待ちに待った放課後になって、僕は加賀くんと別れて読書同好会に向かった。
 校舎を出て中庭を突っ切っていると、後ろから声がかかった。

「歩!」
「はい? あ、紫藤さん。今からですか?」

 うわあ、今日はツイてる。また紫藤さんと二人っきりの時間が持てるよ。
 同好会の部屋までの短い時間でも、僕にとっては宝物のような時間だ。

「ああ。なあ、悪いけど一緒に図書館に付き合ってくれるか? いくつか借りに行こうと思ってるんだけど」
「はい、喜んで! ……もしかして、あそこにあった本はみんな図書館のモノですか?」

「いや、全部じゃないよ。家にある読み終えていらなくなった本が大半だ。ただ、図書館の本は定期的に返却しないといけないだろ? だから時々こうやって何冊か見繕うことになるんだよ」

「そうなんですか。あ、じゃあその返却しないといけない本は?」
「ああ。それは要さんと涼さんが、昨日返してくれているから」

 ……涼さんって、確か顧問の先生だよな?
 顧問の先生にさん付けって……、もちろん先生のことを愛称で呼んだりしてる人もいるにはいるけど、礼人さんはそんなタイプじゃないって思ってた……。

「なに?」

 僕が不思議に思っていることに、紫藤さんが気が付いたようだ。僕ってそんなに顔に出やすいのかな?

「あ、いえ、あの。涼さんって顧問の先生ですよね? 先生にさん付けって僕の中ではないんで、よほど親しいのかなって思って」

「ああ……、そういうこと。まあ、親しいっちゃー親しいんだけどな。俺ら幼馴染だから」
「えっ、そうなんですか!?」

「そ。だからついつい、さん付けしちゃうんだよな。改めて先生だなんて呼びにくくてさ。おかげで誰も涼さんのことを先生とは呼ばなくなっちまってる」

「そうなんですか……」

 すごい仲いいんだなあ、みんな。
 ホケーと感心している僕に、紫藤さんがニコリと笑った。

「お前も同好会の一員だから、涼さんって呼んでもいいんだぞ」
「ええっ? で、でも。不快に思われちゃいますよ!」
「小心者だなー。大丈夫、大丈夫」

 紫藤さんは楽しそうにそう言いながら、僕の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「ええぇ~。やっぱり無理ですよぉ」
「そうか? ……じゃあ、俺のことは礼人と呼べ。紫藤さんってガラじゃねーし」

「えっ!?」
 な、名前で呼んでいいの?

 礼人……礼人さん?
 うわー、うわー、うわー!!

「なんだ、それも嫌か?」
「と、と、と、とんでもないです!!」

 真っ赤になって齧り付くようにそう言うと、紫藤さんは楽しそうに笑ってくれた。

「よし、じゃあ行くぞ歩」
「はい。……礼人……さん」
 うれしすぎて、夢みたいで、まるで雲の上に乗っているみたいだ。
 
 図書館に着くと、紫藤さん……、違った、礼人さんが奥に足を進める。
「歩、何か読みたいものあるか?」

 ああ……、まだ礼人さんって呼ぶのに慣れない。心の中で思うだけでもドキドキする。

「歩?」
「あ、はっはい! えと、そうですね。……僕の好みを言っちゃうと、ミステリーとかファンタジーとかですね。あんまり暗いのは苦手なんで、出来ればワクワクするようなやつがいいです」

「なるほど。数は多くないけど、一応ラノベも置いてあるぞ。ミステリーなら、本格的な物から有名どころのシリーズ物までそろってる」

 礼人さんが僕を手招きして、本棚の位置を教えてくれた。

「あの……」
「うん?」
「しど……、礼人さんの好きなのはどんなものですか?」

「俺か―? そうだなー、小説より歴史の裏話的なものに興味あるかな。絶対に教科書には載せられないような隠された人物像とか出来事とか……、面白そうだろ?」

「なるほど。歴史とか好きなんですか?」
「結構な」
「へえ~、……僕も読んでみようかな」
「歩も好きなのか? そういうの」
「えっ? あ、えっと。面白そうかなと思って!」

「そっか」

 一瞬紫藤さ……、礼人さんは僕のことをじっと見て、それからクスッと笑って本棚の方へと歩いていった。

 その後ろ姿を見て何となく思った。紫藤さんはどちらかというと、僕とは違ってスポーツ系のほうが似合いそうだ。
 だって、背も高いしスラッとした印象だけど、筋肉も程よくついていて体幹もよさそうに見えるし。静かに読書している姿も様にはなるんだろうけど、絶対にテニスとかバスケとか……、そういう系統の方があっているような気がするんだ。 

 借りていく本は色々と悩んだすえ、歴史の裏話系の本を数冊に、後は他の人たちも楽しめるような(もちろん僕も好きな)ファンタジー系やミステリー系、それと恐らく受験生用だろう数学の解説書のような本を選んだ。

「結構借りれるんですね」
「ああ。一応読書同好会として図書館に申請してあるからな。少し配慮してもらってる」

 同好会に向かう僕らの手には、何冊もの本を入れた重い袋。
 本当は、僕の方が後輩なんだから大きい袋を持とうと思ったんだけど、礼人さんの「お前はちっこいから」の一言で小さい方を持たされた。

 やっぱり礼人さんは優しい。綺麗な顔に派手な頭だから、時々男子がやっかみでチャラそうだの性格悪そうだのと言う人がいるけど、それは絶対偏見だって断言できる。
 ……言えないけどさ。

 だって、言ったら絶対に何でそんなことが言えるんだって聞かれちゃうだろうし。そうなると、僕が同好会に入ってるって言わなきゃならないだろ?
 喋っちゃいけないことだとは思わないけど、でもあの雰囲気は何となく……。礼人さんを含めて、みんなが壊したくないと思っていることは間違いないようだから。

 それにしても、最初はそうでも無かったんだけど、時間が経つにつれ荷物が結構重く感じられる。

「重そうだな。それも持とうか?」
「だっ、大丈夫です!」

 冗談じゃないよ! ただでさえ礼人さんが重い方を持っているのに、これ以上持たせるわけにはいかないもん!

 取られまいと僕がぐっと両手で袋を持ち直したのを見て、礼人さんは困ったような笑顔を見せる。

「無理してないか? 俺、結構力持ちだから二つの荷物くらい平気だぞ」
「……大丈夫です。僕の仕事を横取りしないでください」

 真顔で真剣に言い返すと、礼人さんは『え?』って顔をした。

 だって! 礼人さんは確かに力持ちっぽいけど、ここで甘えて持ってもらったりなんかしたら、こうやって礼人さんの手伝いで二人っきりになることも出来なくなるじゃないか。
 そっちの方がヤだし……。

 こんな本音は礼人さんに言うわけにはいかないので、心の中だけで訴える。もちろん心の声が聞こえるわけが無いから出来ることなんだけど。

 くすっ。

「……え?」
「歩……」
「……? はい」
「お前、ホント可愛いなあ」

 えっ?
 はい?
 ええっ!?

 礼人さんの一言で、僕の顔が一気に熱くなった。

 だって、だって今の発言って!!
 どう考えても僕の心の声のダダ洩れ感ハンパ無いじゃないかーーーーーーーーっ!!

「ああーっ、いいわお前ホント! 癒され感半端ないなー」

 礼人さんが僕の頭をグリグリする。

 ……やっぱ僕の心の声、ダダ洩れしてる……。

 ぐるぐるするけどでも嬉しくて、だからそのまま頭を撫でられながら歩いていると、後ろから礼人さんを呼ぶ甲高い声が聞こえて来た。

「礼人―、ラッキー! まだいたんだねぇ」

「……え?」

 振り向くと、礼人さんと同級生らしき女子が三人立っていた。

「あれ? このチビちゃんは?」
「随分親しそうねぇ」

 そう言いながら僕の顔を覗き込んでくる。

「おい」

 ビビる僕に気づいた礼人さんが注意してくれたんだけど、この人たちはそれがちょっと気に入らないようだった。

「なによぉ。だって珍しいでしょ? 礼人が誰かを可愛がってるなんて」
「……ったく。見ての通り一年生だよ。同好会の新人だ」
「嘘ッ!」
「なんで嘘なんだ」
「だって、あの鬼がよく認めたわね! 入部希望の人たち全員、鬼に威嚇されて渋々諦めたって聞いたわよ」

 ……鬼。
 え~っと、東郷先輩のことだね。確かにあの先輩はちょっと……、いやかなり怖い。

「それは動機に問題があったからじゃないのか? こいつは文化系希望で、読書好きだから皆が歓迎したんだ」
「……読書好き? そうなの?」

 クリンと僕の方を向いて尋ねられ、反射的にコクンと頷いた。

「はい。えっとH圭吾とかAクリスティとか好きです。ファンタジーだと……」
「ああ、うん分かった。いい、いい」

 動機を疑われてはまずいと思ってちゃんと話そうと思ったんだけど、どうやら僕のことには関心が無かったようだ。それ以上言わないで良いと手で制されて、何となくだけどホッとした。だって、僕のことなんて眼中にないってことは、僕が礼人さんに恋していることもバレる確率が低いってことだもの。

「じゃあ、もう行くぞ。歩」
「はい」
「あー、待って待って。一緒に行く。鬼が怖いから中には入らないからさ」
「鬼ってさー、お前」
「だって顔も態度も怖いしー」

 ケラケラと笑いながら、彼女らは礼人さんの近くを陣取って結局同好会の部屋の直前までついてきていた。おかげで僕は礼人さんと二人っきりの時間を邪魔されて、ほんのちょっぴり面白くなかった。


「こんにちはー」
「おーい、お前ら。本、借りて来たぞー」

 ドアを開けて声を掛けると、既に来ていた先輩方がドカドカとやって来た。

「わー、重かったでしょ。ご苦労様」

 千佳先輩がニコリと笑って労ってくれた。

 男から見ても可愛い先輩だよな。場を和ませてくれるマスコット的な存在って言っても言い過ぎじゃない。

「ホラよ」

 礼人さんが持って来た荷物を千佳先輩に手渡した。

「わ、重っ。……あ、剛先輩が頼んでた数学の本が入ってるよ」

 そう言いながら千佳先輩は、後からやって来た東郷先輩にトンともたれかかりながら上向いた。

「……可愛い」
「えっ?」
「なんだと?」

 思わず漏れてしまった僕の声に、千佳先輩はキョトンとして東郷先輩はジロリと僕を睨んだ。

「ああっ、すみません! 先輩に可愛いだなんて、失礼なことを!」

 パカン!
「って!」

 え?

 更に後から白石先輩と一緒に出て来た黒田先輩が、(なんと!)東郷先輩の頭を軽く叩いた。

「おま……っ! なにすんだ黒田!」
「無駄に後輩を威嚇しないでください」
「そうだよー。剛先輩威嚇し過ぎ! 俺が可愛いことくらい周知の事実でしょ! それに歩君は僕なんかに興味なんて無いよ。ね?」

 ふえっ!?

「あ、あの……。えと、その……」

 なに、なんなの。こういう時どう返事したら正解なのかなんて分からないよ!

 ぽすん。

 え?

 アウアウする僕の肩を礼人さんが引き寄せていた。引き寄せた状態で、指をぽんぽんとして僕を宥める。

「千佳―、歩を困らせてんじゃないよ。剛先輩も、後輩を怖がらせないでください。……それにしてもクロ、お前成長したなー」

 礼人さんが黒田先輩に視線を向ける。表情は、何となくからかいを含んでいるようだ。

 ……?

「……そいつ、お前の大事な奴なんだろ? 紫藤には世話になってるからな」

 え!?
 黒田先輩の思いもよらない発言にびっくりした。

 そいつって……、僕のこと……? 大事って、大事って今そう言ったよね!

 礼人さんはというと、黒田先輩にそうシレっと返されて一瞬目を見開いた後、『参ったなー』と小さくつぶやいた。

「クロに揶揄われるようじゃ、俺も終わりだな。な、シロ?」
「ええ?」
「なに言ってんだ、バカ。……違わないんだろ?」
「…………」

 黒田先輩は意味深な感じを崩そうとはしない。礼人さんはそれには何も答えずに、こちらもまたなんだか意味深な表情で、黒田先輩に静かに微笑んでいた。

 僕が困惑しているのを、白石先輩が感じてくれたようだった。僕に近づいてきて、「荷物貸して。中に入ろう」と促してくれた。
 白石先輩のその一言で、みんな突っ立ったままになっていることに気が付いたようだ。みんなぞろぞろと白石先輩の後に続いた。中に入ると桐ケ谷先輩は既にいて、僕らを見ると「おう」と片手をあげて、そのまま目線を下に向けた。
 どうやら読書というよりは、受験勉強をしているらしい。きっとそれをみんな理解しているんだろう。結構お喋りしたりするけれど、勉強の邪魔にならないようにと小さな声でボソボソと話しているから。

 礼人さんは今日も僕の隣に座って、借りて来た本を広げた後トントンと肩を叩いた。

「なんだ、じじむさいな。疲れてんのか?」
「……ちょっと、昨日ゲームし始めたら止められなくなっちまってさ。昨夜あんまり寝てないんだよ」
「……あ、だから」

 黒田先輩と礼人さんの会話に、今日の膝枕の件を思い出してまたドキドキし始めた。思わず言葉を漏らした僕に、黒田先輩と白石先輩が僕を見た。

「えっと、さっき礼人さん熟睡してたから……」
「ええっ!? 鹿倉君、礼人が寝てるとき傍にいたの!?」
「嘘っ!」
「ホントかよ!」
「すごい!」

 なにに驚かれたのか分からないのだけど、少し離れたところにいる千佳先輩らからも驚きの声が上がった。先輩たちの表情を見ていると、本気でびっくりしているようだ。

「あ……、あの……?」

 礼人さんを見ると、なんだか照れたような困ったような妙な笑い方をしている。
 ……どういうこと?

「鹿倉君は知らなかったんだね。礼人の寝顔って、ここにいるみんな、誰も見たことないんだよ」
「……え?」

「神経質だからな、俺。他人がいるとどんなに眠くても寝れないんだよ」
「……え、でも……」

 だってさっきは膝枕も頼まれたし……。

 驚きの真実を知らされて、僕の心臓がバクバクし始めた。

 だって、だってこれって……。まるで僕が紫藤さんの特別だって言われてるようなものだ。

「本当なのか? 礼人」

 受験勉強の手を止めて、向こうの方から桐ケ谷先輩が声を掛けた。信じられないといった表情だ。

「……まあ。どういう訳か、こいつが傍にいると癒される気分になるんですよね」
「そうか、良かったな。安心したよ」

 心底ほっとしたような安心した表情を浮かべているから、どうやら揶揄っているわけではなさそうだ。おまけに僕まで優しい表情で見られてしまって、なんだか居心地が悪かった。
 みんなの注目を浴びてしまってドギマギする。

「うわー、ってことは本物だね! 良かったねー、礼人!」
「そうとわかったらウダウダしてんなよ。しっかり捕まえとけ」
「鹿倉君なら俺も安心してみてられるな。……良かった」
「そうだな。眠いから授業さぼるって聞いた時はどうかと思ったけど、却ってラッキーだったな」

 な、なに? 何でみんなそんな祝福ムードなの?
 僕は礼人さんのことを好きだからまだいいけど、こんなふうに揶揄われて、礼人さんが僕と一緒にいるのを嫌だって思ったりしたら困るよ!

「おい、お前ら。安心してくれたんなら、そう構うな。歩が困ってる」
「そういう意味じゃありません!」

「え?」

「あ……、えっと」

 礼人さんに勘違いされるのは絶対嫌だって思いから、つい心の中でぐちゃぐちゃ考えていたことが反射的に出てしまっていた。結果、礼人さんに驚かれて他の先輩方にも驚かれた。

 みんなにジッと見られて、一層の恥ずかしさにじわじわと顔に熱が集まり始めた。

 ……やっちゃった。なに言ってんだよ、僕。……恥ずかしい。

「あー、もう本当に。参るよなあ、歩には」

 礼人さんが微笑みながら僕の頭をナデナデする。
 微笑ましく皆から見つめられて、僕の顔はさらに熱くなっていた。

「ちょっと歩、おいで」
「はい」

 礼人さんが立ち上がって僕を促した。

「奥、ちょっと借りるぞ」
「どうぞ、どうぞ―」

 礼人さんの言葉に、千佳先輩がニッコリ笑いながら手を振った。

 奥? 
 そういえばドアが見えたな。

 促されて入るとそこは普通の畳の部屋で、座布団が隅の方に積み上げられている。

「ホラ、座れよ」
「あ、すみません」

 礼人さんが積み上げられていた座布団から二枚取って、一枚を僕に手渡した。
 そして一枚を床に置いて胡坐をかいたので、僕も倣ってその近くに正座した。

「おいおい、楽にしろよ。畏まらなくていい」
「はい。えっと、じゃあ失礼します」

 ゴソゴソと足を崩して礼人さんを見ると、何とも言えない面映ゆい表情で僕のことを見ていた。

 ……あ、今頃になって緊張してきた。
 今、礼人さんと2人っきりなんだよな。しかもわざわざここに呼ばれて……。

 ドキドキしながらジッと礼人さんを見ていると、その表情は段々と、いつも僕に見せるあの何とも言えない困ったような楽しんでいるような微妙な表情へと変わっていった。

「……不思議だな」

 ぽつりと呟いて、静かに礼人さんが目を伏せた。
 そんな礼人さんをぼ~っと見ていたら、徐に顔を上げた礼人さんと目が合ってドキンとする。

「歩……、あのさ」
「……はい」

 少し緊張したような礼人さんの声に、僕の心臓もドキドキとうるさくなる。礼人さんの緊張が僕に伝染したようだ。

「……こんな気持ち初めてで、気の利いたことも言えないんだけど……。お前といると癒されるし、素直になれる。それにお前可愛いし、傍に置いておきたくなるんだ」

「……礼人さん」

 可愛いだなんてそんな風に思ってもらってるだなんて信じられない。
 ううん、それよりも。癒されて素直になれるって……!

 うれしくて、うれしすぎて僕の目から熱いものが溢れて来そうになって慌てた。

「歩」
「……はい」

「好きだ。俺と付き合ってくれないか?」

「礼人……さん」

 やっぱり我慢なんて出来なかった。
 膜を張って零れそうになっていた熱いものが、後から溢れだしたものに押し出されて僕の頬を伝っていく。

「もしかしたら外野が煩くて、少し煩わしい思いをするかもしれないけど」
「だ……いじょうぶです。そんなこと……、僕も……僕、ずっと……初めて会ったあの日から……礼人さんのことが好きだったんです」

 涙でぐちゃぐちゃになった顔でしゃくりあげながら伝えた。

 嬉しくて嬉しくて、もう涙は止まりそうにない。そんな僕を、礼人さんは呆れるでもなく優しい表情で見ていてくれた。

「ほら」

 涙でぐちゃぐちゃの僕に、礼人さんが備え付けのティッシュの箱を渡した。僕は有り難くそれを受け取って、涙を拭いて後ろを向き、鼻をかんでスッキリしてから向き直った。

「落ち着いたか?」
「はい……。すみません」

 好きだと言ってもらってあんなに泣いちゃうなんて恥ずかしい。男のくせにみっともないよな。

「歩」
「はい」

 僕を呼ぶ礼人さんの表情はやっぱり優しい。きっと僕が知っているどんな人よりも、ダントツで優しいんじゃないかな。

「読みたい本あるだろ? ここに持って来いよ」
「あ、はい。礼人さんは? リクエストあります?」

 立ち上がって聞く僕に、礼人さんは「ないない」と手を振った。

「まだちょっと眠いから、戻って来たらまた膝枕してくれないか? 歩は暇だろうからその間本読んでろよ」
「あっ……、はい! 分かりました」

 僕は反射的にぴょこんと立ち上がって、皆のいる部屋に本を取りに走った。

 でも多分、暇だなんて思わない。だって、目の前には紫藤さんの綺麗な顔とサラサラの髪があるんだよ? きっと僕はまた、その寝顔に見惚れて髪に触れたくて仕方が無くなると思うんだ。

「あれ? 鹿倉君、礼人はどうしたの?」

 僕が一人だけ戻ってきて本棚に直行したのを見て、白石先輩が心配そうに尋ねた。他のみんなは(特に千佳先輩は目をキラキラと輝かせて)興味津々に僕を見ている。

「あ……。えっと、まだ眠いそうです」
「え? じゃあ向こうで寝てるの? 鹿倉君を放っといて?」
「いえ……、そうじゃなくて。その、礼人さんが寝てる間暇だろうから本でも読んでろって言われて」
「ああ、そういうこと。……良かったね」
「はい」

 ホッとしたように白石先輩が微笑んだ。

 礼人さんが眠る時に傍にいて欲しいと思える存在だってことを、喜んでいてくれてるのが分かって、僕の心はよりホッコリと温かくなった。綺麗なだけでなく、白石先輩もとても優しい人だ。

「ね、ね。礼人、歩君にもうキスした?」
「えっ!?」

 千佳先輩の爆弾ともいえる発言に僕の顔が瞬時に赤くなった。

「やっ、それはまだ……、あ、じゃなくて、し……してませんっ!」
「ええ~、そうなのぉ? 礼人ってば意気地ないなあ」
「えっ! いえ……、そんなっ」

 慌てる僕に千佳先輩はニヨニヨしながら僕を見る。

「おい工藤。いい加減に開放してやれ。鹿倉、お前もそんなん相手にしないでいいから適当に本持って紫藤の所に行ってやれ」

「え~、なんだよクロー。最近先輩風吹かせ過ぎじゃない? いつもはシロのこと以外は気にも留めないくせに―」
「お前はウゼえんだよ」
「ひどっ! 剛先輩、クロがいじめる!」
「あぁ~?」

 な、なにコレ。僕どうしたらいいんだろ。

「鹿倉君」
「は、はいっ」

 焦る僕に白石先輩がニッコリと笑った。

「あれは気にしないで大丈夫だよ。あの二人はいっつもあんな調子だから。なんだかんだ言ってあのやり取りを楽しんでるみたいだし」

「そう、なんですか?」
「うん。だから陸の言う通り、好きな本持って礼人のとこに行ってあげて」
「分かりました」

 ええ~っと、じゃあ。ミステリーだとのめり込まないと面白くないだろうから、さらっと軽く読めそうなものを……。

「……歩、遅い」
「え?」

 突然礼人さんの声が聞こえて来たのでびっくりして振り向くと、ちょっぴり眠たそうな表情をした礼人さんが部屋の手前に立っていた。
 慌てて目の前にあった本を手に取って、礼人さんの近くに駆け寄る。

 ……と、
 礼人さんは僕の手を引っ張った。

「やっぱりお前の膝の方が気持ちいい。座布団じゃ面白くない」

 ボムッ!!

 不意打ちの強力な爆弾に、僕の心臓が爆発しそうだ!
 ドキドキしながら手を引かれる後ろで、その爆弾発言を耳にしたみんなが驚きの声を上げていた。

「聞いた? 今の! ひ、膝枕だって! あの礼人がっっ!」
「嘘っ! 鹿倉君って何者?」

 様々な声を背に、僕は熱くなった顔を俯けて、礼人さんに連れられ奥の部屋へと入った。
 部屋に入って足を伸ばして座ると、礼人さんはコロンと横になって頭を乗っけた。かと思うとすぐに寝息を立てて眠り始めた。

 よっぽど眠かったんだな……。

 誰かがいると眠れないっていうのに、僕の膝が恋しいだなんて……。どうしたらいいんだろう。こんな幸せ。

 僕自身がこんな幸福を今まで味わったことが無かったから、自分の身に起こってくれた奇跡のような幸せに、正直うれしい以上に戸惑っている。だって、一度こんな幸せをかみしめてしまうと、失った時の悲しみはきっと半端無いと思うから。

 ピンクバイオレットの艶やかな髪。そっと触れて、起こさないように注意しながら撫でてみた。

 開いている窓からそよそよと涼しい風が流れてきて、礼人さんの髪をさらさらと靡かせた。




「……かわいい」
「微笑ましいな」
「本当だね。でも、もう起こさないと」

 ボソボソと聞こえてくる声にぼんやりと意識が浮上してきた。
 ハッと前を向くと、先輩方がずらっと勢揃いしていた。

 うわっ! もしかしなくても僕まで寝ちゃってた!

「んんっ……、良く寝た。もうそんな時間か」

 礼人さんも人の気配で目が覚めたようだ。僕の太腿から頭を起こして、胡坐をかいた。そしてパンパンと両頬を叩いて、シャキッとした表情になった。

「さて、帰るか」
「おう。急がないと面倒だぞ」

「歩……、なんだ、もしかしてお前も一緒に寝てたのか?」
「……はい。すみません」
「別に謝ることねーよ」

 わしゃわしゃと僕の頭を撫でながら、廊下を歩く。そしてみんながいた部屋に置いてあった二人分の荷物をひょいと持って、僕にも渡してくれた。

「足、痺れたりはしてないんだな?」
「はい。そこまではいってません。大丈夫です」

「ねー、礼人。今度はさ、お返しに歩君に腕枕してあげなよ。さらに密着出来て、膝枕よりもずっといいよ」

 ええっ!?
 千佳先輩ったらなんてこと言ってんの!
 てか、千佳先輩って可愛い顔してるのに発言が遠慮なさすぎるよ!

 思わずその絵を想像しちゃった僕も僕だけど……。心臓がキュウッてなって、ドキドキが止まらなくなってきちゃったじゃないかっ。

「それいいかもなー。……ま、でも俺らは俺らのペースでやってくわ。歩とのんびり進んでいくのも楽しみの一つだろ?」

「…………」
「…………」

「あ~、もう! 礼人ったらなんてカッコイイの? 男前!」

『く~っ』て顔して、千佳先輩が礼人さんをバシバシ叩いた。

「いてーよ」

 文句を言いながらも、礼人さんは明るく笑い飛ばした。


 みんなでぞろぞろと帰る最中、礼人さんにどこに住んでるのかを聞かれた。

下中谷(しもなかたに)ですけど」
「下中谷? 下中谷のどこだ」
可士和(かしわ)町です」
「……そうか。俺んちからそう遠くは無いな。最寄りの駅からは遠いけど、歩いていけば三十分位だ」
「えっ! そうなんですか?」
「ああ。俺は谷崎(たにざき)だ。クリスマスの時にはどっから帰るのかしか聞かなかったから気づかなかったけど」
「そうなんですか……」

 歩いて三十分くらいなら、礼人さんちの傍まで行ってそれから帰っても全然大丈夫じゃないか!

「あ、あのっ礼人さん。もしよかったら僕、礼人さんのお家の近くまで行きます。三十分なら大した距離じゃないだろうし!」

 もっと一緒にいたいと思って意気込んだ。……意気込んで言ってしまって、しまった! と思った。
 だって、礼人さんが目を真ん丸くして小首を傾げていたから。きっと僕がそんな提案をするだなんて思ってもいなかったんだろう。

「あ……、あの。都合が悪かったら……」

 ぐわしっ!

「ひゃ!」

 何かと思ったら突然、礼人さんが僕の頭をわしづかみにしていた。
 あ、もちろん優しくなので、痛くはないです。

「都合が悪いことなんかねーよ。てか、それ逆にしろ。俺の方が歩んちに行く。その方が俺もちょっと助かる」

 ……助かる?
 どういう意味だろ。

「なに、礼人。お前ら仲良くなったんじゃなかったのか? まだギクシャクしてんの?」
「……いや、違うよ。ギクシャクとかじゃなくて」

 そこまで言って、ちょっと考えるそぶりを見せた礼人さんは、またボソボソと言葉を続けた。

「……普通の親子なら間が持たないなんて考えたりしないだろ? だけど俺は、何もしゃべらない何もしない空間がまだ気になるんだ。気を遣い過ぎるのは止めにしたし以前よりだいぶマシにはなったけど、それでもさ、まだちょっと……なんだよ」

「そう……か。まあ、焦らずゆっくりだな」
「ああ」

 ……親子?
 気を遣う?

 先輩方を見ると、みんな一様に礼人さんのことを心配しているような表情だ。
 ……なんか訳ありなんだろうか。

 聞きたいけれど聞いてしまっていいのかも分からなくて、まごまごしている内に校門に着いてしまった。

 そこからみんなそれぞれの方向へと帰っていく。今日は礼人さんが僕を送ってから帰るという事になったので、二人で肩を並べて歩き始めた。
 帰り道を礼人さんと歩きながら、僕はさっきの言葉が気になっていた。先輩達みんなが知っていることだから、敢えて隠しているという事でも無さそうだけど……。だからと言って僕が聞いてしまっていいのかどうか、判断が付かなかった。

「歩」
「はい」

 僕の名前を呼んだ礼人さんが、立ち止まって僕を見た。

「さっきの……、気になるか?」

 静かに僕を見る礼人さんに、ちょっとドキッとした。

 もしかしたら、僕にはまだ足を踏み入れては欲しくないと思っているかもしれない。だけど……。

「すみません。……気になります。でも……」
「気にならないと困るよな」

「……、え?」

 想像すら出来ない言葉を耳にして、僕はポカンと礼人さんを見上げた。

「だってそうだろ? 好きになった奴のことは、ふつう誰だって気になるものだ」
「……あ。はい、そうですよね!」

 ホッとして思わず勢いづけて返事をして、結局礼人さんに笑われてしまった。でもそれからは礼人さんも僕も、変に入っていた肩の力を抜くことが出来て、礼人さんは僕に家庭の事情を話してくれた。


「……じゃあ今のお母さんは、お父さんの再婚相手なんですか」

「ああ。……俺ってこんなんだし、普段の言動からは想像つかないかもしれないんだけど、結構人見知りで神経質なんだよな。……あの人……、母さんは優しくていい人だし、父さんの再婚相手として認めることは出来ていても、なかなか"家族"として打ち解けるまではいかなくて苦労してる」

 ちょっぴり自嘲気味に話す礼人さんに、僕は思わず手を伸ばして礼人さんの掌をギュッと握りしめた。礼人さんが、 不意をつかれたような表情で僕を見た。

「……礼人さんはやっぱり優しいですね」
「え?」

 礼人さんが目を丸くした。心底驚いた表情で。

「だって、そうやって新しいお母さんに真剣に向き合うことが出来るなんて……。どうでもいいと思っていたらそんな風に考えたりしないと思うんです。神経質とかそういうんじゃなくて、きっとそれは礼人さんが優しいからなんだって、僕は思います」

「歩……」

 驚いた表情で僕を見ていた礼人さんが、少しうれしそうな顔をして下を向いた。

「やっぱり、俺のセンサーは正しかったな」
「え?」
「言ったろ? 人を見る目があるって。俺、結構自分と気の合うやつを見つけるのは得意なんだ。……再会できてよかった。ここに来てくれてありがとうな」

「礼人さん……。僕、頑張ってここ受験してよかったです」
「そうだな」

 本当に、あの時諦めなくてよかった。もしもここを受験していなければ、僕は今こうしてここにいることは無かったんだ。

 そう考えたら、あの時の僕に"よくやった!"と言ってやりたくなった。

 僕の家がだんだん近くなってきた。楽しい二人っきりの時間もあとわずかだ。

「そういえば、そろそろ新入生歓迎スポーツ大会があるよな」
「あー、そうですね……」

 そうだった。運動音痴だから、なるべく考えないようにしてたんだけど……。

「どうした? テンション低いな」
「……あはは。僕、運動苦手で」
「そうなのか? バレーとかも?」
「……う、はい」

「そうかぁ。だけど、出場しないと仮装担当押し付けられちゃうぞ」
「……うっ。やっぱ、そうですよね。……でも、なんなんですか、この仮装担当って」

「んー……、確か俺が入る二年くらい前の先輩たちの時代に、人数が余った人たちが悪乗りで始めたことが切っ掛けらしいぞ。女装したり男装したり、コスプレしたり……」

「……女装……。なんかヤだな。そろそろどれに出るか決めると思うんですけど、礼人さんはやっぱサッカーですか?」
「いや、多分バレーかな」
「そうなんですか? 意外です」
「そうか?」
「はい。……何となくですけど、礼人さんは走り回ったりして目立つ方があってる気がします。あ、もちろんバレーが地味って言ってるわけじゃないですけど」

 だってこんなにかっこいいんだもん。動き回って髪靡かせて……、絶対絵になるよ!

「……歩は俺に目立って欲しいか?」
「え?」

 急に真顔で聞かれて、戸惑った。

 戸惑って、だけど礼人さんがジッと僕を見ているので、僕もちょっと真剣に考えてみた。さっきのは勢いとノリで喋ったようなもので、僕の本音とは少しずれているような気もするから。

 もしも、もしも本当に礼人さんが目立つことをしたとしたら、きっと礼人さんのファンの子たちが大喜びして、おまけにさらに礼人さんを追いかける人が増えたりしてライバルが半端ないことになっちゃうだろう。
 ただでさえ、なんのとりえもない僕は自信だってあるわけじゃないのに。

「やっぱ、目立ってほしくないです……。かっこいい礼人さんを見たい気持ちはありますけど、後々のことを考えると面白くないです。心……狭いですよね」

「……ふっ。いいや。目立ってかっこいいとこ見せてくれって言われたらどうしようかと思ったよ。歩のリクエストなら応えてやりたいって思うけど、俺もそういうのは好きじゃないからな」

 目立つのが嫌い……? こんなに派手な外見なのに?

「信じられないって顔してるな。髪をこの色にしてるのは単に好きだからだ。……まあ、中学の時に色々あってムシャクシャしてたから、卒業と同時に気分転換でもしてやろうと思ったのが切っ掛けではあるんだけどな」

「いろいろ……ですか?」

「そ。色々。部活で先輩にいちゃもん付けられたり、マネージャーの争いのタネになってたり……、同級生にやっかまれたりしたこともあったな」
「そんな……」

「変わらないんだよ。どんな格好していても。一度シロにも余計な注目を浴びないためにも、髪を黒に戻した方がいいんじゃないかって言われたことはあるけど。……俺、中学の時は地毛だったんだぜ」

 そう淡々と話す礼人さんの表情は、いろんなことを諦めてしまっているように見える。傍から見ると派手な風貌でかっこよすぎるから近寄りがたく感じるし、下手すると嫌味かと思うくらいのオーラを醸し出してる人なのに。
 綺麗でかっこよくて、何でも出来そうなスーパーマンのような人だと勝手に思っていたけど……。いや、出来る人なのかもしれないけど。

「……僕のわがまま言ってみてもいいですか?」
「なんだ?」

「今度、二人っきりの時か、そうじゃ無ければ同好会の仲間内の時だけかに……、本当の、余計なことを意識しない好き勝手に振る舞う礼人さんを見せてください。……他の人たちにこれ以上かっこいい礼人さんは見せたくないけど、僕は見たいから」

 僕の本音の本音。どう考えても独占欲丸出しの、わがままな本音だけど。

「"余計なことを意識しない"か……。それ、いいな」
 礼人さんは柔らかく微笑んだ。


 ゆっくり歩いて来たけど、とうとう僕の家に着いてしまった。

「あの、ここから見えるあのこげ茶色の屋根が僕の家です」
「ああ、あれか。……ここからだと俺んちまで三十分はかからないな」
「えっ! じゃあ、今度遊びに来てくれませんか? もしよければ僕が行ってもいいですし」
「いいな。……じゃあ、今度の日曜日におじゃましても良いか?」
「はい、是非! 楽しみにしてます」
「俺も楽しみにしてる。……じゃあ、また明日な」
「はい……」

 僕が返事をした後、礼人さんは軽く笑って手を振って背中を向けた。
 だけど僕はそのまま家に入ることが出来なくて、礼人さんの背中が小さくなるまで見送ろうと思った。どんどん離れて行くのを名残惜しく見続けていたら、礼人さんがくるりと後ろを振り返った。もうだいぶ距離が遠くなっているから、礼人さんの表情まではうかがえない。
 だけど、明らかに振り返ってすぐに一瞬動きを止めたから、僕が未だに見送っていることに驚いたのかもしれない。
そして、礼人さんは思いっきり背伸びをするような格好で、僕に大きく手を振ってくれた。それには僕も迷わずに同じように大きく振り返す。
 そして角を曲がって、礼人さんの姿はもうどう頑張っても見ることは出来なくなってしまった。


 そんなに長い時間では無かったけど、いろんな話が出来たおかげで今まで知らなかった礼人さんのことを知ることが出来た。
 見た目の明るさもきっと本来の礼人さんだと思うけど、内面は僕が思っていたよりもずっとずっと繊細な人だ。綺麗でかっこよくて繊細で……、だけど優しくて頼りにさせてくれる人だ。

 ホッと息を吐いて瞼を閉じると、礼人さんの笑顔が浮かび上がった。
 僕の心に、甘酸っぱい切ない気持ちが広がった。