなかった。
(納得してくれなさそうな面倒な客、いそうだな…。)
リョウタは決して腕に自信のある方ではない。暴力に訴えられたら、勝てる見込みは低い。
そして一旦暴力でねじ伏せられると思われたら、一巻の終わりなのではないか。今までは抵抗したことがないから、そんなことはなかったが、もしそうやって強制的に続けさせられたらどうしろというのか。
そんな不安を胸に、もう一度先輩の方を見る。
先輩はそんなリョウタを知ってか知らずか、でも一切の迷いのない目をしていた。
「もし。もしやめたいって言ったら…。」
リョウタは先輩の反応を窺う。
「俺はやめるべきだと思う。そしてリョウタがもしそう決めたなら、やめられるよう一緒に努力していくつもりだ。もちろん、後片付けの件も含めて、な。」
先輩はやっぱりなんでもお見通しなんだなあ。リョウタはもう驚かなくなってしまっていた。
頭のいい人っていうのは、何か違う生き物なのかしら。そう思った程だった。
でもそこで一つだけ疑問が残った。
先輩は頭のいい人で、背もそこそこ高いけれど、どう見ても喧嘩とかに強そうな、いわゆるガタイのいい人、ではなかった。
(イケメンパワーでなんとかするのだろうか…。)
リョウタがとても頭の悪いことを考えていると、先輩は安心しろ、と言ってくれた。
「俺も暴力は苦手な方だ。だが、ものは使いようという事だ。」
またリョウタの頭の上をはてなが飛んだが、スーパーイケメンには何か策があるということだろうと無理矢理納得した。
「あ〜〜、てかさ。」
突然先輩の口調が変わる。
「対外的な物言いにも疲れたわ。リョウタの前では俺、素でもいいかな。」
もちろんです、と返事をしたところで、先輩からツッコミが返ってきた。
「リョウタも。素でいいよ、先輩後輩とか抜き。な?」
そう言われたリョウタは、自分でも訳がわからないうちに泣いていた。意識していないのに、涙がなぜだか溢れて止まらないのだ。優しさが身に染みた、というやつだろうか。そんなリョウタを先輩は抱き寄せ、涙が止まるまで付き合ってくれた。
(なんで俺にこんなによくしてくれるんだろ…。)
見ず知らずのリョウタを気にかけ、自分のためでなく、リョウタの為にと諭してくれる。
こんな良い人間を、リョウタは知らない。兄でさえ、仕方ないとはいえ、自分の都合のために家を後にしたのだから。決して兄がリョウタを愛していなかったと言っているのではない。
ただ、兄から受けるよりももっと手厚い愛を受けている気がした。勘違いだったら恥ずかしい。でも、先輩の言葉は真摯なものだった。
そうこうしているうちに、日も暮れかかり、リョウタは先輩と別れて家路につく。とても名残惜しかったが、先輩にだって先輩の生活がある。それくらいリョウタは理解していた。
家に帰ると、すっかりリョウタには興味を失った両親の冷たい目を無視し、一人自室で今日あった出来事を反芻していた。
(怒涛の一日だったなー…。)
リョウタは先輩の優しさを一人噛み締めながら、眠りについた。
ー翌日ー
「おはよ、リョウタ。」
登校していると、早速先輩が声をかけてくれた。おはよ、と挨拶を返し、学校への道すがら雑談しながら歩いていく。すると、校門のところに昨日リョウタと楽しむはずだったのを邪魔され、引っぺがされて地面に打ち捨てられたあいつが立っていた。
(あれ、絶対待ち構えてるよな…どうしよ……。)
できれば回れ右してどこかの公園でも行ってしまいたかった。家には帰りたくなかったし。
「いくぞ、リョウタ!」
気がつくと先輩とあいつの目がガッチリ合っている。向こうも痩身痩躯で、ガタイのいい人ではないが、朝っぱらから校門で喧嘩はまずい。どうするんだろう、先輩は。リョウタは不安と緊張で吐きそうだった。でも、先輩の先の一言で、前に踏み出そうと決心できた。
(そうだ、俺はもう一人じゃない。)
リョウタは校門へ向かって一歩一歩先輩と一緒に歩く。そして件のあいつの前に立った。
「やぁ、リョウタ。昨日はひどいじゃないか。僕のこと捨ててそこの有名人くんといなくなるなんてさ。」
相手は嫌味たっぷりにリョウタと、そして先輩目がけて言葉を放つ。リョウタはどう言っていいかわからず、思わず黙ってしまう。
そんな様子を見てとった先輩が、今度はお返しとばかりにこう言い放った。
「当然だろ。俺の方が、お前よりリョウタのイイトコ知ってんだよ。」
(なんか意味深な発言だな〜…。)
もはやリョウタが入る隙もなく、先輩と昨日の輩はバチバチ火花を散らしているようだ。
輩は、睨み合っても先輩には勝てないと思ったのか、フン、と鼻を鳴らして去って行く。
去り際の輩に、先輩はあることを耳打ちした。
「リョウタは俺がもらった。今までリョウタに世話になってた奴らに顔がきくなら皆にそう伝えろ」
と。
その噂は、学校の裏側では風が吹くより早く瞬く間に広まった。
ーえ、リョウタが?
ー嘘、しかもあの難攻不落とかよ⁉︎
ーリョウタのやつ、どうやってあいつを!
ーうらやましい、あの難攻不落に振り向いてもらえるなんて。
・校内屈指の受け専が卒業か?
・難攻不落、ついに落ちるー
二大スキャンダルが校内を吹き荒れた。
「さぁて、忙しくなりそうだな、なっ、リョウタ。」
先輩は放課後の屋上へ続く階段の踊り場で、楽しそうにそう言った。
「なんでそんなに楽しそうなの…。奴ら馬鹿だから、束になってかかってきそうで嫌なんですけど…。」
リョウタの予想は的中した。
「いたぞ、あそこだー‼︎」
「難攻不落をとっちめろ!リョウタは俺たちのもんだ!」
「リョウタ、イイ子だからこっちへ帰っておいで〜〜」
「うるさい!リョウタとやら、難攻不落を汚した罪は重いぞ!覚悟しろ‼︎」
もはやまとまりすらない、馬鹿の集団にリョウタは辟易した。
「リョウタ、こっちだ!」
なぜか楽しげな先輩はリョウタの腕を引いて屋上方向へ上がっていく。
「追え!屋上なら逃げ場はねぇ!きっちり落とし前つけてもらうぜ!」
(こっちだ。隠れろ、リョウタ!)
二人は、屋上の扉の裏に隠れて、集団が屋上に入っていくのを見届けてから、静かにドアを閉め、鍵をかけた。
ぱたん、ガチャ。
「ああ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ‼︎」
卑怯だのなんだのと喚いているが、自業自得である。
そこに先輩が静かに語りかける。
「代表者を出せ。」
すごすごと何人かが扉付近に歩み出た気配を感じ取り、先輩は話を始めた。
「これからもしリョウタに手を出すようなことがあってみろ。すぐに風紀委員会に通告してやるぞ。」
風紀委員と聞いた代表者たちが震え上がるのを感じた。
ー風紀委員会。この学校、もとい実習棟でやり取りしている連中にはもっとも恐るべき存在。
彼らは教師ですら取り締まり、風紀を乱すものを絶対に許さないことを信条としている集団だ。リョウタは未だ遭遇したことはないのだが、どこからか情報を掴んできては、お楽しみの連中を取り締まり対象として裁き、停学、もっと悪ければ退学に追い込むと聞いている。
「忠告はしたからな。」
先輩はそれだけを言うと、鍵を開けて彼らを解放した。
帰っていく輩たちは横目で先輩を見遣り、打つ手がないことを痛感して舌打ちしながら去っていった。
なぜなら、『難攻不落』の出来の良さは誰もが知るところであり、彼らにとっては風紀委員の次に敵に回したくない相手だからだ。
これ以上リョウタに関わるということは、難攻不落と風紀委員会の両方を敵に回すことを意味する。
そこまでしてリョウタにこだわる輩はいるにはいるだろうが、結局勝敗は見えている。
あまりにも分の悪い戦いになるとその場にいた全員が理解したことだろう。
最後に、リョウタではなく、難攻不落《・・・・》お目当てだった輩が、リョウタを恨めしそうに見遣り、なんでお前なんかが、という憎々しげな顔をしてから去っていった。
それからはリョウタに平和が訪れた。
放課後は自傷の時間でなく、先輩と共に勉学に励むようになった。
とはいえ、リョウタには少し不安な事があった。
それは、先輩が卒業した後の二年間。
リョウタは自分だけで自分の身を守れるか不安に感じていた。
しかし、その不安さえも先輩は溶かしてくれた。
「心配するな、毎日迎えに来るよ。」と。
リョウタにとってその言葉がどれほど嬉しかったかは、きっとリョウタにしかわからない感情だった。
そして、リョウタは決意を新たにした。
ー先輩と同じ大学に入る、と。
そこからリョウタはこれまでにないくらい、勉学にのめり込むようになった。
何せ、先輩が進学しようとしている大学は、最難関と言われる、東《あずま》大学なのだ。今のリョウタではまだ力不足だった。
だが、力は芽吹きつつあった。元々数ある教科のなかでは、割と数学が得意だったリョウタは、すぐに理数系の才能を開花させた。
問題が難しければ難しいほど解き甲斐があると楽しめるようになったのだ。
特に難しい数式に興味を持つようになっていった。
先輩は何の危なげもなく東大学に合格し、そして約束通り毎日放課後には迎えにきてくれるようになった。
そしてカフェに入って二人で勉強し、別れを惜しみつつ夜家に帰る、という生活が二年間続いた。
ー二年後
リョウタも晴れて東大学の生徒となった。
高校二年の最初の時期は危うかったものの、先輩と研鑽を積んだことにより、いつしかリョウタ自身が『難攻不落』となったため、学校内でも一目置かれ、手を出そうなどという不届き者もごっそり減った。
リョウタを利用していた上級生たちも次々卒業していき、いつしかリョウタのかつての姿を知るのは同級生のみとなり、リョウタが再び『受け専』などになることはなかった。
「合格おめでとう、リョウタ。」
真っ先に祝福してくれたのはやはり先輩だった。
両親にも一応報告したが、怪訝な顔をされて終わった。
どうやら、自慢の息子である兄よりも良い大学に進学したことが気に入らなかったようだ。
これからもきっと、家にいる時間は苦痛にしかならないんだろうな、とリョウタはぼんやり考えていた。
でも問題なかった。先輩が大学にいる間は側にいてくれるはずだから。
「はず」というのは、リョウタがまだ誰かを信じることが怖くて、確信が持てなかったからだ。
でも先輩は違った。その上を行く発言をサラリとできてしまうのだ。
「リョウタ、大学に入ったら、家を出て俺の部屋に来ないか?」
リョウタは目を見張った。
先輩から受ける大きすぎる愛情の嬉しさに、リョウタは涙した。
「泣かなくて良いんだ、今まで頑張ったな、リョウタ。」
先輩はリョウタの頭を優しく撫でながら、嗚咽の止まらないリョウタを優しく抱きとめた。
それからの四年間はあっという間だった。
四六時中二人は一緒にいて、お互いが愛情を以て接し、仲を深め合っていった。
先輩は大学院に進学し、リョウタといる時間を守ることを選んだ。
しかし、程なくして二人に最大の難題が訪れた。
『流石に同じ会社に就職するわけにはいかない』というものだった。
なぜなら、同じ会社に就職してしまえば二人の交際が明るみになるのは時間の問題だからだ。
そうなれば、要らぬ噂の的になり、居づらくなってどちらか、もしくは両者が退職、という道筋は簡単に見えた。
二人は聡いからこそ、別々の企業に就職することを選択した。
それもこれも、これからも一緒に歩み続けるための苦渋の決断だった。
学歴は関係なくなりつつある昨今でも、流石の東大学出身ともなれば引く手数多だった。
二人は別々の大手商社の面接を受け、無事に内定をもらった。
ただ、リョウタに関しては少し気になることがあった。
それは最終面接でのことだった。ハキハキと受け答えをし、これは手応えアリだと感じた面接だったが、終わって椅子から立ち上がり、振り返るとそこには風格のあるスーツ姿の男性が壁を背にして立っていたのだ。
男性は眉目秀麗としか言いようのない端正な顔立ちで、言い知れぬオーラを放っていた。
(あれ、確かこの人…?)
いつからいたのだろうか、と疑問に思いつつも、この人物には心当たりがあった。
会社のホームページに載っていたためである。
(社長さん、だよな…流石に何もなしはまずいだろ)
リョウタは失礼にあたらないよう社長に向かって一礼をする。
社長はにこりと微笑み、リョウタを見送った。
(後ろから見られてたなんて思ってもみなかった、あぶね、なんか変なことしてないよね?)
リョウタは帰り際、そんなことを考えていた。
「え?」
リョウタは素っ頓狂な声をあげてしまった。
今日はリョウタの初出勤である。
内定をもらって、いよいよ自分の頭脳を生かした仕事をしようと意気揚々と出社した。
ところが、指示された部署に向かうと、上司からの第一声はこうだった。
「今すぐ社長室に行って。」
入社早々何かしただろうか。身だしなみも整えてきたし、不備はないはずだ。
仕方なく指示通りに社長室へ向かう。
「…失礼します。」
ノックをして入室を許されたリョウタは恐る恐る社長室へと足を踏み入れた。
「やあ。久しぶり、かな?」
そこには紛れもなくあの時面接会場にいた人物が立っていた。
(面接で何か失礼があったのか?)
リョウタは何もしてないはず、と思いつつ怒られるのではないかという猜疑心を拭いきれずにいた。しかし社長の口から出たのはとんでもない発言だった。
「君を私の秘書に任命したい。受けてくれるかな?」
(は?)
リョウタは思わず素でそう聞き返しそうになった。が、堪えた。
「いやいやいやあの、自分は秘書検とか持ってないですし、誰かとお間違えでは?」
精一杯今ある現状を伝えて誰かと勘違いしてる旨を伝えたつもりだった。だが社長も流石は大企業を一代でここまで築き上げた身。わざとらしく首を横に振ると続けた。
「おや?君は面接でスケジュール管理には自信があるとアピールしていなかったかな?それとも私の聞き間違いだったかな?」
「え…」
リョウタは驚いた。確かに言った。だが一新卒の、最終面接とはいえそこまで一言一句覚えられているとは。
リョウタが唖然としていると、社長は更に追い込みをかける。
「で、どうなのかな?私は秘書検云々の資格よりも、君のスケジュール管理能力を買いたいと思っているのだが?受けてもらえないのかな?」
リョウタに拒否権はもはやなかった。社長は厳しいことで有名だが、一方で能力を買って年齢を問わず抜擢されて成果をあげている者も多いと聞く。
その能力を買ってもらえるという噂を聞いてこの会社を選んだというのはあったが、それは培ってきた数式などの知識を活かせる職で力を発揮したいと思ってのことだった。それがまさか社長秘書にと乞われるとは夢にも思っていなかった。
だが、やるしかないのだ。ここで失敗すれば窓際決定、そのうち机も無くなって辞表を書くだけの未来が待っている。
「お受けします。秘書の仕事については至らぬところがあるかとは存じますが…。」
そう続けようとしているリョウタを遮って社長は不敵に笑って見せた。
「心配しないでいい。君に最初からそんな負担をかけるようなことはしない。ただ私はスケジュール管理というものがどうもダメでね。今まで秘書に任せたが、どうもうまく調整してくれる存在と出会えなかったんだ。その分君には期待しているよ。」
とりあえず、最初はスケジュール管理さえなんとかしてくれれば後はフォローする、という話でまとまり、リョウタは荷物を取りに社長室を出た。
(社長秘書?俺が???)
リョウタは混乱していた。ペーペーの新卒がいきなり社長の目に留まり、秘書になるなんてどこかの物語の中にいるようだった。
「あ〜、これ絶対知らない人から嫌がらせとか受けるやつじゃん…。」
そう、あの優秀な社長の目に留まるなんて大ラッキーであるとともに、最高の不運でもある。なぜなら要らぬ僻みやっかみを受けることになるに違いないからだ。
リョウタは廊下で頭を抱えた。
荷物を取りに帰ったら、まず上司に報告しなければいけないし、そこから瞬く間に噂は広がるだろう。そう思うと、荷物を取りに帰るのすら億劫だ。
(あ、でもスマホ…。)
大事な個人情報から何からが入ったスマホを置いて帰るわけにもいかない。先輩との思い出の写真が詰まったスマホを。
そう思うとまだ昼前なのにもう家が恋しくなってきた。早く先輩に会いたい。会って話を聞いてもらうだけでも今のこの憂鬱からは抜け出せるのに。でも先輩も今日から仕事だ。
リョウタは一息つくと、決心して荷物を取りに戻った。全ては夜に先輩と美味しいご飯を食べるため。会社では我慢しなければいけないことの一つや二つ、当然あると分かりきっていたことだ。今考えても仕方のない事は考えないことにした。
戻ってみると、なぜか社長が上司と話し込んでいる。どうやって先回りしたのだろうか。
いや、先回りされているということはリョウタの仕事が遅いと怒られるのではないか。また色々な不安に駆られながらリョウタは恐る恐る二人に近づいていく。
「あの〜…」
先に気づいた上司がリョウタに手招きをする。
(いやな予感がする…。)
リョウタは胃が痛くなってきた気がして、回れ右をして帰りたくなった。
しかしながら、上司からは特に嫌味を言われるでもなく、一言おめでとう、と言われた。
社長が部署にいることで、主に女子たちが色めき立っているが、社長はそんな様子には目もくれず、上司に伝えることだけを簡潔に伝え、リョウタに荷物を取って来るよう指示した。
社長からも仕事が遅いなどといったお咎めは特になく、少しだけ安心した。
ガチガチに緊張しているリョウタを見て、社長は声をかける。
「初日からそんな様子ではもたないぞ?もう少し肩の力を抜いていい。しばらくは私の行き先などを覚えてもらうためについてきてもらう。車は平気か?」
社長は的確に指示出しをしてくれる。最初なんだから考えても仕方ないとリョウタは様子を見ながらついていくことにする。
「車は特に問題ありません。よろしくお願いします。」
とだけ答えておいた。社長はそれに満足げに頷き、リョウタを社長専用車両へと誘導する。
それからリョウタは社長のいく先々について回り、何軒か社長に紹介され、挨拶を済ませたりした。
ーその日の定時後
「疲れただろう。今日は早めに帰って休むといい。」
社長からそう声をかけられたリョウタは、ではお言葉に甘えて、と社長より早く家路についた。いくらスケジュール管理ができる人材が欲しかったからとはいえ、新卒にここまで気を遣ってくれるとは。鬼社長、なんて罵る人もいるけれど、本当は優しい人なのかもしれない。
(とりあえず今日は色々ありすぎて色んな意味で疲れた…。早く帰ってご飯の支度して、先輩に話を聞いてもらおっと。)
リョウタは最寄りのスーパーで今日の夕飯の材料を買い込むと、真っ直ぐ家へと急ぐ。リョウタは電車通勤で、スーパーへと少し回り道をしたけれど、幸い駅から家は近い。すぐに住み慣れたセキュリティ付きマンションへとたどり着いた。
(今日は糸こんにゃくの煮物作ろ…。先輩これ好きだし、初出勤のお祝いとしちゃ弱いけど、喜んでくれるかな?)
リョウタはすっかり今日の出来事は過去のものにして、先輩へ想いを馳せる。
一人浮かれていたリョウタは気がつくことができなかった。
リョウタがマンションへ入っていくのを見計らったように通りすがった一台の黒い車の存在にー。
リョウタが夕飯の支度を終える頃、先輩も帰宅した。
「お帰りなさい、今日は初出勤お疲れ様。」
リョウタは少し遅めの帰宅を果たした先輩に労いの言葉をかける。
先輩は少し呆れたように、リョウタに返した。
「ただいま。でもそれはリョウタもだろ。飯も作ってくれて、ありがとな。」
先輩はリョウタの頭を優しく撫でた。撫でられるリョウタもまんざらでもない様子だ。
「お。この匂いは俺の好きな煮物だな?」
早速の反応にリョウタも嬉しくなる。
そんなこんなで談笑しながら夕飯を囲み、いつもの幸せな時間が流れる。
しかし、リョウタの仕事の話を聞いた先輩は、少し訝しげな顔を見せた。
「社長秘書?大丈夫なのかその仕事…。キツかったりしたらすぐに言えよ?せっかく知識を活かした仕事をするって言うから俺も賛成したけど。ブラックだったらすぐ他探せるようにしといた方がいいぞ。」
先輩はいきなり社長秘書なんてものになってしまったと言ったリョウタの事を親身に心配してくれた。いつだってそう。味方は先輩だけ。兄の存在を忘れた訳ではないけれど、リョウタの人生の中で一番リョウタに寄り添ってくれたのはいつだって先輩だった。
「だーいじょうぶ。向こうも今の所ただ単にスケジュール管理の人材が欲しいだけみたいだし。いずれ秘書検とか取れって言われたらその時考えればいいかなって。」
リョウタは今日あった様々な出来事を反芻するように先輩に話した。社長のこと。出先でのこと。初めての名刺交換などなど…。
先輩も最初のうちだから慣れないこともあったのだろうと静かにリョウタの話に耳を傾けた。確かにリョウタのスケジュール管理技術は見事なもので、旅行やちょっとしたお出かけのプランを立てるのもリョウタはいつも上手い。技術的な心配は全くないのだが、どうも話がうますぎる。リョウタは今日はいっぱいいっぱいでテンパっていたようだから、仕方がないのかもしれないが、冷静に考えれば少し何かがおかしい。
(大丈夫なのか…?社長とやら、少し調べてみるか。)
先輩は心の中にそっと留め置いた。
それからしばらくはそんな日々が続いた。
リョウタは徐々に社長のスケジュール管理を確立させつつあり、先輩は己の仕事を全うしていた。先輩はたまに残業、でも帰れば二人の時間が流れ、以前と変わらぬ幸せな日々を過ごした。
こんな日々がこれからは続くのだー
二人ともそう思っていた。
そう思っていない人物が一人だけいたことに、まだ二人は気がついていなかった。
それはある日のこと。
リョウタはいつも通り電車を降り、家を目指していた。
駅前の踏切が開くのを待っていた時、不意に後ろから聞き慣れた声がした。
「リョウタ。」
その名を呼ぶのはもちろん先輩だ。先輩は自転車通勤のため、リョウタと帰りが一緒になることはかなり珍しいことではあったのだが、こんな日もあるだろうと二人は何事もなく一緒に家路についた。
先輩は自転車を降り、リョウタとマンションまで一緒に歩く。二人並んで歩いてマンションに着き、一緒に入って行く。別段変わった風景ではないが、見ていた人物がまずかった。
「あの隣の男について早急に調べろ。」
そう言うと社長は車を出させ、狙いのリョウタには既に悪い虫がついている事を知ってしまった。
この日から歯車は狂い始める。
社長があの日面接会場にいたのはただの偶然ではなかった。
最終面接ということもあり、社長自ら履歴書に目を通し、見つけてしまったのだ。
己の欲望を満たしてくれそうな相手をー
社長には対外的には言えない秘密があった。それは女性に興味を持てないと言うこと。
稀代のイケメン社長として知られ、数々の経済雑誌に特集を組まれるほどの容姿に恵まれながら、未だ結婚どころか浮いた噂ひとつないのはそのせいとも言えた。
まあ、ある意味クリーンなイメージを打ち出すことに成功していたので、社長は自らカミングアウトすることもなく、仕事一筋という言い訳をしてのらりくらりと躱していたのが本当のところだ。
正直、リョウタに関しては最初は学歴を見て、優秀そうなら使ってみるか、程度の興味で最終面接を見に行ったに過ぎなかった。
だが、実物を見て、(真正面から見たのは最後だけだがー)抑えが効かなくなってしまったのだ。いわゆる一目惚れというものだった。
この感情には社長自身も戸惑った。四十になろうかという自分が、あんな若造に対してこんな感情を抱くとは。
しかし、履歴書に貼られた写真を見るなり触れてみたいという欲望が溢れて止まらなかった。
今までも何人か付き合ったことはあった。でもここまでの激しい感情に駆られた試しは一度もなかった。
「何を差し置いても絶対に手に入れてみせるー。」
そこから社長の行動はエスカレートしていった。
リョウタの住むマンションを突き止め、暇さえあれば様子を観察していた。
リョウタが他の男と一緒に入って行った時は気が狂いそうに嫉妬した。何だあの男は。何者なんだ。リョウタの一体何なんだ。なぜリョウタはあんな表情をしている?私には見せたことのない笑顔のリョウタが愛おしく、憎らしく、狂おしかった。
あの笑顔が私に向けられたならー
とりあえず、あの男を引き摺り下ろさねば。
社長は完全に理性を失っていた。
社長はそれから日々、リョウタをあの悪い虫から引き剥がすにはどうすればいいかを思案していた。かといって仕事を疎かにする性分ではなかったので、周りにはいつも通りに映っていた。もちろんリョウタにも気づかれていない。
社長は何とか自分の所有するマンションにリョウタを移り住ませたいと思っていた。
いつでも自分の手の届くところに置いておきたかった。それが例えつまらない独占欲だと笑われても今の社長にはどうでもいいことだった。
だが肝心のリョウタにいきなりそんなことを言っても首を縦に振るとは思えなかった。自分に何が足りないのだろうか。あのへちゃむくれに私が劣るとでもいうのだろうか。
兄弟説ももちろん考えた。だが上がってきた報告書はそれを全否定した。
報告書によると、リョウタは高校、大学時代の先輩にあたる人物と同居しているとのことだった。
だが、今それをリョウタに問い詰めるわけにはいかない。
なぜ私がそんな事を、という事になるのは火を見るより明らかだ。なるべく穏便に事を運ぶに越したことはない。
(どうしたらあんな男よりも私を認めてくれるようになるー?)
それは、リョウタにとって先輩よりも魅力的な存在になるということだ。
先輩とやらはもちろんリョウタと同じく最難関の大学出身。そこいくと私は帝央大止まり。
学歴では歯が立たない。悔しいが。だが体力やスタイル、顔立ちの良さなら幾分か自信はある。リョウタを満足させてやれるものだってー
「…長。社長?」
声に引き戻されてみると、リョウタがこちらを心配そうに見つめながら私を呼んでいた。
あまりに考え込みすぎていたようだ。このままでは仕事に支障をきたす日も遠くない。
(気を引き締めなければ。)
リョウタに没頭するあまり、会社が傾いたのではただの間抜けだ。
「大丈夫ですか?普段あまりぼーっとされない社長が…。熱はありませんよね?」
そう声をかけるリョウタの手が額に触れようとする。
社長室で二人きりの状態でそんなことをされたら歯止めが効かなくなりそうだ。
「心配ない。体調は良好だ。ただ私も人だから、ぼーっとする瞬間くらいあるというだけの話だ。すまないな。用事は何だった?」
リョウタの手が触れるより早く、そう遮って私は自制する。下から覗き込まれて上目遣いのリョウタはやっぱりこのまま襲ってしまおうかという程可愛らしいが、それはバッドエンド確定だ。
「あ、はい。来週のスケジュールができたのでご確認頂こうかと。」
そう言ってリョウタは社長にスケジュールを提出する。相変わらず朝から夜まで予定がびっしりな事に、リョウタはよく身体もつなこの人…という感想しかなかった。
「わかった。特に問題はないな。いつも助かるよ。」
社長は割と素直に礼を言う人で、この辺りが流石と周りからも一目置かれる理由かもしれない。大企業といえど、若い企業なのも社長をそうさせるのかもしれない。
「ご確認ありがとうございます。問題ないようでしたらこのまま進めます。」
リョウタは入社してから社長のスケジュール管理をそつなくこなしたが、今回はちょっとだけ引っかかる点があった。
(この水曜日の訪問先、先輩の会社なんだよな…。)
もちろん社長が訪問するのは先方の社長であって、先輩ではないし、先輩は新入社員で今年入ったわけだから、出会う事もないと思うのだが、リョウタは妙にそわそわしてしまう。
(先輩の働いてるとこ、ちょっと見てみたい気もするよな…。)
完全に私情であるとはわかっていながら、リョウタは先輩の活躍する姿を少し見てみたくなってしまう。それは想い合う二人にとって仕方のない事かもしれない。
この日もリョウタは何事もなく仕事を終え、帰宅した。
ー水曜日
「では、その件はそのようによろしくお願いいたします。続いてですが…。」
社長はいつものにこやかな態度で先方と話を進めていく。
少し長丁場になったので、休憩を挟もうということになり、社長とリョウタは応接室で静かに休憩を取る。
先方から、窮屈でしょうから外に出ていただいても、という話ももらっていたため、社長は外で少し風に当たってくると席を外した。その際リョウタにも自由にしていいと指示をして、お互いの休憩を満喫する。
社長はロビーから外に出て、外の空気に当たるとやはり広いとはいえビルの中では感じられない空気に触れて一息ついていた。タバコは吸わないので、ただ風に吹かれているだけだが、社長の鈍った思考回路を復活させるには十分だったようだ。
(そういえば、彼はどうしたかな…。)
自由にしていいと言っただけで、特に指示をしなかった。今頃やっぱり応接室から出られず窮屈な思いをしているかもしれない。
そう思い返し、社長は再びロビーから応接室へ戻る道を辿る。その道すがら、休憩室という文言が目に留まり、もしかしたらと社長は足を向けてしまったのだ。
そう、いつぞや嫉妬に狂った先輩とやらと楽しそうに談笑するリョウタがいる場所へ。
社長は通りかかり、二人の姿が目に入った時点で近づくのをやめた。
未だリョウタから見せられたことのない笑顔が目に入ってしまったから。
社長はこの後の商談がなんだったかさえどうでもよくなる程の怒りと嫉妬に駆られた。
なぜだなぜだなぜだ。どうすればいい?どうすれば手に入るのだあの笑顔は?
社長は全てを壊してでも手に入れたいという衝動を抑えられなくなっていた。
商談はつつがなく終わり、リョウタは社長と共に取引先である先輩が務める会社を後にする。
(働いてる先輩もちょっと見れたし今日は良い日だったな。)
リョウタはそんな思いを抱きつつ会社までの帰路を過ごした。社長も終始にこやかで、特に商談に問題もなさそうだったし、また働いている先輩を見れる日はそう遠くないかもしれない。
会社に着くと、リョウタは早速名刺の整理などを始める。そんなことをしているうちに今日も一日があっという間に過ぎ、定時になった。
いつも通り社長からあがっていいと指示があり、リョウタは帰宅の途についた。不思議なことに、社長はリョウタより先に帰るということがない。社長がいつ帰宅して、いつ出社しているのか、かなり謎だ。とりあえず朝出勤すると、社長は既にそこにいて、自分が帰宅する姿も決して見せない。
(実は寝てないんじゃ…。)
少し心配になるが、社長は健康そのものらしい。ジムにも通っているとかいないとか。どこにそんな時間があるのかとリョウタは首を捻っていた。
とそんな事を考えている間にもマンションのエレベーターはいつも通りの階に止まり、鍵を開けて玄関をくぐる。
「おかえり、リョウタ。」
今日は珍しく先輩が先に帰宅しており、リョウタも少し驚く。
「社長さん、いらっしゃってるぞ。」
その一言にリョウタは目を見張る。
(え、社長?さっきまで会社に…。)
リビングへ向かうと本当に社長がそこに座っていた。電車通勤の自分より早いとかどういう事なのだろうか。リョウタは理解が追いつかない。
「ほら、会社のスマホ忘れて帰ってたからって、わざわざ届けて下さったんだぞ。ご挨拶しないと。」
先輩に促されるままリビングで寛ぐ社長の元へとやってきた。
「あ、お疲れ様です。すみません。大事なスマホを忘れて帰るなんて…。」
リョウタはおずおずと社長に声をかける。
「そうだな、そのスマホがなかったらどうやって明日の予定を確認するつもりだったんだ?」
痛いところを突かれてリョウタは反省する。それだけではない。気のせいだろうか、社長の様子がいつもと違う気がする。もしかしてかなり怒っているのだろうか。
「今日も昼休憩に君が戻ってくるのが遅れて予定が五分押した。昨今少し気が緩んでいるのではないか?」
え、とリョウタは思わず声を上げた。昼休憩の件は初耳である。確かに戻ってみると社長は既に席についていたが、与えられた昼休憩の時間は守って戻ったはずだからだ。
反論する隙も与えず、社長は続ける。
「こんな調子では困るな。昼休憩の時、そこの君と喋っていたようだが、社の機密に関わるとは考えなかったのか?」
これには傍で聞いていた先輩も驚いた様子だった。
「そんな、他愛もない話をしていただけで…。」
とんでもない、という様子の先輩だったが、社長はすぐさま反撃を開始する。
「話の内容が問題なんじゃない、社長秘書という立場の者が他社を訪れて、気安くその社の者と談笑しているということが問題なんだ。わからないというのなら、君には失望する。」
リョウタも先輩も当然そんなつもりではなかった。だが、今社長から提起されている問題がわからない程の愚か者でもなかった。二人は青ざめた。
「これからリョウタは私が管理する。ここを引き上げて、私の所有するマンションで生活してもらおう。」
社長は冷徹な表情で淡々と告げる。
リョウタにとって先輩と離れることは死を意味した。
家族なんかよりよっぽど大事な先輩と引き離されるなんて考えられない。しかしそれは先輩も思うところがあったようだった。
「ちょっと、そこまでするのは流石にパワハラなんじゃ…。」
先輩は思わず口を挟む。
しかし社長の口から出た言葉はパワハラでは済まなかった。
「君はあの社の者のようだが、あちらの社長とは懇意にさせて頂いていてね。」
先輩は驚きを隠せなかった。
(この男、俺くらいクビにできるとわかって…!)
先輩は目の前にいる社長の狙いを悟ってしまった。
こいつ、リョウタを初めからこうするつもりでー。今まで機会を狙っていたのか。くそっ、最初にリョウタが社長秘書になったと言った時もっと警戒すべきだったのか。今更遅すぎる…どうする?考えろ!
先輩もリョウタもお互い想い合って一緒にいるのだ。リョウタだけが辛いわけないのだ。
「俺はっ…!」
クビくらい怖くない。そう言おうと先輩が社長に喰ってかかった時だった。
「先輩っ!」
それを止めたのはリョウタだった。
「先輩、俺は大丈夫だから。だから、無茶しないで…。」
リョウタの手は震えているように見えた。
「社長、申し訳ありませんでした。今回の事はひとえに僕の不得の致すところです。社長に従います。」
社長はリョウタの一言で、良いだろう、と返事をすると、今すぐ荷物をまとめてくるようにと指示をして、車で待っていると告げると一刻の猶予を与えた。
残された部屋で、リョウタは崩れ落ちた。
それを抱き止めるしかない先輩は無力感に駆られていた。
(くそ、もっと俺が警戒していれば…。社長の狙いが初めからリョウタそのものだと見抜けていれば……!)
そっと抱き起こすと、リョウタは泣いていた。
「ごめん、先輩。こんなことになるなんて…。」
先輩の働いている姿を見られると深く考えもせずに会いに行ったとリョウタは自分を責めていた。
「謝るんじゃない。俺も。俺も気づいてやれなかった。ごめんな、リョウタ…。守れなくて…本当にごめん。」
二人はしばらく一緒に涙を流した。
お互いが自分が悪かったのだと責めては、そうじゃないと慰め合った。しかし、リョウタは社長に従うと言ってしまった手前、これ以上ゴネては二人とも危ないと悟った。
「荷物、まとめるね。これだけは、先輩持ってて。」
そう言うとリョウタは自らが使っていたプライベート用の携帯を先輩に預け、最低限の荷物をまとめて社長に与えられた猶予の十分前にマンションを後にした。
一方社長は、待たせてある車にもたれかかり、昼間したように風に当たりながら考え事をしていた。もちろん、それはリョウタについてだ。
(一瞬『俺』と言わなかったか?まだまだ私の知らない顔があるということか。)
社長はこれから始まるリョウタとの蜜月に思いを馳せながら、どう楽しませてもらおうかと想像を膨らませていく。
これからは会社でも一緒。そして私生活も管理できる。リョウタを手に入れたも同然だ。
何より一番忌々しい先輩とやらの存在が消えたのだ。今は恨まれても構わない。だが、いずれはリョウタも自分の魅力に気づいてくれるだろう。そう考えるだけで鳥肌が立った。社長は完全に勝利を確信した。これでこそ、こっそりリョウタのカバンからリョウタの携帯電話を抜き取っておいた甲斐があるというものだ。そう、リョウタは携帯を会社に忘れたのではない。それもこれも、社長に仕組まれていたのだ。予定が五分押したと言うのも言いがかりである。
そうこうしているうちにそろそろ十分前、というころリョウタはあっさりと現れた。
「お待たせしました、社長。ご指示の通り、荷物をまとめて時間内に戻りました。」
リョウタの目は腫れている。でも今は気づかないふりをしよう。だってリョウタは自分の手の内なのだから。
「君のような有能な部下を持てて嬉しいよ。行こうか。」
社長とリョウタは先輩が一人残されたマンションに別れを告げた。
ーさて、ここからリョウタをどう調理すれば、あの笑顔が見られるのかな?
社長は明日からがたまらなく楽しみだった。
リョウタは社長の所有するマンションの十二階で暮らすことになった。最上階はもちろんワンフロア社長の部屋である。一人で暮らすには広すぎる部屋で、リョウタは独り、ただ先輩に想いを馳せる。
(ちゃんとご飯食べてるかな…。先輩も料理できなくはないけど、案外サボっちゃうとこあるからな…。)
リョウタは自分の分のご飯を作りながらぼんやりとそう考えていた。そしていつも通り作ってしまい、後から気づく。
(やべ。作りすぎちゃった。)
軽く二人前の料理を目の前に、リョウタは途方に暮れた。手癖で二人前を拵えてしまうのだ。先輩と長く暮らしていたリョウタは自分以外に食べるもののいない食卓で考えた。
(そうだ、食べてくれる人はいないんだ…。)
食べてくれる人に心当たりがないわけではないが、リョウタからその人物に声をかけようとは到底思えなかった。リョウタの心の中は今複雑で、納得できることとできないことがないまぜになってしまっていて、とても冷静な状態ではなかった。
そりゃ、考えなしに先輩に会いに行ってしまった事は確かにまずかったかもしれない。でも、なぜそれで離れて暮らすことになるのか。リョウタに非がないわけではないが、先輩に脅しとも取れる言動もしていたし、流石に横暴だったのではないか。
(パワハラ、か。)
先輩が確かそう言っていた。確かにそうかもしれない。でも社長はやると言ったらやる人物だとも確信している。
仮に先輩にあの続きを言わせてしまっていたら、先輩は今頃路頭に迷っていたかもしれない。
どういう展開にしろ、社長は自分と先輩を引き剥がしにかかったのは間違いない。
なぜこんなことをするのか、リョウタは混乱していて社長が何のためにリョウタを先輩から引き離したのかを理解できていなかった。先輩は何か別れ際に言おうとしていたけど、時間がなくて最後まで聞いてあげられなかった。また時間が押しているなどと言われては今度はどんな無理難題を言われるかわからない。
とりあえず作りすぎた料理は半分冷蔵庫にしまい、今日の怒涛の展開を整理するためベッドに横たわった。
(明日から先輩のいない生活…。なんか、高校時代思い出しちゃうな。)
全てがどうでもよかったあの頃を思い出しながら、リョウタは明日からの生活を想像した。
でもリョウタが高校時代と違ったのは、どうでもいい日常だからと自らを傷つけたりしないことだ。誰彼となく抱かれて、めちゃくちゃにされて。でも今は先輩という明確な希望がある。例え会うことが叶わなくても、あの頃と違って、自分は先輩に愛されているし、自分も先輩だけを愛しているという明確な絆を超えた想いがあった。
今のリョウタには、先輩以外の相手は考えられないし、考えたくもない。
高校時代を思い出しているうちに、だんだんと食欲がなくなってきたリョウタは、もう半分の料理も冷蔵庫にしまい、シャワーを浴びると床についた。
くそっ、何度思い出しても腑が煮え繰り返る。
先輩はリョウタが連れ去られた後、一人残されたマンションで眠れずにいた。
あのクソ社長、リョウタ目当てとはいえ露骨な手段に出てきやがって。
だが、何より許せないのはその社長の目的に気がつけず、部屋に通してしまい、あの状況を作ってしまった自分自身だった。
リョウタは滅多に忘れ物をしない。会社の携帯なんて大事なものなら尚更。リョウタは突然の異動を命じられた後から、プライペート用携帯は肌身離さず持ち歩いている。そして人前では一切いじらない。
そのため、会社でその存在を知るものはいないはずである。そんなリョウタの携帯は一台だけだと思ってる人物がリョウタの携帯をチェックしたり、故意に忘れ物をさせようとしたとしたら?
あり得る。あの社長の口ぶりや態度からして、かなり手段を選ばずにリョウタを取りに来てる。予定が五分押したと言うのも、リョウタには身に覚えがないと言っていた。完全に嵌められた。
リョウタに危険が迫っている。俺はどうしたらリョウタを社長の魔の手から救える?
翌日から、リョウタの悪夢は始まった。
朝は社長が迎えにきて、普通逆だろと思いつつ同じ車で出社する。
仕事はいつも通りこなして、昼は一人になりたくて今まで社長室で摂っていた食事を屋上でのランチに切り替える。あまりもので弁当を作ったはいいけど、リョウタは自分で作った料理がこんなに不味かったっけ、と思ってしまった。
今まで先輩の分もお弁当を作っていたし、先輩に変なものを食べさせたくなかったから結構頑張って作っていたけど、こんなに不味いならもういいや、とリョウタは食べるのをやめた。
と、そこへ社長が現れる。
「何か御用でしょうか。昼休みが終わった後に承ります。」
と最大限無礼にならないよう返すが、その言葉はあまりにも感情ゼロだ。
「いや何、突然姿が見え亡くなったから心配になってね。探したよ。」
そんなリョウタの感情ゼロに気がついているのかいないのか、社長は隣に腰掛けてくる。
先輩との幸せな日常をぶち壊してきたやつに仕事以外で隣に座ってほしくない。
昨日頑張って頭の中を整理したけど、やっぱりリョウタにとっては、社長は最終的に先輩とのやっと掴みかけた幸せをぶち壊してきた悪者にしかならなかった。自分だけならまだ我慢できた。でも社長は先輩の立場まで危うくさせてきたことが特に許せなかった。人間権力を持つとこんな風になってしまうのか、と非常に残念に思った。
社長はリョウタが食事もそこそこに、弁当箱をしまおうとしていることに気づいたらしく、
「食べないのか?」
と聞いてきた。
「不味いので。」
と、リョウタは一言返す。なんでもいいから早く一人になりたかった。しかし社長はそんなリョウタの空気を読むことなく、どれどれ、とリョウタから弁当箱を取り上げるとその中身を食べ始めた。
「悪くないぞ?全体的に煮物が多いのか、色味は茶色いが、味付けはどれも美味しいじゃないか。」
リョウタはその言葉で泣きそうになった。煮物が多いのは、先輩が煮物好きだからだし、先輩以外のために作った弁当じゃないから勝手に食べないで欲しかったし、何より自分が一度口をつけてる物に第三者に口をつけられたことがたまらなく気持ち悪かった。先輩との関係をズタズタにした張本人にいくら料理を褒められたところで、リョウタの嫌悪感は増すばかりだった。
「もう昼も終わります。返してください。」
リョウタは強引に弁当箱を回収すると、午後の仕事のために部屋に戻った。
午後も社長はなんだか上機嫌で、気持ち悪いくらいの笑顔でこちらを見てくる。リョウタはそれらを全無視して、ただ淡々と仕事をこなし、定時まで過ごした。
帰ろうと席を立つと、社長が少し待ちなさい、どうせ帰る場所はそう変わりないのだから送る。なんなら私の部屋で一杯どうだ?と声をかけてきた。リョウタは結構です、と一言で両断した。そうすると社長は冗談だ、送るだけ送るから少し待ちなさい、とリョウタを宥めた。
結局社長の車で帰ってきて、さっさと部屋へ引っ込んだリョウタだったが、その夜も結局食事は美味しく感じられず、もう作るのをやめようと決断した。
社長は部屋で考えていた。
せっかく悪い虫からリョウタを引き剥がせたのに、リョウタは自分に笑顔を向けてくれるどころか、懐いてもくれていないのではないか?
だがしかし、こうも思った。いや、まだタイミングが悪いだけだ。これからじっくり私の魅力を伝えていけばきっとこちらに振り向いてくれるはずだ。と。
きっと今はリョウタはあのへちゃむくれから無理矢理引き剥がされたと思っているに違いない。しかしリョウタは私のものになるべきなのだ。そのほうがずっと幸せになれると気づいてくれたら。あとは私のものだ。
社長は渦巻くドス黒い感情を抑えきれずにリョウタの写真に触れる。
いつか、本物に触れてみせる。
先輩は有給を取り、社長について調べていた。
「浮いた噂はなし、ねぇ。」
そりゃそうだろうよ。対象がソッチじゃないなら。
先輩は経済誌の特集を飾る社長の写真を忌々しい感情で見つめながら、これから打つ手を考えていた。でも、社会的地位が違いすぎた。例えば、率直に『俺たちはこいつに嵌められた』と訴えたところで、社長がそんなことはしていないと言えば、世間はどちらを信じるかという話だ。打つ手なし、というのが正直なところだ。社長もここまで事が進んでしまえば勝てる、という算段を打って強気な行動に出たのだろう。一枚上を行かれた、ということか。流石に場慣れしているというか、肝が据わっているのだろう。
だが、ここで自分が諦めるわけにはいかない。あの高校の時、リョウタに話しかけると決めた時から。リョウタの事を最後まで諦めないと覚悟したのだから。
あれから三ヶ月が経とうとしていた。
リョウタはどんどん荒廃していった。まず、自炊をやめた。近くのコンビニで買ったものしか口にしなくなった。社長が体に悪いからと食事に誘っても、頑なに断った。
三ヶ月の間に変わったのはそれだけではない。やたらとスキンシップを取ってこようとする社長の態度に、リョウタはなぜあんな事をされたのか嫌でも自覚した。先輩が何に気づいてしまったのかも。あれから先輩には会えていない。でも、先輩に対する気持ちに変わりはない。
社長はちょこちょこ何かしらを誘ってくるが、食事なんて一緒に行った日には、何を混入されてどんな目に遭うか想像するだけで怖気が走るので、絶対にごめんだ。
リョウタにとって今や、社長は不信感の塊と恐怖の対象でしかなかった。いつ何をされるかわからない。それが会社でも本来寛げるはずの家というべきものでさえも同じ建物内にいるという恐怖からリョウタは眠れなくなっていった。
先輩に会えない喪失感、社長に対する恐怖からくる不眠症、リョウタはだんだんと精神的にも不安定になっていった。もちろん体調も良いはずがなかった。新卒入社ホヤホヤだった時のはつらつとした感じは見る影もなく、やつれていくばかりで、生気もなくなっていった。仕事は与えられればしているが、反応も薄くなっていき、どんどん機械的になっていった。
必要以上の受け答えは全くなく、ロボットと喋っているのではないかと錯覚しそうになったほどだ。
おかしい。
社長は首を捻っていた。三ヶ月もすれば、リョウタはあのへちゃむくれの事は忘れて、私と薔薇色の生活を送っているはずだったのでは。それなのに。この三ヶ月でリョウタは手を握らせてくれるどころか、食事にだって一回も同行してくれない。あんなへちゃむくれの薄給では到底行けないであろうレストランとかでデートしたかったのに。あとは映画とか、ジムにも誘ったし、デートらしいデートには誘ったはずだが、リョウタは一向に首を縦に振ってはくれなかった。休日を狙って、テーマパーク券をもらったから行こうと言っても、
「すみません、休日は貴重な睡眠時間なので。他を当たってください。」
とピシャリと断られた。
これではリョウタに触れるどころか嫌われているみたいじゃないか。何故だ。できるだけ紳士的に振る舞ってリョウタが心を開いてくれる日を待っているのに。これ以上冷たくされたら自分にだって限界というものがある。
おかしい。
リョウタは首を捻っていた。三ヶ月もすれば、社長は自分は所詮先輩の代わりにはなれないと悟って、諦めるとか、熱が冷めるとかするはずなのでは。それなのに、この三ヶ月で社長ときたら、やれ高級レストランでステーキを食べようとか、映画を見に行こうとか、細すぎるから少しジムでも行って運動しろとか、古臭いデートコースみたいな提案を散々してくるのだ。
果ては貴重な一人になれる休日を前に、テーマパーク券をもらったから行こうとか。
誰がお前と行くか!なんならその券だけもらって先輩と行きたかった。まだ休日出勤とかはさせられていないし、流石に土日に干渉はしてこないが、手段を選ばない社長を前に、土日に先輩と会っているとなるとまた邪魔をされるに違いない。社長の目的は自分だとわかってしまった今、リョウタはほとぼりが冷めるのを待つしかなくなってしまった。
(早く諦めてくれないかな…。)
リョウタは毎日それを願っていた。リョウタからすれば、先輩以外は無理だし、社長の行動がエスカレートしてきていて、正直気持ち悪い。もういっそ会社辞めてしまえば、と思ったりもしたが、辞めたところでつきまとわれてしまえば無意味だ。それこそ無駄に権力のあるストーカーの誕生である。警察沙汰はもみ消してきたりとかしたら、厄介この上ない。
結局罪のない先輩を謂れのない案件で槍玉にあげて、こんなところにリョウタを置いておけない、とか言い出されたら元の木阿弥なので、今はリョウタは静観している。
できるだけ冷たくあしらって、脈がないことを痛感させて、リョウタ自体に見向きもしなくなって、元のマンションに戻れることが最善だった。
それが逆効果とも知らずに。
何故リョウタは心を開いてくれないのだろう、と社長は日々考えていた。いや、それは先輩とやらとあまり良い別れ方ではなかったから、多少の未練があったかもしれないが、そろそろ縁も切れただろうし(仮に切れていなくても無理矢理切るが)、これだけ接している時間が長いのだから、こちらに向いてくれても良い頃合いだと思っている。
休日はリョウタは部屋に篭りっぱなしで、せいぜいコンビニに行く程度。必要以上に部屋から出てこないことは確認済みで、携帯もそこそこチェックしているが、メールやアプリ、通話に不審なところはない。つまり、向こうとの連絡を遮断することには成功したわけだ。
勝ったと思っていた。なのに。
リョウタはだんだん冷淡な態度になってきている気がする。元々必要以上に態度に出るタイプではなかったが、それなりにコミュニケーションは取れていた。しかし最近は少し距離が近くなったと思うとすぐ離れられてしまっている気がする。要は避けられているのだ。
しかし避けられるような行動をした覚えはない。むしろ好意的に接しているのだ。何故避けられなければならないのか。そろそろ食事の一つでも一緒に行ってくれても良いのではないだろうか。それともまだ先輩とやらに未練が?馬鹿馬鹿しい。
社長は今まで手に入らないものはなかった。何をしてでも力ずくで手に入れてきたからだ。その社長が今一番欲しいものーそれがリョウタだ。どう攻略しても靡かない『難攻不落』に社長は逆に感情を燃え上がらせた。
ー何を犠牲にしても絶対に手に入れてみせる。
その夜、社長は自ら電話ではなく、直接リョウタの部屋を訪れた。
部屋を誰かが訪ねて来ることは社長以外にない。今日も仕事にミスはなかったはずだが、リョウタがいつものコンビニ弁当を片付けて、入浴を済ませて一息ついた頃だった。
玄関の呼び出しベルが鳴る。
リョウタははぁ、とため息をつき、仕方なくドアを開ける。
「何か御用ですか?仕事の話なら明日にしてくださ…。」
そう機械的に応答していると、社長は玄関にずいと入ってきた。
何かいつもと様子が違う。リョウタは警戒の度合いを強める。すると社長はこう切り出した。
「良い茶葉をもらってね。一緒に飲もうかと思って持ってきたんだが、今時間はあるかな?」
(お茶?くらいなら、まあいい…か?)
リョウタは自分の部屋であるということと、お湯はこちらで用意するということに若干の安堵感を覚えて社長を通すことにした。
キッチンでお湯を準備している間に、社長が持ってきた食器類を取り出して洗う。
当の社長はリビングに座ってこちらを見ているが、距離があるため様子はよくわからない。
お湯が沸き、紅茶を適温で淹れている間に、リョウタは食器類を準備する。
(よく働く良い子だよな…。)
社長はたまに恋愛感情抜きでリョウタに対してそう思う。と、そこにカップを持ってきたリョウタのうなじから良い匂いがした。
よく見れば、風呂上がりなのか、リョウタの頬は上気しており、服装も普段見る仕事着とは違ってラフで新鮮だ。
社長はついに我慢ができなくなり、リビングに戻ってきたリョウタを後ろから捕えた。
「⁉︎」
完全に油断していたリョウタは何が起こったのか一瞬把握できなくなる。
そのリョウタの耳朶を舐めるように囁く社長の声がリョウタに危機を知らせた。
「リョウタ。良い子だから…。」
ぞくりと背筋を冷たいものが走る。その間にも社長の手がリョウタのシャツの中をまさぐってくる。
(やばい。このままじゃ…。もう、先輩に一生会えなくなる!)
リョウタはなんとかパニックになりそうな自分を抑えて自我を取り戻し、もがきにもがいて社長の腕から逃れる。
「嫌だ!」
リョウタは生まれて初めて拒絶の意思を明確に表現した気がした。
こんなのに組み敷かれるのは嫌だ。
先輩以外の相手なんて絶対嫌だ。
汚されて先輩に顔向けできなくなる自分が嫌だ。
リョウタはあらゆる拒絶の意思を込めて社長を拒否する。
社長は何故、という顔をして再び迫ってくるところだった。
リョウタは咄嗟に社長から一番距離があった、ベッドの方へ避難する。
「リョウタ、私の可愛いリョウタ。」
社長は狂ったように名前を呼びながら迫ってくる。
だが、リョウタの選択は間違っていた。避難したベッドは玄関とは反対方向だったのだ。
「さあ、捕えたぞ。優しくしてあげるから。」
再び社長に捕まったリョウタはなんとか逃げようと必死に足掻く。
社長は逃げ場を失ったリョウタを確認し、勝利の笑みを浮かべた。
(くそ。絶対に嫌だ、死んでも嫌だ。)
もう、先輩とだけしか契りを交わしたくない。この命懸けても。それだけは、絶対に。
リョウタはあることに気づいた。これは賭けだ。でも、先輩を裏切るくらいなら、そう。
ガラッ
そこには窓があった。リョウタは寝起きがあまりよくなく、朝日光を浴びるためにわざわざベッドを窓際に設置していた。それは先輩とのマンションでもそうだったし、ここに来た時も配置換えをしてそうなった。その窓こそ、リョウタの最後の切り札となった。
「リョウタ?何を…。」
社長がそう問う前に、リョウタは身を投げていた。ここは十二階。だいぶ分が悪い賭けだけど、リョウタは社長の意のままにされることより先輩を選んだ。
「なっ…。」
社長が驚くのも無理はないが、その頃にはリョウタは嫌な音を立てて地上に着地済みだ。
ガサガサガサ、バキッ、ドンッ
後に残されたのは放心状態の社長と誰かの悲鳴、そして駆けつけた救急車と警察車両だった。
その日の夜、先輩は残業をして遅めに帰ってきた。
同じく作るのが面倒になったコンビニ弁当と、リョウタがいなくなってから初めて手を出した缶チューハイ。
テレビをつけて、その日のニュースを確認しながら缶チューハイを開ける。
「続いてのニュースです。今日夕方頃、高層マンションの一室から男性が転落したと…。」
(高層マンションか…。リョウタも今頃寝る頃かな。)
連れ去られて久しく、連絡すら取ることも憚られるリョウタの身を案じる。
「転落した男性は、会社員の成瀬リョウタさんと見られており、現在病院で手当を受けているという情報が入ってきております。」
(え…。)
聞き間違えるはずがない。今のはリョウタの話だ。転落?どういう、え、病院で治療。命の危険は?なんでそんなことに…。
この時ばかりは完璧超人と言われた先輩ですら混乱した。
病院ってどこの?リョウタの連絡先もわからない。警察に聞いたって個人情報だとか言われて、下手すれば社長と繋がってる線もアリ、か?
会社に問い詰めたって、なんたってトップがあいつだ。教えるわけないよな。
先輩はなんとかリョウタの無事を確かめたくて、なんとか良い方法がないか考え始める。
リョウタの実家、はダメか。元々聞いてる両親の話じゃ教えてくれそうにないどころか、リョウタが病院送りになったことさえ知ってるか怪しい。
どうすればいい、どうすればリョウタに辿り着ける?
「では、事件ではなく事故だということですね?」
一方、社長は警察による事情聴取を受けていた。まだ冷静にはなれていないが、受け答えはできていた。
マンションの周りは規制線が敷かれ、第一発見者なども情報提供しているようだった。しかし現場が十二階からの転落だったため、発見者に社長が見られたということはない様子だ。
リョウタの方は、途中木の枝に引っかかったため、衝撃が緩和され、一命は取りとめた。ただ、まだ意識が回復しておらず、予断を許さないと医者には釘を刺された。
社長による説明はこうだった。
・紅茶を持って部屋を訪問した。
・談笑していたが、暑いということになり、窓を開けるためベッドの方へ。
・窓の開く音と共に姿が消えたので、見に行ったところ転落していた。
目撃者は社長しかいない。幸い、リョウタがもがいた時、紅茶や食器類を引っかけなかったため、争った痕跡はほとんどなかった。
そして社長とその部下という関係性もあり、警察にはうまく言い訳ができた。
今回の件はあくまでもリョウタの不注意による事故、ということで処理されるようだ。
しかしリョウタには驚かされた。まさかこの高さから身を投げるとは。
死ぬ確率の方が高かっただろうに、それほどまでに嫌悪されているという事実に社長は愕然とした。
だが、一命を取りとめた事には安堵した。回復を待って、また一からやり直せばいい。そう思った。
リョウタは一向に目を覚ます気配がなかった。社長はだんだんとこのまま目を覚まさないのではと不安を募らせていた。
意識のないリョウタの手をそっと社長は握った。意識のある時では絶対に触れさせてもらえない、初めて握るリョウタの手は思ったより小さかった。リョウタが小柄で、社長が体格に恵まれているせいもあるが、きっと通常より小さく感じたに違いない。それはリョウタの命の灯が弱々しく、今にも消えてしまいそうだったからに他ならない。今までの社長なら、手を握ったのを良いことに、もっと触れたいと手を伸ばしていただろう。でも今は、宗教画に出てきそうなほど美しく、儚さすら含んだそのリョウタの寝顔を前にしては憚られた。
先輩はあらゆる手段を尽くしていた。高校大学時代で今でも連絡を取り合っていそうな人物がいれば連絡し、何か情報を知らないかと聞いて回った。
それでも八方塞がりで、諦めかけた頃、先輩はふとリョウタのプライベート用携帯に目をやった。
(そうだ、確かお兄さんとは連絡とっていたはずー。)
一縷の望みをかけ、リョウタの携帯のロックを解除し、電話帳を検索する。すぐに『兄』という番号を発見し、勇気を出して電話をかける。
トゥルルル…トゥルルル…
「ん?リョウタ?起きたのか?」
電話の向こうの主は、第一声でそう言った。
(起きた。ということは命の危険はないということか?)
「あ、いえ。すみません。俺はリョウタの携帯を預かってる者です。どうしても貴方にお聞きしたいことがあって、お電話させて頂きました。」
リョウタの兄はそっか、あんたが先輩?と納得してくれて、リョウタに関することを教えてくれた。病状や病院名を聞けて、先輩はやっと安心した。ここまでに三日三晩かかった。
ひとまず、リョウタの意識がまだないことを告げられ、面会に行ってもあまり意味がないからと、リョウタが目を覚ましたら連絡をくれるということになった。
三日三晩不眠不休だった先輩は、それから丸一日泥のように眠った。
リョウタにいくら興味がないからって、手続き全て放棄とか、もうあいつらは親じゃねーな。
リョウタの兄はリョウタに対するあまりの仕打ちに、腹立たしい思いでいっぱいだった。兄はいつも不思議でならなかった。なぜリョウタを冷遇するのか。私たちの子供は貴方だけよ、と母親が言ってきたことすらあった。確かにあまり饒舌な方ではなかったし、いつも自分の後ろに隠れて親たちに怯えていた様子もあった。でも表立って身体的な虐待があったわけではなく、お互いそりが合わないのだろうか、程度にしか考えていなかった。大学で家を離れている間、リョウタのことが心配じゃなかったといえば嘘になるが、積極的に連絡もしてやれなかった。そんな兄とリョウタだったが、リョウタが最難関大学に入学したと聞いた時は驚いたし、そこで初めて先輩という存在を知った。先輩の話を嬉しそうにするたび、兄として少しだけ嫉妬心も湧いてこようというものだ。だが、あれだけ塞ぎがちだったリョウタが、明るくなっていくのを肌で感じて、先輩には感謝していた。その先輩と初めて電話で会話したわけだが、ここ最近リョウタに起こっていた事や、高校時代に自らを傷つけていたという話は初耳で、リョウタがどれだけ追い詰められていたのか兄として察してやれなかったことが恥ずかしかった。そんなリョウタを救ってくれていたのが先輩だと思うと、余計に感謝の念しか湧いてこない。でも、そんな先輩ですらリョウタに連絡が取れなくなるってどういうことなんだ?と話を聞いていると、リョウタはひどいパワハラに遭っていて、無理矢理勤めている会社の社長に連行されたと言っていた。先輩はその時リョウタを守れなかったことを悔いていて、何度も申し訳ありません、と電話口で頭を下げている様子だった。
一方自分は、警察から聞いた説明を先輩に告げて、リョウタの身元確認やら、入院手続きの書類やらで何度か病院に足を運んでいた。そろそろ起きたかと、病室を覗くたび社長が必ず付き添っていて、リョウタの目覚めを待っている様子だった。しかし先輩からパワハラ社長と聞いていたので、複雑な気持ちで毎回それを見ていた。
社長も帰って、病室に残されたリョウタを見つめながら、兄は今までリョウタがどんな気持ちで生きてきたのだろう、と思いを馳せた。自分が大学で家を離れたことで、リョウタがそこまで苦しんでいたなんて、想像してやれなかった。
「ごめんな。リョウタ。」
未だ目覚めない弟の側で、兄はつぶやいた。
それから三日が経った。病院側から面会の許可が降りたからと、先輩にも兄から連絡が入った。それはリョウタが目覚めた事を意味した。しかし、兄の声のトーンが心なしか翳っているような気がした。それはさておき、リョウタにやっと会える。何ヶ月ぶりだろう。もう何年も会っていないようにすら感じる。転落事故なんて大変な目に遭ったリョウタを見舞うのに、流石に社長も邪魔してこないだろう。そもそも、リョウタが転落した時社長もいたと兄から聞いている。社長にもいくらか非があるのじゃないだろうか。
そんなことを考えつつ、お見舞いに行く支度を整える。リョウタが入院していると聞いた病院は、都市部から少し離れた郊外の総合病院らしい。電車とバスを乗り継ぎ、先輩はリョウタの元へと向かう。
見舞いの品を持って、意気揚々とリョウタの病室を訪れる。病室に入ると、そこには社長が既にいた。だが、先輩を見つけるなり目を逸らして、リョウタの方に向き直った。
「?」
不審に思いながらも、先輩は病室にいたもう一人に歩み寄る。リョウタの兄である。
兄の方も、貴方が先輩?初めまして、と軽く挨拶をしてくれて、すぐに良好な関係を築けた。
そして待ち侘びた瞬間が訪れる。
「リョウタ、大変だったな。もう大丈夫だからな。」
未だベッドから起き上がることは適わないリョウタに声をかける。
しかし、リョウタから返ってきた返答に、先輩は凍りついた。
「誰、ですか?」
それを聞いた兄も社長も、苦々しい顔をした。
(先輩でもダメか…。)
兄は先輩の顔を見ればもしかしたら、という淡い希望を持っていた。そう、リョウタは転落した際のショックからか、記憶をなくしてしまっていた。
医師からは一時的なショックによる健忘かもしれない、と説明を受けたが、兄の顔を見ても、社長の顔を見ても、果ては先輩の顔を見てもこの反応である。
困惑する空気が流れる病室で、今度はリョウタが困惑し始める。
「あの、本当に僕は、成瀬リョウタっていう名前なんでしょうか…。」
リョウタは自分の名前すらわからなくなっており、自分を認識できずにいることが歯痒いようだった。
リョウタの記憶がなくなってしまっていることに先輩は大きなショックを受けるとともに、最初に入ってきた時社長が目を逸らした理由がわかった。
とりあえず先輩はリョウタに、
「大丈夫、何も不安に思うことはない。君はリョウタだよ。」
と告げると社長を伴って病室を出る。兄にはリョウタの様子を見ていてもらうよう頼んだ。
中庭に出ると、先輩は社長を問い詰める。
「アンタ、リョウタに何をした?素直に白状しろ。」
先輩は兄から聞いた警察からの説明に納得がいっていなかった。リョウタは確かに窓際にベッドを配置したがるが、その窓を開けることはしない。十二階の高さともなるとなおさらだ。なぜならリョウタは高所恐怖症で、閉まっている窓から下を見るのすら嫌がるレベルだ。そんなリョウタが窓を開けに行ったとは考えにくい。
先輩が怒りの表情で社長を睨みつけていると、社長はあの日の出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
ただリョウタに触れたかった。
なのにリョウタは自分に打ち解けるどころか避けるようになっていって
あの日は本当にお茶くらい一緒に飲んでくれないだろうかとただそれだけのはずだった
でも風呂上がりのリョウタの姿を見て自分が自分でないような感覚になって
気がついたらリョウタを押し倒していて
その後のことはよく覚えていない
という主旨の話だった。途中要領を得ていないが、社長自身もまだ混乱しているらしい。
まさかリョウタが自らの危険を顧みずあんな行動に出るとは露ほども思い至らなかったということだった。
社長は自らの欲に負けて、結果リョウタを身体的にも精神的にも傷つけてしまったことにショックを受けて多少なりとも反省はしているようだった。これで反省していなかったら先輩は社長に殴りかかっていただろう。
要するに、リョウタは社長に襲われて、その貞操を守るため自ら身を投げたということになる。先輩はそれを理解し、そこまで想ってくれるリョウタへの愛しさと、守れなかった自分への不甲斐なさを噛み締めた。
(ああ、リョウタ。俺を許してくれ…。)
先輩は泣きそうになった。そうまでして先輩との絆を守ろうとしたリョウタに。
そしてもうひとつ先輩は覚悟を決めた。
それは、リョウタの記憶を取り戻し、そしてリョウタ自身も取り戻すこと。もう二度と、離さないと誓って。
そうと決まれば、先輩は病室に戻って、リョウタと会話を試みる。
「まだ起きたばっかりで、今はあんまり考えられないかもしれないけど、何か欲しいものはあるか?」
記憶もないのに、欲しいものなんて聞かれても困るかもしれない。と先輩は思いながらも、今の状態のリョウタが何か興味のあるものを探ろうとしていた。
「お花、みんなくれて、綺麗。あとはわからない。」
リョウタも怪我を負っている身で、頭にも痛々しい包帯が巻かれているため、今はあまり思考が回らないのかもしれない。
「そっか。また来てもいいか?」
先輩は優しくリョウタに許可を求める。
「ありがとう。また、来てくれると嬉しい。」
リョウタはそう言うと少しだけ笑んで見せた。その様子を病室の入り口から見守るしかなかった社長は歯噛みした。
社長は記憶を失ったリョウタに対し、腫れ物に触るようにしか接することができなくなっていた。もし、何かのきっかけで記憶を取り戻し、また拒絶されたらー。社長はそれだけは絶対に避けたかった。
リョウタの記憶がなくなったことで、ただの会社の上司に戻れた社長は、できるだけ優しい自分を演じ、リョウタの信用を勝ち取ろうとしていた。リョウタは先輩も認識できなかった。つまり、同じスタートラインに立ったということだ。社長は暇を見つけては花を持ってリョウタを見舞った。早く元気になってほしい、記憶のことは気にしなくてもいい、と甘い言葉を囁いてリョウタを気遣っている風を装った。本当は思い出して欲しくないという黒い自分を隠して。
先輩はリョウタの記憶について戻っても戻らなくてもどちらでも構わないと思っていた。なぜなら、記憶を失う直前のリョウタが体験した記憶は、あまりにも辛い出来事だと思ったからだ。リョウタはきっと死を覚悟したに違いない。それでも、リョウタは自らの身と自分との絆を守るためその選択をしたのだ。社長に縛られ続けた日々はリョウタにとって辛かっただろうし、追い込まれた結果こうなってしまったのだから、嫌なことは忘れたままにして、これからのリョウタに向き合おう。そう思った。
リョウタは日々一人考えていた。といっても考えられることは少なかった。なんせ自分が何者なのかもよくわからないからだ。兄、社長、先輩。みんな優しく接してくれる。でも。元の自分はどんなだったのだろう。元の自分にも、皆は優しくしてくれていたのだろうか。思い出せないリョウタはもどかしい気持ちでいっぱいになる。皆元の記憶のことには触れず、今の自分について聞いてくれる。社長は体調はどうだ、とか、怪我の具合は良くなってきたかとか、仕事については心配するなとか。そう、仕事はどんな仕事だったかわからないけど、直接の上司が社長って、何してたんだろ自分?兄はパジャマ持ってきたぞとか、退屈してないかとか、身の回りの事を気にかけてくれた。先輩はちょっと変わった人で、お見舞いに来てくれると必ず、側で数時間本を読んでいて、最後に一言二言交わして帰っていった。でも先輩と過ごす静かな時間が、なんだか心地よいのはなぜだろう。
何の本を読んでいるの、とたまに聞くと、読み終わったら貸してあげる、と返ってきた。
先輩が読んでいる本は、いつも何かを考えさせられる内容の本が多くて、少し難しいけれど先輩の思慮深さが伝わってくるようだった。
先輩はいつも穏やかな人で、記憶が戻らないことについても相談できそうだったからしてみたけれど、返ってきた答えは、
「無理に思い出す必要はない、リョウタはリョウタだよ。」
だった。
思い出さなければと苦しんでいたリョウタはその言葉に自然と涙が伝った。
暇を見つけてはリョウタを見舞っていた社長は、しばしば先輩がいるところにも遭遇してしまっていた。そんな時は入り口で回れ右をするが、何を喋っている訳でもないのに、リョウタがなぜか嬉しそうな空気でいることがまた許せなくなってきていた。
(私が色々努力して話しかけている時はそうでもないのに。何故だ。同じスタートラインのはずだ。)
また嫉妬に狂って壊してしまう前に、社長は手を打ちたかった。
(どうするのが最善だ?以前のように囲ってしまっては、思い出された時にまた拒絶されるだけだ…。)
社長は、リョウタを転院させ、自分だけしか見舞いに行けない環境を作ってしまいたかったが、それでは前と同じパターンになるとわかっていた。今は動けない。静観するしかなかった。お見舞いの品も、花以外に良いものが浮かばない社長は、どうしたらもっとリョウタの興味を引けるのか必死に考えた。傷が癒えてきたリョウタは、食事に制限がなくなったため、社長はお菓子などを差し入れするようになった。
「おいひいれふ。」
ある日有名ケーキ店の一番人気のケーキを差し入れしてみたが、リョウタからそれ以上の感想は返ってこなかった。完売必至のケーキだった為、開店四時間前から並び、やっと勝ち取ったケーキだったのに。社長がどこまでも空回りしていると、兄がやってきて、ひっと声を上げた。
「リョウタ、これすごいケーキだぞ、ちゃんと社長さんにお礼言ったか?」
兄はケーキ店を知っていたらしく、ケーキ店についての補足が入る。これはな、予約しても半年待ちのケーキなんだぞ、わざわざ持って来てくださった社長さんにもっと感謝しろよな。
と。
うんうん、半年なんて待てないから人を使って四時間前から並んで買ってきたんだぞ。とちょっと自慢したい気持ちを抑えつつ、社長はリョウタの反応を待った。
「そんなすごいケーキなんですね、ありがとうございます。でも、お忙しい中ご無理をおかけして申し訳ありません。そんなに気を遣って頂かなくても大丈夫です。」
社長はまたしても空回りした。リョウタのためなら多少の苦労くらいどうってことない。なぜそれが伝わらないのだろう。何なら、金を積んでケーキ店のパティシエを一日貸切にしたって構わないのに。
「そうか、ちょっと頑張りすぎたかな、ははは。」
笑って誤魔化したが、社長はどこがおかしかったのか理解できなかった。もっと豪華なお菓子の方が良かったのか?
社長がずれた事を考えながら病室を後にしていると、入れ違いに先輩が入ってきた。
「あ、先輩。こんにちは。」
社長は嫌でも耳が大きくなって音を拾ってしまう。
「さっき社長さんからすごいケーキ頂いたんです、美味しかったんですけど、半年待ちとか兄から聞いて…なんだか申し訳ないです。」
そうじゃない!そうじゃないんだ!申し訳なくなんてないから次ももっと美味しいお菓子持ってきてくださいねって言って欲しかったんだ私は。リョウタに喜んで欲しかった。ただそれだけなのに。
「へぇ、そうなのか。確かにその店聞いたことあるな。」
そうだろうそうだろう。こんな隔絶された世界にいない限り、知らぬものはいないくらいの有名ケーキ店だぞ。社長は先輩に対して、お前程度ではこんなにすぐに手に入らないだろうと鼻高々に自慢したい気持ちになった。
「ところで、今日はリョウタにお土産持ってきたんだ。」
あっさりと話題を変えられた。社長はイライラしてきたので、耳をしまって、会社に戻ることにした。
数日後
社長が病室を訪れると、そこは紙束の山だった。
「……こんにちは、何をしているんだい?」
一瞬どう声をかけていいかわからなかった。リョウタは必死に何かを書き綴っているようだった。社長の声に反応して、リョウタは手を止める。
「お疲れ様です。この前先輩からすごく良いものをもらって。いま夢中なんです。」
ピキッ
社長は自分の営業スマイルが引きつるのを感じた。
リョウタの手元には何やら難しい数字の羅列のようなものが書かれた紙がたくさんある。
「難しい数式の本、なんですけど、社長は数学お好きですか?」
なるほど。わからん。
「数学か。そこそこ勉強はしたが、高校までかな。」
そうなんですね、とリョウタは軽く返した。
「気分転換に解いたらどうかって、先輩がくれたんですけど。気が向かなかったら解かなくて良いって言ってくれたけど、自分でもびっくりするぐらい楽しくて。」
リョウタは鼻歌まじりに数式に取り組んでいる。確かにリョウタは理数系の出身だったと記憶はしているが、特に数学が好きとか聞いたことはなかった。社長はいかに自分がリョウタの表面だけに固執していたかを思い知らされた気がして、恥ずかしくなった。あと、先輩に完全に遅れをとったと悔しい気持ちも出てきた。
(やはり長い付き合いには勝てないのか…?)
社長が勝手に先輩への敗北感を募らせている間にも、リョウタは楽しそうに本に向き合っている。リョウタはだいぶ体調は良くなってきたようだった。ただ、記憶の方は相変わらずだった。思い出さなくてもいい。いや、思い出してくれない方が都合がいい。今はリョウタは普通に接してくれているのだから。マイナスだった自分がゼロスタートできたせっかくのチャンスを無駄にしたくはなかった。
それから一ヶ月が過ぎた頃、リョウタは退院することになった。記憶こそ戻らないものの、身体的には問題がなく、兄という身元引受人もいて、日常生活は十分可能だと判断されたためだった。身元引受人ということで、一旦リョウタは兄の暮らす実家に引き取られることになった。
「お…お邪魔します?」
おずおずと玄関をくぐるリョウタに兄はツッコミを入れる。
「ちげーだろ、ただいまだろ、リョウタ。」
そっか、と言い直そうとした時だった。
「ふん、いらんものが帰ってきよったわ。」
リビングからそう聞こえてきた。
「そんな言い方ねーだろ、親父!」
リョウタは驚かなかったが、自分はこの家には必要とされていないのだと認識した。母親らしき人物も先ほど親父と言われた父親らしき人物に同調しており、リョウタには冷たい目線を送っていた。
「ほら、リョウタ、二階行こうぜ。ほっとけばいいから。」
兄だけはリョウタに極力優しくしてくれたが、リョウタは自分はここにいてはいけないのだと思った。
「兄さん、僕は両親に何かしてしまったことがあるのかな?」
二階に引っ込んだリョウタは、一応兄にそう聞いた。もし過去に何か無礼を働いていたのなら、謝った方が今後うまくいくと思ったためだ。
だが、兄から得られた回答はリョウタの想像とは違っていた。
「あ〜。なんか、昔っからリョウタはこの家ではうまくいってなかった。なんかわかんないけど、両親どっちとも折り合いが悪かったっていうか。避け合ってる間にボタンかけ違えちゃった、みたいな感じなのかな。お互いがどう接していいかわかんなくなっちゃったんだよ、たぶん。だからまあ、あの二人はほっといて、なんかあったら俺に言ってくれればいいからさ。」
兄はそう言ってくれたが、リョウタには未来が容易に想像できた。折り合いが悪い両親、庇ってくれる兄。だんだんそこも関係が悪化していき、元を正せば全部リョウタが悪いと言われる未来。果ては出て行けと言われるのだろうから、今のうちに消えておこう。
「僕、一人暮らししたいな。」
そうぽつりと漏らした。死のうという選択はなかった。なぜなら死にたいと思うほどの記憶もないからだ。兄からはえ?という返事が返ってきた。
「リョウタ、いくら何でもそれは流石にいきなりステップ飛ばしすぎだろ。まあ、あんな反応されたらそう思う気持ちもわからんでもないけど、今はちょっと我慢した方がいいって。」
俺がついてるから、な!と言われたが、リョウタはそれだからこそ兄に迷惑をかけたくないという気持ちが強まった。
リョウタは、日常生活は送れると言われたが、仕事復帰とか、一人で出歩くのも大丈夫、と言われたわけではない。あくまでも付き添いが必要だが、病院に留まるレベルではない、というだけの話だ。
(…先輩に会いたい。)
一緒に静かな時間を過ごしてくれる人。一番安心できる人が今のリョウタにとっての先輩だった。
なんで、何も聞かないで、ただ側にいてくれるのだろう。こちらが聞いたことには的確に返答をくれるし、興味を持ったことには付き合ってくれる。
「兄さんにとって、先輩ってどんな人?」
リョウタは話のベクトルを変えた。また兄からはえ?と返事が返ってきたが、一人暮らしの話をしなくなったことで安心したようだった。
「そうだな、リョウタのこといつも見ててくれて、俺は感謝してる。優しい人なんだろなって思うし、リョウタもそれは知ってると思うけど?」
優しい人、それはわかっている。だが、今のリョウタにヒットする優しい人で言えば、先輩も、兄も、そして社長も優しい人である。
「個人的にはリョウタのこと救ってくれたのかなって思ってるから。感謝してる。」
兄はそうぼそりとつけ加えた。
(救った…?)
先輩と自分の間に何があったのだろう。先輩はそんな話は一切しないし、ただいつも本を読みながら側にいてれるだけなのだ。変に詮索したりしないし、リョウタが話そうとしないことは聞いたりしない。リョウタは自分が記憶を無くしてから得た情報は、
・先輩と仲が良かった
・社長の下で働いていた
・兄がいる
・十二階から転落したにも関わらず奇跡的に一命を取りとめた
・自分の名前は成瀬リョウタ
というくらいだった。その後社長が君は本当に有能な部下だから、早く元気になってほしいと言ってきたり、今は休職扱いになっているから心配しないでいいとか、会社絡みのことは少し聞いたが、先輩と仲が良かったというのは兄情報で、先輩自身はそれを材料にリョウタに何かするということはなかった。
先輩と何があったんだろう。リョウタは何も知らない。ただ、一番側にいて安心できる人だということは間違いがなかった。なぜだかわからないけど、リョウタの心の奥深くがそう言っているのだ。
「先輩に会いたい。」
リョウタは今度は声に出してそう言った。兄は特に何も言わず、ただ先輩の番号を表示した携帯を差し出したのみだった。
「もしもし?」
電話口の先輩の声を聞いただけで、リョウタはもう泣きそうだった。なぜだかわからないけど、今ある不満や不安を全部先輩にぶちまけて、人目も憚らず泣いてしまいたかった。
なかなか電話口の先輩に話しかけられず、リョウタがまごまごしていると、先輩は察したように切り出した。
「…リョウタ?」
そう。兄ならこんな間は作らない。うん、と返答すると優しくどうした?と先輩は病院でしていたように静かに答えてくれる。
「あのね、先輩に会いたい。今すぐじゃなくてもいいから、会いたい。」
そう言うと先輩はわかったと告げて、電話を切った。
二十分後、うとうとしていたリョウタは兄に起こされた。先輩と話せた安堵感から、緊張の糸が切れて寝かかっていたらしい。
「リョウタ。先輩着いたって。」
(え…。)
玄関を出てみると、そこには先輩が立っていた。今日は仕事のはずなのに、いやだからこそスーツで家の前に待機していた。
「先輩?どうして…。」
リョウタが話し始めるよりも先に、先輩はリョウタを抱き止めた。
「迎えにきた。」
その言葉にリョウタの今まで抱えてきた全ての負の感情が溶け出してしまい、リョウタは涙が止まらなくなった。兄に誘導され、なんとか家の二階に避難してきたが、リョウタは長いこと泣き止むことができなかった。ご近所さんに見られる前に兄が誘導したのは正解だったかもしれない。
流石に泣き疲れて、涙が枯れた頃、リョウタはようやく先輩にも話したかったことを話した。
「この家にはいられないから、一人暮らしをしたい。」と。
先輩は驚かなかった。そうか、と一言頷くと、リョウタのしたいようにすればいい、と言ってくれた。
「えええええ!」
驚いたのは兄である。兄は先輩にも色々段階飛ばしすぎだし、リョウタはまだ危なっかしいから、誰かが見てないと、と説得を仕掛けた。
「なら、俺が付いてますよ。でも、リョウタは一人暮らししたいと言ってるから、できるだけ俺の近くの物件に住んでもらえると助かりますけど。」
とさらりと言ってのけた。兄は頭を抱えた。仕事あるでしょ、と言おうと思ったが、それは兄も同じことで、兄が家を空けている間、リョウタは両親に冷たくあたられる危険もあった。何もなくても、リョウタにとってこの家にいることは針の筵で、精神的に良くないのではないか、とも思ったせいだ。
悩んだ末、兄はリョウタを先輩監督のもと一人暮らしさせてみるか、という結論に至った。目の前であれだけ仲の良さを見せつけられては、ウンと言わざるを得なかった。
(記憶とかなくても、この二人にはもう誰も入れない世界があんだな。)
兄は改めて目の前にいる先輩に感謝した。リョウタの不安をあんなふうに溶かしてやることは自分にはできないことだったから。
週末
兄は彼女とデートに出かけるとかで、朝早くに出かけて行った。リョウタは新居を探す約束を先輩としており、浮かれていた。朝十時に家の前で、と約束していたので、時間より少し早く家を出る。
「あ…。」
玄関のドアを開けると、そこにいたのは先輩ではなく社長だった。
「あ、おはようございます。えーと…。」
リョウタはどうするか迷った。
「どこか出かけるのかな?邪魔なようなら私は退散しよう。」
社長は背後の先輩をチラリと見遣りながらリョウタに問う。
「あ、えーと。今日は物件の下見とか、ショッピングモールで買い物なんです。社長もお時間が合うようでしたら。」
先輩はリョウタの選択に口を挟むことはしなかった。
かくして、リョウタは社長と先輩と三人で家を出た。物件はなかなかいいところが見つからず、休憩も兼ねてリョウタ達は昼頃にショッピングモールに到着した。そこそこに昼食を済ませ、これからのリョウタの生活に必要なものを見て回る。
「服とかも揃えといた方がいいぞ。これから季節の変わり目だからな。」
と先輩は適当にリョウタに服などを見繕う。社長はその様子をただ見ているしかなかった。何か聞かれれば答えるが、必要以上に口を挟んでリョウタに煙たがられたくなかった。あと先輩からの圧が余計にそれを助長していた。
(気まずい。しかしこれからのリョウタの動向を掴むためには同行するしかない。)
今のところリョウタから割と好意的に接してもらえていることでなんとかこの場にいられるだけだ。
「あ、ケータイ…。」
そろそろお開きかと言うところで、リョウタは思い出したように呟いた。
「ああ、契約するんだったな。ごめん、忘れるところだった。」
先輩はそう言うと、素早くリョウタを携帯電話ショップへと誘導していく。
(忘れていてくれた方が良かったのに。)
先輩は少しだけそんな思いを抱きながらも、そんな態度は微塵も見せずにリョウタと笑い合いながらショップに到着した。
「いらっしゃいませ〜。何かお探しですかぁ?」
少し気だるい店員のお出迎えを受けつつ、三人で機種やプランを話し合い、リョウタは新しい携帯を手に入れた。
リョウタはあまり機種に頓着しない方で、型落ちした安いものでいいと主張したのだが、社長から最先端機種を無理矢理押し付けられた。
「これから頻繁に使うことになるならこのくらいのものを持っておいた方がいい。」
とのことだった。機種代はもちろん社長が一括で支払うという。
「いえ、そんな。悪いです。」
恐縮しまくるリョウタを前に、社長は有無を言わさず見たことのない色のカードで華麗に決済を済ませた。
「これも投資の一環だよ。君の未来へのね。」
社長はリョウタに良い贈り物をしたと鼻高々に自慢したい気分だった。
先輩は静観していたが、相変わらずズレた発言をする社長に冷たい視線を送っていた。
その視線に気づいた社長は先輩と一瞬火花を散らす。が、リョウタの次の発言でその火花は敢えなく溶けていった。
「あ、最旬スイーツだって。このプリンアラモード食べたい。」
リョウタは早速手にいれた最新機種で近くのカフェを検索していたらしい。その発言に先輩は無意味な争いをやめ、意識をリョウタへと向ける。
社長も同じく今争っても無駄だと感じ、リョウタの見ていたスイーツを見せてもらう。
「おっし。んじゃそれ食べにいくか。リョウタ、夕飯はどうする?」
先輩は素早く切り替えると、リョウタの身を案じる発言でリョウタの好感度をぐんぐん上げていく。その様子を見て社長は歯噛みする。
(くそ、なぜだ。この差はなんだ。)
側にいる時間は同じなのに、どんどん差をつけられていると体感する。何が違うのか、自分に足りないものは何か、社長は必死に思考を巡らせる。
「あの、社長もお電話番号、交換させていただいても?」
考え込んでいると、リョウタが上目遣いで遠慮がちにそう聞いてくる。新しいリョウタの連絡先。交換しないわけがない。先に先輩との番号交換は済ませていたようで、考え込んでいる間に少し話が進んでいた。
(せっかくのリョウタの情報を得られるチャンスだ。もっとしっかりしなければ。)
今まで仕事で何か遅れをとるということが少なかった社長は、遅れをとり始めているリョウタの好感度について焦りを感じていた。
このままではまたこの先輩とやらに敗北を喫する。今度こそ勝ち取ってみせる。社長の決意は固かった。
リョウタはお目当てのプリンアラモードをペロリと完食すると、今度は先輩と夕飯の話をしている。社長はホットコーヒーをゆっくりと味わいつつ、二人のやりとりに聞き入っていた。
リョウタは実家に引き取られたが、両親に冷遇されているらしく、家で食事をするのは気が引けると言う話だった。なぜ両親が冷たいのかはリョウタは理解できず、兄からの情報も交えて先輩に説明している。先輩は当然知っている情報だったろうに、そうなのか、とリョウタの話を遮ることなく聞いていた。平日の夜は兄が買ってくる弁当を部屋でもそもそと食べているらしかった。
社長はリョウタの一人暮らしには賛成だ。しばらくの保護観察者として先輩が就任しているのは解せないが、リョウタを誘いやすくなるし、差し入れという名目で料理を持っていけば、部屋にあげてもらえるかもしれない。
ただ、今日の物件の下見では、初めは静観していた先輩が、この物件は日当たりが良くないとか、安いけど事故物件じゃないのかとか、とにかく事あるごとに不動産業者を完膚なきまでに叩きのめし、結局決まらなかった。リョウタは言われるままに情報を聞いていたから、危なっかしいところはあったが、先輩の指摘の仕方は厳しいものが多かったように感じる。
三人は結局夕飯をショッピングモール内の定食屋で済ませ、その日は解散となった。
先輩はマンションに帰って一人考えていた。
(今日のリョウタは記憶がないから仕方ないとはいえ、危なっかしいことばっかしてたな。リョウタの意思を尊重したかったから、社長を連れていくかは任せたけど、物件の事は隠した方が良かった。)
今日先輩が不動産業者を叩きのめしたのは、社長に新居を知らせないためだ。あの男、リョウタが一人暮らしを始めたなどと言ったら、また何をしてくるかわからない。今はリョウタへの良心の呵責で大人しくしているが、リョウタの記憶が戻らないのを良いことに、また調子に乗り始めたらまたリョウタが傷つくことになる。今度こそ守ってみせる。先輩は固く誓っていた。ケータイのことも、リョウタから切り出すまで忘れたことにしていたのは計算だった。あのまま解散していれば、後日また物件のことも含めて相談に乗ってやれると思っていた。
危惧しているのは、社長と番号を交換したことで、社長からしつこく誘いが来ないかということだ。まあ、新規契約だし、社長とは番号の交換しかさせていないから、直接電話でしつこく誘うということはいくら図々しいあの社長でもなかなかしないだろう。チャットでやり取りできるアプリを入れさせて、アカウントを交換したこちらの圧倒的優位は揺るがないだろう。
早速リョウタとのやりとりを開始する。
今日はお疲れ様。物件決まらなくて残念だったな。家に帰って少し調べたからまた明日出直さないか?
メッセージを送信すると、リョウタからはすぐに既読がつき、返信が返ってくる。
ありがとうございます。でも、土日両方出かけたら先輩が疲れちゃいませんか?
リョウタは記憶を失っても以前と変わらず優しい子だった。やっぱりリョウタはリョウタなのだ。先輩は気遣いを少し嬉しく思いつつも、実家での暮らしにくさを考えると、一刻も早く一人暮らしした方がいいと思っていた。
そんなことは心配しないでいい。リョウタに特に用事がないなら、明日また会おう。
そう言ってまた明日会う約束をして、先輩とリョウタは眠りについた。
次の日の物件選びは、先輩がリサーチしたというところを見に行き、しばらくの仮住まいという事で、家具つきマンスリーマンションを契約した。日当たり良好、事故物件なし、一人暮らしには十分な広さ。これなら良いだろうと二人は納得した。リョウタはまだ休職中の身なので、ここから出勤するわけではないが、まだ数式の本が終わっていないと言って、ここでしばらく一人で落ち着いて数式に向き合うようだ。
「ここって、先輩の家からは近いんですよね?」
リョウタは先輩の行動範囲内での一人暮らし、という条件付きで兄から承諾を得ていることもあり、聞いてみた。
(そっか、記憶、ないんだもんな…。)
先輩はリョウタが家を知っているものとして進めてしまっている節があったので、己を反省した。先輩は自分の住んでいるマンションまでの道のりを軽く説明し、何かあったらこの部屋番号を押すんだぞ、と念を押した。リョウタの一人暮らし用の部屋はすぐ入れるという事だったので、一旦実家に戻り、リョウタのそれはそれは少ない荷物を持ってきた。
昨日買った服などを合わせても、よくこれだけの荷物で生活していたな、という量しかなかった。
「よし、せっかくキッチンあるし、昼飯になんか作るか。」
ここのところ冷たい弁当ばかり食べていたようだから、何か温かいものを食べさせたくなった。
「先輩、ラーメン食べましょ。」
リョウタは先輩にそう提案する。
「え、ラーメン?そんな簡単なもんでいいのか?」
先輩は拍子抜けしてしまう。ラーメン、か。でも確かに実家に戻ってからのリョウタには食べられなかったものだったかもしれない。
うんうん、と頷いているリョウタが可愛いし、二人は近くのスーパーで買ってきたラーメンを拵えて一緒にすすった。野菜不足にならないよう、野菜炒めトッピングを添えて。
「先輩。今度、遊園地に行きたいです。先輩と二人で。」
ラーメンを食べ終わってまったりした時間を過ごしていると、突然リョウタはそんな話を始めた。
「おう、いいぞ。どこの遊園地がいい?時期も週末ならいつでもいいぞ。」
先輩はリョウタの口調が前のようには戻らないことに少し悲しさを感じつつ、二人で出かけたいと言ってくれるまでに回復してきたことを喜んでもいた。
「やったー!プラン考えておきますね。」
リョウタはこの時初めて、記憶を失って以来の笑顔を見せたのではないだろうか。
(ああ、リョウタがやっと笑ってくれた。)
もうずいぶんリョウタの笑顔を見ていなかった先輩は安堵した。
先輩の心は揺れていた。リョウタの全てを取り戻すと誓った。でも、それは正しいことなのだろうか。記憶が戻らなくても、リョウタは笑えている。両親と折り合いの悪い幼少期のことや、社長から受けた仕打ちを考えれば、思い出さないほうがリョウタにとって幸せなのではないだろうか。
例え、自分との出会いを忘れたままでもー
次の次の週末
「お天気に恵まれて良かったですね、先輩。」
リョウタは上機嫌でそう言った。先輩はそうだな、と頷き返し、二人は遊園地へと足を踏み入れた。そこは昔からある遊園地で、いわゆる近代型のテーマパーク程の規模はないのだが、二人でゆっくり一日回るのには十分な広さだった。リョウタはいわゆる絶叫系にはあまり興味がないらしく、メリーゴーランドなどの一般的なアトラクションに乗りたがった。一通り回って、昼食のホットドッグを食べた後、夕方まで園内をぶらつきながら、リョウタが楽しめたアトラクションはリピートしたりして満喫する。楽しそうなリョウタを先輩は微笑ましく思いながら、また一方でやはり心は揺らいだままだった。話しながら園内を散策していると、昼間は通らなかった、敷地の奥の方へとやってきてしまった。そこにはまだ回っていなかったアトラクションがあり、リョウタは興味津々に近づいていく。
だが、先輩はこれはないな、と思いながらリョウタについて行った。なぜなら、それは高所から落下して無重力を体験するものだったからだ。高所恐怖症であるはずのリョウタが乗りたがるとは思えなかった。
「先輩。これなんでしょう?」
上を見上げながら問うリョウタに、先輩はこのアトラクションの趣旨を説明する。
「へえ。無重力。体験したことないし、面白そうかも。」
意外な返答に先輩は驚く。以前のリョウタなら、この高さを見ただけで即アウトだった。観覧車さえ乗らない徹底ぶりだ。
「高いところは怖くないのか?」
先輩は素直に疑問をぶつける。リョウタは、ん〜、と考え込み、
「怖いけど、先輩がいてくれるから。」
と笑って答えた。先輩は胸が熱くなるのを堪えつつ、そっか、とリョウタと一緒にアトラクションに乗り込む。
程なくして、アトラクションは出発する。上昇していく感覚に、リョウタは緊張している様子だった。
「大丈夫か?」
と先輩が声をかける前にリョウタは目を瞑って先輩に訴えた。
「やばい。怖い怖い怖い。」
とはいえ、アトラクションを止めてもらうわけにもいかない。
「リョウタ、ちゃんと俺がいるからな。目は開けといたほうがいいぞ。」
と声をかけ、最大限恐怖を和らげてやれるよう心がける。そうこうしているうちにも上昇が止まった。
(あ、来るな。)
先輩がそう思った時だった。一瞬ふわっと浮いた感覚がして、落下していく。先輩は割とこの手のアトラクションは苦手ではないが、終わった直後にリョウタの様子を確認すると、顔が真っ青である。これはただ事ではなかった。
「どうした、リョウタ。歩けるか?気分悪い?」
なんとかアトラクションからは降りたが、気分が悪いのかという問いかけに力無く頷く様子は尋常ではなかった。急遽救護室にリョウタを運び、容体が落ち着くまで休ませてもらう。
やはり高いところがダメだったのだろうかと先輩が思案していると、リョウタが少しずつ言葉を発した。
「ごめ、なさ。せっかくの、おやすみ。」
何を言い出したのかと思ったら、またリョウタは自分の心配よりも先輩のことを気遣っていた。そんなこといいから、自分の心配をしろと先輩はリョウタを気遣う。
一時間ほど休ませてもらい、リョウタはだいぶ落ち着いたので、帰路に着く。ちょうど遊園地も閉園の時間あたりになっていた。
「大丈夫か?無理してないか?」
そう問いかける先輩に対し、リョウタはだいぶはっきりと受け答えができるまでに回復していた。しかし、なぜあそこまで気分が悪くなったのか本人にもさっぱりわからないという。高いところが怖かったのは事実だが、落下中に急激に気分が悪くなったのだそうだ。本人曰く、慣れない感覚に酔ったのかも、ということだった。リョウタは夕飯を食べられる状態ではなさそうだったので、先輩はリョウタを部屋まで送り届け、寝かしつけてから自分のマンションへと戻った。
リョウタは夢を見ていた。これは悪夢だとリョウタは直感した。
今までも似たような悪夢を何度か見ていた。
迫ってくる何かから逃れようとして、逃げた先が空洞だったりするのだ。
ぽっかり空いた穴に吸い込まれる感覚で目を覚ます、みたいな事が何度かあった。
何に追われているのか、リョウタは今まで確かめなかった。ただ逃げなければ、という強迫観念みたいなものがあり、逃げることに必死だった。
一体何からそんなに必死に逃げているのだろう。リョウタは初めてその正体を確かめる気になった。
(あ…。)
リョウタの意識はそこで途絶えた。
午前三時、先輩は雨の音で目を覚ました。
(結構降ってるな…。)
いまだに慣れない一人きりのベッドで、先輩は寝直そうと寝返りを打つ。
ピンポーン
先輩は飛び起きた。誰だ。こんな夜中に。
恐る恐る玄関のモニターを確認すると、そこには部屋の前に立っているリョウタらしき人物が映し出されていた。
(リョウタ?こんなに濡れて…でも、部屋番は教えたけど玄関のセキュリティの解除は教えてないはず?何が起こってる?)
相手はとりあえずリョウタだと確認したところで先輩はドアを開ける。そこには濡れそぼって立っているリョウタの姿があった。
「リョウタ?どうした、こんな夜中に。しかもそんなに濡れて。」
先輩は夕方のこともあるし、優しく様子を確認する。もしかしてまた気分が悪くなったのかもしれない。
「先輩。俺…。」
リョウタはそれだけ言うと黙ってしまった。でも先輩はその一言で何が起こっているのか察してしまったのだ。
(記憶が戻ってる…。)
そう、記憶を失ったリョウタは決して『俺』とは言わなかった。
とりあえず先輩はリョウタを中へ入れる。このままでは風邪をひいてしまう。タオルと着替えと温かいミルクを用意して、先輩とリョウタはリビングで向き合った。
リョウタは何も言わずじっとしている時間が長く流れた。先輩もリョウタも、お互い何から確かめ合えばいいのかわからずにいた。
(あ、そうだ。)
先輩はリョウタに元々リョウタが使っていたプライベート用携帯を差し出す。リョウタは小さく頷いて手に取ると、息をするようにロックを解除する。それは記憶を取り戻したリョウタにしかできないことだ。リョウタはしばらく色々と携帯の中身を確認していたようだが、最後にアルバムを開き始めた。
そこには先輩と二人で写った写真が並んでいる。それはリョウタと先輩の歴史でもある。高校の卒業式から、大学の写真、果ては入社式に向かうスーツ姿の二人など。リョウタはそれらを眺めて一呼吸置くと、嗚咽を漏らし始めた。
(混乱してるんだろうな。)
先輩はそんな思いを抱きつつ、声を殺して泣き続けるリョウタにそっと寄り添った。
「よしよし、よく頑張ったな、リョウタ。もう大丈夫だからな。」
頭を優しく撫でながら、先輩はリョウタを宥め続ける。一方のリョウタは一向に泣き止む気配がなく、ただ携帯の写真と、本物の先輩に囲まれながら気の済むまで泣き続けた。
朝
(あれ…。俺何してたんだっけ。)
リョウタは目を覚ました。見れば昨日の夜着たはずの服と違っているし、そもそも部屋も違う。
「ここは…、」
リョウタは明確な見覚えと共に、驚きを隠せない。
「おはよ、リョウタ。」
そう、先輩との愛の巣である。
「あ、先輩。おはよ…。」
リョウタはあの後泣き疲れて眠ってしまったのだ。先輩はそんなリョウタをベッドまで運んで自分もまた眠りについた。
リョウタは幾分落ち着いたのか、昨日先輩と別れた後のことを思い出してはポツリポツリと話し始めた。
夢をみたんだ。でもあれは夢じゃなくて、先輩にもう会えなくなるって覚悟した時の最後の映像だった。ということや、あの日起こった出来事を鮮明に思い出したこと。社長の魔の手から逃れるにはああするしかなかったこと。先輩を裏切りたくない一心だったこと。徐々にリョウタから明かされる事実を知るにつけ、先輩は社長への憤りを強めていった。一部社長からことの顛末は聞いていたとはいえ、やはり加害者側から聞くのと、被害者側から聞くのでは違ってくる。リョウタがどんな思いで十二階から身を投げたのか。先輩は胸が締め付けられる思いだった。
話し終わったリョウタは、少し呆然としていたが、先輩はそんなリョウタをきつく抱きしめると、感謝と謝罪を口にした。
「ありがとう、リョウタ。俺のことそこまで想ってくれて。そしてごめん。リョウタがそんなに追い詰められてたのに俺は何もしてやれなかった。守れなかった。」
それを聞いたリョウタの目からは再び涙が流れるところだった。
「ううん。俺の方こそ、いつも先輩がいてくれたからここまで来れた。先輩がいてくれるって信じてたからあそこまで我慢できた。あと今はこうして一緒にいてくれる。それだけで十分だよ。これからも、俺と一緒にいてくれる?」
当たり前だろ、と返す先輩の頬にも涙が伝い、二人で思いっきり泣いた。
「でだ。」
二人で思いっきり泣いたあと、二人とも力尽きて眠ってしまい、気づけば夕方だった。二人は再びリビングで向かい合い、今後について話し合うことにした。
「リョウタはどうしたい?あの会社、辞めたほうがいいんじゃないか?」
それは当然そうだろう。リョウタの記憶が戻った今、社長のいる会社に未練もなければ、い続ける理由もない。
しかし、リョウタの結論は意外なものだった。
「一つ考えたんだけど。今回の件で俺たちはある意味社長の弱みを握ったんじゃないかな?それなら、先輩とのこと隠す必要ないあの職場は案外ラッキーかもしれないよ?」
先輩もこれにはびっくり仰天である。
「なっ、確かにそうだけど、リョウタ自身の危険を考えろ。リスキーにも程があるだろう。またあの社長が襲いかかってきたらどうするんだ?」
うーん、とリョウタは少し考えた。
「むしろ、その時は証拠を押さえて週刊誌に売り込んでやるぞって脅しかける、とか。」
先輩は呆れた。リョウタはあんな事があって、少し強かになったようだが、強かすぎないか、と。
「証拠を押さえるって、それリョウタなんかされてるだろ。却下。」
それはそうだね、とリョウタは先輩と冗談めかして笑い合う。しかしリョウタの傷が癒えたわけではないので、二人とも真剣に対応を検討する。
「まず、こうしよう。定時連絡を取る。それを社長にも了承させる。どうしても取れない時は事前に連絡。あと何があってもリョウタに手を触れるのは禁止。髪の毛にゴミがついてるとかでもダメなものはダメだ。」
先輩は今後のリョウタに関わる話なので、細かくメモを取りつつまとめていく。
「これらを了承できないと言ってきたら、リョウタはあの会社辞めること。いいな?」
うん、とリョウタは了解の意を示す。本当は部署変えてもらったら手っ取り早いけど。と先輩は漏らす。あの社長の性格からして、異動願いを出したところで、リョウタを手放すようなことはしそうにない。会社に残ると言ったら、側に置いておきそうだ。
だが、思い知ってもらおう。社長にとってリョウタは高嶺の花なのだと。
どんなに手を尽くしたとしても、リョウタと先輩の間に入る隙間はないのだと。
月曜日
「おはようございます。社長。」
社長は人生で一番驚いたかもしれない。
もちろんリョウタが目の前で消えた時、そのリョウタが目覚めた時には記憶をなくしていた時、など人生の驚きはここ最近大忙しだが、記憶を失って療養中のリョウタがある朝いきなり出勤しているのだ。しかも自分より早く。
「な、ぜここに…。」
リョウタはしっかりとスーツを着こなし、ワイシャツだってシワひとつない。ネクタイも一ミリも曲がっておらず、まさに完璧だ。とても記憶を失っているとは思えない。
「今日は復職の手続きに参りました。おや、僕の顔に何かついてますか?」
社長はリョウタを凝視していた。
(まさか、記憶が戻ったのか?だとしても、今なんて言った?)
社長はリョウタの記憶が戻ったら、警察沙汰にされることまで覚悟していた。自分の人生終わったかもしれない、などと考えたこともあった。
だが、証拠はないし、あの時警察の捜査でも事故と判断されたじゃないか。しかし、リョウタ自身からは嫌われることは免れないと覚悟していた。
「いや、問題はない。何もついてないとも。で、復職?いまそう言ったか?」
社長は混乱した。あんな事があって、リョウタが完全復活したとしたら、真っ先に三行半ならぬ退職願を叩きつけられるとばかり思っていた。戻ってきてくれるということは、脈ありと期待してもいいのだろうか。いや、そんなはずはない。
(どうしたらいい、どう対応するのが正解だ?)
社長はこんなに難しい判断を迫られたことは今までなかったんじゃないかというくらいに今までの流れ、今あるリョウタの状態や言動、今後の展開について考えを巡らせて、頭がパンクしそうになった。
「おい。」
気がつけば、先日リョウタのために購入した最先端携帯をリョウタがこちらへ差し出している。声の主はそこにいた。
「へ?」
ドスの効いた低音に、思わず間抜けな声を出してしまった。
「へ?じゃねえ。今度リョウタになんかしたら、今度こそ警察とマスコミに突き出してやるから覚悟しろ。リョウタが復職するにあたって、条件を出すから耳かっぽじってよく聞け。」
その声の主は先輩だった。リョウタが知っている優しい先輩とはうってかわって、どこから出しているんだろうと思うような低音で社長にあれこれと条件をつけている。社長は先日の自分の失態と、先輩の低音の圧にただ条件を聞き入れるしかないようだった。
「リョウタに一ミリでも触れたら即セクハラで訴えるからな。毛先一ミリでもだ。リョウタにはウェアラブルカメラを提案したが、リョウタは慈悲深いから自己申告制になった。それを忘れるな。」
(先輩って、たまに悪のオーラ出すよね。)
リョウタはそれを聴きながらそんなことをぼんやりと考えていた。
社長は先輩からこってり絞られ、朝から疲れ果てた様子になった。とりあえず条件は飲んだらしく、先輩からは、じゃ、手続き済んだら今日はまっすぐ帰るんだぞ。といつもの優しいトーンで通話を終了された。
社長は何から切り出そうと少し考えたが、一番に言わなければいけないことは忘れなかったらしい。
「申し訳ないことをした。許してくれとは言えないが、まず、謝りたい。」
社長はそれなりに社会経験を積んでいる。間違いは正さなければいけないということくらいは流石にわかっていた。
「その上で、私は君に好意を抱いている。と言うのは変えられない。ただ、君にも相手がいるのだということは嫌というほど痛感させられた。もう変に手出しはしないと誓おう。」
リョウタは社長の謝罪を受け入れることにした。
「社長のおかげで先輩とは切っても切れない仲っていうことが証明されましたし。むしろ感謝ですけど、条件をお忘れなく。」
リョウタから痛い釘を刺され、うっ、と社長はたじろいだ。先ほどの先輩との会話を思い出したせいだ。
(あの男、只者じゃない…。)
社長は思い返すだけで珍しく胃が痛くなりそうだった。
リョウタは全てを思い出したことによって、むしろ心が軽くなったそうで、社長からはもう変に手出しはしないと言ってもらえたし、先輩との仲が公認になったので、手続きを終えると嬉しそうに帰っていった。
(敗けた、か…。)
社長は今回の件に関しては完敗を喫したことを感じた。それがわからぬほど子供でも愚か者でもなかった。
しかし、転んでもただでは起きないのが敏腕社長、九条ナオヤである。
後日
「え?なんですって?」
復職してきたリョウタにある頼み事をしたところ、この返事だ。望み薄かな、と思いつつも、追求してみる。
「君と先輩から提示された条件にこの件は当てはまらないと思うのだが?」
リョウタは少し考えたが、そこへ携帯電話が鳴る。
「あ、ちょうど定時連絡なので、相談してきますね。」
そう言うとリョウタは席を外した。くそ、奴に勘繰られる前にカタをつけたかったのに。
五分後にリョウタは戻ってきたが、答えはノーだったらしい。通話状態のまま戻ってきたのだ。
「また変な気起こしてるんじゃないだろうな?」
電話口の先輩は怪訝なトーンで社長に問いかける。そんな先輩に社長は秘策を用意していたのだ。
「とんでもない。むしろ変な気がないから素直にこうして頼んでいるんじゃないか。」
リョウタと先輩は共に首を捻る。
「どうしよう、先輩?」
そう言いながらまたリョウタは席を外す。
「リョウタはどうしたい?」
そう問いかける先輩に、リョウタは素直な思いを吐露する。
「うーん、断ってまたフラストレーションため込まれて、思い切った行動に出られても困るし、毎日ってわけでもなさそうだから、今のところオッケー、かな?」
そうか、と先輩はリョウタの心境を尊重する。
「じゃあ、とりあえずお試しで反応見るところまでならやらせてやるか?リョウタは優しいからな、つけ込まれないようにするんだぞ?」
はーい、と言ってリョウタと先輩は定時連絡を終了した。
ガチャ。
社長室に戻ると、社長は普通に仕事に戻っていた。が、流石に先ほどの話題を忘れたわけではない。
「で、結果は?」
短く尋ねるに留める。リョウタは、少しだけどうしようかと迷ったが、社長の頼み事を引き受けてもいい、という旨の返事をした。ただしお試しで、と付け加えて。
「そうか、助かるよ。ありがとう。早速明日頼みたいのだがいいだろうか?」
わかりました、と答えてリョウタもまた業務に戻る。
その日の夜
「リョウタ、今日は大丈夫だったか?あいつまた何か企んでるんじゃないだろうな?」
先輩は帰宅するなりリョウタの身の安全を確認した。
「うーん、多分大丈夫、だと思う。なんか、前もあったし。」
そう答えると、先輩は『は?聞いてないぞ。』とリョウタに詳しい説明を求めた。
ああ、あの時はね。先輩と離れ離れになって。お弁当がおいしく感じられなかったから片付けてたんだけど。そしたら食べかけの俺のお弁当食べてたから。社長は昼食難民なんじゃないかって…。
「は?あの野郎、何しれっとリョウタと間接キスしてんだよ。ふざけんなよ。」
みるみる怒りを募らせていく先輩だったが、リョウタもそこは同感だった。
「流石にあれは引いたけど、ただ単にお腹すいてるだけなんじゃ?」
リョウタは社長の頼み事を聞いた時、そういうことだったのかな?と思った。
「いや、そんなわけないだろ。リョウタの弁当とか、リョウタの手料理だから食べたがってるんだろ。やっぱりあいつ懲りてないんじゃないか?」
そうなのか、とリョウタは先輩の鋭い洞察力に感嘆する。
そう、社長の頼み事。それは、『たまにでいいからリョウタの作った弁当を昼食にしたい』ということだった。
「弁当作るとか、時間外労働だと思うぞ。いいのか、それで。」
先輩は反対派なので、どこまでも渋る。
「お弁当くらいで済むならいいかも。社長室防音仕様にされて、なんかされるとかよりは。」
リョウタの中で、社長はかなり極悪人になっているようだ。社長室改造とかどれだけ経費かける気なのだろうか。
そして明日頼みたい、と言われたが、一つ問題があった。
「お弁当箱の大きさ聞いてくるの忘れた!」
リョウタは社長の胃袋の大きさを知らない。どれだけ拵えたら昼食として満足してもらえるのだろうか。社長はいつも昼時になると、いなくなるか、食べずに仕事しているかの二択なのである。いない時にどこで何を食べているのかリョウタは全く知らない。
以前に高級レストランでステーキとか誘われた事があるので、結構食べる方なのだろうか。でもそれは夕食の話だし、昼食はガッツリ食べない方かもしれない。
「とりあえずこれでいーよ。」
先輩は無茶苦茶適当にお惣菜パックを取り出した。
「うーん、確かに今からじゃ本腰のお弁当箱は用意難しいし、明日はこれにしよっか。」
リョウタも先輩の提案は否定しない方なので、社長の初のお弁当はお惣菜パックになった。
朝
「おはよ、リョウタ。無理するなよ。」
先輩が早めに起きてきて、リョウタの様子をうかがう。
「おはよ、先輩。大丈夫だよ。一応あっちからの要望でハンバーグ入ってるけど、ごめんね。あんまり好きじゃないよね。」
そんなのいいって、と先輩は軽くリョウタを赦す。ああ、やっぱりこの人と一緒でよかったとリョウタは安心する。
お惣菜パック丸出しではなんなので、一応布で包み、リョウタは自分の分と社長のお弁当を持って出かけた。
「おはようございます。社長。」
出勤すると、リョウタは先に来ている社長に挨拶をし、業務に入る。今日は特別なことは何もないスケジュールで、リョウタもゆっくり昼食の時間が取れそうだった。
昼
ソワソワし始める社長をよそに、リョウタは業務に集中していた。お昼の鐘が鳴り、現実に引き戻される。
(もうそんな時間か。そういえば、今日は社長にお昼ごはん作ったんだっけ。)
「お疲れ様。今日は天気もいいし、屋上でランチというのはどうだ?」
社長は上機嫌でリョウタに声をかけた。
「いえ、僕はもう少し仕事したいので、社長だけでどうぞ。あ、こちらがお弁当です。」
社長は希望を砕かれたような顔で少し固まっていたが、観念してお弁当を持ってどこかへ出かけて行った。かと思えばお茶を買ってきただけのようで、リョウタの分も、と缶コーヒーの差し入れをしてくれた。
「お弁当を作ってくれたお礼とまではいかないが。頑張りすぎも良くないぞ。」
そう言うと、自分の席に着席してお弁当を広げ始めた。
社長は肉が好きだ。一番の好物はステーキだし、焼肉とかすき焼きとか、ハンバーグなどの類を好んでいると自負している。今回はリョウタにお願いし、ハンバーグ弁当を作ってもらったのだ。好きな子が作ってくれた弁当というものは、こんなにテンションが上がるものなのかと社長は初めての感情に戸惑った。昔学校で、調理実習の度に男子たちが色めき立って、女子からの差し入れを期待していた気持ちを、今頃初めて知った。
(なるほど…。私もまだまだ至らぬところがあるということか。)
社長は以前、リョウタの残した弁当を強奪して食べたことがあるが、リョウタの料理の腕前はかなりのもので、今回も期待が膨らんだ。
前回は煮物などが中心だったので、リョウタの作るハンバーグとか、興味津々だった。しかもハンバーグときたら、手捏ねが主流だし、リョウタの手作りということは。社長は思春期男子くらいまで脳みそが逆流しそうだった。
そうとは知らず、リョウタは業務をキリのいいところまで片付け、自分の分の弁当を広げるところだった。
(ハンバーグとかあんま作ったことないんだよな。先輩これ系好きじゃないし。やっぱ得意分野は煮物かな〜。)
評価してくれる人が周りにいなかったせいで、リョウタは洋食系はあまり得意ではない、というか作る機会が少なかった。とはいえ、料理の知識はあるので、それなりのものが出来上がるのだが、やはりおいしく食べてくれるものを作りがちになるのは仕方のないことだ。リョウタはエプロンより割烹着の似合う青年になっていた。ぼんやり思考の海に沈みながら黙々と食事をしていると、目の前に急に社長が現れた。
ビクッと身を震わせ、社長を見ると、そんなに警戒しなくても、と落胆の声が聞こえた。
「美味しかったよ、ありがとう。これからも時々よろしく頼む。」
そう言って器を返却してくれた。が、唯一の不満が溢れる。
「量に問題はなかったのだが、このお惣菜パックはどうにかならなかったのか?」
と。大きめのお惣菜パックだったので、量的にはやっぱり結構食べる方なのかな、と思ったのだが、リョウタはすみません、と一言断ってから、
「量的な問題を失念していて。急拵えだったので今回はそれになりました。もしよろしければ、丁度いい大きさのお弁当箱を社長の方でご用意いただけると助かります。」
と付け加えた。社長もそれは納得してくれたようで、
「そうだな。私もそこまで思い至らなかった。すまないな。」
と言ってくれた。社長も今まで特定の相手から手作り弁当を受け取るということがなかったので、弁当箱という文化に触れてこなかったらしい。早速手頃な弁当箱を手配する、と言い残して食後の腹ごなしに散歩してくるとどこかへ消えた。
先輩はやきもきしていた。リョウタは無事だろうか。この頃自分はリョウタの恋人というより保護者になりつつあるので、なんとかしたい。あくまでもリョウタとは対等な立場でいたいのだが、あの厄介者がそうはさせてくれないのだ。今朝もリョウタは得意ではない料理を頑張って作っていた。いつもより時間がかかるからといつもより早起きし、手伝おうかと言った自分にも気を遣って大丈夫だから、と言った。リョウタに気を遣わせないように寝ているフリをしていたが、レシピとにらめっこしていたので、あれは相当手間がかかったに違いない。
俺はコンビニで済ませようか、とも言ったが、
「先輩の分作らないなら、お弁当作りたくない。」
と言って聞かなかった。リョウタは優しい子だ。だからこそ心配にもなるのだが、そこが可愛い。それにつけ込んでくる輩はすべからく滅すればいいと思う。いつまでも、優しくまっすぐなリョウタであってほしい。そして自分はそれに見合う男になりたい。それが先輩の想いだった。お昼が終わる前の定時連絡でリョウタの無事を確認した先輩は、午後も頑張ろうと自分のデスクへ戻った。
リョウタは一人残った社長室で、先輩に定時連絡を終えると、夕飯のメニューについて思考を巡らせていた。
お昼はなんだかんだで社長の意見を取り入れたお弁当になったので、先輩はちょっとモヤモヤしているかもしれない。夕飯は先輩の好きなものを作ろう。何がいいかな。最近煮魚食べてないから、今日は帰りにスーパーで魚でも見よう。そうこうしているうちに、お昼休み終了を知らせる鐘が鳴った。
夕方
定時になり、特に残業もなかったので、リョウタは会社を後にした。相変わらず社長はリョウタより後に帰るが、大した残業はしていない、と以前言っていた。まあ、その気になればリョウタの先回りをして家にいたこともあったので、そこまで遅くまでは残っていないというのは本当なのだろう。ただ、先方との打ち合わせも兼ねて夕飯は外食が多いようなことは言っていた。社長というのも大変な仕事なんだろうとリョウタはぼんやり思った。
電車を降り、最寄りのスーパーへ寄って、先輩との家へ戻る。記憶が戻ったことで、先輩が帰ってこいと言ってくれたお陰で、一人暮らし用の部屋は解約した。後に残ったのは、社長から贈られた最先端携帯くらいだが、それも定時連絡などで活用しているので、不用品にはなっていない。リョウタは相変わらずプライベート用携帯を会社で取り出すことはしなかった。先輩との思い出に浸りたい時はあったが、そういうものを会社で出して、誰かの目についたら変な噂の的になりかねないからだ。社長は知っているから問題ないが、かといって社長の前でこの携帯を出すのは嫌だった。なぜなら先輩と自分の思い出を見せつけるのも、社長に踏み込まれるのも嫌だったからだ。リョウタは家へ帰ると、早速煮魚の準備を始める。
(今日は美味しそうなお魚あってラッキーだったな。先輩喜んでくれるかな。)
リョウタの用意する食事を先輩が喜んでくれないことはまずないのだが、リョウタはいつも気にしてしまっていた。もしまずいって言われたらどうしよう、と。先輩の人柄からいって、そんなことを言う人ではないが、先輩には美味しいものを食べてほしいと思うが故のリョウタの取り越し苦労だ。
「ただいま〜。」
程なくして先輩も帰宅した。
「お。今日は豪勢だな。俺も手伝うからちょっと待っててくれな。」
そう言って先輩は部屋着に着替えてきて、手伝ってくれる。二人でわいわいしながら料理をして、一緒に食べることの幸せをリョウタは噛み締めていた。
しばらくそんな日々が続いた。リョウタが記憶を取り戻してから一ヶ月あまり経っただろうか。社長の『たまに』食べたいというリョウタのお弁当リクエストは続いていたが、最初のハンバーグ以来特に注文をつけてくることはなかったので、それなりにリョウタの作りたいお弁当を作って提供していた。
「社長はお弁当以外の時、どこで何を食べてらっしゃるんですか?」
リョウタは以前から疑問だったことを聞いてみた。
ん。と社長は意識をリョウタに向けると、その質問に答える。
「普通に社員食堂を利用したら、半径一メートルが空洞になるのでな。仕出し弁当を頼んでどこか人の少ないところで食べるようにしているが、どうした急に?」
そうなのか、とリョウタは妙に納得してしまった。仕出し弁当うんぬんではなく、社員食堂のくだりだ。
「いえ、以前から社長室で食べる姿をあまり拝見しなかったもので。社員食堂でそんなことがあったんですね。」
社長はリョウタが案外自分を観察していることに驚いたが、冗談めかして続ける。
「そうなんだ。社員食堂に入ったら、ざわめきが起こって、どこか空いている席を探していると、どうぞと譲られ、そこに座って食べていたら、気がついたら周りから人が消えていたんだ。昼時の満員の社員食堂なのに。あたりを見回すと、女子社員に囲まれていて、何やら話しかけたそうにされていてな。手を振ると喜んでもらえたようだが。私には興味のないことだ。ただ、毎回こんなことになっては他の社員がゆっくり食事を摂れないだろうと思い、それ以来社員食堂には行かないことにしたんだ。」
それを聞いているリョウタには、その情景が手に取るように思い描けた。色めき立つ女子社員の群れ、それを恨めしそうに見る他の男性社員までも想像できそうだった。
「確かにそれは問題ですね。」
そう答えると、社長はそうだろう、と頷き、こうつけ加えた。
「社長室であまり食べないのは、そうだな。何か仕事との区切りをつけたいせいだな。まあ、君の弁当を頂く時は、他の社員から社長が誰かの手作り弁当を食べている、と噂されたら面倒だから、誰の目にも触れないところということで、社長室で食べるようにしている。」
それを聞いたリョウタは、社長って案外考えているんだな、とちょっと失礼なことを思った。
社長も浅慮なわけではない。ただ、リョウタのことになると少し暴走しがちなだけだ。
仕事との区切りをつけたいというポリシーを曲げてまで、社長室でリョウタの作ったお弁当を食べているのはやっぱりリョウタのことを諦められていないからに他ならない。
(やっぱり好きだ。愛している。)
社長はリョウタが作ってくれるお弁当を食べるたびに、そう思っているし、今すぐ触れたいという気持ちに駆られる。
しかし、その思いは届くことはないし、社長は自分が触れることは、リョウタを不幸にしかしないと知ってしまった。社長はそっとその想いをその身の奥深くにしまい、今日も仕事をするリョウタの横顔を眺めるに留める。
リョウタは割と感情の起伏が顔に出る子で、見ていて飽きない。そんなリョウタが今ここにいてくれているだけで、自分は幸せなのかもしれないと社長は考えた。あれ以来、先輩に向けるような笑顔を見せてくれたことはないが、雑談している時など、少し微笑んでくれるようになった。以前より、少し距離が縮まった気がして、社長は嬉しかった。今ある幸せを享受しよう、社長はそう考えるようになっていった。
今日の夕飯はカレーにしよう。今日はお野菜が安いし、たまにはこういうのも悪くないかもしれない。リョウタはいつもの帰り道で、そう思いながら最寄りのスーパーへ向かっていた。
にんじん、玉ねぎ、ジャガイモ。お肉は家に鶏肉があるし、こんなものかな。あとカレールーも買わなきゃ。リョウタは必要なものを次々とカゴへ放り込んでいく。カレーは先輩とたまに食べるメニューだから、何も問題はないはずだ。リョウタは手早く買い物を済ませると、家路を急ぐ。カレーは割と簡単だけど、野菜を刻んだりの手間がかかる。お腹を空かせて帰ってくる先輩のことを考えると、あまり待たせたくはなかった。
家につき、買い物袋をどさりとキッチンへ置く。部屋着に着替えた方がいいかな、と思ってひとまずリビングで一息つく。そこへ携帯が鳴った。
「先輩からだ。えーと、今日は遅くなる。か。」
じゃあ、ゆっくり作ろうかな。そう思ったリョウタだったが、気が抜けたのか、ものすごく眠たくなってきた。
(ベッド行ったら絶対起きない。ちょっとだけここで休もっと…。)
リョウタの意識は沈んでいった。
「…ウタ。リョウタ。」
(ん…、完全に寝ちゃってた。先輩の声だ。)
「おかえり、先輩。」
リョウタは寝ぼけ眼でそう答える。
「あ、起きた。寝かしといてやりたかったけど、気を失ってるのかと思った。」
少し心配そうな先輩に、大丈夫、ちょっと眠たかっただけ、と答えたリョウタは時計を見て真っ青になった。
九時過ぎてる。
「やっっっば、何もしてない、ごめん先輩!今からカレー作るから!」
無理しなくていいぞ。と言っている先輩を完全スルーしてキッチンに直行し、リョウタは材料を開ける。
「おーいリョウタ。カレーは明日にして、今日はどっか食べにでも行かないか?」
先輩はリョウタが疲れているのに、これ以上体に鞭打って料理することのないよう声をかける。しかしリョウタは完全にスイッチが入っており、カレー以外は考えられなくなっていた。
「お肉悪くなるし、今から作る。」
頑として動かないリョウタ。こうなったらテコでも動かない。と知っている先輩は諦めてカレーの完成を待つことにした。
リョウタは冷凍してあった肉を出すところまではしていた。数時間経った今、肉はそれなりに解凍されている。
(一旦出したお肉しまったらおいしくなくなっちゃうからな…。)
リョウタは先輩の口に入れるものがおいしくないことが許せなかった。なので、半解凍されたお肉は今から消費するべきだ。先輩が部屋着に着替えてきて、手伝うことはないかと言ってくれたが、リョウタはさっき帰ってきた残業帰りの先輩には休んでいて欲しかった。
「大丈夫、カレーなら簡単だから。ちょっと時間かかるけど、ほんとすぐだから。」
リョウタはああせねば、こうせねばという事にたまに縛られがちになる。そんな時はそっと見守ってあげるのが一番リョウタを傷つけない方法だと先輩は長年の経験から知っていた。
(カレーできるまで待っておくか。)
先輩はリビングでだらりとする。キッチンが見えているのだが、忙しなく動き回るリョウタを見ながら、可愛いなあと思っていた。
(リョウタって完全に小動物だよな。)
口に出すとリョウタはそんな事ない、と反論するので口には出さないが、リスとかその辺の小動物っぽい。手際よく材料を刻み始めたリョウタの後ろ姿を見ていると、久しぶりにその姿を見た気がして、懐かしいとともに、リョウタに対する感情が溢れ出て、段々抑えがきかなくなってきた。
(あ、やばい。)
先輩はリョウタに対する情欲を抑えられなくなってきていることに危険を感じていた。あんな事があってから、先輩はリョウタが戻ってきた後も今までリョウタに触れていない。一緒に寝たりはしているが、意思を持って触れることは自ら禁止していた。社長に触れられて嫌な思いをしたリョウタが思い出さないようにー。
先輩は実を言うと苦しい日々を送っていた。目の前のリョウタに触れたくても触れられない、ジレンマを抱えていた。いや、リョウタに言えば、きっと大丈夫、と笑って答えてくれる気がするが、先輩は言い出せずにいた。自分はリョウタを傷つけない存在でいたい。わがままで身勝手な願望だと分かりきっていた。そして今、リョウタに触れたいと思う自分もまた身勝手なのである。ただ、この先一生リョウタに触れないというのは発狂しそうだ。そう、いつかは許しを得て触れなければと考えていた。今日はその第一歩かもしれない。
決心した先輩はリョウタの背後からするりと腕を絡ませた。
「先輩?どうしたの…んっ。」
振り向いたリョウタに先輩はそっと唇を重ねた。リョウタは一瞬ビクリとしたが、抵抗はしなかった。
しばらく二人はそのまま時を過ごしたが、やがて唇が離れる。
「先輩?」
少し驚いたようなリョウタの顔を改めて見ると、少し紅潮していてやはり可愛かった。
「リョウタ、ごめん。ちょっと我慢、できない。」
そう言うと先輩はリョウタの体に指を走らせ始める。
「あっ、ちょ。先輩、なんかスイッチ入ってる?」
うん、と短く返事をした先輩はリョウタを弄るのをやめようとはしない。しかしここでリョウタは先輩に珍しく抵抗してみせた。なぜなら。
「ちょっと待って。ほんと。今は、ダメっ、野菜切ってるから、あっ。」
そんなリョウタの可愛い抵抗には動じずに先輩はリョウタを撫でるのをやめない。
「リョウタ。やっぱ、カレーは後にして。もう、むり。」
そう言いながら先輩はリョウタの首筋にキスをしている。リョウタもそれに反応して、んっと声を上げているが、カレーは後にして、はどうなんだろう。お腹。空いてる、デショ。
先輩がリョウタのイイトコロを知らないはずはなく、少し触られただけでリョウタの意識もトロトロになっていた。
「せん、ぱ、まって。こんなとこで…。」
だめだよ。と言いたいが続きが出てこない。気持ち良過ぎて変になりそう。久しぶりの先輩の攻撃にリョウタももうむりだった。
「嫌ならやめる。」
先輩はやめる気などさらさらないが、リョウタが心の底から触れられたくなくて抵抗しているのならやめなければ、とは思った。
「や、じゃ、ない……。」
半分蕩けかけた意識の中で、絞り出したリョウタの言葉は先輩をなお興奮させた。
「じゃ、やめない。」
そう言うと先輩は攻勢を強めた。半分崩れ落ちかけたリョウタを優しく床に横たわらせると、シャツの前を開ける。
元々インドアなリョウタの肌はこれでもかと言うほど白く、興奮のためか少し紅くなっているのがよくわかって、先輩はますます食指をそそられる。
先輩も冷静なフリはしていたが、頭の中はリョウタでいっぱいだし、全く冷静とはかけ離れたところにいた。
久しぶりのリョウタの感触に、先輩はおかしくなりそうだった。いや、既におかしくなったからこんなところで行為に及んでいるのかもしれない。床が固くて、リョウタが可哀想。よりも己の欲望を満たすことを優先してしまっている。でも、リョウタから『嫌じゃない』と言ってもらえるタイミングは今を逃したらないかもしれない。そんなはずないのに、先輩は焦っていたのだろう。
先輩はいつもリョウタにしていたように、その胸に舌を這わせる。リョウタがビクリと反応するのを感じて、先輩の気持ちも高揚していく。
ここ最近、お互い辛い思いばかりですれ違っていた二人の、パズルのピースがようやく埋まっていくように感じられた。
一旦想いを遂げた二人は、ベッドに移動して夜通しお互いを確かめ合った。
翌日
(あ、これ立てないやつだ。)
リョウタは直感した。そもそもそんなに寝ていない。今日は平日。昨日はそんなこと気にせずに先輩としたいがままにしてしまった。失敗した…。とリョウタが思ったかは別として、先輩はいつもジャストタイミングなのである。
「おはよ、リョウタ。」
おはようと言ってくれる先輩がいることがリョウタの何よりの喜びである。
「おはよ、先輩。今日会社行けそう?」
自分は無理なので先輩に尋ねてみる。すると先輩は少し驚いたようにリョウタを見て、
「無理だが?」
と当然のように言った。むしろリョウタは行くつもりなのか、という顔をされた。いや無理だけど、と先輩と笑い合いつつ会社にメールを送る。体調不良につき休みたいという旨のメールである。先輩は程なくして許可が降り、一日有給を取る事になった。
リョウタの方はすぐさま社長から直々に電話がかかってきた。
「どうした?熱でも出たのか?」
と問われ、ちょっと疲れが出ただけですと答えると、そうかという返事が返ってきて、通話はすぐ切れた。勘繰られなくて良かったかな?とリョウタは少し首を捻るが、まあいい事にしよう。
社長は嫉妬に狂っていた。リョウタの声が掠れ気味だったし、リョウタの電話の向こうで先輩がくあ、とあくびをするのが聞こえた。あれは絶対わざとだ。それを加味すると、昨日何があったのかが容易に想像できた。くそ、なぜだ。あれほど望んでも手に入らないものがそこにはあった。わざとらしく見舞いにでも行って邪魔してやろうか。と思ったが、生憎今日の社長のスケジュールはみっちりリョウタによって組まれており、隙間時間もほとんどない。なんてタイミングの悪い日なのだろう。しかし仕事に穴をあけてしまっては、元も子もない。社長は仕方なくリョウタの組んだスケジュールをこなす事にする。
有給を獲得した二人は、昼頃にもそもそと起きだしてきた。それまでまたくっついて寝ていたし、先輩もリョウタを離す気はなかった。リョウタの方も先輩といられる幸せを噛み締めていて、お互い幸せを感じていた。
「あ、昨日の具材…。」
起きてきて何か食べようとキッチンに向かった二人の目に入ったのは放置されたカレーの具材である。玉ねぎは切っている途中でカピカピになっている。
「う〜ん。どうしよう、これ。」
リョウタが困り果てていると、先輩は煮込めば一緒じゃね?とめちゃくちゃ適当な発言をする。え、流石に…。とリョウタが渋っていると、大丈夫大丈夫、と先輩は具材をつづきから刻み始めた。
「リョウタは休んでていいよ。まだしんどいだろ。」
そう言って先輩が色々と食材を処理していく。気遣ってくれるのは嬉しいのだが、先輩も結構体力使ったんじゃ?とリョウタの頭にははてなが浮かぶ。
そんな心配をよそに、先輩はどんどん料理を進めているので、リョウタは慌てて手伝う事にした。
「ジャガイモ、剥くの手伝うよ。」
リョウタはそう言ってピーラーを取り出す。先輩は休んでていいのに、と再度言ったが、リョウタは先輩と一緒に作りたいことを伝えると、そうか、と言って先輩もそれ以上リョウタの作業に何か言ったりはしなかった。先輩は料理ができないわけではないのだが、いつもリョウタが作っていた。というのも、先輩はリョウタの作る料理が好きだったし、リョウタは先輩に料理を振る舞うのが好きだったからだ。結果リョウタの方が料理が上手くなってしまい、結局リョウタが料理を作っていた。リョウタはそれを苦にしたことはないし、先輩も手伝ってくれたりするので、共同作業ができてリョウタは料理するのが好きである。今日もこうして先輩と一緒に料理ができて、リョウタは幸福を感じていた。
久しぶりにリョウタを抱いて、箍が外れてしまったかもしれない。先輩はちょっと反省していた。立てなくなるまでさせるつもりじゃなかったのに。でも気づいたら、お互いがお互いを欲していて、歯止めが効かなくなっていた。久しぶりすぎて、リョウタとの出会いから何から思い出してしまい、ついついリョウタが可愛くて仕方なくて、求めすぎてしまったかもしれない。でも今、リョウタは文句を言うでもなく、ニコニコしながら自分の隣でジャガイモを剥いてくれている。嫌がられることはしてない、はず。と自分に言い聞かせ、リョウタに申し訳ないことをしたという罪悪感で料理を率先して始めた。気づけば夕飯になろうかという時間だし、三食抜いている事になる。昨日の夜からお腹は空いていたが、それどころじゃなかった。それより何より、リョウタが欲しかった。自分でもこんなに飢えていたのかと思うほどリョウタを目の前にすると抑えられなかった。社長も同じ気持ちだったのかもしれない、とは思うが同情はしない。リョウタはもう、俺のものだ。絶対に離さない。二度と。
「…パイ。先輩、お鍋焦げちゃうよ。」
先輩が固く決意していると、リョウタが心配そうにこちらを気にしている。しまった、考え込んでしまった。ごめん、ちょっと考え事してた、と言って火を緩め、危うく焦げそうになった玉ねぎを救出する。他の具材も炒め、順調にカレーを作っていく。煮込んでいる間、二人は他愛もない話で盛り上がる。
最新スイーツの話、数式についてなど、その話は多岐に渡るが、リョウタはそこでポツリと漏らした。
「そういえば俺、記憶ない間もスイーツと数式には食いついてたんだよね。」
先輩はその一言を、複雑な気持ちで聞いた。しかしそれはリョウタがリョウタである証明だと先輩は思った。
「そうだな。リョウタはリョウタってことだ。根っこは同じって事だろ?」
その答えを聞いたリョウタは目をぱちくりとさせ、そっか、と安心した様子で微笑んだ。気にしていたんだな、と先輩はリョウタの不安を一つ取り除けたかもしれない事に安堵する。
リョウタは不安を抱えていた。記憶をなくして先輩のことを忘れていた時の自分について。先輩のことを忘れるなんて、なんて失礼なことをしたのだろう、とリョウタは思っていた。自分を暗闇から救ってくれた大好きな先輩のことすら忘れてしまっていた。あの頃自分は何者なのかも全くわからなかったとはいえ、先輩はどう思ったのだろう、と。
でも先輩は変わらずリョウタのことを愛おしく思ってくれているのだと昨日のことで分かった。しかし自分はこのまま先輩の優しさに甘えてしまっていいのだろうか、と疑問に思ってもいた。リョウタはせっかくの機会だし、先輩に全て曝け出してしまう事にした。
「先輩は、俺が記憶ない時、どんな気持ちだった…?どうしたらいいのかわからない。」
リョウタの発言に先輩はなんだ突然、という顔をした。
「どんなって。そりゃ悲しかったけど、リョウタが自分を守るために記憶に蓋をしたのなら、それはやっぱり手離してしまった俺の罪かな、とか…。」
その言葉にリョウタは弾かれたように反応する。
「先輩に罪なんかない!」
先輩は余計に驚いた顔をしたが、リョウタを諭すように抱き寄せると、こう続けた。
「いや。守れなかった俺にも罪はあるよ。それを責めないでいてくれるリョウタはやっぱり優しいんだな。その優しさにつけ込もうとする奴がいたら、今度こそ俺はリョウタを守るためになんだってするよ。ありがとな。」
先輩とリョウタはお互いを抱きしめながら、互いの優しさを噛み締めた。
「先輩のこと忘れてたの、怒ってないの…?」
リョウタの不安はそこにあったのか、と先輩は理解した。
「怒れるはずないだろ。そこまで追い込まれるまで何もできなかった俺の落ち度だ。もう気にするな。これからのことを考えればいい。」
先輩はいつもそうだ、とリョウタは思う。高校で出会った時もこれからのリョウタのために受け専はやめろと言ってくれた。就職する時も、記憶を失った時も、いつもこれからのことを考えて先輩はアドバイスをくれた。
「先輩の方が優しい。いつも俺の心にあったかいものを置いてってくれる。」
二人互いを抱きしめながら、温もりを感じあって時を過ごす。
ピンポーン
(チッ、誰だこんな良い時に。)
先輩は心の中で舌打ちをした。時々現れるダークモードである。
画面を見ると、そこに立っているのは紛れもなく社長である。先輩は二度目の舌打ちを心の中で済ませると、無視しようと思ったが、そうするとリョウタの電話が鳴る可能性がある。リョウタの耳を汚したくないという思いから、渋々応対する。
「…はい?」
低音で短くそれだけ問うと、返事を待った。
「手短に言おう、邪魔をしに来た。」
邪魔だと分かっているなら帰ってくれ、むしろ来るな。と思ったが、リョウタが誰?と聞いてくる。
「ああ。宅配便の人が部屋間違えたって。」
それを聞いた社長が思わず反論する。
「おい、それは流石に酷いんじゃないか?」
リョウタはだんだん近づいてきていたので、その言葉が聞こえたようだ。
「あれ、社長?宅配便の人??」
リョウタは先輩に疑問を投げかける。
「ごめん、リョウタ。耳が汚れるからお部屋行こうか。」
おい、と再度反論する社長をよそに、先輩はリョウタをインターホンから遠ざけた。
「帰れ。」
先輩はドスのきいた低音でそれだけ言う。社長と先輩はもはや犬猿の仲なので、火花を散らしまくっている。
「邪魔をさせてもらう。」
社長は引き攣った営業スマイルで引く気はさらさらないと宣戦布告する。
そんな押し問答が五分くらいは続いただろうか、いい加減マンションの迷惑だが、そんなことはお構いなしに二人はバトルを繰り広げる。
「ねえ、カレーできたよ。」
そんな二人に天使が舞い降りた。リョウタである。
先輩は、リョウタによしよし、と頭を撫でてやる。
「やあ、ご相伴に預かっても?」
インターホンの向こうから社長がリョウタに話しかける。
(何勝手な真似してくれてんだ?)
先輩はもうキレ気味である。そんな様子はリョウタ相手にはおくびにも出さず、もうちょっと待っててくれな、と言ってキッチンに行くよう仕向ける。
「先輩、これ三日かかっても多分二人じゃ無理だよ。」
先輩が目分量で作ったカレーは到底二人では消費しきれない量になったらしい。それみたことか、と社長が攻勢に出る。
「私は結構食べる方だから、協力できると思うんだが?」
仕方なく二人は社長を再び家に上げる事にした。
「変な気起こしたら、マジで捻り潰すからな。覚悟しろよ。」
と、先輩は念を押した。社長が家に来るとロクなことがないからだ。そうしてなぜか三人で食卓を囲む事になった。
「社長、本日はお休みをいただいて申し訳ありません。明日からは問題なく出勤します。」
休んだことでお叱りを受けるのかと身構えていたリョウタが開口一番に社長に謝罪する。
「いや、いいんだ。ただちょっと近くまできたから様子を見に寄っただけだよ。」
少し上機嫌な社長はそう言うと、カレーに手をつける。うまいと食べる社長にリョウタが知らずに追い打ちをかけた。
「思った以上に美味しくできたかも。二人で頑張った甲斐があったね。ね、先輩。」
社長のハートは砕け散った。リョウタはリョウタで先輩と一緒に作ったカレーを食べられて上機嫌である。先輩は社長の表情の変化を見逃さなかったが、ニヤリと笑って済ませた。
「ほんと。リョウタは料理うまいから。俺なんか目分量だもんなー。」
先輩の料理も好きだよ、と二人はいちゃいちゃし始める。社長にとっては針の筵であるが、これはこれで自分が招いた結果なので仕方なかった。
(リョウタの笑顔をまた見られるだけでも幸せ、なのかもしれないな。)
社長は今ある現状を受け入れるしかないのだ。ニコニコして先輩と笑い合っているところを見られただけでも、全てを失ったあの時から比べれば良しとしなければいけないのかもしれなかった。幸せそうな二人。というかリョウタ。自分はお邪魔虫だと分かっているが、それでもリョウタが可愛いので会社にいる間は一緒に仕事をしてほしいし、時々そのリョウタが作るお弁当を食べたいと願っている。社長は食べ終えると、お茶を濁さないようにそろそろお暇するよ、とリョウタと先輩の愛の巣を後にした。そこは自分が踏み込んでいい領域ではないと感じたかどうかはさておき、マンションを訪ねるのはもうやめようと思っていた。
会社で見せてくれるリョウタの一面が、自分にとってのリョウタなのだと社長は感じたようだ。
一方先輩とリョウタは、社長があっさり帰って行ったことに拍子抜けしていたが、反省してくれているのだろうと捉える事にした。
「んじゃ、俺たちも明日に備えて寝るか。俺たち会社員だもんな。働くか。」
自虐気味な先輩に、そうだね、とリョウタは笑って答えた。
二人でお皿を片付けた後、先輩はリョウタに向き直る。
かしこまった様子に、少し首を傾げたリョウタだったが、先輩はとても真剣な顔つきでリョウタにこう宣言した。
「俺、相原ハルキはリョウタを愛しています。一生を共にしてくれますか?」
と。
リョウタはこれ以上ない幸福で満たされていた。もちろん、返事は『はい』だった。
かくして、リョウタの話はここでおしまい。自傷高校生だったリョウタの、ハッピーエンドなお話。
だがそれは一般生徒が何も知らないだけで、放課後のそこかしこで行われているのは女子のいない学校で持て余した男子たちの性欲処理である。
そしてその一端がここでも繰り広げられていた。
啼く男と、そして啼かせる男。リョウタにとっては日常であり、なんの痛痒も感じなかった。
というのは大嘘で、リョウタは絶賛啼かされている最中である。
それもそのはず、リョウタはこの狭い学校という籠の中で、『受け専』と呼ばれる立場であり、日々他の知らない男子から組み敷かれる役割だからだ。
相手の男は満足したのか、リョウタからモノを引き抜くと、端金を乱雑に置いて去っていく。
(そんなに男とやるのがいいのかね?外で女でも見つけろっての…。)
リョウタは置かれた金を見遣りながらそう思った。だが客がいなくなってはリョウタもおまんまの食い上げだ。本音は隠すに限る。
まァ、客は生徒だけじゃないから、いいんだけど。
そう、驚くことに、リョウタのような『受け専』を利用するのは生徒だけではない。
腐った世の中だ。だがリョウタもそう言いながら、受け専をやめるつもりはなかった。
なぜなら、受け専をしている間だけは、居場所が与えられる気がしていたから。
リョウタは家庭にどうも馴染めなかった。それは幼い頃からの話で、三つ上の兄だけが唯一の理解者だったと言ってもいい。だがその兄も、大学に進学して家を出てしまい、リョウタはますます孤立した。そしてその孤独感がリョウタを受け専へとのめり込ませた。
リョウタを抱く男どもは性欲を満たし、リョウタはその行為によって自らを傷つけることで満足感を得るようになっていた。一種の自傷行為だった。
だが、リョウタを愛していない両親は、そんなリョウタの行為に気がつくわけがなかった。
そんな生活が半年ほど続いただろうか。すべてがどうでも良くなっていたリョウタに転機が訪れる。それはあまりにも突然の出来事で、リョウタ自身でさえ咄嗟に理解できなかった程だ。
いつものように、見知らぬ生徒ーいや、こいつは何度か見た覚えがあるがどうでもいいーに買われていると、突如密事が行われている教室のドアが開け放たれた。
(なんだ、まじめぶった先公にでもバレたのかな…。)
リョウタははぁ、とため息をつき、乱入者をうろんげな瞳で見遣る。だがそこにいたのは、同じく制服を纏ったこの学校の生徒だった。逆光で顔は良く見えない。
(え、何何何?)
事態を飲み込めないでいると、乱入した生徒はずかずかとこちらへ向かってきた。
(まさか三角関係で刺されたりしないよな…。)
リョウタは命が惜しくなったわけではないが、そんなことを考える程には混乱していた。
向かってきた乱入者は、リョウタの上に乗っかっている輩をいとも簡単に引っぺがすと、リョウタを起こし、その腕を引いて歩き始めた。リョウタは更に混乱の度合いを深めていた。
なんとか死守したズボンだが、穿く暇も与えず腕を引く人物は廊下を歩き続ける。
(いや、流石に恥ずかしいんだけど…。)
いくら人気の少ない放課後遅くとはいえ、下半身丸出しで廊下を歩くのは恥ずかしすぎる。リョウタにだって羞恥心くらいある。
リョウタは腕を引く人物が誰なのか確かめようと顔を窺った。だが、脳内にヒットする人物はいない。つまり、この学校の生徒だけど、知らない人なのだ。
ほどなくして、奇跡的に誰ともすれ違わず屋上へ続く階段の踊り場に着いた。
ずっと断固として離さないという強い意志すら感じられるほど力強く腕を引いていた生徒がようやく腕を解放してくれる。
振り向いた生徒の顔をやっと正面から見て、リョウタはハッとした。
(この人ー。)
知っている訳ではないが、この学校ではあまりにも有名な存在。校内屈指のイケメンと名高い三年生の先輩だ。その上ものすごく頭がいいとか、裏の世界では難攻不落だとかで、ある意味どこへ行っても有名な人物だ。周囲の高校でも女子が放っておくはずもなく、モデルのスカウトなんかも来るらしい。だが、難攻不落なのだ。誰も彼の弛んだ姿を見たことがないと言われている。
(そんな完璧超人センパイがなんで…?)
なんで自分の所へ来るのか。
なんで自分の事を引っ張り出したのか。
なんであの場所が正確に分かったのか。
はてなだらけのリョウタに、ようやく先輩は口を開いた。
「なぁ。余計なお節介だったら悪いんだけど。」
先輩はゆっくりとリョウタに語りかける。
「お前、なんか事情があるだろ。」
「え?」
リョウタは驚きを隠せなかった。今までどれだけ痴態を晒そうとも、それに気づかれたことは一度たりともないからだ。
「なん…別に……。」
なんで悟られた?リョウタが返答に詰まっていると、先輩はふぅ、と一息ついて、またリョウタに語り始める。
「なんで、とか思ってる?」
リョウタはぎくりとした。何この人。人の心が読める機能とかついてるんじゃ…。そう思いつつ観念したようにリョウタは頷いた。
「お前ら、いつも実習棟の方でやってるだろ。その渡り廊下が見える位置にある階段、俺の昼寝の場所なんだよな。」
こんな完璧に見える人が昼寝とかするんだ…という驚きはさておき、本当になんでもお見通しな事に恐れ入る。
「お前結構有名なんだぞ。断らない受け専、とかでさ。大抵のやつは選り好みするって話らしいぞ。」
有名な受け専とか言われても恥ずかしいだけなのだが。確かに誰だろうと断った試しはない。
(だって、メチャクチャにしてくれるなら誰でもいい訳で…。)
リョウタは、階段に座って俯きつつ、先輩の話をそんな事をぼんやり考えながら聞いていた。
「そんなお前だけなんだよな。いつも思いつめたカオしてさ。渡り廊下通っていくの。」
「え…。」
そんな顔してたっけかな。リョウタは今まで自覚したことはなかった。そして誰からもそんなことを指摘されたこともなかったのだ。
「お昼寝してるんじゃないんですか…。」
さっきそう言ったはず。なのに、なんで人間観察してるんだよ。という謎の反抗心から、少しだけむくれてリョウタは突っ込む。
「最初はただそれだけだったさ。でも、お前の様子が明らかにおかしかったから。そこから気になって、お前が通る時は、気にするようにしてた。」
先輩は何事もないようにそう言ってのける。
(そんなにおかしかったのかな、俺。)
リョウタは誰かに気にかけられたことなんて、ほとんどなくて、唯一兄だけが、少し心配してくれていたけど。両親ともうまくやれなくて、学校でも友達なんていなくて。自分の言動なんて、誰も気にしていないと思っていた。
「お前さ、受け専やめたら?」
先輩はそう優しく諭してくれる。でもー
「俺は俺なりに受け専っていう立ち位置に満足してますし。あとお前じゃないです。リョウタです。」
(さっきからお前お前って。なんか失礼だろ。)
そうすると、意外な答えが返ってきた。
「ごめん。そうだよな。でも、あったことほぼないやつからいきなり名前呼ばれるのもキモくね?って思っちゃってさ。ちゃんと知ってる、ごめんなリョウタ。」
お名前調査済みだったー…。そりゃそっか。有名な受け専って把握してる時点で名前とかクラス学年くらいバレるよな…。少し引いたリョウタだったが、回り回ってみれば自分のせいである。そして先輩は更に続ける。
「でも受け専で満足、はどう考えても嘘だろ。じゃなきゃあんな顔しないと思うんだけど。」
痛いところを突かれた。でもリョウタは受け専でいる以外に自分を保つ術を知らなかった。
「どうせ俺みたいなモブ男誰も気にしてないし、どこで何してようがいいじゃないですか。」
リョウタは吐き捨てるように言った。本音だったし、本当にどうでもよかった。
だが、先輩の答えはリョウタに衝撃を与えた。
「気にしてるだろ‼︎俺が‼︎」
それまでとは打って変わって強い口調の先輩に、リョウタはかなりびっくりさせられた。
そして、顔を上げてみると、真剣な眼差しでこちらを見ている先輩の姿があった。
あとさりげなく階段の壁で壁ドンされている。
流石校内屈指のイケメンの目力は半端なかった。見つめられていると、だんだんこっちが気恥ずかしくなってくる。そんなことはお構いなしに、先輩は更に続ける。
「なんか悩みがあるなら誰かに相談するとかあるだろ。ほら、今なら俺が聞くし。あんな思い詰めた顔して、いつかどっかいなくなるんじゃないかって不安にさせんなよ…。」
先輩は本当に心配そうにしていた。
(いや、いつか本当に消えるつもりではあったけど…。)
それは高校卒業の時。大学に行ったところで将来の夢があるでなし、大学なんて行こうものなら高校時代のこの副業のことを持ち出されて、強請られたりするかもしれない。
何しろリョウタにとっては何もかもが悪い方向へとしか考えられない状態にあった。
でもー
リョウタは一旦先輩に全てを打ち明けてみようと思った。今までこんなに真剣に、薄い関わりしかない人が一生懸命に、リョウタを心配したり、諭してくれることは経験になかったから。
リョウタの話を聞き終わった先輩は、静かに頭を撫でてくれた。そしてこう言った。
「辛かったな、リョウタ。でも、その話を聞いて確信したことが二つある。」
「確信したこと…?」
先輩は元の優しく静かな口調に戻っていた。
「まず。受け専はやめろ。リョウタの為にだ。もう少し自分を大事にしろ。」
(自分を大事に…か。考えたこともなかったな……。)
リョウタは自分を傷つけることでしか、自分を認識できなかった。それを止めるべきと言っているのだ。一朝一夕にやめられるのだろうか。もちろんそれはリョウタの意志の強さにもよるが、今まで断らなかったせいで、一定数客がついてしまっているということもある。突然やめますと言って、やめられる話ではなかった。
(納得してくれなさそうな面倒な客、いそうだな…。)
リョウタは決して腕に自信のある方ではない。暴力に訴えられたら、勝てる見込みは低い。
そして一旦暴力でねじ伏せられると思われたら、一巻の終わりなのではないか。今までは抵抗したことがないから、そんなことはなかったが、もしそうやって強制的に続けさせられたらどうしろというのか。
そんな不安を胸に、もう一度先輩の方を見る。
先輩はそんなリョウタを知ってか知らずか、でも一切の迷いのない目をしていた。
「もし。もしやめたいって言ったら…。」
リョウタは先輩の反応を窺う。
「俺はやめるべきだと思う。そしてリョウタがもしそう決めたなら、やめられるよう一緒に努力していくつもりだ。もちろん、後片付けの件も含めて、な。」
先輩はやっぱりなんでもお見通しなんだなあ。リョウタはもう驚かなくなってしまっていた。
頭のいい人っていうのは、何か違う生き物なのかしら。そう思った程だった。
でもそこで一つだけ疑問が残った。
先輩は頭のいい人で、背もそこそこ高いけれど、どう見ても喧嘩とかに強そうな、いわゆるガタイのいい人、ではなかった。
(イケメンパワーでなんとかするのだろうか…。)
リョウタがとても頭の悪いことを考えていると、先輩は安心しろ、と言ってくれた。
「俺も暴力は苦手な方だ。だが、ものは使いようという事だ。」
またリョウタの頭の上をはてなが飛んだが、スーパーイケメンには何か策があるということだろうと無理矢理納得した。
「あ〜〜、てかさ。」
突然先輩の口調が変わる。
「対外的な物言いにも疲れたわ。リョウタの前では俺、素でもいいかな。」
もちろんです、と返事をしたところで、先輩からツッコミが返ってきた。
「リョウタも。素でいいよ、先輩後輩とか抜き。な?」
そう言われたリョウタは、自分でも訳がわからないうちに泣いていた。意識していないのに、涙がなぜだか溢れて止まらないのだ。優しさが身に染みた、というやつだろうか。そんなリョウタを先輩は抱き寄せ、涙が止まるまで付き合ってくれた。
(なんで俺にこんなによくしてくれるんだろ…。)
見ず知らずのリョウタを気にかけ、自分のためでなく、リョウタの為にと諭してくれる。
こんな良い人間を、リョウタは知らない。兄でさえ、仕方ないとはいえ、自分の都合のために家を後にしたのだから。決して兄がリョウタを愛していなかったと言っているのではない。
ただ、兄から受けるよりももっと手厚い愛を受けている気がした。勘違いだったら恥ずかしい。でも、先輩の言葉は真摯なものだった。
そうこうしているうちに、日も暮れかかり、リョウタは先輩と別れて家路につく。とても名残惜しかったが、先輩にだって先輩の生活がある。それくらいリョウタは理解していた。
家に帰ると、すっかりリョウタには興味を失った両親の冷たい目を無視し、一人自室で今日あった出来事を反芻していた。
(怒涛の一日だったなー…。)
リョウタは先輩の優しさを一人噛み締めながら、眠りについた。
ー翌日ー
「おはよ、リョウタ。」
登校していると、早速先輩が声をかけてくれた。おはよ、と挨拶を返し、学校への道すがら雑談しながら歩いていく。すると、校門のところに昨日リョウタと楽しむはずだったのを邪魔され、引っぺがされて地面に打ち捨てられたあいつが立っていた。
(あれ、絶対待ち構えてるよな…どうしよ……。)
できれば回れ右してどこかの公園でも行ってしまいたかった。家には帰りたくなかったし。
「いくぞ、リョウタ!」
気がつくと先輩とあいつの目がガッチリ合っている。向こうも痩身痩躯で、ガタイのいい人ではないが、朝っぱらから校門で喧嘩はまずい。どうするんだろう、先輩は。リョウタは不安と緊張で吐きそうだった。でも、先輩の先の一言で、前に踏み出そうと決心できた。
(そうだ、俺はもう一人じゃない。)
リョウタは校門へ向かって一歩一歩先輩と一緒に歩く。そして件のあいつの前に立った。
「やぁ、リョウタ。昨日はひどいじゃないか。僕のこと捨ててそこの有名人くんといなくなるなんてさ。」
相手は嫌味たっぷりにリョウタと、そして先輩目がけて言葉を放つ。リョウタはどう言っていいかわからず、思わず黙ってしまう。
そんな様子を見てとった先輩が、今度はお返しとばかりにこう言い放った。
「当然だろ。俺の方が、お前よりリョウタのイイトコ知ってんだよ。」
(なんか意味深な発言だな〜…。)
もはやリョウタが入る隙もなく、先輩と昨日の輩はバチバチ火花を散らしているようだ。
輩は、睨み合っても先輩には勝てないと思ったのか、フン、と鼻を鳴らして去って行く。
去り際の輩に、先輩はあることを耳打ちした。
「リョウタは俺がもらった。今までリョウタに世話になってた奴らに顔がきくなら皆にそう伝えろ」
と。
その噂は、学校の裏側では風が吹くより早く瞬く間に広まった。
ーえ、リョウタが?
ー嘘、しかもあの難攻不落とかよ⁉︎
ーリョウタのやつ、どうやってあいつを!
ーうらやましい、あの難攻不落に振り向いてもらえるなんて。
・校内屈指の受け専が卒業か?
・難攻不落、ついに落ちるー
二大スキャンダルが校内を吹き荒れた。
「さぁて、忙しくなりそうだな、なっ、リョウタ。」
先輩は放課後の屋上へ続く階段の踊り場で、楽しそうにそう言った。
「なんでそんなに楽しそうなの…。奴ら馬鹿だから、束になってかかってきそうで嫌なんですけど…。」
リョウタの予想は的中した。
「いたぞ、あそこだー‼︎」
「難攻不落をとっちめろ!リョウタは俺たちのもんだ!」
「リョウタ、イイ子だからこっちへ帰っておいで〜〜」
「うるさい!リョウタとやら、難攻不落を汚した罪は重いぞ!覚悟しろ‼︎」
もはやまとまりすらない、馬鹿の集団にリョウタは辟易した。
「リョウタ、こっちだ!」
なぜか楽しげな先輩はリョウタの腕を引いて屋上方向へ上がっていく。
「追え!屋上なら逃げ場はねぇ!きっちり落とし前つけてもらうぜ!」
(こっちだ。隠れろ、リョウタ!)
二人は、屋上の扉の裏に隠れて、集団が屋上に入っていくのを見届けてから、静かにドアを閉め、鍵をかけた。
ぱたん、ガチャ。
「ああ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ‼︎」
卑怯だのなんだのと喚いているが、自業自得である。
そこに先輩が静かに語りかける。
「代表者を出せ。」
すごすごと何人かが扉付近に歩み出た気配を感じ取り、先輩は話を始めた。
「これからもしリョウタに手を出すようなことがあってみろ。すぐに風紀委員会に通告してやるぞ。」
風紀委員と聞いた代表者たちが震え上がるのを感じた。
ー風紀委員会。この学校、もとい実習棟でやり取りしている連中にはもっとも恐るべき存在。
彼らは教師ですら取り締まり、風紀を乱すものを絶対に許さないことを信条としている集団だ。リョウタは未だ遭遇したことはないのだが、どこからか情報を掴んできては、お楽しみの連中を取り締まり対象として裁き、停学、もっと悪ければ退学に追い込むと聞いている。
「忠告はしたからな。」
先輩はそれだけを言うと、鍵を開けて彼らを解放した。
帰っていく輩たちは横目で先輩を見遣り、打つ手がないことを痛感して舌打ちしながら去っていった。
なぜなら、『難攻不落』の出来の良さは誰もが知るところであり、彼らにとっては風紀委員の次に敵に回したくない相手だからだ。
これ以上リョウタに関わるということは、難攻不落と風紀委員会の両方を敵に回すことを意味する。
そこまでしてリョウタにこだわる輩はいるにはいるだろうが、結局勝敗は見えている。
あまりにも分の悪い戦いになるとその場にいた全員が理解したことだろう。
最後に、リョウタではなく、難攻不落《・・・・》お目当てだった輩が、リョウタを恨めしそうに見遣り、なんでお前なんかが、という憎々しげな顔をしてから去っていった。
それからはリョウタに平和が訪れた。
放課後は自傷の時間でなく、先輩と共に勉学に励むようになった。
とはいえ、リョウタには少し不安な事があった。
それは、先輩が卒業した後の二年間。
リョウタは自分だけで自分の身を守れるか不安に感じていた。
しかし、その不安さえも先輩は溶かしてくれた。
「心配するな、毎日迎えに来るよ。」と。
リョウタにとってその言葉がどれほど嬉しかったかは、きっとリョウタにしかわからない感情だった。
そして、リョウタは決意を新たにした。
ー先輩と同じ大学に入る、と。
そこからリョウタはこれまでにないくらい、勉学にのめり込むようになった。
何せ、先輩が進学しようとしている大学は、最難関と言われる、東《あずま》大学なのだ。今のリョウタではまだ力不足だった。
だが、力は芽吹きつつあった。元々数ある教科のなかでは、割と数学が得意だったリョウタは、すぐに理数系の才能を開花させた。
問題が難しければ難しいほど解き甲斐があると楽しめるようになったのだ。
特に難しい数式に興味を持つようになっていった。
先輩は何の危なげもなく東大学に合格し、そして約束通り毎日放課後には迎えにきてくれるようになった。
そしてカフェに入って二人で勉強し、別れを惜しみつつ夜家に帰る、という生活が二年間続いた。
ー二年後
リョウタも晴れて東大学の生徒となった。
高校二年の最初の時期は危うかったものの、先輩と研鑽を積んだことにより、いつしかリョウタ自身が『難攻不落』となったため、学校内でも一目置かれ、手を出そうなどという不届き者もごっそり減った。
リョウタを利用していた上級生たちも次々卒業していき、いつしかリョウタのかつての姿を知るのは同級生のみとなり、リョウタが再び『受け専』などになることはなかった。
「合格おめでとう、リョウタ。」
真っ先に祝福してくれたのはやはり先輩だった。
両親にも一応報告したが、怪訝な顔をされて終わった。
どうやら、自慢の息子である兄よりも良い大学に進学したことが気に入らなかったようだ。
これからもきっと、家にいる時間は苦痛にしかならないんだろうな、とリョウタはぼんやり考えていた。
でも問題なかった。先輩が大学にいる間は側にいてくれるはずだから。
「はず」というのは、リョウタがまだ誰かを信じることが怖くて、確信が持てなかったからだ。
でも先輩は違った。その上を行く発言をサラリとできてしまうのだ。
「リョウタ、大学に入ったら、家を出て俺の部屋に来ないか?」
リョウタは目を見張った。
先輩から受ける大きすぎる愛情の嬉しさに、リョウタは涙した。
「泣かなくて良いんだ、今まで頑張ったな、リョウタ。」
先輩はリョウタの頭を優しく撫でながら、嗚咽の止まらないリョウタを優しく抱きとめた。
それからの四年間はあっという間だった。
四六時中二人は一緒にいて、お互いが愛情を以て接し、仲を深め合っていった。
先輩は大学院に進学し、リョウタといる時間を守ることを選んだ。
しかし、程なくして二人に最大の難題が訪れた。
『流石に同じ会社に就職するわけにはいかない』というものだった。
なぜなら、同じ会社に就職してしまえば二人の交際が明るみになるのは時間の問題だからだ。
そうなれば、要らぬ噂の的になり、居づらくなってどちらか、もしくは両者が退職、という道筋は簡単に見えた。
二人は聡いからこそ、別々の企業に就職することを選択した。
それもこれも、これからも一緒に歩み続けるための苦渋の決断だった。
学歴は関係なくなりつつある昨今でも、流石の東大学出身ともなれば引く手数多だった。
二人は別々の大手商社の面接を受け、無事に内定をもらった。
ただ、リョウタに関しては少し気になることがあった。
それは最終面接でのことだった。ハキハキと受け答えをし、これは手応えアリだと感じた面接だったが、終わって椅子から立ち上がり、振り返るとそこには風格のあるスーツ姿の男性が壁を背にして立っていたのだ。
男性は眉目秀麗としか言いようのない端正な顔立ちで、言い知れぬオーラを放っていた。
(あれ、確かこの人…?)
いつからいたのだろうか、と疑問に思いつつも、この人物には心当たりがあった。
会社のホームページに載っていたためである。
(社長さん、だよな…流石に何もなしはまずいだろ)
リョウタは失礼にあたらないよう社長に向かって一礼をする。
社長はにこりと微笑み、リョウタを見送った。
(後ろから見られてたなんて思ってもみなかった、あぶね、なんか変なことしてないよね?)
リョウタは帰り際、そんなことを考えていた。
「え?」
リョウタは素っ頓狂な声をあげてしまった。
今日はリョウタの初出勤である。
内定をもらって、いよいよ自分の頭脳を生かした仕事をしようと意気揚々と出社した。
ところが、指示された部署に向かうと、上司からの第一声はこうだった。
「今すぐ社長室に行って。」
入社早々何かしただろうか。身だしなみも整えてきたし、不備はないはずだ。
仕方なく指示通りに社長室へ向かう。
「…失礼します。」
ノックをして入室を許されたリョウタは恐る恐る社長室へと足を踏み入れた。
「やあ。久しぶり、かな?」
そこには紛れもなくあの時面接会場にいた人物が立っていた。
(面接で何か失礼があったのか?)
リョウタは何もしてないはず、と思いつつ怒られるのではないかという猜疑心を拭いきれずにいた。しかし社長の口から出たのはとんでもない発言だった。
「君を私の秘書に任命したい。受けてくれるかな?」
(は?)
リョウタは思わず素でそう聞き返しそうになった。が、堪えた。
「いやいやいやあの、自分は秘書検とか持ってないですし、誰かとお間違えでは?」
精一杯今ある現状を伝えて誰かと勘違いしてる旨を伝えたつもりだった。だが社長も流石は大企業を一代でここまで築き上げた身。わざとらしく首を横に振ると続けた。
「おや?君は面接でスケジュール管理には自信があるとアピールしていなかったかな?それとも私の聞き間違いだったかな?」
「え…」
リョウタは驚いた。確かに言った。だが一新卒の、最終面接とはいえそこまで一言一句覚えられているとは。
リョウタが唖然としていると、社長は更に追い込みをかける。
「で、どうなのかな?私は秘書検云々の資格よりも、君のスケジュール管理能力を買いたいと思っているのだが?受けてもらえないのかな?」
リョウタに拒否権はもはやなかった。社長は厳しいことで有名だが、一方で能力を買って年齢を問わず抜擢されて成果をあげている者も多いと聞く。
その能力を買ってもらえるという噂を聞いてこの会社を選んだというのはあったが、それは培ってきた数式などの知識を活かせる職で力を発揮したいと思ってのことだった。それがまさか社長秘書にと乞われるとは夢にも思っていなかった。
だが、やるしかないのだ。ここで失敗すれば窓際決定、そのうち机も無くなって辞表を書くだけの未来が待っている。
「お受けします。秘書の仕事については至らぬところがあるかとは存じますが…。」
そう続けようとしているリョウタを遮って社長は不敵に笑って見せた。
「心配しないでいい。君に最初からそんな負担をかけるようなことはしない。ただ私はスケジュール管理というものがどうもダメでね。今まで秘書に任せたが、どうもうまく調整してくれる存在と出会えなかったんだ。その分君には期待しているよ。」
とりあえず、最初はスケジュール管理さえなんとかしてくれれば後はフォローする、という話でまとまり、リョウタは荷物を取りに社長室を出た。
(社長秘書?俺が???)
リョウタは混乱していた。ペーペーの新卒がいきなり社長の目に留まり、秘書になるなんてどこかの物語の中にいるようだった。
「あ〜、これ絶対知らない人から嫌がらせとか受けるやつじゃん…。」
そう、あの優秀な社長の目に留まるなんて大ラッキーであるとともに、最高の不運でもある。なぜなら要らぬ僻みやっかみを受けることになるに違いないからだ。
リョウタは廊下で頭を抱えた。
荷物を取りに帰ったら、まず上司に報告しなければいけないし、そこから瞬く間に噂は広がるだろう。そう思うと、荷物を取りに帰るのすら億劫だ。
(あ、でもスマホ…。)
大事な個人情報から何からが入ったスマホを置いて帰るわけにもいかない。先輩との思い出の写真が詰まったスマホを。
そう思うとまだ昼前なのにもう家が恋しくなってきた。早く先輩に会いたい。会って話を聞いてもらうだけでも今のこの憂鬱からは抜け出せるのに。でも先輩も今日から仕事だ。
リョウタは一息つくと、決心して荷物を取りに戻った。全ては夜に先輩と美味しいご飯を食べるため。会社では我慢しなければいけないことの一つや二つ、当然あると分かりきっていたことだ。今考えても仕方のない事は考えないことにした。
戻ってみると、なぜか社長が上司と話し込んでいる。どうやって先回りしたのだろうか。
いや、先回りされているということはリョウタの仕事が遅いと怒られるのではないか。また色々な不安に駆られながらリョウタは恐る恐る二人に近づいていく。
「あの〜…」
先に気づいた上司がリョウタに手招きをする。
(いやな予感がする…。)
リョウタは胃が痛くなってきた気がして、回れ右をして帰りたくなった。
しかしながら、上司からは特に嫌味を言われるでもなく、一言おめでとう、と言われた。
社長が部署にいることで、主に女子たちが色めき立っているが、社長はそんな様子には目もくれず、上司に伝えることだけを簡潔に伝え、リョウタに荷物を取って来るよう指示した。
社長からも仕事が遅いなどといったお咎めは特になく、少しだけ安心した。
ガチガチに緊張しているリョウタを見て、社長は声をかける。
「初日からそんな様子ではもたないぞ?もう少し肩の力を抜いていい。しばらくは私の行き先などを覚えてもらうためについてきてもらう。車は平気か?」
社長は的確に指示出しをしてくれる。最初なんだから考えても仕方ないとリョウタは様子を見ながらついていくことにする。
「車は特に問題ありません。よろしくお願いします。」
とだけ答えておいた。社長はそれに満足げに頷き、リョウタを社長専用車両へと誘導する。
それからリョウタは社長のいく先々について回り、何軒か社長に紹介され、挨拶を済ませたりした。
ーその日の定時後
「疲れただろう。今日は早めに帰って休むといい。」
社長からそう声をかけられたリョウタは、ではお言葉に甘えて、と社長より早く家路についた。いくらスケジュール管理ができる人材が欲しかったからとはいえ、新卒にここまで気を遣ってくれるとは。鬼社長、なんて罵る人もいるけれど、本当は優しい人なのかもしれない。
(とりあえず今日は色々ありすぎて色んな意味で疲れた…。早く帰ってご飯の支度して、先輩に話を聞いてもらおっと。)
リョウタは最寄りのスーパーで今日の夕飯の材料を買い込むと、真っ直ぐ家へと急ぐ。リョウタは電車通勤で、スーパーへと少し回り道をしたけれど、幸い駅から家は近い。すぐに住み慣れたセキュリティ付きマンションへとたどり着いた。
(今日は糸こんにゃくの煮物作ろ…。先輩これ好きだし、初出勤のお祝いとしちゃ弱いけど、喜んでくれるかな?)
リョウタはすっかり今日の出来事は過去のものにして、先輩へ想いを馳せる。
一人浮かれていたリョウタは気がつくことができなかった。
リョウタがマンションへ入っていくのを見計らったように通りすがった一台の黒い車の存在にー。
リョウタが夕飯の支度を終える頃、先輩も帰宅した。
「お帰りなさい、今日は初出勤お疲れ様。」
リョウタは少し遅めの帰宅を果たした先輩に労いの言葉をかける。
先輩は少し呆れたように、リョウタに返した。
「ただいま。でもそれはリョウタもだろ。飯も作ってくれて、ありがとな。」
先輩はリョウタの頭を優しく撫でた。撫でられるリョウタもまんざらでもない様子だ。
「お。この匂いは俺の好きな煮物だな?」
早速の反応にリョウタも嬉しくなる。
そんなこんなで談笑しながら夕飯を囲み、いつもの幸せな時間が流れる。
しかし、リョウタの仕事の話を聞いた先輩は、少し訝しげな顔を見せた。
「社長秘書?大丈夫なのかその仕事…。キツかったりしたらすぐに言えよ?せっかく知識を活かした仕事をするって言うから俺も賛成したけど。ブラックだったらすぐ他探せるようにしといた方がいいぞ。」
先輩はいきなり社長秘書なんてものになってしまったと言ったリョウタの事を親身に心配してくれた。いつだってそう。味方は先輩だけ。兄の存在を忘れた訳ではないけれど、リョウタの人生の中で一番リョウタに寄り添ってくれたのはいつだって先輩だった。
「だーいじょうぶ。向こうも今の所ただ単にスケジュール管理の人材が欲しいだけみたいだし。いずれ秘書検とか取れって言われたらその時考えればいいかなって。」
リョウタは今日あった様々な出来事を反芻するように先輩に話した。社長のこと。出先でのこと。初めての名刺交換などなど…。
先輩も最初のうちだから慣れないこともあったのだろうと静かにリョウタの話に耳を傾けた。確かにリョウタのスケジュール管理技術は見事なもので、旅行やちょっとしたお出かけのプランを立てるのもリョウタはいつも上手い。技術的な心配は全くないのだが、どうも話がうますぎる。リョウタは今日はいっぱいいっぱいでテンパっていたようだから、仕方がないのかもしれないが、冷静に考えれば少し何かがおかしい。
(大丈夫なのか…?社長とやら、少し調べてみるか。)
先輩は心の中にそっと留め置いた。
それからしばらくはそんな日々が続いた。
リョウタは徐々に社長のスケジュール管理を確立させつつあり、先輩は己の仕事を全うしていた。先輩はたまに残業、でも帰れば二人の時間が流れ、以前と変わらぬ幸せな日々を過ごした。
こんな日々がこれからは続くのだー
二人ともそう思っていた。
そう思っていない人物が一人だけいたことに、まだ二人は気がついていなかった。
それはある日のこと。
リョウタはいつも通り電車を降り、家を目指していた。
駅前の踏切が開くのを待っていた時、不意に後ろから聞き慣れた声がした。
「リョウタ。」
その名を呼ぶのはもちろん先輩だ。先輩は自転車通勤のため、リョウタと帰りが一緒になることはかなり珍しいことではあったのだが、こんな日もあるだろうと二人は何事もなく一緒に家路についた。
先輩は自転車を降り、リョウタとマンションまで一緒に歩く。二人並んで歩いてマンションに着き、一緒に入って行く。別段変わった風景ではないが、見ていた人物がまずかった。
「あの隣の男について早急に調べろ。」
そう言うと社長は車を出させ、狙いのリョウタには既に悪い虫がついている事を知ってしまった。
この日から歯車は狂い始める。
社長があの日面接会場にいたのはただの偶然ではなかった。
最終面接ということもあり、社長自ら履歴書に目を通し、見つけてしまったのだ。
己の欲望を満たしてくれそうな相手をー
社長には対外的には言えない秘密があった。それは女性に興味を持てないと言うこと。
稀代のイケメン社長として知られ、数々の経済雑誌に特集を組まれるほどの容姿に恵まれながら、未だ結婚どころか浮いた噂ひとつないのはそのせいとも言えた。
まあ、ある意味クリーンなイメージを打ち出すことに成功していたので、社長は自らカミングアウトすることもなく、仕事一筋という言い訳をしてのらりくらりと躱していたのが本当のところだ。
正直、リョウタに関しては最初は学歴を見て、優秀そうなら使ってみるか、程度の興味で最終面接を見に行ったに過ぎなかった。
だが、実物を見て、(真正面から見たのは最後だけだがー)抑えが効かなくなってしまったのだ。いわゆる一目惚れというものだった。
この感情には社長自身も戸惑った。四十になろうかという自分が、あんな若造に対してこんな感情を抱くとは。
しかし、履歴書に貼られた写真を見るなり触れてみたいという欲望が溢れて止まらなかった。
今までも何人か付き合ったことはあった。でもここまでの激しい感情に駆られた試しは一度もなかった。
「何を差し置いても絶対に手に入れてみせるー。」
そこから社長の行動はエスカレートしていった。
リョウタの住むマンションを突き止め、暇さえあれば様子を観察していた。
リョウタが他の男と一緒に入って行った時は気が狂いそうに嫉妬した。何だあの男は。何者なんだ。リョウタの一体何なんだ。なぜリョウタはあんな表情をしている?私には見せたことのない笑顔のリョウタが愛おしく、憎らしく、狂おしかった。
あの笑顔が私に向けられたならー
とりあえず、あの男を引き摺り下ろさねば。
社長は完全に理性を失っていた。
社長はそれから日々、リョウタをあの悪い虫から引き剥がすにはどうすればいいかを思案していた。かといって仕事を疎かにする性分ではなかったので、周りにはいつも通りに映っていた。もちろんリョウタにも気づかれていない。
社長は何とか自分の所有するマンションにリョウタを移り住ませたいと思っていた。
いつでも自分の手の届くところに置いておきたかった。それが例えつまらない独占欲だと笑われても今の社長にはどうでもいいことだった。
だが肝心のリョウタにいきなりそんなことを言っても首を縦に振るとは思えなかった。自分に何が足りないのだろうか。あのへちゃむくれに私が劣るとでもいうのだろうか。
兄弟説ももちろん考えた。だが上がってきた報告書はそれを全否定した。
報告書によると、リョウタは高校、大学時代の先輩にあたる人物と同居しているとのことだった。
だが、今それをリョウタに問い詰めるわけにはいかない。
なぜ私がそんな事を、という事になるのは火を見るより明らかだ。なるべく穏便に事を運ぶに越したことはない。
(どうしたらあんな男よりも私を認めてくれるようになるー?)
それは、リョウタにとって先輩よりも魅力的な存在になるということだ。
先輩とやらはもちろんリョウタと同じく最難関の大学出身。そこいくと私は帝央大止まり。
学歴では歯が立たない。悔しいが。だが体力やスタイル、顔立ちの良さなら幾分か自信はある。リョウタを満足させてやれるものだってー
「…長。社長?」
声に引き戻されてみると、リョウタがこちらを心配そうに見つめながら私を呼んでいた。
あまりに考え込みすぎていたようだ。このままでは仕事に支障をきたす日も遠くない。
(気を引き締めなければ。)
リョウタに没頭するあまり、会社が傾いたのではただの間抜けだ。
「大丈夫ですか?普段あまりぼーっとされない社長が…。熱はありませんよね?」
そう声をかけるリョウタの手が額に触れようとする。
社長室で二人きりの状態でそんなことをされたら歯止めが効かなくなりそうだ。
「心配ない。体調は良好だ。ただ私も人だから、ぼーっとする瞬間くらいあるというだけの話だ。すまないな。用事は何だった?」
リョウタの手が触れるより早く、そう遮って私は自制する。下から覗き込まれて上目遣いのリョウタはやっぱりこのまま襲ってしまおうかという程可愛らしいが、それはバッドエンド確定だ。
「あ、はい。来週のスケジュールができたのでご確認頂こうかと。」
そう言ってリョウタは社長にスケジュールを提出する。相変わらず朝から夜まで予定がびっしりな事に、リョウタはよく身体もつなこの人…という感想しかなかった。
「わかった。特に問題はないな。いつも助かるよ。」
社長は割と素直に礼を言う人で、この辺りが流石と周りからも一目置かれる理由かもしれない。大企業といえど、若い企業なのも社長をそうさせるのかもしれない。
「ご確認ありがとうございます。問題ないようでしたらこのまま進めます。」
リョウタは入社してから社長のスケジュール管理をそつなくこなしたが、今回はちょっとだけ引っかかる点があった。
(この水曜日の訪問先、先輩の会社なんだよな…。)
もちろん社長が訪問するのは先方の社長であって、先輩ではないし、先輩は新入社員で今年入ったわけだから、出会う事もないと思うのだが、リョウタは妙にそわそわしてしまう。
(先輩の働いてるとこ、ちょっと見てみたい気もするよな…。)
完全に私情であるとはわかっていながら、リョウタは先輩の活躍する姿を少し見てみたくなってしまう。それは想い合う二人にとって仕方のない事かもしれない。
この日もリョウタは何事もなく仕事を終え、帰宅した。
ー水曜日
「では、その件はそのようによろしくお願いいたします。続いてですが…。」
社長はいつものにこやかな態度で先方と話を進めていく。
少し長丁場になったので、休憩を挟もうということになり、社長とリョウタは応接室で静かに休憩を取る。
先方から、窮屈でしょうから外に出ていただいても、という話ももらっていたため、社長は外で少し風に当たってくると席を外した。その際リョウタにも自由にしていいと指示をして、お互いの休憩を満喫する。
社長はロビーから外に出て、外の空気に当たるとやはり広いとはいえビルの中では感じられない空気に触れて一息ついていた。タバコは吸わないので、ただ風に吹かれているだけだが、社長の鈍った思考回路を復活させるには十分だったようだ。
(そういえば、彼はどうしたかな…。)
自由にしていいと言っただけで、特に指示をしなかった。今頃やっぱり応接室から出られず窮屈な思いをしているかもしれない。
そう思い返し、社長は再びロビーから応接室へ戻る道を辿る。その道すがら、休憩室という文言が目に留まり、もしかしたらと社長は足を向けてしまったのだ。
そう、いつぞや嫉妬に狂った先輩とやらと楽しそうに談笑するリョウタがいる場所へ。
社長は通りかかり、二人の姿が目に入った時点で近づくのをやめた。
未だリョウタから見せられたことのない笑顔が目に入ってしまったから。
社長はこの後の商談がなんだったかさえどうでもよくなる程の怒りと嫉妬に駆られた。
なぜだなぜだなぜだ。どうすればいい?どうすれば手に入るのだあの笑顔は?
社長は全てを壊してでも手に入れたいという衝動を抑えられなくなっていた。
商談はつつがなく終わり、リョウタは社長と共に取引先である先輩が務める会社を後にする。
(働いてる先輩もちょっと見れたし今日は良い日だったな。)
リョウタはそんな思いを抱きつつ会社までの帰路を過ごした。社長も終始にこやかで、特に商談に問題もなさそうだったし、また働いている先輩を見れる日はそう遠くないかもしれない。
会社に着くと、リョウタは早速名刺の整理などを始める。そんなことをしているうちに今日も一日があっという間に過ぎ、定時になった。
いつも通り社長からあがっていいと指示があり、リョウタは帰宅の途についた。不思議なことに、社長はリョウタより先に帰るということがない。社長がいつ帰宅して、いつ出社しているのか、かなり謎だ。とりあえず朝出勤すると、社長は既にそこにいて、自分が帰宅する姿も決して見せない。
(実は寝てないんじゃ…。)
少し心配になるが、社長は健康そのものらしい。ジムにも通っているとかいないとか。どこにそんな時間があるのかとリョウタは首を捻っていた。
とそんな事を考えている間にもマンションのエレベーターはいつも通りの階に止まり、鍵を開けて玄関をくぐる。
「おかえり、リョウタ。」
今日は珍しく先輩が先に帰宅しており、リョウタも少し驚く。
「社長さん、いらっしゃってるぞ。」
その一言にリョウタは目を見張る。
(え、社長?さっきまで会社に…。)
リビングへ向かうと本当に社長がそこに座っていた。電車通勤の自分より早いとかどういう事なのだろうか。リョウタは理解が追いつかない。
「ほら、会社のスマホ忘れて帰ってたからって、わざわざ届けて下さったんだぞ。ご挨拶しないと。」
先輩に促されるままリビングで寛ぐ社長の元へとやってきた。
「あ、お疲れ様です。すみません。大事なスマホを忘れて帰るなんて…。」
リョウタはおずおずと社長に声をかける。
「そうだな、そのスマホがなかったらどうやって明日の予定を確認するつもりだったんだ?」
痛いところを突かれてリョウタは反省する。それだけではない。気のせいだろうか、社長の様子がいつもと違う気がする。もしかしてかなり怒っているのだろうか。
「今日も昼休憩に君が戻ってくるのが遅れて予定が五分押した。昨今少し気が緩んでいるのではないか?」
え、とリョウタは思わず声を上げた。昼休憩の件は初耳である。確かに戻ってみると社長は既に席についていたが、与えられた昼休憩の時間は守って戻ったはずだからだ。
反論する隙も与えず、社長は続ける。
「こんな調子では困るな。昼休憩の時、そこの君と喋っていたようだが、社の機密に関わるとは考えなかったのか?」
これには傍で聞いていた先輩も驚いた様子だった。
「そんな、他愛もない話をしていただけで…。」
とんでもない、という様子の先輩だったが、社長はすぐさま反撃を開始する。
「話の内容が問題なんじゃない、社長秘書という立場の者が他社を訪れて、気安くその社の者と談笑しているということが問題なんだ。わからないというのなら、君には失望する。」
リョウタも先輩も当然そんなつもりではなかった。だが、今社長から提起されている問題がわからない程の愚か者でもなかった。二人は青ざめた。
「これからリョウタは私が管理する。ここを引き上げて、私の所有するマンションで生活してもらおう。」
社長は冷徹な表情で淡々と告げる。
リョウタにとって先輩と離れることは死を意味した。
家族なんかよりよっぽど大事な先輩と引き離されるなんて考えられない。しかしそれは先輩も思うところがあったようだった。
「ちょっと、そこまでするのは流石にパワハラなんじゃ…。」
先輩は思わず口を挟む。
しかし社長の口から出た言葉はパワハラでは済まなかった。
「君はあの社の者のようだが、あちらの社長とは懇意にさせて頂いていてね。」
先輩は驚きを隠せなかった。
(この男、俺くらいクビにできるとわかって…!)
先輩は目の前にいる社長の狙いを悟ってしまった。
こいつ、リョウタを初めからこうするつもりでー。今まで機会を狙っていたのか。くそっ、最初にリョウタが社長秘書になったと言った時もっと警戒すべきだったのか。今更遅すぎる…どうする?考えろ!
先輩もリョウタもお互い想い合って一緒にいるのだ。リョウタだけが辛いわけないのだ。
「俺はっ…!」
クビくらい怖くない。そう言おうと先輩が社長に喰ってかかった時だった。
「先輩っ!」
それを止めたのはリョウタだった。
「先輩、俺は大丈夫だから。だから、無茶しないで…。」
リョウタの手は震えているように見えた。
「社長、申し訳ありませんでした。今回の事はひとえに僕の不得の致すところです。社長に従います。」
社長はリョウタの一言で、良いだろう、と返事をすると、今すぐ荷物をまとめてくるようにと指示をして、車で待っていると告げると一刻の猶予を与えた。
残された部屋で、リョウタは崩れ落ちた。
それを抱き止めるしかない先輩は無力感に駆られていた。
(くそ、もっと俺が警戒していれば…。社長の狙いが初めからリョウタそのものだと見抜けていれば……!)
そっと抱き起こすと、リョウタは泣いていた。
「ごめん、先輩。こんなことになるなんて…。」
先輩の働いている姿を見られると深く考えもせずに会いに行ったとリョウタは自分を責めていた。
「謝るんじゃない。俺も。俺も気づいてやれなかった。ごめんな、リョウタ…。守れなくて…本当にごめん。」
二人はしばらく一緒に涙を流した。
お互いが自分が悪かったのだと責めては、そうじゃないと慰め合った。しかし、リョウタは社長に従うと言ってしまった手前、これ以上ゴネては二人とも危ないと悟った。
「荷物、まとめるね。これだけは、先輩持ってて。」
そう言うとリョウタは自らが使っていたプライベート用の携帯を先輩に預け、最低限の荷物をまとめて社長に与えられた猶予の十分前にマンションを後にした。
一方社長は、待たせてある車にもたれかかり、昼間したように風に当たりながら考え事をしていた。もちろん、それはリョウタについてだ。
(一瞬『俺』と言わなかったか?まだまだ私の知らない顔があるということか。)
社長はこれから始まるリョウタとの蜜月に思いを馳せながら、どう楽しませてもらおうかと想像を膨らませていく。
これからは会社でも一緒。そして私生活も管理できる。リョウタを手に入れたも同然だ。
何より一番忌々しい先輩とやらの存在が消えたのだ。今は恨まれても構わない。だが、いずれはリョウタも自分の魅力に気づいてくれるだろう。そう考えるだけで鳥肌が立った。社長は完全に勝利を確信した。これでこそ、こっそりリョウタのカバンからリョウタの携帯電話を抜き取っておいた甲斐があるというものだ。そう、リョウタは携帯を会社に忘れたのではない。それもこれも、社長に仕組まれていたのだ。予定が五分押したと言うのも言いがかりである。
そうこうしているうちにそろそろ十分前、というころリョウタはあっさりと現れた。
「お待たせしました、社長。ご指示の通り、荷物をまとめて時間内に戻りました。」
リョウタの目は腫れている。でも今は気づかないふりをしよう。だってリョウタは自分の手の内なのだから。
「君のような有能な部下を持てて嬉しいよ。行こうか。」
社長とリョウタは先輩が一人残されたマンションに別れを告げた。
ーさて、ここからリョウタをどう調理すれば、あの笑顔が見られるのかな?
社長は明日からがたまらなく楽しみだった。
リョウタは社長の所有するマンションの十二階で暮らすことになった。最上階はもちろんワンフロア社長の部屋である。一人で暮らすには広すぎる部屋で、リョウタは独り、ただ先輩に想いを馳せる。
(ちゃんとご飯食べてるかな…。先輩も料理できなくはないけど、案外サボっちゃうとこあるからな…。)
リョウタは自分の分のご飯を作りながらぼんやりとそう考えていた。そしていつも通り作ってしまい、後から気づく。
(やべ。作りすぎちゃった。)
軽く二人前の料理を目の前に、リョウタは途方に暮れた。手癖で二人前を拵えてしまうのだ。先輩と長く暮らしていたリョウタは自分以外に食べるもののいない食卓で考えた。
(そうだ、食べてくれる人はいないんだ…。)
食べてくれる人に心当たりがないわけではないが、リョウタからその人物に声をかけようとは到底思えなかった。リョウタの心の中は今複雑で、納得できることとできないことがないまぜになってしまっていて、とても冷静な状態ではなかった。
そりゃ、考えなしに先輩に会いに行ってしまった事は確かにまずかったかもしれない。でも、なぜそれで離れて暮らすことになるのか。リョウタに非がないわけではないが、先輩に脅しとも取れる言動もしていたし、流石に横暴だったのではないか。
(パワハラ、か。)
先輩が確かそう言っていた。確かにそうかもしれない。でも社長はやると言ったらやる人物だとも確信している。
仮に先輩にあの続きを言わせてしまっていたら、先輩は今頃路頭に迷っていたかもしれない。
どういう展開にしろ、社長は自分と先輩を引き剥がしにかかったのは間違いない。
なぜこんなことをするのか、リョウタは混乱していて社長が何のためにリョウタを先輩から引き離したのかを理解できていなかった。先輩は何か別れ際に言おうとしていたけど、時間がなくて最後まで聞いてあげられなかった。また時間が押しているなどと言われては今度はどんな無理難題を言われるかわからない。
とりあえず作りすぎた料理は半分冷蔵庫にしまい、今日の怒涛の展開を整理するためベッドに横たわった。
(明日から先輩のいない生活…。なんか、高校時代思い出しちゃうな。)
全てがどうでもよかったあの頃を思い出しながら、リョウタは明日からの生活を想像した。
でもリョウタが高校時代と違ったのは、どうでもいい日常だからと自らを傷つけたりしないことだ。誰彼となく抱かれて、めちゃくちゃにされて。でも今は先輩という明確な希望がある。例え会うことが叶わなくても、あの頃と違って、自分は先輩に愛されているし、自分も先輩だけを愛しているという明確な絆を超えた想いがあった。
今のリョウタには、先輩以外の相手は考えられないし、考えたくもない。
高校時代を思い出しているうちに、だんだんと食欲がなくなってきたリョウタは、もう半分の料理も冷蔵庫にしまい、シャワーを浴びると床についた。
くそっ、何度思い出しても腑が煮え繰り返る。
先輩はリョウタが連れ去られた後、一人残されたマンションで眠れずにいた。
あのクソ社長、リョウタ目当てとはいえ露骨な手段に出てきやがって。
だが、何より許せないのはその社長の目的に気がつけず、部屋に通してしまい、あの状況を作ってしまった自分自身だった。
リョウタは滅多に忘れ物をしない。会社の携帯なんて大事なものなら尚更。リョウタは突然の異動を命じられた後から、プライペート用携帯は肌身離さず持ち歩いている。そして人前では一切いじらない。
そのため、会社でその存在を知るものはいないはずである。そんなリョウタの携帯は一台だけだと思ってる人物がリョウタの携帯をチェックしたり、故意に忘れ物をさせようとしたとしたら?
あり得る。あの社長の口ぶりや態度からして、かなり手段を選ばずにリョウタを取りに来てる。予定が五分押したと言うのも、リョウタには身に覚えがないと言っていた。完全に嵌められた。
リョウタに危険が迫っている。俺はどうしたらリョウタを社長の魔の手から救える?
翌日から、リョウタの悪夢は始まった。
朝は社長が迎えにきて、普通逆だろと思いつつ同じ車で出社する。
仕事はいつも通りこなして、昼は一人になりたくて今まで社長室で摂っていた食事を屋上でのランチに切り替える。あまりもので弁当を作ったはいいけど、リョウタは自分で作った料理がこんなに不味かったっけ、と思ってしまった。
今まで先輩の分もお弁当を作っていたし、先輩に変なものを食べさせたくなかったから結構頑張って作っていたけど、こんなに不味いならもういいや、とリョウタは食べるのをやめた。
と、そこへ社長が現れる。
「何か御用でしょうか。昼休みが終わった後に承ります。」
と最大限無礼にならないよう返すが、その言葉はあまりにも感情ゼロだ。
「いや何、突然姿が見え亡くなったから心配になってね。探したよ。」
そんなリョウタの感情ゼロに気がついているのかいないのか、社長は隣に腰掛けてくる。
先輩との幸せな日常をぶち壊してきたやつに仕事以外で隣に座ってほしくない。
昨日頑張って頭の中を整理したけど、やっぱりリョウタにとっては、社長は最終的に先輩とのやっと掴みかけた幸せをぶち壊してきた悪者にしかならなかった。自分だけならまだ我慢できた。でも社長は先輩の立場まで危うくさせてきたことが特に許せなかった。人間権力を持つとこんな風になってしまうのか、と非常に残念に思った。
社長はリョウタが食事もそこそこに、弁当箱をしまおうとしていることに気づいたらしく、
「食べないのか?」
と聞いてきた。
「不味いので。」
と、リョウタは一言返す。なんでもいいから早く一人になりたかった。しかし社長はそんなリョウタの空気を読むことなく、どれどれ、とリョウタから弁当箱を取り上げるとその中身を食べ始めた。
「悪くないぞ?全体的に煮物が多いのか、色味は茶色いが、味付けはどれも美味しいじゃないか。」
リョウタはその言葉で泣きそうになった。煮物が多いのは、先輩が煮物好きだからだし、先輩以外のために作った弁当じゃないから勝手に食べないで欲しかったし、何より自分が一度口をつけてる物に第三者に口をつけられたことがたまらなく気持ち悪かった。先輩との関係をズタズタにした張本人にいくら料理を褒められたところで、リョウタの嫌悪感は増すばかりだった。
「もう昼も終わります。返してください。」
リョウタは強引に弁当箱を回収すると、午後の仕事のために部屋に戻った。
午後も社長はなんだか上機嫌で、気持ち悪いくらいの笑顔でこちらを見てくる。リョウタはそれらを全無視して、ただ淡々と仕事をこなし、定時まで過ごした。
帰ろうと席を立つと、社長が少し待ちなさい、どうせ帰る場所はそう変わりないのだから送る。なんなら私の部屋で一杯どうだ?と声をかけてきた。リョウタは結構です、と一言で両断した。そうすると社長は冗談だ、送るだけ送るから少し待ちなさい、とリョウタを宥めた。
結局社長の車で帰ってきて、さっさと部屋へ引っ込んだリョウタだったが、その夜も結局食事は美味しく感じられず、もう作るのをやめようと決断した。
社長は部屋で考えていた。
せっかく悪い虫からリョウタを引き剥がせたのに、リョウタは自分に笑顔を向けてくれるどころか、懐いてもくれていないのではないか?
だがしかし、こうも思った。いや、まだタイミングが悪いだけだ。これからじっくり私の魅力を伝えていけばきっとこちらに振り向いてくれるはずだ。と。
きっと今はリョウタはあのへちゃむくれから無理矢理引き剥がされたと思っているに違いない。しかしリョウタは私のものになるべきなのだ。そのほうがずっと幸せになれると気づいてくれたら。あとは私のものだ。
社長は渦巻くドス黒い感情を抑えきれずにリョウタの写真に触れる。
いつか、本物に触れてみせる。
先輩は有給を取り、社長について調べていた。
「浮いた噂はなし、ねぇ。」
そりゃそうだろうよ。対象がソッチじゃないなら。
先輩は経済誌の特集を飾る社長の写真を忌々しい感情で見つめながら、これから打つ手を考えていた。でも、社会的地位が違いすぎた。例えば、率直に『俺たちはこいつに嵌められた』と訴えたところで、社長がそんなことはしていないと言えば、世間はどちらを信じるかという話だ。打つ手なし、というのが正直なところだ。社長もここまで事が進んでしまえば勝てる、という算段を打って強気な行動に出たのだろう。一枚上を行かれた、ということか。流石に場慣れしているというか、肝が据わっているのだろう。
だが、ここで自分が諦めるわけにはいかない。あの高校の時、リョウタに話しかけると決めた時から。リョウタの事を最後まで諦めないと覚悟したのだから。
あれから三ヶ月が経とうとしていた。
リョウタはどんどん荒廃していった。まず、自炊をやめた。近くのコンビニで買ったものしか口にしなくなった。社長が体に悪いからと食事に誘っても、頑なに断った。
三ヶ月の間に変わったのはそれだけではない。やたらとスキンシップを取ってこようとする社長の態度に、リョウタはなぜあんな事をされたのか嫌でも自覚した。先輩が何に気づいてしまったのかも。あれから先輩には会えていない。でも、先輩に対する気持ちに変わりはない。
社長はちょこちょこ何かしらを誘ってくるが、食事なんて一緒に行った日には、何を混入されてどんな目に遭うか想像するだけで怖気が走るので、絶対にごめんだ。
リョウタにとって今や、社長は不信感の塊と恐怖の対象でしかなかった。いつ何をされるかわからない。それが会社でも本来寛げるはずの家というべきものでさえも同じ建物内にいるという恐怖からリョウタは眠れなくなっていった。
先輩に会えない喪失感、社長に対する恐怖からくる不眠症、リョウタはだんだんと精神的にも不安定になっていった。もちろん体調も良いはずがなかった。新卒入社ホヤホヤだった時のはつらつとした感じは見る影もなく、やつれていくばかりで、生気もなくなっていった。仕事は与えられればしているが、反応も薄くなっていき、どんどん機械的になっていった。
必要以上の受け答えは全くなく、ロボットと喋っているのではないかと錯覚しそうになったほどだ。
おかしい。
社長は首を捻っていた。三ヶ月もすれば、リョウタはあのへちゃむくれの事は忘れて、私と薔薇色の生活を送っているはずだったのでは。それなのに。この三ヶ月でリョウタは手を握らせてくれるどころか、食事にだって一回も同行してくれない。あんなへちゃむくれの薄給では到底行けないであろうレストランとかでデートしたかったのに。あとは映画とか、ジムにも誘ったし、デートらしいデートには誘ったはずだが、リョウタは一向に首を縦に振ってはくれなかった。休日を狙って、テーマパーク券をもらったから行こうと言っても、
「すみません、休日は貴重な睡眠時間なので。他を当たってください。」
とピシャリと断られた。
これではリョウタに触れるどころか嫌われているみたいじゃないか。何故だ。できるだけ紳士的に振る舞ってリョウタが心を開いてくれる日を待っているのに。これ以上冷たくされたら自分にだって限界というものがある。
おかしい。
リョウタは首を捻っていた。三ヶ月もすれば、社長は自分は所詮先輩の代わりにはなれないと悟って、諦めるとか、熱が冷めるとかするはずなのでは。それなのに、この三ヶ月で社長ときたら、やれ高級レストランでステーキを食べようとか、映画を見に行こうとか、細すぎるから少しジムでも行って運動しろとか、古臭いデートコースみたいな提案を散々してくるのだ。
果ては貴重な一人になれる休日を前に、テーマパーク券をもらったから行こうとか。
誰がお前と行くか!なんならその券だけもらって先輩と行きたかった。まだ休日出勤とかはさせられていないし、流石に土日に干渉はしてこないが、手段を選ばない社長を前に、土日に先輩と会っているとなるとまた邪魔をされるに違いない。社長の目的は自分だとわかってしまった今、リョウタはほとぼりが冷めるのを待つしかなくなってしまった。
(早く諦めてくれないかな…。)
リョウタは毎日それを願っていた。リョウタからすれば、先輩以外は無理だし、社長の行動がエスカレートしてきていて、正直気持ち悪い。もういっそ会社辞めてしまえば、と思ったりもしたが、辞めたところでつきまとわれてしまえば無意味だ。それこそ無駄に権力のあるストーカーの誕生である。警察沙汰はもみ消してきたりとかしたら、厄介この上ない。
結局罪のない先輩を謂れのない案件で槍玉にあげて、こんなところにリョウタを置いておけない、とか言い出されたら元の木阿弥なので、今はリョウタは静観している。
できるだけ冷たくあしらって、脈がないことを痛感させて、リョウタ自体に見向きもしなくなって、元のマンションに戻れることが最善だった。
それが逆効果とも知らずに。
何故リョウタは心を開いてくれないのだろう、と社長は日々考えていた。いや、それは先輩とやらとあまり良い別れ方ではなかったから、多少の未練があったかもしれないが、そろそろ縁も切れただろうし(仮に切れていなくても無理矢理切るが)、これだけ接している時間が長いのだから、こちらに向いてくれても良い頃合いだと思っている。
休日はリョウタは部屋に篭りっぱなしで、せいぜいコンビニに行く程度。必要以上に部屋から出てこないことは確認済みで、携帯もそこそこチェックしているが、メールやアプリ、通話に不審なところはない。つまり、向こうとの連絡を遮断することには成功したわけだ。
勝ったと思っていた。なのに。
リョウタはだんだん冷淡な態度になってきている気がする。元々必要以上に態度に出るタイプではなかったが、それなりにコミュニケーションは取れていた。しかし最近は少し距離が近くなったと思うとすぐ離れられてしまっている気がする。要は避けられているのだ。
しかし避けられるような行動をした覚えはない。むしろ好意的に接しているのだ。何故避けられなければならないのか。そろそろ食事の一つでも一緒に行ってくれても良いのではないだろうか。それともまだ先輩とやらに未練が?馬鹿馬鹿しい。
社長は今まで手に入らないものはなかった。何をしてでも力ずくで手に入れてきたからだ。その社長が今一番欲しいものーそれがリョウタだ。どう攻略しても靡かない『難攻不落』に社長は逆に感情を燃え上がらせた。
ー何を犠牲にしても絶対に手に入れてみせる。
その夜、社長は自ら電話ではなく、直接リョウタの部屋を訪れた。
部屋を誰かが訪ねて来ることは社長以外にない。今日も仕事にミスはなかったはずだが、リョウタがいつものコンビニ弁当を片付けて、入浴を済ませて一息ついた頃だった。
玄関の呼び出しベルが鳴る。
リョウタははぁ、とため息をつき、仕方なくドアを開ける。
「何か御用ですか?仕事の話なら明日にしてくださ…。」
そう機械的に応答していると、社長は玄関にずいと入ってきた。
何かいつもと様子が違う。リョウタは警戒の度合いを強める。すると社長はこう切り出した。
「良い茶葉をもらってね。一緒に飲もうかと思って持ってきたんだが、今時間はあるかな?」
(お茶?くらいなら、まあいい…か?)
リョウタは自分の部屋であるということと、お湯はこちらで用意するということに若干の安堵感を覚えて社長を通すことにした。
キッチンでお湯を準備している間に、社長が持ってきた食器類を取り出して洗う。
当の社長はリビングに座ってこちらを見ているが、距離があるため様子はよくわからない。
お湯が沸き、紅茶を適温で淹れている間に、リョウタは食器類を準備する。
(よく働く良い子だよな…。)
社長はたまに恋愛感情抜きでリョウタに対してそう思う。と、そこにカップを持ってきたリョウタのうなじから良い匂いがした。
よく見れば、風呂上がりなのか、リョウタの頬は上気しており、服装も普段見る仕事着とは違ってラフで新鮮だ。
社長はついに我慢ができなくなり、リビングに戻ってきたリョウタを後ろから捕えた。
「⁉︎」
完全に油断していたリョウタは何が起こったのか一瞬把握できなくなる。
そのリョウタの耳朶を舐めるように囁く社長の声がリョウタに危機を知らせた。
「リョウタ。良い子だから…。」
ぞくりと背筋を冷たいものが走る。その間にも社長の手がリョウタのシャツの中をまさぐってくる。
(やばい。このままじゃ…。もう、先輩に一生会えなくなる!)
リョウタはなんとかパニックになりそうな自分を抑えて自我を取り戻し、もがきにもがいて社長の腕から逃れる。
「嫌だ!」
リョウタは生まれて初めて拒絶の意思を明確に表現した気がした。
こんなのに組み敷かれるのは嫌だ。
先輩以外の相手なんて絶対嫌だ。
汚されて先輩に顔向けできなくなる自分が嫌だ。
リョウタはあらゆる拒絶の意思を込めて社長を拒否する。
社長は何故、という顔をして再び迫ってくるところだった。
リョウタは咄嗟に社長から一番距離があった、ベッドの方へ避難する。
「リョウタ、私の可愛いリョウタ。」
社長は狂ったように名前を呼びながら迫ってくる。
だが、リョウタの選択は間違っていた。避難したベッドは玄関とは反対方向だったのだ。
「さあ、捕えたぞ。優しくしてあげるから。」
再び社長に捕まったリョウタはなんとか逃げようと必死に足掻く。
社長は逃げ場を失ったリョウタを確認し、勝利の笑みを浮かべた。
(くそ。絶対に嫌だ、死んでも嫌だ。)
もう、先輩とだけしか契りを交わしたくない。この命懸けても。それだけは、絶対に。
リョウタはあることに気づいた。これは賭けだ。でも、先輩を裏切るくらいなら、そう。
ガラッ
そこには窓があった。リョウタは寝起きがあまりよくなく、朝日光を浴びるためにわざわざベッドを窓際に設置していた。それは先輩とのマンションでもそうだったし、ここに来た時も配置換えをしてそうなった。その窓こそ、リョウタの最後の切り札となった。
「リョウタ?何を…。」
社長がそう問う前に、リョウタは身を投げていた。ここは十二階。だいぶ分が悪い賭けだけど、リョウタは社長の意のままにされることより先輩を選んだ。
「なっ…。」
社長が驚くのも無理はないが、その頃にはリョウタは嫌な音を立てて地上に着地済みだ。
ガサガサガサ、バキッ、ドンッ
後に残されたのは放心状態の社長と誰かの悲鳴、そして駆けつけた救急車と警察車両だった。
その日の夜、先輩は残業をして遅めに帰ってきた。
同じく作るのが面倒になったコンビニ弁当と、リョウタがいなくなってから初めて手を出した缶チューハイ。
テレビをつけて、その日のニュースを確認しながら缶チューハイを開ける。
「続いてのニュースです。今日夕方頃、高層マンションの一室から男性が転落したと…。」
(高層マンションか…。リョウタも今頃寝る頃かな。)
連れ去られて久しく、連絡すら取ることも憚られるリョウタの身を案じる。
「転落した男性は、会社員の成瀬リョウタさんと見られており、現在病院で手当を受けているという情報が入ってきております。」
(え…。)
聞き間違えるはずがない。今のはリョウタの話だ。転落?どういう、え、病院で治療。命の危険は?なんでそんなことに…。
この時ばかりは完璧超人と言われた先輩ですら混乱した。
病院ってどこの?リョウタの連絡先もわからない。警察に聞いたって個人情報だとか言われて、下手すれば社長と繋がってる線もアリ、か?
会社に問い詰めたって、なんたってトップがあいつだ。教えるわけないよな。
先輩はなんとかリョウタの無事を確かめたくて、なんとか良い方法がないか考え始める。
リョウタの実家、はダメか。元々聞いてる両親の話じゃ教えてくれそうにないどころか、リョウタが病院送りになったことさえ知ってるか怪しい。
どうすればいい、どうすればリョウタに辿り着ける?
「では、事件ではなく事故だということですね?」
一方、社長は警察による事情聴取を受けていた。まだ冷静にはなれていないが、受け答えはできていた。
マンションの周りは規制線が敷かれ、第一発見者なども情報提供しているようだった。しかし現場が十二階からの転落だったため、発見者に社長が見られたということはない様子だ。
リョウタの方は、途中木の枝に引っかかったため、衝撃が緩和され、一命は取りとめた。ただ、まだ意識が回復しておらず、予断を許さないと医者には釘を刺された。
社長による説明はこうだった。
・紅茶を持って部屋を訪問した。
・談笑していたが、暑いということになり、窓を開けるためベッドの方へ。
・窓の開く音と共に姿が消えたので、見に行ったところ転落していた。
目撃者は社長しかいない。幸い、リョウタがもがいた時、紅茶や食器類を引っかけなかったため、争った痕跡はほとんどなかった。
そして社長とその部下という関係性もあり、警察にはうまく言い訳ができた。
今回の件はあくまでもリョウタの不注意による事故、ということで処理されるようだ。
しかしリョウタには驚かされた。まさかこの高さから身を投げるとは。
死ぬ確率の方が高かっただろうに、それほどまでに嫌悪されているという事実に社長は愕然とした。
だが、一命を取りとめた事には安堵した。回復を待って、また一からやり直せばいい。そう思った。
リョウタは一向に目を覚ます気配がなかった。社長はだんだんとこのまま目を覚まさないのではと不安を募らせていた。
意識のないリョウタの手をそっと社長は握った。意識のある時では絶対に触れさせてもらえない、初めて握るリョウタの手は思ったより小さかった。リョウタが小柄で、社長が体格に恵まれているせいもあるが、きっと通常より小さく感じたに違いない。それはリョウタの命の灯が弱々しく、今にも消えてしまいそうだったからに他ならない。今までの社長なら、手を握ったのを良いことに、もっと触れたいと手を伸ばしていただろう。でも今は、宗教画に出てきそうなほど美しく、儚さすら含んだそのリョウタの寝顔を前にしては憚られた。
先輩はあらゆる手段を尽くしていた。高校大学時代で今でも連絡を取り合っていそうな人物がいれば連絡し、何か情報を知らないかと聞いて回った。
それでも八方塞がりで、諦めかけた頃、先輩はふとリョウタのプライベート用携帯に目をやった。
(そうだ、確かお兄さんとは連絡とっていたはずー。)
一縷の望みをかけ、リョウタの携帯のロックを解除し、電話帳を検索する。すぐに『兄』という番号を発見し、勇気を出して電話をかける。
トゥルルル…トゥルルル…
「ん?リョウタ?起きたのか?」
電話の向こうの主は、第一声でそう言った。
(起きた。ということは命の危険はないということか?)
「あ、いえ。すみません。俺はリョウタの携帯を預かってる者です。どうしても貴方にお聞きしたいことがあって、お電話させて頂きました。」
リョウタの兄はそっか、あんたが先輩?と納得してくれて、リョウタに関することを教えてくれた。病状や病院名を聞けて、先輩はやっと安心した。ここまでに三日三晩かかった。
ひとまず、リョウタの意識がまだないことを告げられ、面会に行ってもあまり意味がないからと、リョウタが目を覚ましたら連絡をくれるということになった。
三日三晩不眠不休だった先輩は、それから丸一日泥のように眠った。
リョウタにいくら興味がないからって、手続き全て放棄とか、もうあいつらは親じゃねーな。
リョウタの兄はリョウタに対するあまりの仕打ちに、腹立たしい思いでいっぱいだった。兄はいつも不思議でならなかった。なぜリョウタを冷遇するのか。私たちの子供は貴方だけよ、と母親が言ってきたことすらあった。確かにあまり饒舌な方ではなかったし、いつも自分の後ろに隠れて親たちに怯えていた様子もあった。でも表立って身体的な虐待があったわけではなく、お互いそりが合わないのだろうか、程度にしか考えていなかった。大学で家を離れている間、リョウタのことが心配じゃなかったといえば嘘になるが、積極的に連絡もしてやれなかった。そんな兄とリョウタだったが、リョウタが最難関大学に入学したと聞いた時は驚いたし、そこで初めて先輩という存在を知った。先輩の話を嬉しそうにするたび、兄として少しだけ嫉妬心も湧いてこようというものだ。だが、あれだけ塞ぎがちだったリョウタが、明るくなっていくのを肌で感じて、先輩には感謝していた。その先輩と初めて電話で会話したわけだが、ここ最近リョウタに起こっていた事や、高校時代に自らを傷つけていたという話は初耳で、リョウタがどれだけ追い詰められていたのか兄として察してやれなかったことが恥ずかしかった。そんなリョウタを救ってくれていたのが先輩だと思うと、余計に感謝の念しか湧いてこない。でも、そんな先輩ですらリョウタに連絡が取れなくなるってどういうことなんだ?と話を聞いていると、リョウタはひどいパワハラに遭っていて、無理矢理勤めている会社の社長に連行されたと言っていた。先輩はその時リョウタを守れなかったことを悔いていて、何度も申し訳ありません、と電話口で頭を下げている様子だった。
一方自分は、警察から聞いた説明を先輩に告げて、リョウタの身元確認やら、入院手続きの書類やらで何度か病院に足を運んでいた。そろそろ起きたかと、病室を覗くたび社長が必ず付き添っていて、リョウタの目覚めを待っている様子だった。しかし先輩からパワハラ社長と聞いていたので、複雑な気持ちで毎回それを見ていた。
社長も帰って、病室に残されたリョウタを見つめながら、兄は今までリョウタがどんな気持ちで生きてきたのだろう、と思いを馳せた。自分が大学で家を離れたことで、リョウタがそこまで苦しんでいたなんて、想像してやれなかった。
「ごめんな。リョウタ。」
未だ目覚めない弟の側で、兄はつぶやいた。
それから三日が経った。病院側から面会の許可が降りたからと、先輩にも兄から連絡が入った。それはリョウタが目覚めた事を意味した。しかし、兄の声のトーンが心なしか翳っているような気がした。それはさておき、リョウタにやっと会える。何ヶ月ぶりだろう。もう何年も会っていないようにすら感じる。転落事故なんて大変な目に遭ったリョウタを見舞うのに、流石に社長も邪魔してこないだろう。そもそも、リョウタが転落した時社長もいたと兄から聞いている。社長にもいくらか非があるのじゃないだろうか。
そんなことを考えつつ、お見舞いに行く支度を整える。リョウタが入院していると聞いた病院は、都市部から少し離れた郊外の総合病院らしい。電車とバスを乗り継ぎ、先輩はリョウタの元へと向かう。
見舞いの品を持って、意気揚々とリョウタの病室を訪れる。病室に入ると、そこには社長が既にいた。だが、先輩を見つけるなり目を逸らして、リョウタの方に向き直った。
「?」
不審に思いながらも、先輩は病室にいたもう一人に歩み寄る。リョウタの兄である。
兄の方も、貴方が先輩?初めまして、と軽く挨拶をしてくれて、すぐに良好な関係を築けた。
そして待ち侘びた瞬間が訪れる。
「リョウタ、大変だったな。もう大丈夫だからな。」
未だベッドから起き上がることは適わないリョウタに声をかける。
しかし、リョウタから返ってきた返答に、先輩は凍りついた。
「誰、ですか?」
それを聞いた兄も社長も、苦々しい顔をした。
(先輩でもダメか…。)
兄は先輩の顔を見ればもしかしたら、という淡い希望を持っていた。そう、リョウタは転落した際のショックからか、記憶をなくしてしまっていた。
医師からは一時的なショックによる健忘かもしれない、と説明を受けたが、兄の顔を見ても、社長の顔を見ても、果ては先輩の顔を見てもこの反応である。
困惑する空気が流れる病室で、今度はリョウタが困惑し始める。
「あの、本当に僕は、成瀬リョウタっていう名前なんでしょうか…。」
リョウタは自分の名前すらわからなくなっており、自分を認識できずにいることが歯痒いようだった。
リョウタの記憶がなくなってしまっていることに先輩は大きなショックを受けるとともに、最初に入ってきた時社長が目を逸らした理由がわかった。
とりあえず先輩はリョウタに、
「大丈夫、何も不安に思うことはない。君はリョウタだよ。」
と告げると社長を伴って病室を出る。兄にはリョウタの様子を見ていてもらうよう頼んだ。
中庭に出ると、先輩は社長を問い詰める。
「アンタ、リョウタに何をした?素直に白状しろ。」
先輩は兄から聞いた警察からの説明に納得がいっていなかった。リョウタは確かに窓際にベッドを配置したがるが、その窓を開けることはしない。十二階の高さともなるとなおさらだ。なぜならリョウタは高所恐怖症で、閉まっている窓から下を見るのすら嫌がるレベルだ。そんなリョウタが窓を開けに行ったとは考えにくい。
先輩が怒りの表情で社長を睨みつけていると、社長はあの日の出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
ただリョウタに触れたかった。
なのにリョウタは自分に打ち解けるどころか避けるようになっていって
あの日は本当にお茶くらい一緒に飲んでくれないだろうかとただそれだけのはずだった
でも風呂上がりのリョウタの姿を見て自分が自分でないような感覚になって
気がついたらリョウタを押し倒していて
その後のことはよく覚えていない
という主旨の話だった。途中要領を得ていないが、社長自身もまだ混乱しているらしい。
まさかリョウタが自らの危険を顧みずあんな行動に出るとは露ほども思い至らなかったということだった。
社長は自らの欲に負けて、結果リョウタを身体的にも精神的にも傷つけてしまったことにショックを受けて多少なりとも反省はしているようだった。これで反省していなかったら先輩は社長に殴りかかっていただろう。
要するに、リョウタは社長に襲われて、その貞操を守るため自ら身を投げたということになる。先輩はそれを理解し、そこまで想ってくれるリョウタへの愛しさと、守れなかった自分への不甲斐なさを噛み締めた。
(ああ、リョウタ。俺を許してくれ…。)
先輩は泣きそうになった。そうまでして先輩との絆を守ろうとしたリョウタに。
そしてもうひとつ先輩は覚悟を決めた。
それは、リョウタの記憶を取り戻し、そしてリョウタ自身も取り戻すこと。もう二度と、離さないと誓って。
そうと決まれば、先輩は病室に戻って、リョウタと会話を試みる。
「まだ起きたばっかりで、今はあんまり考えられないかもしれないけど、何か欲しいものはあるか?」
記憶もないのに、欲しいものなんて聞かれても困るかもしれない。と先輩は思いながらも、今の状態のリョウタが何か興味のあるものを探ろうとしていた。
「お花、みんなくれて、綺麗。あとはわからない。」
リョウタも怪我を負っている身で、頭にも痛々しい包帯が巻かれているため、今はあまり思考が回らないのかもしれない。
「そっか。また来てもいいか?」
先輩は優しくリョウタに許可を求める。
「ありがとう。また、来てくれると嬉しい。」
リョウタはそう言うと少しだけ笑んで見せた。その様子を病室の入り口から見守るしかなかった社長は歯噛みした。
社長は記憶を失ったリョウタに対し、腫れ物に触るようにしか接することができなくなっていた。もし、何かのきっかけで記憶を取り戻し、また拒絶されたらー。社長はそれだけは絶対に避けたかった。
リョウタの記憶がなくなったことで、ただの会社の上司に戻れた社長は、できるだけ優しい自分を演じ、リョウタの信用を勝ち取ろうとしていた。リョウタは先輩も認識できなかった。つまり、同じスタートラインに立ったということだ。社長は暇を見つけては花を持ってリョウタを見舞った。早く元気になってほしい、記憶のことは気にしなくてもいい、と甘い言葉を囁いてリョウタを気遣っている風を装った。本当は思い出して欲しくないという黒い自分を隠して。
先輩はリョウタの記憶について戻っても戻らなくてもどちらでも構わないと思っていた。なぜなら、記憶を失う直前のリョウタが体験した記憶は、あまりにも辛い出来事だと思ったからだ。リョウタはきっと死を覚悟したに違いない。それでも、リョウタは自らの身と自分との絆を守るためその選択をしたのだ。社長に縛られ続けた日々はリョウタにとって辛かっただろうし、追い込まれた結果こうなってしまったのだから、嫌なことは忘れたままにして、これからのリョウタに向き合おう。そう思った。
リョウタは日々一人考えていた。といっても考えられることは少なかった。なんせ自分が何者なのかもよくわからないからだ。兄、社長、先輩。みんな優しく接してくれる。でも。元の自分はどんなだったのだろう。元の自分にも、皆は優しくしてくれていたのだろうか。思い出せないリョウタはもどかしい気持ちでいっぱいになる。皆元の記憶のことには触れず、今の自分について聞いてくれる。社長は体調はどうだ、とか、怪我の具合は良くなってきたかとか、仕事については心配するなとか。そう、仕事はどんな仕事だったかわからないけど、直接の上司が社長って、何してたんだろ自分?兄はパジャマ持ってきたぞとか、退屈してないかとか、身の回りの事を気にかけてくれた。先輩はちょっと変わった人で、お見舞いに来てくれると必ず、側で数時間本を読んでいて、最後に一言二言交わして帰っていった。でも先輩と過ごす静かな時間が、なんだか心地よいのはなぜだろう。
何の本を読んでいるの、とたまに聞くと、読み終わったら貸してあげる、と返ってきた。
先輩が読んでいる本は、いつも何かを考えさせられる内容の本が多くて、少し難しいけれど先輩の思慮深さが伝わってくるようだった。
先輩はいつも穏やかな人で、記憶が戻らないことについても相談できそうだったからしてみたけれど、返ってきた答えは、
「無理に思い出す必要はない、リョウタはリョウタだよ。」
だった。
思い出さなければと苦しんでいたリョウタはその言葉に自然と涙が伝った。
暇を見つけてはリョウタを見舞っていた社長は、しばしば先輩がいるところにも遭遇してしまっていた。そんな時は入り口で回れ右をするが、何を喋っている訳でもないのに、リョウタがなぜか嬉しそうな空気でいることがまた許せなくなってきていた。
(私が色々努力して話しかけている時はそうでもないのに。何故だ。同じスタートラインのはずだ。)
また嫉妬に狂って壊してしまう前に、社長は手を打ちたかった。
(どうするのが最善だ?以前のように囲ってしまっては、思い出された時にまた拒絶されるだけだ…。)
社長は、リョウタを転院させ、自分だけしか見舞いに行けない環境を作ってしまいたかったが、それでは前と同じパターンになるとわかっていた。今は動けない。静観するしかなかった。お見舞いの品も、花以外に良いものが浮かばない社長は、どうしたらもっとリョウタの興味を引けるのか必死に考えた。傷が癒えてきたリョウタは、食事に制限がなくなったため、社長はお菓子などを差し入れするようになった。
「おいひいれふ。」
ある日有名ケーキ店の一番人気のケーキを差し入れしてみたが、リョウタからそれ以上の感想は返ってこなかった。完売必至のケーキだった為、開店四時間前から並び、やっと勝ち取ったケーキだったのに。社長がどこまでも空回りしていると、兄がやってきて、ひっと声を上げた。
「リョウタ、これすごいケーキだぞ、ちゃんと社長さんにお礼言ったか?」
兄はケーキ店を知っていたらしく、ケーキ店についての補足が入る。これはな、予約しても半年待ちのケーキなんだぞ、わざわざ持って来てくださった社長さんにもっと感謝しろよな。
と。
うんうん、半年なんて待てないから人を使って四時間前から並んで買ってきたんだぞ。とちょっと自慢したい気持ちを抑えつつ、社長はリョウタの反応を待った。
「そんなすごいケーキなんですね、ありがとうございます。でも、お忙しい中ご無理をおかけして申し訳ありません。そんなに気を遣って頂かなくても大丈夫です。」
社長はまたしても空回りした。リョウタのためなら多少の苦労くらいどうってことない。なぜそれが伝わらないのだろう。何なら、金を積んでケーキ店のパティシエを一日貸切にしたって構わないのに。
「そうか、ちょっと頑張りすぎたかな、ははは。」
笑って誤魔化したが、社長はどこがおかしかったのか理解できなかった。もっと豪華なお菓子の方が良かったのか?
社長がずれた事を考えながら病室を後にしていると、入れ違いに先輩が入ってきた。
「あ、先輩。こんにちは。」
社長は嫌でも耳が大きくなって音を拾ってしまう。
「さっき社長さんからすごいケーキ頂いたんです、美味しかったんですけど、半年待ちとか兄から聞いて…なんだか申し訳ないです。」
そうじゃない!そうじゃないんだ!申し訳なくなんてないから次ももっと美味しいお菓子持ってきてくださいねって言って欲しかったんだ私は。リョウタに喜んで欲しかった。ただそれだけなのに。
「へぇ、そうなのか。確かにその店聞いたことあるな。」
そうだろうそうだろう。こんな隔絶された世界にいない限り、知らぬものはいないくらいの有名ケーキ店だぞ。社長は先輩に対して、お前程度ではこんなにすぐに手に入らないだろうと鼻高々に自慢したい気持ちになった。
「ところで、今日はリョウタにお土産持ってきたんだ。」
あっさりと話題を変えられた。社長はイライラしてきたので、耳をしまって、会社に戻ることにした。
数日後
社長が病室を訪れると、そこは紙束の山だった。
「……こんにちは、何をしているんだい?」
一瞬どう声をかけていいかわからなかった。リョウタは必死に何かを書き綴っているようだった。社長の声に反応して、リョウタは手を止める。
「お疲れ様です。この前先輩からすごく良いものをもらって。いま夢中なんです。」
ピキッ
社長は自分の営業スマイルが引きつるのを感じた。
リョウタの手元には何やら難しい数字の羅列のようなものが書かれた紙がたくさんある。
「難しい数式の本、なんですけど、社長は数学お好きですか?」
なるほど。わからん。
「数学か。そこそこ勉強はしたが、高校までかな。」
そうなんですね、とリョウタは軽く返した。
「気分転換に解いたらどうかって、先輩がくれたんですけど。気が向かなかったら解かなくて良いって言ってくれたけど、自分でもびっくりするぐらい楽しくて。」
リョウタは鼻歌まじりに数式に取り組んでいる。確かにリョウタは理数系の出身だったと記憶はしているが、特に数学が好きとか聞いたことはなかった。社長はいかに自分がリョウタの表面だけに固執していたかを思い知らされた気がして、恥ずかしくなった。あと、先輩に完全に遅れをとったと悔しい気持ちも出てきた。
(やはり長い付き合いには勝てないのか…?)
社長が勝手に先輩への敗北感を募らせている間にも、リョウタは楽しそうに本に向き合っている。リョウタはだいぶ体調は良くなってきたようだった。ただ、記憶の方は相変わらずだった。思い出さなくてもいい。いや、思い出してくれない方が都合がいい。今はリョウタは普通に接してくれているのだから。マイナスだった自分がゼロスタートできたせっかくのチャンスを無駄にしたくはなかった。
それから一ヶ月が過ぎた頃、リョウタは退院することになった。記憶こそ戻らないものの、身体的には問題がなく、兄という身元引受人もいて、日常生活は十分可能だと判断されたためだった。身元引受人ということで、一旦リョウタは兄の暮らす実家に引き取られることになった。
「お…お邪魔します?」
おずおずと玄関をくぐるリョウタに兄はツッコミを入れる。
「ちげーだろ、ただいまだろ、リョウタ。」
そっか、と言い直そうとした時だった。
「ふん、いらんものが帰ってきよったわ。」
リビングからそう聞こえてきた。
「そんな言い方ねーだろ、親父!」
リョウタは驚かなかったが、自分はこの家には必要とされていないのだと認識した。母親らしき人物も先ほど親父と言われた父親らしき人物に同調しており、リョウタには冷たい目線を送っていた。
「ほら、リョウタ、二階行こうぜ。ほっとけばいいから。」
兄だけはリョウタに極力優しくしてくれたが、リョウタは自分はここにいてはいけないのだと思った。
「兄さん、僕は両親に何かしてしまったことがあるのかな?」
二階に引っ込んだリョウタは、一応兄にそう聞いた。もし過去に何か無礼を働いていたのなら、謝った方が今後うまくいくと思ったためだ。
だが、兄から得られた回答はリョウタの想像とは違っていた。
「あ〜。なんか、昔っからリョウタはこの家ではうまくいってなかった。なんかわかんないけど、両親どっちとも折り合いが悪かったっていうか。避け合ってる間にボタンかけ違えちゃった、みたいな感じなのかな。お互いがどう接していいかわかんなくなっちゃったんだよ、たぶん。だからまあ、あの二人はほっといて、なんかあったら俺に言ってくれればいいからさ。」
兄はそう言ってくれたが、リョウタには未来が容易に想像できた。折り合いが悪い両親、庇ってくれる兄。だんだんそこも関係が悪化していき、元を正せば全部リョウタが悪いと言われる未来。果ては出て行けと言われるのだろうから、今のうちに消えておこう。
「僕、一人暮らししたいな。」
そうぽつりと漏らした。死のうという選択はなかった。なぜなら死にたいと思うほどの記憶もないからだ。兄からはえ?という返事が返ってきた。
「リョウタ、いくら何でもそれは流石にいきなりステップ飛ばしすぎだろ。まあ、あんな反応されたらそう思う気持ちもわからんでもないけど、今はちょっと我慢した方がいいって。」
俺がついてるから、な!と言われたが、リョウタはそれだからこそ兄に迷惑をかけたくないという気持ちが強まった。
リョウタは、日常生活は送れると言われたが、仕事復帰とか、一人で出歩くのも大丈夫、と言われたわけではない。あくまでも付き添いが必要だが、病院に留まるレベルではない、というだけの話だ。
(…先輩に会いたい。)
一緒に静かな時間を過ごしてくれる人。一番安心できる人が今のリョウタにとっての先輩だった。
なんで、何も聞かないで、ただ側にいてくれるのだろう。こちらが聞いたことには的確に返答をくれるし、興味を持ったことには付き合ってくれる。
「兄さんにとって、先輩ってどんな人?」
リョウタは話のベクトルを変えた。また兄からはえ?と返事が返ってきたが、一人暮らしの話をしなくなったことで安心したようだった。
「そうだな、リョウタのこといつも見ててくれて、俺は感謝してる。優しい人なんだろなって思うし、リョウタもそれは知ってると思うけど?」
優しい人、それはわかっている。だが、今のリョウタにヒットする優しい人で言えば、先輩も、兄も、そして社長も優しい人である。
「個人的にはリョウタのこと救ってくれたのかなって思ってるから。感謝してる。」
兄はそうぼそりとつけ加えた。
(救った…?)
先輩と自分の間に何があったのだろう。先輩はそんな話は一切しないし、ただいつも本を読みながら側にいてれるだけなのだ。変に詮索したりしないし、リョウタが話そうとしないことは聞いたりしない。リョウタは自分が記憶を無くしてから得た情報は、
・先輩と仲が良かった
・社長の下で働いていた
・兄がいる
・十二階から転落したにも関わらず奇跡的に一命を取りとめた
・自分の名前は成瀬リョウタ
というくらいだった。その後社長が君は本当に有能な部下だから、早く元気になってほしいと言ってきたり、今は休職扱いになっているから心配しないでいいとか、会社絡みのことは少し聞いたが、先輩と仲が良かったというのは兄情報で、先輩自身はそれを材料にリョウタに何かするということはなかった。
先輩と何があったんだろう。リョウタは何も知らない。ただ、一番側にいて安心できる人だということは間違いがなかった。なぜだかわからないけど、リョウタの心の奥深くがそう言っているのだ。
「先輩に会いたい。」
リョウタは今度は声に出してそう言った。兄は特に何も言わず、ただ先輩の番号を表示した携帯を差し出したのみだった。
「もしもし?」
電話口の先輩の声を聞いただけで、リョウタはもう泣きそうだった。なぜだかわからないけど、今ある不満や不安を全部先輩にぶちまけて、人目も憚らず泣いてしまいたかった。
なかなか電話口の先輩に話しかけられず、リョウタがまごまごしていると、先輩は察したように切り出した。
「…リョウタ?」
そう。兄ならこんな間は作らない。うん、と返答すると優しくどうした?と先輩は病院でしていたように静かに答えてくれる。
「あのね、先輩に会いたい。今すぐじゃなくてもいいから、会いたい。」
そう言うと先輩はわかったと告げて、電話を切った。
二十分後、うとうとしていたリョウタは兄に起こされた。先輩と話せた安堵感から、緊張の糸が切れて寝かかっていたらしい。
「リョウタ。先輩着いたって。」
(え…。)
玄関を出てみると、そこには先輩が立っていた。今日は仕事のはずなのに、いやだからこそスーツで家の前に待機していた。
「先輩?どうして…。」
リョウタが話し始めるよりも先に、先輩はリョウタを抱き止めた。
「迎えにきた。」
その言葉にリョウタの今まで抱えてきた全ての負の感情が溶け出してしまい、リョウタは涙が止まらなくなった。兄に誘導され、なんとか家の二階に避難してきたが、リョウタは長いこと泣き止むことができなかった。ご近所さんに見られる前に兄が誘導したのは正解だったかもしれない。
流石に泣き疲れて、涙が枯れた頃、リョウタはようやく先輩にも話したかったことを話した。
「この家にはいられないから、一人暮らしをしたい。」と。
先輩は驚かなかった。そうか、と一言頷くと、リョウタのしたいようにすればいい、と言ってくれた。
「えええええ!」
驚いたのは兄である。兄は先輩にも色々段階飛ばしすぎだし、リョウタはまだ危なっかしいから、誰かが見てないと、と説得を仕掛けた。
「なら、俺が付いてますよ。でも、リョウタは一人暮らししたいと言ってるから、できるだけ俺の近くの物件に住んでもらえると助かりますけど。」
とさらりと言ってのけた。兄は頭を抱えた。仕事あるでしょ、と言おうと思ったが、それは兄も同じことで、兄が家を空けている間、リョウタは両親に冷たくあたられる危険もあった。何もなくても、リョウタにとってこの家にいることは針の筵で、精神的に良くないのではないか、とも思ったせいだ。
悩んだ末、兄はリョウタを先輩監督のもと一人暮らしさせてみるか、という結論に至った。目の前であれだけ仲の良さを見せつけられては、ウンと言わざるを得なかった。
(記憶とかなくても、この二人にはもう誰も入れない世界があんだな。)
兄は改めて目の前にいる先輩に感謝した。リョウタの不安をあんなふうに溶かしてやることは自分にはできないことだったから。
週末
兄は彼女とデートに出かけるとかで、朝早くに出かけて行った。リョウタは新居を探す約束を先輩としており、浮かれていた。朝十時に家の前で、と約束していたので、時間より少し早く家を出る。
「あ…。」
玄関のドアを開けると、そこにいたのは先輩ではなく社長だった。
「あ、おはようございます。えーと…。」
リョウタはどうするか迷った。
「どこか出かけるのかな?邪魔なようなら私は退散しよう。」
社長は背後の先輩をチラリと見遣りながらリョウタに問う。
「あ、えーと。今日は物件の下見とか、ショッピングモールで買い物なんです。社長もお時間が合うようでしたら。」
先輩はリョウタの選択に口を挟むことはしなかった。
かくして、リョウタは社長と先輩と三人で家を出た。物件はなかなかいいところが見つからず、休憩も兼ねてリョウタ達は昼頃にショッピングモールに到着した。そこそこに昼食を済ませ、これからのリョウタの生活に必要なものを見て回る。
「服とかも揃えといた方がいいぞ。これから季節の変わり目だからな。」
と先輩は適当にリョウタに服などを見繕う。社長はその様子をただ見ているしかなかった。何か聞かれれば答えるが、必要以上に口を挟んでリョウタに煙たがられたくなかった。あと先輩からの圧が余計にそれを助長していた。
(気まずい。しかしこれからのリョウタの動向を掴むためには同行するしかない。)
今のところリョウタから割と好意的に接してもらえていることでなんとかこの場にいられるだけだ。
「あ、ケータイ…。」
そろそろお開きかと言うところで、リョウタは思い出したように呟いた。
「ああ、契約するんだったな。ごめん、忘れるところだった。」
先輩はそう言うと、素早くリョウタを携帯電話ショップへと誘導していく。
(忘れていてくれた方が良かったのに。)
先輩は少しだけそんな思いを抱きながらも、そんな態度は微塵も見せずにリョウタと笑い合いながらショップに到着した。
「いらっしゃいませ〜。何かお探しですかぁ?」
少し気だるい店員のお出迎えを受けつつ、三人で機種やプランを話し合い、リョウタは新しい携帯を手に入れた。
リョウタはあまり機種に頓着しない方で、型落ちした安いものでいいと主張したのだが、社長から最先端機種を無理矢理押し付けられた。
「これから頻繁に使うことになるならこのくらいのものを持っておいた方がいい。」
とのことだった。機種代はもちろん社長が一括で支払うという。
「いえ、そんな。悪いです。」
恐縮しまくるリョウタを前に、社長は有無を言わさず見たことのない色のカードで華麗に決済を済ませた。
「これも投資の一環だよ。君の未来へのね。」
社長はリョウタに良い贈り物をしたと鼻高々に自慢したい気分だった。
先輩は静観していたが、相変わらずズレた発言をする社長に冷たい視線を送っていた。
その視線に気づいた社長は先輩と一瞬火花を散らす。が、リョウタの次の発言でその火花は敢えなく溶けていった。
「あ、最旬スイーツだって。このプリンアラモード食べたい。」
リョウタは早速手にいれた最新機種で近くのカフェを検索していたらしい。その発言に先輩は無意味な争いをやめ、意識をリョウタへと向ける。
社長も同じく今争っても無駄だと感じ、リョウタの見ていたスイーツを見せてもらう。
「おっし。んじゃそれ食べにいくか。リョウタ、夕飯はどうする?」
先輩は素早く切り替えると、リョウタの身を案じる発言でリョウタの好感度をぐんぐん上げていく。その様子を見て社長は歯噛みする。
(くそ、なぜだ。この差はなんだ。)
側にいる時間は同じなのに、どんどん差をつけられていると体感する。何が違うのか、自分に足りないものは何か、社長は必死に思考を巡らせる。
「あの、社長もお電話番号、交換させていただいても?」
考え込んでいると、リョウタが上目遣いで遠慮がちにそう聞いてくる。新しいリョウタの連絡先。交換しないわけがない。先に先輩との番号交換は済ませていたようで、考え込んでいる間に少し話が進んでいた。
(せっかくのリョウタの情報を得られるチャンスだ。もっとしっかりしなければ。)
今まで仕事で何か遅れをとるということが少なかった社長は、遅れをとり始めているリョウタの好感度について焦りを感じていた。
このままではまたこの先輩とやらに敗北を喫する。今度こそ勝ち取ってみせる。社長の決意は固かった。
リョウタはお目当てのプリンアラモードをペロリと完食すると、今度は先輩と夕飯の話をしている。社長はホットコーヒーをゆっくりと味わいつつ、二人のやりとりに聞き入っていた。
リョウタは実家に引き取られたが、両親に冷遇されているらしく、家で食事をするのは気が引けると言う話だった。なぜ両親が冷たいのかはリョウタは理解できず、兄からの情報も交えて先輩に説明している。先輩は当然知っている情報だったろうに、そうなのか、とリョウタの話を遮ることなく聞いていた。平日の夜は兄が買ってくる弁当を部屋でもそもそと食べているらしかった。
社長はリョウタの一人暮らしには賛成だ。しばらくの保護観察者として先輩が就任しているのは解せないが、リョウタを誘いやすくなるし、差し入れという名目で料理を持っていけば、部屋にあげてもらえるかもしれない。
ただ、今日の物件の下見では、初めは静観していた先輩が、この物件は日当たりが良くないとか、安いけど事故物件じゃないのかとか、とにかく事あるごとに不動産業者を完膚なきまでに叩きのめし、結局決まらなかった。リョウタは言われるままに情報を聞いていたから、危なっかしいところはあったが、先輩の指摘の仕方は厳しいものが多かったように感じる。
三人は結局夕飯をショッピングモール内の定食屋で済ませ、その日は解散となった。
先輩はマンションに帰って一人考えていた。
(今日のリョウタは記憶がないから仕方ないとはいえ、危なっかしいことばっかしてたな。リョウタの意思を尊重したかったから、社長を連れていくかは任せたけど、物件の事は隠した方が良かった。)
今日先輩が不動産業者を叩きのめしたのは、社長に新居を知らせないためだ。あの男、リョウタが一人暮らしを始めたなどと言ったら、また何をしてくるかわからない。今はリョウタへの良心の呵責で大人しくしているが、リョウタの記憶が戻らないのを良いことに、また調子に乗り始めたらまたリョウタが傷つくことになる。今度こそ守ってみせる。先輩は固く誓っていた。ケータイのことも、リョウタから切り出すまで忘れたことにしていたのは計算だった。あのまま解散していれば、後日また物件のことも含めて相談に乗ってやれると思っていた。
危惧しているのは、社長と番号を交換したことで、社長からしつこく誘いが来ないかということだ。まあ、新規契約だし、社長とは番号の交換しかさせていないから、直接電話でしつこく誘うということはいくら図々しいあの社長でもなかなかしないだろう。チャットでやり取りできるアプリを入れさせて、アカウントを交換したこちらの圧倒的優位は揺るがないだろう。
早速リョウタとのやりとりを開始する。
今日はお疲れ様。物件決まらなくて残念だったな。家に帰って少し調べたからまた明日出直さないか?
メッセージを送信すると、リョウタからはすぐに既読がつき、返信が返ってくる。
ありがとうございます。でも、土日両方出かけたら先輩が疲れちゃいませんか?
リョウタは記憶を失っても以前と変わらず優しい子だった。やっぱりリョウタはリョウタなのだ。先輩は気遣いを少し嬉しく思いつつも、実家での暮らしにくさを考えると、一刻も早く一人暮らしした方がいいと思っていた。
そんなことは心配しないでいい。リョウタに特に用事がないなら、明日また会おう。
そう言ってまた明日会う約束をして、先輩とリョウタは眠りについた。
次の日の物件選びは、先輩がリサーチしたというところを見に行き、しばらくの仮住まいという事で、家具つきマンスリーマンションを契約した。日当たり良好、事故物件なし、一人暮らしには十分な広さ。これなら良いだろうと二人は納得した。リョウタはまだ休職中の身なので、ここから出勤するわけではないが、まだ数式の本が終わっていないと言って、ここでしばらく一人で落ち着いて数式に向き合うようだ。
「ここって、先輩の家からは近いんですよね?」
リョウタは先輩の行動範囲内での一人暮らし、という条件付きで兄から承諾を得ていることもあり、聞いてみた。
(そっか、記憶、ないんだもんな…。)
先輩はリョウタが家を知っているものとして進めてしまっている節があったので、己を反省した。先輩は自分の住んでいるマンションまでの道のりを軽く説明し、何かあったらこの部屋番号を押すんだぞ、と念を押した。リョウタの一人暮らし用の部屋はすぐ入れるという事だったので、一旦実家に戻り、リョウタのそれはそれは少ない荷物を持ってきた。
昨日買った服などを合わせても、よくこれだけの荷物で生活していたな、という量しかなかった。
「よし、せっかくキッチンあるし、昼飯になんか作るか。」
ここのところ冷たい弁当ばかり食べていたようだから、何か温かいものを食べさせたくなった。
「先輩、ラーメン食べましょ。」
リョウタは先輩にそう提案する。
「え、ラーメン?そんな簡単なもんでいいのか?」
先輩は拍子抜けしてしまう。ラーメン、か。でも確かに実家に戻ってからのリョウタには食べられなかったものだったかもしれない。
うんうん、と頷いているリョウタが可愛いし、二人は近くのスーパーで買ってきたラーメンを拵えて一緒にすすった。野菜不足にならないよう、野菜炒めトッピングを添えて。
「先輩。今度、遊園地に行きたいです。先輩と二人で。」
ラーメンを食べ終わってまったりした時間を過ごしていると、突然リョウタはそんな話を始めた。
「おう、いいぞ。どこの遊園地がいい?時期も週末ならいつでもいいぞ。」
先輩はリョウタの口調が前のようには戻らないことに少し悲しさを感じつつ、二人で出かけたいと言ってくれるまでに回復してきたことを喜んでもいた。
「やったー!プラン考えておきますね。」
リョウタはこの時初めて、記憶を失って以来の笑顔を見せたのではないだろうか。
(ああ、リョウタがやっと笑ってくれた。)
もうずいぶんリョウタの笑顔を見ていなかった先輩は安堵した。
先輩の心は揺れていた。リョウタの全てを取り戻すと誓った。でも、それは正しいことなのだろうか。記憶が戻らなくても、リョウタは笑えている。両親と折り合いの悪い幼少期のことや、社長から受けた仕打ちを考えれば、思い出さないほうがリョウタにとって幸せなのではないだろうか。
例え、自分との出会いを忘れたままでもー
次の次の週末
「お天気に恵まれて良かったですね、先輩。」
リョウタは上機嫌でそう言った。先輩はそうだな、と頷き返し、二人は遊園地へと足を踏み入れた。そこは昔からある遊園地で、いわゆる近代型のテーマパーク程の規模はないのだが、二人でゆっくり一日回るのには十分な広さだった。リョウタはいわゆる絶叫系にはあまり興味がないらしく、メリーゴーランドなどの一般的なアトラクションに乗りたがった。一通り回って、昼食のホットドッグを食べた後、夕方まで園内をぶらつきながら、リョウタが楽しめたアトラクションはリピートしたりして満喫する。楽しそうなリョウタを先輩は微笑ましく思いながら、また一方でやはり心は揺らいだままだった。話しながら園内を散策していると、昼間は通らなかった、敷地の奥の方へとやってきてしまった。そこにはまだ回っていなかったアトラクションがあり、リョウタは興味津々に近づいていく。
だが、先輩はこれはないな、と思いながらリョウタについて行った。なぜなら、それは高所から落下して無重力を体験するものだったからだ。高所恐怖症であるはずのリョウタが乗りたがるとは思えなかった。
「先輩。これなんでしょう?」
上を見上げながら問うリョウタに、先輩はこのアトラクションの趣旨を説明する。
「へえ。無重力。体験したことないし、面白そうかも。」
意外な返答に先輩は驚く。以前のリョウタなら、この高さを見ただけで即アウトだった。観覧車さえ乗らない徹底ぶりだ。
「高いところは怖くないのか?」
先輩は素直に疑問をぶつける。リョウタは、ん〜、と考え込み、
「怖いけど、先輩がいてくれるから。」
と笑って答えた。先輩は胸が熱くなるのを堪えつつ、そっか、とリョウタと一緒にアトラクションに乗り込む。
程なくして、アトラクションは出発する。上昇していく感覚に、リョウタは緊張している様子だった。
「大丈夫か?」
と先輩が声をかける前にリョウタは目を瞑って先輩に訴えた。
「やばい。怖い怖い怖い。」
とはいえ、アトラクションを止めてもらうわけにもいかない。
「リョウタ、ちゃんと俺がいるからな。目は開けといたほうがいいぞ。」
と声をかけ、最大限恐怖を和らげてやれるよう心がける。そうこうしているうちにも上昇が止まった。
(あ、来るな。)
先輩がそう思った時だった。一瞬ふわっと浮いた感覚がして、落下していく。先輩は割とこの手のアトラクションは苦手ではないが、終わった直後にリョウタの様子を確認すると、顔が真っ青である。これはただ事ではなかった。
「どうした、リョウタ。歩けるか?気分悪い?」
なんとかアトラクションからは降りたが、気分が悪いのかという問いかけに力無く頷く様子は尋常ではなかった。急遽救護室にリョウタを運び、容体が落ち着くまで休ませてもらう。
やはり高いところがダメだったのだろうかと先輩が思案していると、リョウタが少しずつ言葉を発した。
「ごめ、なさ。せっかくの、おやすみ。」
何を言い出したのかと思ったら、またリョウタは自分の心配よりも先輩のことを気遣っていた。そんなこといいから、自分の心配をしろと先輩はリョウタを気遣う。
一時間ほど休ませてもらい、リョウタはだいぶ落ち着いたので、帰路に着く。ちょうど遊園地も閉園の時間あたりになっていた。
「大丈夫か?無理してないか?」
そう問いかける先輩に対し、リョウタはだいぶはっきりと受け答えができるまでに回復していた。しかし、なぜあそこまで気分が悪くなったのか本人にもさっぱりわからないという。高いところが怖かったのは事実だが、落下中に急激に気分が悪くなったのだそうだ。本人曰く、慣れない感覚に酔ったのかも、ということだった。リョウタは夕飯を食べられる状態ではなさそうだったので、先輩はリョウタを部屋まで送り届け、寝かしつけてから自分のマンションへと戻った。
リョウタは夢を見ていた。これは悪夢だとリョウタは直感した。
今までも似たような悪夢を何度か見ていた。
迫ってくる何かから逃れようとして、逃げた先が空洞だったりするのだ。
ぽっかり空いた穴に吸い込まれる感覚で目を覚ます、みたいな事が何度かあった。
何に追われているのか、リョウタは今まで確かめなかった。ただ逃げなければ、という強迫観念みたいなものがあり、逃げることに必死だった。
一体何からそんなに必死に逃げているのだろう。リョウタは初めてその正体を確かめる気になった。
(あ…。)
リョウタの意識はそこで途絶えた。
午前三時、先輩は雨の音で目を覚ました。
(結構降ってるな…。)
いまだに慣れない一人きりのベッドで、先輩は寝直そうと寝返りを打つ。
ピンポーン
先輩は飛び起きた。誰だ。こんな夜中に。
恐る恐る玄関のモニターを確認すると、そこには部屋の前に立っているリョウタらしき人物が映し出されていた。
(リョウタ?こんなに濡れて…でも、部屋番は教えたけど玄関のセキュリティの解除は教えてないはず?何が起こってる?)
相手はとりあえずリョウタだと確認したところで先輩はドアを開ける。そこには濡れそぼって立っているリョウタの姿があった。
「リョウタ?どうした、こんな夜中に。しかもそんなに濡れて。」
先輩は夕方のこともあるし、優しく様子を確認する。もしかしてまた気分が悪くなったのかもしれない。
「先輩。俺…。」
リョウタはそれだけ言うと黙ってしまった。でも先輩はその一言で何が起こっているのか察してしまったのだ。
(記憶が戻ってる…。)
そう、記憶を失ったリョウタは決して『俺』とは言わなかった。
とりあえず先輩はリョウタを中へ入れる。このままでは風邪をひいてしまう。タオルと着替えと温かいミルクを用意して、先輩とリョウタはリビングで向き合った。
リョウタは何も言わずじっとしている時間が長く流れた。先輩もリョウタも、お互い何から確かめ合えばいいのかわからずにいた。
(あ、そうだ。)
先輩はリョウタに元々リョウタが使っていたプライベート用携帯を差し出す。リョウタは小さく頷いて手に取ると、息をするようにロックを解除する。それは記憶を取り戻したリョウタにしかできないことだ。リョウタはしばらく色々と携帯の中身を確認していたようだが、最後にアルバムを開き始めた。
そこには先輩と二人で写った写真が並んでいる。それはリョウタと先輩の歴史でもある。高校の卒業式から、大学の写真、果ては入社式に向かうスーツ姿の二人など。リョウタはそれらを眺めて一呼吸置くと、嗚咽を漏らし始めた。
(混乱してるんだろうな。)
先輩はそんな思いを抱きつつ、声を殺して泣き続けるリョウタにそっと寄り添った。
「よしよし、よく頑張ったな、リョウタ。もう大丈夫だからな。」
頭を優しく撫でながら、先輩はリョウタを宥め続ける。一方のリョウタは一向に泣き止む気配がなく、ただ携帯の写真と、本物の先輩に囲まれながら気の済むまで泣き続けた。
朝
(あれ…。俺何してたんだっけ。)
リョウタは目を覚ました。見れば昨日の夜着たはずの服と違っているし、そもそも部屋も違う。
「ここは…、」
リョウタは明確な見覚えと共に、驚きを隠せない。
「おはよ、リョウタ。」
そう、先輩との愛の巣である。
「あ、先輩。おはよ…。」
リョウタはあの後泣き疲れて眠ってしまったのだ。先輩はそんなリョウタをベッドまで運んで自分もまた眠りについた。
リョウタは幾分落ち着いたのか、昨日先輩と別れた後のことを思い出してはポツリポツリと話し始めた。
夢をみたんだ。でもあれは夢じゃなくて、先輩にもう会えなくなるって覚悟した時の最後の映像だった。ということや、あの日起こった出来事を鮮明に思い出したこと。社長の魔の手から逃れるにはああするしかなかったこと。先輩を裏切りたくない一心だったこと。徐々にリョウタから明かされる事実を知るにつけ、先輩は社長への憤りを強めていった。一部社長からことの顛末は聞いていたとはいえ、やはり加害者側から聞くのと、被害者側から聞くのでは違ってくる。リョウタがどんな思いで十二階から身を投げたのか。先輩は胸が締め付けられる思いだった。
話し終わったリョウタは、少し呆然としていたが、先輩はそんなリョウタをきつく抱きしめると、感謝と謝罪を口にした。
「ありがとう、リョウタ。俺のことそこまで想ってくれて。そしてごめん。リョウタがそんなに追い詰められてたのに俺は何もしてやれなかった。守れなかった。」
それを聞いたリョウタの目からは再び涙が流れるところだった。
「ううん。俺の方こそ、いつも先輩がいてくれたからここまで来れた。先輩がいてくれるって信じてたからあそこまで我慢できた。あと今はこうして一緒にいてくれる。それだけで十分だよ。これからも、俺と一緒にいてくれる?」
当たり前だろ、と返す先輩の頬にも涙が伝い、二人で思いっきり泣いた。
「でだ。」
二人で思いっきり泣いたあと、二人とも力尽きて眠ってしまい、気づけば夕方だった。二人は再びリビングで向かい合い、今後について話し合うことにした。
「リョウタはどうしたい?あの会社、辞めたほうがいいんじゃないか?」
それは当然そうだろう。リョウタの記憶が戻った今、社長のいる会社に未練もなければ、い続ける理由もない。
しかし、リョウタの結論は意外なものだった。
「一つ考えたんだけど。今回の件で俺たちはある意味社長の弱みを握ったんじゃないかな?それなら、先輩とのこと隠す必要ないあの職場は案外ラッキーかもしれないよ?」
先輩もこれにはびっくり仰天である。
「なっ、確かにそうだけど、リョウタ自身の危険を考えろ。リスキーにも程があるだろう。またあの社長が襲いかかってきたらどうするんだ?」
うーん、とリョウタは少し考えた。
「むしろ、その時は証拠を押さえて週刊誌に売り込んでやるぞって脅しかける、とか。」
先輩は呆れた。リョウタはあんな事があって、少し強かになったようだが、強かすぎないか、と。
「証拠を押さえるって、それリョウタなんかされてるだろ。却下。」
それはそうだね、とリョウタは先輩と冗談めかして笑い合う。しかしリョウタの傷が癒えたわけではないので、二人とも真剣に対応を検討する。
「まず、こうしよう。定時連絡を取る。それを社長にも了承させる。どうしても取れない時は事前に連絡。あと何があってもリョウタに手を触れるのは禁止。髪の毛にゴミがついてるとかでもダメなものはダメだ。」
先輩は今後のリョウタに関わる話なので、細かくメモを取りつつまとめていく。
「これらを了承できないと言ってきたら、リョウタはあの会社辞めること。いいな?」
うん、とリョウタは了解の意を示す。本当は部署変えてもらったら手っ取り早いけど。と先輩は漏らす。あの社長の性格からして、異動願いを出したところで、リョウタを手放すようなことはしそうにない。会社に残ると言ったら、側に置いておきそうだ。
だが、思い知ってもらおう。社長にとってリョウタは高嶺の花なのだと。
どんなに手を尽くしたとしても、リョウタと先輩の間に入る隙間はないのだと。
月曜日
「おはようございます。社長。」
社長は人生で一番驚いたかもしれない。
もちろんリョウタが目の前で消えた時、そのリョウタが目覚めた時には記憶をなくしていた時、など人生の驚きはここ最近大忙しだが、記憶を失って療養中のリョウタがある朝いきなり出勤しているのだ。しかも自分より早く。
「な、ぜここに…。」
リョウタはしっかりとスーツを着こなし、ワイシャツだってシワひとつない。ネクタイも一ミリも曲がっておらず、まさに完璧だ。とても記憶を失っているとは思えない。
「今日は復職の手続きに参りました。おや、僕の顔に何かついてますか?」
社長はリョウタを凝視していた。
(まさか、記憶が戻ったのか?だとしても、今なんて言った?)
社長はリョウタの記憶が戻ったら、警察沙汰にされることまで覚悟していた。自分の人生終わったかもしれない、などと考えたこともあった。
だが、証拠はないし、あの時警察の捜査でも事故と判断されたじゃないか。しかし、リョウタ自身からは嫌われることは免れないと覚悟していた。
「いや、問題はない。何もついてないとも。で、復職?いまそう言ったか?」
社長は混乱した。あんな事があって、リョウタが完全復活したとしたら、真っ先に三行半ならぬ退職願を叩きつけられるとばかり思っていた。戻ってきてくれるということは、脈ありと期待してもいいのだろうか。いや、そんなはずはない。
(どうしたらいい、どう対応するのが正解だ?)
社長はこんなに難しい判断を迫られたことは今までなかったんじゃないかというくらいに今までの流れ、今あるリョウタの状態や言動、今後の展開について考えを巡らせて、頭がパンクしそうになった。
「おい。」
気がつけば、先日リョウタのために購入した最先端携帯をリョウタがこちらへ差し出している。声の主はそこにいた。
「へ?」
ドスの効いた低音に、思わず間抜けな声を出してしまった。
「へ?じゃねえ。今度リョウタになんかしたら、今度こそ警察とマスコミに突き出してやるから覚悟しろ。リョウタが復職するにあたって、条件を出すから耳かっぽじってよく聞け。」
その声の主は先輩だった。リョウタが知っている優しい先輩とはうってかわって、どこから出しているんだろうと思うような低音で社長にあれこれと条件をつけている。社長は先日の自分の失態と、先輩の低音の圧にただ条件を聞き入れるしかないようだった。
「リョウタに一ミリでも触れたら即セクハラで訴えるからな。毛先一ミリでもだ。リョウタにはウェアラブルカメラを提案したが、リョウタは慈悲深いから自己申告制になった。それを忘れるな。」
(先輩って、たまに悪のオーラ出すよね。)
リョウタはそれを聴きながらそんなことをぼんやりと考えていた。
社長は先輩からこってり絞られ、朝から疲れ果てた様子になった。とりあえず条件は飲んだらしく、先輩からは、じゃ、手続き済んだら今日はまっすぐ帰るんだぞ。といつもの優しいトーンで通話を終了された。
社長は何から切り出そうと少し考えたが、一番に言わなければいけないことは忘れなかったらしい。
「申し訳ないことをした。許してくれとは言えないが、まず、謝りたい。」
社長はそれなりに社会経験を積んでいる。間違いは正さなければいけないということくらいは流石にわかっていた。
「その上で、私は君に好意を抱いている。と言うのは変えられない。ただ、君にも相手がいるのだということは嫌というほど痛感させられた。もう変に手出しはしないと誓おう。」
リョウタは社長の謝罪を受け入れることにした。
「社長のおかげで先輩とは切っても切れない仲っていうことが証明されましたし。むしろ感謝ですけど、条件をお忘れなく。」
リョウタから痛い釘を刺され、うっ、と社長はたじろいだ。先ほどの先輩との会話を思い出したせいだ。
(あの男、只者じゃない…。)
社長は思い返すだけで珍しく胃が痛くなりそうだった。
リョウタは全てを思い出したことによって、むしろ心が軽くなったそうで、社長からはもう変に手出しはしないと言ってもらえたし、先輩との仲が公認になったので、手続きを終えると嬉しそうに帰っていった。
(敗けた、か…。)
社長は今回の件に関しては完敗を喫したことを感じた。それがわからぬほど子供でも愚か者でもなかった。
しかし、転んでもただでは起きないのが敏腕社長、九条ナオヤである。
後日
「え?なんですって?」
復職してきたリョウタにある頼み事をしたところ、この返事だ。望み薄かな、と思いつつも、追求してみる。
「君と先輩から提示された条件にこの件は当てはまらないと思うのだが?」
リョウタは少し考えたが、そこへ携帯電話が鳴る。
「あ、ちょうど定時連絡なので、相談してきますね。」
そう言うとリョウタは席を外した。くそ、奴に勘繰られる前にカタをつけたかったのに。
五分後にリョウタは戻ってきたが、答えはノーだったらしい。通話状態のまま戻ってきたのだ。
「また変な気起こしてるんじゃないだろうな?」
電話口の先輩は怪訝なトーンで社長に問いかける。そんな先輩に社長は秘策を用意していたのだ。
「とんでもない。むしろ変な気がないから素直にこうして頼んでいるんじゃないか。」
リョウタと先輩は共に首を捻る。
「どうしよう、先輩?」
そう言いながらまたリョウタは席を外す。
「リョウタはどうしたい?」
そう問いかける先輩に、リョウタは素直な思いを吐露する。
「うーん、断ってまたフラストレーションため込まれて、思い切った行動に出られても困るし、毎日ってわけでもなさそうだから、今のところオッケー、かな?」
そうか、と先輩はリョウタの心境を尊重する。
「じゃあ、とりあえずお試しで反応見るところまでならやらせてやるか?リョウタは優しいからな、つけ込まれないようにするんだぞ?」
はーい、と言ってリョウタと先輩は定時連絡を終了した。
ガチャ。
社長室に戻ると、社長は普通に仕事に戻っていた。が、流石に先ほどの話題を忘れたわけではない。
「で、結果は?」
短く尋ねるに留める。リョウタは、少しだけどうしようかと迷ったが、社長の頼み事を引き受けてもいい、という旨の返事をした。ただしお試しで、と付け加えて。
「そうか、助かるよ。ありがとう。早速明日頼みたいのだがいいだろうか?」
わかりました、と答えてリョウタもまた業務に戻る。
その日の夜
「リョウタ、今日は大丈夫だったか?あいつまた何か企んでるんじゃないだろうな?」
先輩は帰宅するなりリョウタの身の安全を確認した。
「うーん、多分大丈夫、だと思う。なんか、前もあったし。」
そう答えると、先輩は『は?聞いてないぞ。』とリョウタに詳しい説明を求めた。
ああ、あの時はね。先輩と離れ離れになって。お弁当がおいしく感じられなかったから片付けてたんだけど。そしたら食べかけの俺のお弁当食べてたから。社長は昼食難民なんじゃないかって…。
「は?あの野郎、何しれっとリョウタと間接キスしてんだよ。ふざけんなよ。」
みるみる怒りを募らせていく先輩だったが、リョウタもそこは同感だった。
「流石にあれは引いたけど、ただ単にお腹すいてるだけなんじゃ?」
リョウタは社長の頼み事を聞いた時、そういうことだったのかな?と思った。
「いや、そんなわけないだろ。リョウタの弁当とか、リョウタの手料理だから食べたがってるんだろ。やっぱりあいつ懲りてないんじゃないか?」
そうなのか、とリョウタは先輩の鋭い洞察力に感嘆する。
そう、社長の頼み事。それは、『たまにでいいからリョウタの作った弁当を昼食にしたい』ということだった。
「弁当作るとか、時間外労働だと思うぞ。いいのか、それで。」
先輩は反対派なので、どこまでも渋る。
「お弁当くらいで済むならいいかも。社長室防音仕様にされて、なんかされるとかよりは。」
リョウタの中で、社長はかなり極悪人になっているようだ。社長室改造とかどれだけ経費かける気なのだろうか。
そして明日頼みたい、と言われたが、一つ問題があった。
「お弁当箱の大きさ聞いてくるの忘れた!」
リョウタは社長の胃袋の大きさを知らない。どれだけ拵えたら昼食として満足してもらえるのだろうか。社長はいつも昼時になると、いなくなるか、食べずに仕事しているかの二択なのである。いない時にどこで何を食べているのかリョウタは全く知らない。
以前に高級レストランでステーキとか誘われた事があるので、結構食べる方なのだろうか。でもそれは夕食の話だし、昼食はガッツリ食べない方かもしれない。
「とりあえずこれでいーよ。」
先輩は無茶苦茶適当にお惣菜パックを取り出した。
「うーん、確かに今からじゃ本腰のお弁当箱は用意難しいし、明日はこれにしよっか。」
リョウタも先輩の提案は否定しない方なので、社長の初のお弁当はお惣菜パックになった。
朝
「おはよ、リョウタ。無理するなよ。」
先輩が早めに起きてきて、リョウタの様子をうかがう。
「おはよ、先輩。大丈夫だよ。一応あっちからの要望でハンバーグ入ってるけど、ごめんね。あんまり好きじゃないよね。」
そんなのいいって、と先輩は軽くリョウタを赦す。ああ、やっぱりこの人と一緒でよかったとリョウタは安心する。
お惣菜パック丸出しではなんなので、一応布で包み、リョウタは自分の分と社長のお弁当を持って出かけた。
「おはようございます。社長。」
出勤すると、リョウタは先に来ている社長に挨拶をし、業務に入る。今日は特別なことは何もないスケジュールで、リョウタもゆっくり昼食の時間が取れそうだった。
昼
ソワソワし始める社長をよそに、リョウタは業務に集中していた。お昼の鐘が鳴り、現実に引き戻される。
(もうそんな時間か。そういえば、今日は社長にお昼ごはん作ったんだっけ。)
「お疲れ様。今日は天気もいいし、屋上でランチというのはどうだ?」
社長は上機嫌でリョウタに声をかけた。
「いえ、僕はもう少し仕事したいので、社長だけでどうぞ。あ、こちらがお弁当です。」
社長は希望を砕かれたような顔で少し固まっていたが、観念してお弁当を持ってどこかへ出かけて行った。かと思えばお茶を買ってきただけのようで、リョウタの分も、と缶コーヒーの差し入れをしてくれた。
「お弁当を作ってくれたお礼とまではいかないが。頑張りすぎも良くないぞ。」
そう言うと、自分の席に着席してお弁当を広げ始めた。
社長は肉が好きだ。一番の好物はステーキだし、焼肉とかすき焼きとか、ハンバーグなどの類を好んでいると自負している。今回はリョウタにお願いし、ハンバーグ弁当を作ってもらったのだ。好きな子が作ってくれた弁当というものは、こんなにテンションが上がるものなのかと社長は初めての感情に戸惑った。昔学校で、調理実習の度に男子たちが色めき立って、女子からの差し入れを期待していた気持ちを、今頃初めて知った。
(なるほど…。私もまだまだ至らぬところがあるということか。)
社長は以前、リョウタの残した弁当を強奪して食べたことがあるが、リョウタの料理の腕前はかなりのもので、今回も期待が膨らんだ。
前回は煮物などが中心だったので、リョウタの作るハンバーグとか、興味津々だった。しかもハンバーグときたら、手捏ねが主流だし、リョウタの手作りということは。社長は思春期男子くらいまで脳みそが逆流しそうだった。
そうとは知らず、リョウタは業務をキリのいいところまで片付け、自分の分の弁当を広げるところだった。
(ハンバーグとかあんま作ったことないんだよな。先輩これ系好きじゃないし。やっぱ得意分野は煮物かな〜。)
評価してくれる人が周りにいなかったせいで、リョウタは洋食系はあまり得意ではない、というか作る機会が少なかった。とはいえ、料理の知識はあるので、それなりのものが出来上がるのだが、やはりおいしく食べてくれるものを作りがちになるのは仕方のないことだ。リョウタはエプロンより割烹着の似合う青年になっていた。ぼんやり思考の海に沈みながら黙々と食事をしていると、目の前に急に社長が現れた。
ビクッと身を震わせ、社長を見ると、そんなに警戒しなくても、と落胆の声が聞こえた。
「美味しかったよ、ありがとう。これからも時々よろしく頼む。」
そう言って器を返却してくれた。が、唯一の不満が溢れる。
「量に問題はなかったのだが、このお惣菜パックはどうにかならなかったのか?」
と。大きめのお惣菜パックだったので、量的にはやっぱり結構食べる方なのかな、と思ったのだが、リョウタはすみません、と一言断ってから、
「量的な問題を失念していて。急拵えだったので今回はそれになりました。もしよろしければ、丁度いい大きさのお弁当箱を社長の方でご用意いただけると助かります。」
と付け加えた。社長もそれは納得してくれたようで、
「そうだな。私もそこまで思い至らなかった。すまないな。」
と言ってくれた。社長も今まで特定の相手から手作り弁当を受け取るということがなかったので、弁当箱という文化に触れてこなかったらしい。早速手頃な弁当箱を手配する、と言い残して食後の腹ごなしに散歩してくるとどこかへ消えた。
先輩はやきもきしていた。リョウタは無事だろうか。この頃自分はリョウタの恋人というより保護者になりつつあるので、なんとかしたい。あくまでもリョウタとは対等な立場でいたいのだが、あの厄介者がそうはさせてくれないのだ。今朝もリョウタは得意ではない料理を頑張って作っていた。いつもより時間がかかるからといつもより早起きし、手伝おうかと言った自分にも気を遣って大丈夫だから、と言った。リョウタに気を遣わせないように寝ているフリをしていたが、レシピとにらめっこしていたので、あれは相当手間がかかったに違いない。
俺はコンビニで済ませようか、とも言ったが、
「先輩の分作らないなら、お弁当作りたくない。」
と言って聞かなかった。リョウタは優しい子だ。だからこそ心配にもなるのだが、そこが可愛い。それにつけ込んでくる輩はすべからく滅すればいいと思う。いつまでも、優しくまっすぐなリョウタであってほしい。そして自分はそれに見合う男になりたい。それが先輩の想いだった。お昼が終わる前の定時連絡でリョウタの無事を確認した先輩は、午後も頑張ろうと自分のデスクへ戻った。
リョウタは一人残った社長室で、先輩に定時連絡を終えると、夕飯のメニューについて思考を巡らせていた。
お昼はなんだかんだで社長の意見を取り入れたお弁当になったので、先輩はちょっとモヤモヤしているかもしれない。夕飯は先輩の好きなものを作ろう。何がいいかな。最近煮魚食べてないから、今日は帰りにスーパーで魚でも見よう。そうこうしているうちに、お昼休み終了を知らせる鐘が鳴った。
夕方
定時になり、特に残業もなかったので、リョウタは会社を後にした。相変わらず社長はリョウタより後に帰るが、大した残業はしていない、と以前言っていた。まあ、その気になればリョウタの先回りをして家にいたこともあったので、そこまで遅くまでは残っていないというのは本当なのだろう。ただ、先方との打ち合わせも兼ねて夕飯は外食が多いようなことは言っていた。社長というのも大変な仕事なんだろうとリョウタはぼんやり思った。
電車を降り、最寄りのスーパーへ寄って、先輩との家へ戻る。記憶が戻ったことで、先輩が帰ってこいと言ってくれたお陰で、一人暮らし用の部屋は解約した。後に残ったのは、社長から贈られた最先端携帯くらいだが、それも定時連絡などで活用しているので、不用品にはなっていない。リョウタは相変わらずプライベート用携帯を会社で取り出すことはしなかった。先輩との思い出に浸りたい時はあったが、そういうものを会社で出して、誰かの目についたら変な噂の的になりかねないからだ。社長は知っているから問題ないが、かといって社長の前でこの携帯を出すのは嫌だった。なぜなら先輩と自分の思い出を見せつけるのも、社長に踏み込まれるのも嫌だったからだ。リョウタは家へ帰ると、早速煮魚の準備を始める。
(今日は美味しそうなお魚あってラッキーだったな。先輩喜んでくれるかな。)
リョウタの用意する食事を先輩が喜んでくれないことはまずないのだが、リョウタはいつも気にしてしまっていた。もしまずいって言われたらどうしよう、と。先輩の人柄からいって、そんなことを言う人ではないが、先輩には美味しいものを食べてほしいと思うが故のリョウタの取り越し苦労だ。
「ただいま〜。」
程なくして先輩も帰宅した。
「お。今日は豪勢だな。俺も手伝うからちょっと待っててくれな。」
そう言って先輩は部屋着に着替えてきて、手伝ってくれる。二人でわいわいしながら料理をして、一緒に食べることの幸せをリョウタは噛み締めていた。
しばらくそんな日々が続いた。リョウタが記憶を取り戻してから一ヶ月あまり経っただろうか。社長の『たまに』食べたいというリョウタのお弁当リクエストは続いていたが、最初のハンバーグ以来特に注文をつけてくることはなかったので、それなりにリョウタの作りたいお弁当を作って提供していた。
「社長はお弁当以外の時、どこで何を食べてらっしゃるんですか?」
リョウタは以前から疑問だったことを聞いてみた。
ん。と社長は意識をリョウタに向けると、その質問に答える。
「普通に社員食堂を利用したら、半径一メートルが空洞になるのでな。仕出し弁当を頼んでどこか人の少ないところで食べるようにしているが、どうした急に?」
そうなのか、とリョウタは妙に納得してしまった。仕出し弁当うんぬんではなく、社員食堂のくだりだ。
「いえ、以前から社長室で食べる姿をあまり拝見しなかったもので。社員食堂でそんなことがあったんですね。」
社長はリョウタが案外自分を観察していることに驚いたが、冗談めかして続ける。
「そうなんだ。社員食堂に入ったら、ざわめきが起こって、どこか空いている席を探していると、どうぞと譲られ、そこに座って食べていたら、気がついたら周りから人が消えていたんだ。昼時の満員の社員食堂なのに。あたりを見回すと、女子社員に囲まれていて、何やら話しかけたそうにされていてな。手を振ると喜んでもらえたようだが。私には興味のないことだ。ただ、毎回こんなことになっては他の社員がゆっくり食事を摂れないだろうと思い、それ以来社員食堂には行かないことにしたんだ。」
それを聞いているリョウタには、その情景が手に取るように思い描けた。色めき立つ女子社員の群れ、それを恨めしそうに見る他の男性社員までも想像できそうだった。
「確かにそれは問題ですね。」
そう答えると、社長はそうだろう、と頷き、こうつけ加えた。
「社長室であまり食べないのは、そうだな。何か仕事との区切りをつけたいせいだな。まあ、君の弁当を頂く時は、他の社員から社長が誰かの手作り弁当を食べている、と噂されたら面倒だから、誰の目にも触れないところということで、社長室で食べるようにしている。」
それを聞いたリョウタは、社長って案外考えているんだな、とちょっと失礼なことを思った。
社長も浅慮なわけではない。ただ、リョウタのことになると少し暴走しがちなだけだ。
仕事との区切りをつけたいというポリシーを曲げてまで、社長室でリョウタの作ったお弁当を食べているのはやっぱりリョウタのことを諦められていないからに他ならない。
(やっぱり好きだ。愛している。)
社長はリョウタが作ってくれるお弁当を食べるたびに、そう思っているし、今すぐ触れたいという気持ちに駆られる。
しかし、その思いは届くことはないし、社長は自分が触れることは、リョウタを不幸にしかしないと知ってしまった。社長はそっとその想いをその身の奥深くにしまい、今日も仕事をするリョウタの横顔を眺めるに留める。
リョウタは割と感情の起伏が顔に出る子で、見ていて飽きない。そんなリョウタが今ここにいてくれているだけで、自分は幸せなのかもしれないと社長は考えた。あれ以来、先輩に向けるような笑顔を見せてくれたことはないが、雑談している時など、少し微笑んでくれるようになった。以前より、少し距離が縮まった気がして、社長は嬉しかった。今ある幸せを享受しよう、社長はそう考えるようになっていった。
今日の夕飯はカレーにしよう。今日はお野菜が安いし、たまにはこういうのも悪くないかもしれない。リョウタはいつもの帰り道で、そう思いながら最寄りのスーパーへ向かっていた。
にんじん、玉ねぎ、ジャガイモ。お肉は家に鶏肉があるし、こんなものかな。あとカレールーも買わなきゃ。リョウタは必要なものを次々とカゴへ放り込んでいく。カレーは先輩とたまに食べるメニューだから、何も問題はないはずだ。リョウタは手早く買い物を済ませると、家路を急ぐ。カレーは割と簡単だけど、野菜を刻んだりの手間がかかる。お腹を空かせて帰ってくる先輩のことを考えると、あまり待たせたくはなかった。
家につき、買い物袋をどさりとキッチンへ置く。部屋着に着替えた方がいいかな、と思ってひとまずリビングで一息つく。そこへ携帯が鳴った。
「先輩からだ。えーと、今日は遅くなる。か。」
じゃあ、ゆっくり作ろうかな。そう思ったリョウタだったが、気が抜けたのか、ものすごく眠たくなってきた。
(ベッド行ったら絶対起きない。ちょっとだけここで休もっと…。)
リョウタの意識は沈んでいった。
「…ウタ。リョウタ。」
(ん…、完全に寝ちゃってた。先輩の声だ。)
「おかえり、先輩。」
リョウタは寝ぼけ眼でそう答える。
「あ、起きた。寝かしといてやりたかったけど、気を失ってるのかと思った。」
少し心配そうな先輩に、大丈夫、ちょっと眠たかっただけ、と答えたリョウタは時計を見て真っ青になった。
九時過ぎてる。
「やっっっば、何もしてない、ごめん先輩!今からカレー作るから!」
無理しなくていいぞ。と言っている先輩を完全スルーしてキッチンに直行し、リョウタは材料を開ける。
「おーいリョウタ。カレーは明日にして、今日はどっか食べにでも行かないか?」
先輩はリョウタが疲れているのに、これ以上体に鞭打って料理することのないよう声をかける。しかしリョウタは完全にスイッチが入っており、カレー以外は考えられなくなっていた。
「お肉悪くなるし、今から作る。」
頑として動かないリョウタ。こうなったらテコでも動かない。と知っている先輩は諦めてカレーの完成を待つことにした。
リョウタは冷凍してあった肉を出すところまではしていた。数時間経った今、肉はそれなりに解凍されている。
(一旦出したお肉しまったらおいしくなくなっちゃうからな…。)
リョウタは先輩の口に入れるものがおいしくないことが許せなかった。なので、半解凍されたお肉は今から消費するべきだ。先輩が部屋着に着替えてきて、手伝うことはないかと言ってくれたが、リョウタはさっき帰ってきた残業帰りの先輩には休んでいて欲しかった。
「大丈夫、カレーなら簡単だから。ちょっと時間かかるけど、ほんとすぐだから。」
リョウタはああせねば、こうせねばという事にたまに縛られがちになる。そんな時はそっと見守ってあげるのが一番リョウタを傷つけない方法だと先輩は長年の経験から知っていた。
(カレーできるまで待っておくか。)
先輩はリビングでだらりとする。キッチンが見えているのだが、忙しなく動き回るリョウタを見ながら、可愛いなあと思っていた。
(リョウタって完全に小動物だよな。)
口に出すとリョウタはそんな事ない、と反論するので口には出さないが、リスとかその辺の小動物っぽい。手際よく材料を刻み始めたリョウタの後ろ姿を見ていると、久しぶりにその姿を見た気がして、懐かしいとともに、リョウタに対する感情が溢れ出て、段々抑えがきかなくなってきた。
(あ、やばい。)
先輩はリョウタに対する情欲を抑えられなくなってきていることに危険を感じていた。あんな事があってから、先輩はリョウタが戻ってきた後も今までリョウタに触れていない。一緒に寝たりはしているが、意思を持って触れることは自ら禁止していた。社長に触れられて嫌な思いをしたリョウタが思い出さないようにー。
先輩は実を言うと苦しい日々を送っていた。目の前のリョウタに触れたくても触れられない、ジレンマを抱えていた。いや、リョウタに言えば、きっと大丈夫、と笑って答えてくれる気がするが、先輩は言い出せずにいた。自分はリョウタを傷つけない存在でいたい。わがままで身勝手な願望だと分かりきっていた。そして今、リョウタに触れたいと思う自分もまた身勝手なのである。ただ、この先一生リョウタに触れないというのは発狂しそうだ。そう、いつかは許しを得て触れなければと考えていた。今日はその第一歩かもしれない。
決心した先輩はリョウタの背後からするりと腕を絡ませた。
「先輩?どうしたの…んっ。」
振り向いたリョウタに先輩はそっと唇を重ねた。リョウタは一瞬ビクリとしたが、抵抗はしなかった。
しばらく二人はそのまま時を過ごしたが、やがて唇が離れる。
「先輩?」
少し驚いたようなリョウタの顔を改めて見ると、少し紅潮していてやはり可愛かった。
「リョウタ、ごめん。ちょっと我慢、できない。」
そう言うと先輩はリョウタの体に指を走らせ始める。
「あっ、ちょ。先輩、なんかスイッチ入ってる?」
うん、と短く返事をした先輩はリョウタを弄るのをやめようとはしない。しかしここでリョウタは先輩に珍しく抵抗してみせた。なぜなら。
「ちょっと待って。ほんと。今は、ダメっ、野菜切ってるから、あっ。」
そんなリョウタの可愛い抵抗には動じずに先輩はリョウタを撫でるのをやめない。
「リョウタ。やっぱ、カレーは後にして。もう、むり。」
そう言いながら先輩はリョウタの首筋にキスをしている。リョウタもそれに反応して、んっと声を上げているが、カレーは後にして、はどうなんだろう。お腹。空いてる、デショ。
先輩がリョウタのイイトコロを知らないはずはなく、少し触られただけでリョウタの意識もトロトロになっていた。
「せん、ぱ、まって。こんなとこで…。」
だめだよ。と言いたいが続きが出てこない。気持ち良過ぎて変になりそう。久しぶりの先輩の攻撃にリョウタももうむりだった。
「嫌ならやめる。」
先輩はやめる気などさらさらないが、リョウタが心の底から触れられたくなくて抵抗しているのならやめなければ、とは思った。
「や、じゃ、ない……。」
半分蕩けかけた意識の中で、絞り出したリョウタの言葉は先輩をなお興奮させた。
「じゃ、やめない。」
そう言うと先輩は攻勢を強めた。半分崩れ落ちかけたリョウタを優しく床に横たわらせると、シャツの前を開ける。
元々インドアなリョウタの肌はこれでもかと言うほど白く、興奮のためか少し紅くなっているのがよくわかって、先輩はますます食指をそそられる。
先輩も冷静なフリはしていたが、頭の中はリョウタでいっぱいだし、全く冷静とはかけ離れたところにいた。
久しぶりのリョウタの感触に、先輩はおかしくなりそうだった。いや、既におかしくなったからこんなところで行為に及んでいるのかもしれない。床が固くて、リョウタが可哀想。よりも己の欲望を満たすことを優先してしまっている。でも、リョウタから『嫌じゃない』と言ってもらえるタイミングは今を逃したらないかもしれない。そんなはずないのに、先輩は焦っていたのだろう。
先輩はいつもリョウタにしていたように、その胸に舌を這わせる。リョウタがビクリと反応するのを感じて、先輩の気持ちも高揚していく。
ここ最近、お互い辛い思いばかりですれ違っていた二人の、パズルのピースがようやく埋まっていくように感じられた。
一旦想いを遂げた二人は、ベッドに移動して夜通しお互いを確かめ合った。
翌日
(あ、これ立てないやつだ。)
リョウタは直感した。そもそもそんなに寝ていない。今日は平日。昨日はそんなこと気にせずに先輩としたいがままにしてしまった。失敗した…。とリョウタが思ったかは別として、先輩はいつもジャストタイミングなのである。
「おはよ、リョウタ。」
おはようと言ってくれる先輩がいることがリョウタの何よりの喜びである。
「おはよ、先輩。今日会社行けそう?」
自分は無理なので先輩に尋ねてみる。すると先輩は少し驚いたようにリョウタを見て、
「無理だが?」
と当然のように言った。むしろリョウタは行くつもりなのか、という顔をされた。いや無理だけど、と先輩と笑い合いつつ会社にメールを送る。体調不良につき休みたいという旨のメールである。先輩は程なくして許可が降り、一日有給を取る事になった。
リョウタの方はすぐさま社長から直々に電話がかかってきた。
「どうした?熱でも出たのか?」
と問われ、ちょっと疲れが出ただけですと答えると、そうかという返事が返ってきて、通話はすぐ切れた。勘繰られなくて良かったかな?とリョウタは少し首を捻るが、まあいい事にしよう。
社長は嫉妬に狂っていた。リョウタの声が掠れ気味だったし、リョウタの電話の向こうで先輩がくあ、とあくびをするのが聞こえた。あれは絶対わざとだ。それを加味すると、昨日何があったのかが容易に想像できた。くそ、なぜだ。あれほど望んでも手に入らないものがそこにはあった。わざとらしく見舞いにでも行って邪魔してやろうか。と思ったが、生憎今日の社長のスケジュールはみっちりリョウタによって組まれており、隙間時間もほとんどない。なんてタイミングの悪い日なのだろう。しかし仕事に穴をあけてしまっては、元も子もない。社長は仕方なくリョウタの組んだスケジュールをこなす事にする。
有給を獲得した二人は、昼頃にもそもそと起きだしてきた。それまでまたくっついて寝ていたし、先輩もリョウタを離す気はなかった。リョウタの方も先輩といられる幸せを噛み締めていて、お互い幸せを感じていた。
「あ、昨日の具材…。」
起きてきて何か食べようとキッチンに向かった二人の目に入ったのは放置されたカレーの具材である。玉ねぎは切っている途中でカピカピになっている。
「う〜ん。どうしよう、これ。」
リョウタが困り果てていると、先輩は煮込めば一緒じゃね?とめちゃくちゃ適当な発言をする。え、流石に…。とリョウタが渋っていると、大丈夫大丈夫、と先輩は具材をつづきから刻み始めた。
「リョウタは休んでていいよ。まだしんどいだろ。」
そう言って先輩が色々と食材を処理していく。気遣ってくれるのは嬉しいのだが、先輩も結構体力使ったんじゃ?とリョウタの頭にははてなが浮かぶ。
そんな心配をよそに、先輩はどんどん料理を進めているので、リョウタは慌てて手伝う事にした。
「ジャガイモ、剥くの手伝うよ。」
リョウタはそう言ってピーラーを取り出す。先輩は休んでていいのに、と再度言ったが、リョウタは先輩と一緒に作りたいことを伝えると、そうか、と言って先輩もそれ以上リョウタの作業に何か言ったりはしなかった。先輩は料理ができないわけではないのだが、いつもリョウタが作っていた。というのも、先輩はリョウタの作る料理が好きだったし、リョウタは先輩に料理を振る舞うのが好きだったからだ。結果リョウタの方が料理が上手くなってしまい、結局リョウタが料理を作っていた。リョウタはそれを苦にしたことはないし、先輩も手伝ってくれたりするので、共同作業ができてリョウタは料理するのが好きである。今日もこうして先輩と一緒に料理ができて、リョウタは幸福を感じていた。
久しぶりにリョウタを抱いて、箍が外れてしまったかもしれない。先輩はちょっと反省していた。立てなくなるまでさせるつもりじゃなかったのに。でも気づいたら、お互いがお互いを欲していて、歯止めが効かなくなっていた。久しぶりすぎて、リョウタとの出会いから何から思い出してしまい、ついついリョウタが可愛くて仕方なくて、求めすぎてしまったかもしれない。でも今、リョウタは文句を言うでもなく、ニコニコしながら自分の隣でジャガイモを剥いてくれている。嫌がられることはしてない、はず。と自分に言い聞かせ、リョウタに申し訳ないことをしたという罪悪感で料理を率先して始めた。気づけば夕飯になろうかという時間だし、三食抜いている事になる。昨日の夜からお腹は空いていたが、それどころじゃなかった。それより何より、リョウタが欲しかった。自分でもこんなに飢えていたのかと思うほどリョウタを目の前にすると抑えられなかった。社長も同じ気持ちだったのかもしれない、とは思うが同情はしない。リョウタはもう、俺のものだ。絶対に離さない。二度と。
「…パイ。先輩、お鍋焦げちゃうよ。」
先輩が固く決意していると、リョウタが心配そうにこちらを気にしている。しまった、考え込んでしまった。ごめん、ちょっと考え事してた、と言って火を緩め、危うく焦げそうになった玉ねぎを救出する。他の具材も炒め、順調にカレーを作っていく。煮込んでいる間、二人は他愛もない話で盛り上がる。
最新スイーツの話、数式についてなど、その話は多岐に渡るが、リョウタはそこでポツリと漏らした。
「そういえば俺、記憶ない間もスイーツと数式には食いついてたんだよね。」
先輩はその一言を、複雑な気持ちで聞いた。しかしそれはリョウタがリョウタである証明だと先輩は思った。
「そうだな。リョウタはリョウタってことだ。根っこは同じって事だろ?」
その答えを聞いたリョウタは目をぱちくりとさせ、そっか、と安心した様子で微笑んだ。気にしていたんだな、と先輩はリョウタの不安を一つ取り除けたかもしれない事に安堵する。
リョウタは不安を抱えていた。記憶をなくして先輩のことを忘れていた時の自分について。先輩のことを忘れるなんて、なんて失礼なことをしたのだろう、とリョウタは思っていた。自分を暗闇から救ってくれた大好きな先輩のことすら忘れてしまっていた。あの頃自分は何者なのかも全くわからなかったとはいえ、先輩はどう思ったのだろう、と。
でも先輩は変わらずリョウタのことを愛おしく思ってくれているのだと昨日のことで分かった。しかし自分はこのまま先輩の優しさに甘えてしまっていいのだろうか、と疑問に思ってもいた。リョウタはせっかくの機会だし、先輩に全て曝け出してしまう事にした。
「先輩は、俺が記憶ない時、どんな気持ちだった…?どうしたらいいのかわからない。」
リョウタの発言に先輩はなんだ突然、という顔をした。
「どんなって。そりゃ悲しかったけど、リョウタが自分を守るために記憶に蓋をしたのなら、それはやっぱり手離してしまった俺の罪かな、とか…。」
その言葉にリョウタは弾かれたように反応する。
「先輩に罪なんかない!」
先輩は余計に驚いた顔をしたが、リョウタを諭すように抱き寄せると、こう続けた。
「いや。守れなかった俺にも罪はあるよ。それを責めないでいてくれるリョウタはやっぱり優しいんだな。その優しさにつけ込もうとする奴がいたら、今度こそ俺はリョウタを守るためになんだってするよ。ありがとな。」
先輩とリョウタはお互いを抱きしめながら、互いの優しさを噛み締めた。
「先輩のこと忘れてたの、怒ってないの…?」
リョウタの不安はそこにあったのか、と先輩は理解した。
「怒れるはずないだろ。そこまで追い込まれるまで何もできなかった俺の落ち度だ。もう気にするな。これからのことを考えればいい。」
先輩はいつもそうだ、とリョウタは思う。高校で出会った時もこれからのリョウタのために受け専はやめろと言ってくれた。就職する時も、記憶を失った時も、いつもこれからのことを考えて先輩はアドバイスをくれた。
「先輩の方が優しい。いつも俺の心にあったかいものを置いてってくれる。」
二人互いを抱きしめながら、温もりを感じあって時を過ごす。
ピンポーン
(チッ、誰だこんな良い時に。)
先輩は心の中で舌打ちをした。時々現れるダークモードである。
画面を見ると、そこに立っているのは紛れもなく社長である。先輩は二度目の舌打ちを心の中で済ませると、無視しようと思ったが、そうするとリョウタの電話が鳴る可能性がある。リョウタの耳を汚したくないという思いから、渋々応対する。
「…はい?」
低音で短くそれだけ問うと、返事を待った。
「手短に言おう、邪魔をしに来た。」
邪魔だと分かっているなら帰ってくれ、むしろ来るな。と思ったが、リョウタが誰?と聞いてくる。
「ああ。宅配便の人が部屋間違えたって。」
それを聞いた社長が思わず反論する。
「おい、それは流石に酷いんじゃないか?」
リョウタはだんだん近づいてきていたので、その言葉が聞こえたようだ。
「あれ、社長?宅配便の人??」
リョウタは先輩に疑問を投げかける。
「ごめん、リョウタ。耳が汚れるからお部屋行こうか。」
おい、と再度反論する社長をよそに、先輩はリョウタをインターホンから遠ざけた。
「帰れ。」
先輩はドスのきいた低音でそれだけ言う。社長と先輩はもはや犬猿の仲なので、火花を散らしまくっている。
「邪魔をさせてもらう。」
社長は引き攣った営業スマイルで引く気はさらさらないと宣戦布告する。
そんな押し問答が五分くらいは続いただろうか、いい加減マンションの迷惑だが、そんなことはお構いなしに二人はバトルを繰り広げる。
「ねえ、カレーできたよ。」
そんな二人に天使が舞い降りた。リョウタである。
先輩は、リョウタによしよし、と頭を撫でてやる。
「やあ、ご相伴に預かっても?」
インターホンの向こうから社長がリョウタに話しかける。
(何勝手な真似してくれてんだ?)
先輩はもうキレ気味である。そんな様子はリョウタ相手にはおくびにも出さず、もうちょっと待っててくれな、と言ってキッチンに行くよう仕向ける。
「先輩、これ三日かかっても多分二人じゃ無理だよ。」
先輩が目分量で作ったカレーは到底二人では消費しきれない量になったらしい。それみたことか、と社長が攻勢に出る。
「私は結構食べる方だから、協力できると思うんだが?」
仕方なく二人は社長を再び家に上げる事にした。
「変な気起こしたら、マジで捻り潰すからな。覚悟しろよ。」
と、先輩は念を押した。社長が家に来るとロクなことがないからだ。そうしてなぜか三人で食卓を囲む事になった。
「社長、本日はお休みをいただいて申し訳ありません。明日からは問題なく出勤します。」
休んだことでお叱りを受けるのかと身構えていたリョウタが開口一番に社長に謝罪する。
「いや、いいんだ。ただちょっと近くまできたから様子を見に寄っただけだよ。」
少し上機嫌な社長はそう言うと、カレーに手をつける。うまいと食べる社長にリョウタが知らずに追い打ちをかけた。
「思った以上に美味しくできたかも。二人で頑張った甲斐があったね。ね、先輩。」
社長のハートは砕け散った。リョウタはリョウタで先輩と一緒に作ったカレーを食べられて上機嫌である。先輩は社長の表情の変化を見逃さなかったが、ニヤリと笑って済ませた。
「ほんと。リョウタは料理うまいから。俺なんか目分量だもんなー。」
先輩の料理も好きだよ、と二人はいちゃいちゃし始める。社長にとっては針の筵であるが、これはこれで自分が招いた結果なので仕方なかった。
(リョウタの笑顔をまた見られるだけでも幸せ、なのかもしれないな。)
社長は今ある現状を受け入れるしかないのだ。ニコニコして先輩と笑い合っているところを見られただけでも、全てを失ったあの時から比べれば良しとしなければいけないのかもしれなかった。幸せそうな二人。というかリョウタ。自分はお邪魔虫だと分かっているが、それでもリョウタが可愛いので会社にいる間は一緒に仕事をしてほしいし、時々そのリョウタが作るお弁当を食べたいと願っている。社長は食べ終えると、お茶を濁さないようにそろそろお暇するよ、とリョウタと先輩の愛の巣を後にした。そこは自分が踏み込んでいい領域ではないと感じたかどうかはさておき、マンションを訪ねるのはもうやめようと思っていた。
会社で見せてくれるリョウタの一面が、自分にとってのリョウタなのだと社長は感じたようだ。
一方先輩とリョウタは、社長があっさり帰って行ったことに拍子抜けしていたが、反省してくれているのだろうと捉える事にした。
「んじゃ、俺たちも明日に備えて寝るか。俺たち会社員だもんな。働くか。」
自虐気味な先輩に、そうだね、とリョウタは笑って答えた。
二人でお皿を片付けた後、先輩はリョウタに向き直る。
かしこまった様子に、少し首を傾げたリョウタだったが、先輩はとても真剣な顔つきでリョウタにこう宣言した。
「俺、相原ハルキはリョウタを愛しています。一生を共にしてくれますか?」
と。
リョウタはこれ以上ない幸福で満たされていた。もちろん、返事は『はい』だった。
かくして、リョウタの話はここでおしまい。自傷高校生だったリョウタの、ハッピーエンドなお話。
