翌日、登校すると既に加賀くんが来ていた。
「よお、歩。お前まだ部活決めてないんだろ? ちょっとさ、文化系にどんなのがあるか聞いてきてやったぞ」
「あ、そのことなんだけど。加賀くん」
「……ん?」
「え~と、驚かないで聞いてよ?」
「うん?」
「実はさ……」
僕が読書同好会に入ったなんて知られたら、やっかみやら嫉妬やらで大変な思いをしそうだ。だから本当は誰にも知られたくない気持ちもあるんだけど、加賀くんなら絶対に大丈夫だと思うから、思い切って昨日のことを話した。
加賀くんは目を真ん丸にしてすごく驚いた。
「……おまっ、それ……!! ええっ?」
「しっ、しぃーっ」
唇に指を当てて内緒のジェスチャーをし、加賀くんの手を引っ張って人気の少ない廊下の奥に連れ出した。
「何、お前あの紫藤礼人と知り合いだったのか?」
「知り合いって程じゃないよ。クリスマスの日に初めて会って、その時に勉強を教えてもらったってだけだから」
「へえ? 紫藤先輩ってそんなキャラ? 初めてあった奴に勉強教えてくれるような気さくで優しい人なのか?」
「うん。紫藤さん、優しいよ」
「はあー」
本当に驚かしちゃったんだろう。加賀くんは信じられないといった面持ちを崩さずに、言葉にならない言葉を発し僕の顔をポカンと見ている。
「その時に一回会ったきりだし、それに紫藤さん……、異常にモテるでしょ? だから何となく言いにくくなっちゃって」
「あ~、そうだなあ。特に女子には知られない方がいいかもしれないな。紹介しろとか言われたら、相手にも迷惑かけちゃうよな」
「うん……」
それよりも、僕の方が紫藤さんに他の誰かを紹介なんてしたくない。もちろんそんなこと、誰にも言えたりしないけど。
「でもさ、良かったな」
「え?」
ポンッと加賀くんに横から腕を叩かれて、顔を上げた。
加賀くんはちょっぴりホッとしたような顔をしている。
「だってお前、本当は読書同好会に入りたいって思ってたんだろ? 実現できてよかったよ。それに紫藤先輩も、見た目と違って優しくていい人みたいだし」
「うん」
僕がキッパリ頷くと、加賀くんは笑ってくれた。
「まあ、いつバレるかは分からないけど、とりあえず加山達には話さないでおいてやるよ」
「ありがとう」
なんとなくだけど、内緒ごとっていう響きを、加賀くんはちょっぴり楽しんでいるようにも見える。
「そろそろ戻ろうか」
「あ、もうそんな時間だね」
登校してくる人も、もういなくなっている。僕らは慌てて教室へと滑り込んだ。
ラッキーなことに二時間目の授業は自習になった。というのも、二時間目に予定されていた数学の先生が急用で、どうしても代わりの先生が見つからなかったからだ。
という事で、今日の授業で使うはずだったプリントを明日提出するようにと言いおいて、先生はあわただしく教室を出て行ってしまった。
「明日提出なら、コレ家でやっても構わないな」
「まあ、そうだけど。それって余計面倒くさくない?」
「あ~、まあなぁ」
加賀くんと二人で机をくっつけて教えあっこしながら、とりあえず順番に解いていく。そしたらどういう訳か横から加山さんも加わって、気が付いたらいつのまにか脱線して雑談へと変わっていた。
やばっ。朝家出るとき慌てててトイレに行ってなかったから、今頃行きたくなっちゃった。
「ちょっと僕トイレ行ってくるね」
「おう」
「自習でよかったね」
二人の声を背に、僕は急いでトイレへと走った。
用を済ませてのんびりと廊下を歩きながら、ひょいと窓から外を見ると、あのピンクバイオレットの髪がチラッと見えた気がした。
え?
紫藤さん?
慌てて覗き込んでみたんだけど、もうここから見える範囲にその影は無かった。だけど、多分間違いないと思う。だって、あの方向って中庭の方だ。紫藤さんに再会した場所も中庭だったし……。
僕は深く考えるまでもなく、そのまま廊下を突っ切って中庭へと足を向けた。
ここの中庭はちょっと広くて、奥の方にはベンチが備えられていて数本の木が植えられている。きっと真夏には、木漏れ日がある涼しい空間になるんだろう。
僕は自分でも何でだか分からないけど、足音をなるべく立てないように慎重にゆっくりと紫藤さんを探しながら奥へと進んだ。
……いないのかな? やっぱ、見間違えだった?
戻ろうかなと思いもしたけどやっぱりどうしても気になったので、とりあえずベンチの所までは確認してみようと足を進めた。
ゆっくりと慎重に進む僕の目の前に、ベンチに横たわる足の裏が見えた。頭が向こう側だから顔までは見えないけれど、あのピンクバイオレットが時々チラチラと見えるから紫藤さんに絶対間違いない。
やっぱりいた。……眠ってるのかな?
ふわーって胸の中が温かくなって、足元がふわふわと軽くなってきた。完全に浮ついちゃってる。
それでも紫藤さんの邪魔にならないようにそーっと気をつけて、さらに慎重に近づいてみた。
紫藤さんが、綺麗な瞳を閉じて気持ちよさそうに眠っている。
「紫藤さんのとこも自習なのかな……?」
覗き込む僕の視界に、ベンチを歩くありんこが目に入ってきた。一匹だけだけど、そいつは紫藤さんの体に近づいて行っている。僕は無意識に、アリから紫藤さんを守ろうと、そいつをペシッと叩き落とした。
「……えっ!?」
その僕の行為とほぼ同時に、反射的に紫藤さんが起き上がった。そしてびっくりしたような表情で僕を見て、だけどすぐに不思議そうな表情に変わった。
「……歩? お前、何でここにいるんだ……?」
まだ少し眠いのか、ちょっぴりぼんやりしながら額を手で擦っている。
「起こしちゃってすみません。……あの、僕ら今自習で、窓から紫藤さんが見えたから気になって……」
「……ふうん」
「あ、邪魔でしたよね! すみません。僕もう戻りますから」
「ちょっと待て」
「っ、え?」
踵を返そうとしたところで呼び止められて、慌てて振り向いたので転びそうになった。
もちろん頑張って踏ん張った。
「今、自習なんだな?」
「はい」
「てことは、教室に戻らなくても叱られないと」
「……はい」
多分。
「じゃあ、ちょっとこっち来い」
手招きされて呼ばれた先には、芝生が青々と茂っている。紫藤さんはそこにポンポンと掌を当てて、何かを確認してそれから僕を見た。
「ここ、足投げ出して座れ。湿ってないし汚れないから」
「え? あ、はい」
何だろうと思いながら近づくと、紫藤さんは何やら考えた末その芝生の上に持っているハンカチを広げた。
「大丈夫だと思うけど万が一な」
え? 紫藤さんのハンカチの上に座れと?
「紫藤さん、あの。ハンカチなら僕持ってます」
「いいから、いいから。頼んでるのは俺なんだからそこに座れ」
「はい……」
何だか悪いなとは思ったけど、無理に僕の我を押し通すのもなんだか微妙な感じがしたので、僕は素直にそのハンカチの上に座った。
そしたらそこに、その僕の太腿の上に、紫藤さんが頭を乗っけて寝転んだ。
「えっ?」
予想もしていなかった状況に、僕は素っ頓狂な声を上げた。
だって、だって本当に驚いたんだもの。まさか紫藤さんが、僕に膝枕をしてもらいたいと思ってくれるなんて想像できなかったから。
「……わり。眠いんだ、授業が終わったら起こして……」
そう言った紫藤さんはコロンと横を向いて、一分もしないうちにすやすやと眠り始めた。
ど、どうしよう……。うれしいけど、うれしすぎて……。変な勘違いをしちゃいそうだ。
静かな空間の中、涼しい風がどこからともなく流れてくる。さらさらと靡くピンクバイオレットの髪に、僕の目は釘付けになる。
……触りたいな。
ちょっとだけ。ちょっとだけなら大丈夫だよね?
恐る恐る触ってみた。
……柔らかい。柔らかくてさらさらしていて、とても滑らかな感触だ。
ほんのちょっとのつもりだったのに、一度触れてしまったらその手を離したくなくなってしまって、僕は何度も何度も梳くように紫藤さんの髪を触り続けた。
「…………」
うわっ!
触られる感触に気が付いてしまったんだろう。紫藤さんが徐に目を開けた。そして僕とパチッと目が合う。
「……あっ」
すみませんと続けようと思ったんだけど、紫藤さんがあまりにも優しくニコリと微笑んだので、僕は出そうとしていた言葉を飲み込んでしまった。
「……気持ちいい」
紫藤さんはすぐにまた目を閉じて、健やかな寝息を立て始めた。
ドキドキと僕の心臓がまた活発になる。
まずいと思った。
だって、こんなうれしい時間をもらってしまったら、僕は紫藤さんのことを諦めることが出来なくなりそうだ。ただでさえ気持ちがバレていそうなのに……。
ウザがられないように、迷惑だと思われないように気を付けなくては。
気持ちよさそうに僕の膝の上で眠る紫藤さんを見ながら、僕はそんなことを考えていた。
幸せな時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。もうそろそろ、授業が終わる時間になっていた。
「……紫藤さん」
「…………」
「紫藤さん!」
すっかり眠ってしまっているようなので起こすのはかわいそうだと思ったけど、そのままにしておくわけにはいかないので紫藤さんの肩を少し揺すりながら大きな声で名前を呼んだ。
「……ん。時間か?」
「はい」
紫藤さんはまだぼうっとしているようで、下を向いて目をこすっていた。それから一分近くその状態が続いた後、徐に顔を上げて僕を見た。
その表情は自嘲気味というか苦笑しているというか、何とも不思議なものだった。
「俺、よく寝てたか?」
「はい」
「そうか……、参ったな」
参った? って、何が?
「……お前、俺が人見知りだって言ったら信じる?」
「えっ?」
人見知り?
そういえば、黒田先輩だったかそんなことを言っていたっけ。でも僕にはとてもじゃないけどピンとこない。プルプルと顔を横に振る僕に、紫藤さんは苦笑した。
「だよな」
そしてパッと立ち上がり、僕の手を引っ張って立たせてくれた。
「戻ろうか、付き合わせて悪かったな」
「いいえ、大丈夫です。楽しかったですし! ……あっ!」
思わず思いっきり本音を零してしまって慌てた。だけどその一瞬の気まずさは、紫藤さんの一言で霧散していく。
「そっかー、良かった。じゃあまた、俺に膝枕してくれる?」
「えっ!? は、はいっ!」
嬉しくてびっくりして、思わず直立不動で返事をした僕に、紫藤さんは楽しそうに笑ってくれた。そして「また放課後な」と言って、僕に手を振って二年の教室へと帰っていった。
膝枕の約束なんてしちゃった……。
綺麗でかっこよくてみんなの憧れの的なのに……。そんなすごい人と、なぜだか僕はほんの少し特別な時間を与えてもらっている。
うぬぼれないようにしないといけない。
そんな自重する言葉を心の中で呟きながらも、期待にドキドキと震える心を、僕は止められそうには無かった。
クラスに戻ると、加賀くんと加山さんに怒られてしまった。
そりゃ、そうだよね。トイレに行くって出て行って、そのまま帰らぬ人になってしまったら僕でもきっと心配する。
「まったく―、どこ行ってたんだよ」
「あ……、えと。ちょうちょ……」
「えっ?」
まさか紫藤さんを見かけたから探しに行って、それでもって膝枕をしてあげてたなんて言えなくて。適当に言い訳しなきゃと口を突いて出てきたのが、まさかの蝶々だった。
「あ……、ええっと、だからね。見たこともない綺麗な蝶々が飛んでいたから……、思わず後を追いかけたくなって……」
あうううっ。なにわけのわからない変な言い訳をしちゃってるんだろう。子供じゃあるまいし、こんな言い訳誰も信じたりしないよ。
「……なるほど。まあ、鹿倉君ならそれもしょうが無いけど、もうお子ちゃまじゃないんだからしっかりしないと」
……え?
「そうだよ。お前大丈夫か? そのうち変な奴についていきそうで危なっかしいな」
二人に真顔で子供に説教するように心配されて、僕は本気で焦った。
「だ、大丈夫だよ! いくら何でも子供じゃないんだから、知らない人についてったりなんてしないから!」
「本当か~?」
「鹿倉君って、なんとなーく放っとけない危なっかしさがあるのよね~」
ひ、酷い! そりゃ僕は、高校生にしては少しちびかもしれないけどさ! だけどそれは身長だけで、精神はしっかりした高校生なんだからな!
と、心の中で叫んではみたものの、自業自得な咄嗟の蝶々の言い訳の後ではきっと二人ともまともに取り合ってはくれないだろう。
僕のバカ。もうちょっと気の利いた言い訳しろよな。
……はあっ。
嘘が苦手な僕はため息を吐きつつも、紫藤さんとのことが内緒に出来て良かったと、こっそり安心してもいた。
「よお、歩。お前まだ部活決めてないんだろ? ちょっとさ、文化系にどんなのがあるか聞いてきてやったぞ」
「あ、そのことなんだけど。加賀くん」
「……ん?」
「え~と、驚かないで聞いてよ?」
「うん?」
「実はさ……」
僕が読書同好会に入ったなんて知られたら、やっかみやら嫉妬やらで大変な思いをしそうだ。だから本当は誰にも知られたくない気持ちもあるんだけど、加賀くんなら絶対に大丈夫だと思うから、思い切って昨日のことを話した。
加賀くんは目を真ん丸にしてすごく驚いた。
「……おまっ、それ……!! ええっ?」
「しっ、しぃーっ」
唇に指を当てて内緒のジェスチャーをし、加賀くんの手を引っ張って人気の少ない廊下の奥に連れ出した。
「何、お前あの紫藤礼人と知り合いだったのか?」
「知り合いって程じゃないよ。クリスマスの日に初めて会って、その時に勉強を教えてもらったってだけだから」
「へえ? 紫藤先輩ってそんなキャラ? 初めてあった奴に勉強教えてくれるような気さくで優しい人なのか?」
「うん。紫藤さん、優しいよ」
「はあー」
本当に驚かしちゃったんだろう。加賀くんは信じられないといった面持ちを崩さずに、言葉にならない言葉を発し僕の顔をポカンと見ている。
「その時に一回会ったきりだし、それに紫藤さん……、異常にモテるでしょ? だから何となく言いにくくなっちゃって」
「あ~、そうだなあ。特に女子には知られない方がいいかもしれないな。紹介しろとか言われたら、相手にも迷惑かけちゃうよな」
「うん……」
それよりも、僕の方が紫藤さんに他の誰かを紹介なんてしたくない。もちろんそんなこと、誰にも言えたりしないけど。
「でもさ、良かったな」
「え?」
ポンッと加賀くんに横から腕を叩かれて、顔を上げた。
加賀くんはちょっぴりホッとしたような顔をしている。
「だってお前、本当は読書同好会に入りたいって思ってたんだろ? 実現できてよかったよ。それに紫藤先輩も、見た目と違って優しくていい人みたいだし」
「うん」
僕がキッパリ頷くと、加賀くんは笑ってくれた。
「まあ、いつバレるかは分からないけど、とりあえず加山達には話さないでおいてやるよ」
「ありがとう」
なんとなくだけど、内緒ごとっていう響きを、加賀くんはちょっぴり楽しんでいるようにも見える。
「そろそろ戻ろうか」
「あ、もうそんな時間だね」
登校してくる人も、もういなくなっている。僕らは慌てて教室へと滑り込んだ。
ラッキーなことに二時間目の授業は自習になった。というのも、二時間目に予定されていた数学の先生が急用で、どうしても代わりの先生が見つからなかったからだ。
という事で、今日の授業で使うはずだったプリントを明日提出するようにと言いおいて、先生はあわただしく教室を出て行ってしまった。
「明日提出なら、コレ家でやっても構わないな」
「まあ、そうだけど。それって余計面倒くさくない?」
「あ~、まあなぁ」
加賀くんと二人で机をくっつけて教えあっこしながら、とりあえず順番に解いていく。そしたらどういう訳か横から加山さんも加わって、気が付いたらいつのまにか脱線して雑談へと変わっていた。
やばっ。朝家出るとき慌てててトイレに行ってなかったから、今頃行きたくなっちゃった。
「ちょっと僕トイレ行ってくるね」
「おう」
「自習でよかったね」
二人の声を背に、僕は急いでトイレへと走った。
用を済ませてのんびりと廊下を歩きながら、ひょいと窓から外を見ると、あのピンクバイオレットの髪がチラッと見えた気がした。
え?
紫藤さん?
慌てて覗き込んでみたんだけど、もうここから見える範囲にその影は無かった。だけど、多分間違いないと思う。だって、あの方向って中庭の方だ。紫藤さんに再会した場所も中庭だったし……。
僕は深く考えるまでもなく、そのまま廊下を突っ切って中庭へと足を向けた。
ここの中庭はちょっと広くて、奥の方にはベンチが備えられていて数本の木が植えられている。きっと真夏には、木漏れ日がある涼しい空間になるんだろう。
僕は自分でも何でだか分からないけど、足音をなるべく立てないように慎重にゆっくりと紫藤さんを探しながら奥へと進んだ。
……いないのかな? やっぱ、見間違えだった?
戻ろうかなと思いもしたけどやっぱりどうしても気になったので、とりあえずベンチの所までは確認してみようと足を進めた。
ゆっくりと慎重に進む僕の目の前に、ベンチに横たわる足の裏が見えた。頭が向こう側だから顔までは見えないけれど、あのピンクバイオレットが時々チラチラと見えるから紫藤さんに絶対間違いない。
やっぱりいた。……眠ってるのかな?
ふわーって胸の中が温かくなって、足元がふわふわと軽くなってきた。完全に浮ついちゃってる。
それでも紫藤さんの邪魔にならないようにそーっと気をつけて、さらに慎重に近づいてみた。
紫藤さんが、綺麗な瞳を閉じて気持ちよさそうに眠っている。
「紫藤さんのとこも自習なのかな……?」
覗き込む僕の視界に、ベンチを歩くありんこが目に入ってきた。一匹だけだけど、そいつは紫藤さんの体に近づいて行っている。僕は無意識に、アリから紫藤さんを守ろうと、そいつをペシッと叩き落とした。
「……えっ!?」
その僕の行為とほぼ同時に、反射的に紫藤さんが起き上がった。そしてびっくりしたような表情で僕を見て、だけどすぐに不思議そうな表情に変わった。
「……歩? お前、何でここにいるんだ……?」
まだ少し眠いのか、ちょっぴりぼんやりしながら額を手で擦っている。
「起こしちゃってすみません。……あの、僕ら今自習で、窓から紫藤さんが見えたから気になって……」
「……ふうん」
「あ、邪魔でしたよね! すみません。僕もう戻りますから」
「ちょっと待て」
「っ、え?」
踵を返そうとしたところで呼び止められて、慌てて振り向いたので転びそうになった。
もちろん頑張って踏ん張った。
「今、自習なんだな?」
「はい」
「てことは、教室に戻らなくても叱られないと」
「……はい」
多分。
「じゃあ、ちょっとこっち来い」
手招きされて呼ばれた先には、芝生が青々と茂っている。紫藤さんはそこにポンポンと掌を当てて、何かを確認してそれから僕を見た。
「ここ、足投げ出して座れ。湿ってないし汚れないから」
「え? あ、はい」
何だろうと思いながら近づくと、紫藤さんは何やら考えた末その芝生の上に持っているハンカチを広げた。
「大丈夫だと思うけど万が一な」
え? 紫藤さんのハンカチの上に座れと?
「紫藤さん、あの。ハンカチなら僕持ってます」
「いいから、いいから。頼んでるのは俺なんだからそこに座れ」
「はい……」
何だか悪いなとは思ったけど、無理に僕の我を押し通すのもなんだか微妙な感じがしたので、僕は素直にそのハンカチの上に座った。
そしたらそこに、その僕の太腿の上に、紫藤さんが頭を乗っけて寝転んだ。
「えっ?」
予想もしていなかった状況に、僕は素っ頓狂な声を上げた。
だって、だって本当に驚いたんだもの。まさか紫藤さんが、僕に膝枕をしてもらいたいと思ってくれるなんて想像できなかったから。
「……わり。眠いんだ、授業が終わったら起こして……」
そう言った紫藤さんはコロンと横を向いて、一分もしないうちにすやすやと眠り始めた。
ど、どうしよう……。うれしいけど、うれしすぎて……。変な勘違いをしちゃいそうだ。
静かな空間の中、涼しい風がどこからともなく流れてくる。さらさらと靡くピンクバイオレットの髪に、僕の目は釘付けになる。
……触りたいな。
ちょっとだけ。ちょっとだけなら大丈夫だよね?
恐る恐る触ってみた。
……柔らかい。柔らかくてさらさらしていて、とても滑らかな感触だ。
ほんのちょっとのつもりだったのに、一度触れてしまったらその手を離したくなくなってしまって、僕は何度も何度も梳くように紫藤さんの髪を触り続けた。
「…………」
うわっ!
触られる感触に気が付いてしまったんだろう。紫藤さんが徐に目を開けた。そして僕とパチッと目が合う。
「……あっ」
すみませんと続けようと思ったんだけど、紫藤さんがあまりにも優しくニコリと微笑んだので、僕は出そうとしていた言葉を飲み込んでしまった。
「……気持ちいい」
紫藤さんはすぐにまた目を閉じて、健やかな寝息を立て始めた。
ドキドキと僕の心臓がまた活発になる。
まずいと思った。
だって、こんなうれしい時間をもらってしまったら、僕は紫藤さんのことを諦めることが出来なくなりそうだ。ただでさえ気持ちがバレていそうなのに……。
ウザがられないように、迷惑だと思われないように気を付けなくては。
気持ちよさそうに僕の膝の上で眠る紫藤さんを見ながら、僕はそんなことを考えていた。
幸せな時間はあっという間に過ぎてしまうものだ。もうそろそろ、授業が終わる時間になっていた。
「……紫藤さん」
「…………」
「紫藤さん!」
すっかり眠ってしまっているようなので起こすのはかわいそうだと思ったけど、そのままにしておくわけにはいかないので紫藤さんの肩を少し揺すりながら大きな声で名前を呼んだ。
「……ん。時間か?」
「はい」
紫藤さんはまだぼうっとしているようで、下を向いて目をこすっていた。それから一分近くその状態が続いた後、徐に顔を上げて僕を見た。
その表情は自嘲気味というか苦笑しているというか、何とも不思議なものだった。
「俺、よく寝てたか?」
「はい」
「そうか……、参ったな」
参った? って、何が?
「……お前、俺が人見知りだって言ったら信じる?」
「えっ?」
人見知り?
そういえば、黒田先輩だったかそんなことを言っていたっけ。でも僕にはとてもじゃないけどピンとこない。プルプルと顔を横に振る僕に、紫藤さんは苦笑した。
「だよな」
そしてパッと立ち上がり、僕の手を引っ張って立たせてくれた。
「戻ろうか、付き合わせて悪かったな」
「いいえ、大丈夫です。楽しかったですし! ……あっ!」
思わず思いっきり本音を零してしまって慌てた。だけどその一瞬の気まずさは、紫藤さんの一言で霧散していく。
「そっかー、良かった。じゃあまた、俺に膝枕してくれる?」
「えっ!? は、はいっ!」
嬉しくてびっくりして、思わず直立不動で返事をした僕に、紫藤さんは楽しそうに笑ってくれた。そして「また放課後な」と言って、僕に手を振って二年の教室へと帰っていった。
膝枕の約束なんてしちゃった……。
綺麗でかっこよくてみんなの憧れの的なのに……。そんなすごい人と、なぜだか僕はほんの少し特別な時間を与えてもらっている。
うぬぼれないようにしないといけない。
そんな自重する言葉を心の中で呟きながらも、期待にドキドキと震える心を、僕は止められそうには無かった。
クラスに戻ると、加賀くんと加山さんに怒られてしまった。
そりゃ、そうだよね。トイレに行くって出て行って、そのまま帰らぬ人になってしまったら僕でもきっと心配する。
「まったく―、どこ行ってたんだよ」
「あ……、えと。ちょうちょ……」
「えっ?」
まさか紫藤さんを見かけたから探しに行って、それでもって膝枕をしてあげてたなんて言えなくて。適当に言い訳しなきゃと口を突いて出てきたのが、まさかの蝶々だった。
「あ……、ええっと、だからね。見たこともない綺麗な蝶々が飛んでいたから……、思わず後を追いかけたくなって……」
あうううっ。なにわけのわからない変な言い訳をしちゃってるんだろう。子供じゃあるまいし、こんな言い訳誰も信じたりしないよ。
「……なるほど。まあ、鹿倉君ならそれもしょうが無いけど、もうお子ちゃまじゃないんだからしっかりしないと」
……え?
「そうだよ。お前大丈夫か? そのうち変な奴についていきそうで危なっかしいな」
二人に真顔で子供に説教するように心配されて、僕は本気で焦った。
「だ、大丈夫だよ! いくら何でも子供じゃないんだから、知らない人についてったりなんてしないから!」
「本当か~?」
「鹿倉君って、なんとなーく放っとけない危なっかしさがあるのよね~」
ひ、酷い! そりゃ僕は、高校生にしては少しちびかもしれないけどさ! だけどそれは身長だけで、精神はしっかりした高校生なんだからな!
と、心の中で叫んではみたものの、自業自得な咄嗟の蝶々の言い訳の後ではきっと二人ともまともに取り合ってはくれないだろう。
僕のバカ。もうちょっと気の利いた言い訳しろよな。
……はあっ。
嘘が苦手な僕はため息を吐きつつも、紫藤さんとのことが内緒に出来て良かったと、こっそり安心してもいた。
