近江は授業中や休憩時間に鼻をかむことがある。理由は花粉症だから。これはマスクを下ろすってことでもある。マスクを下ろさないとできないからね。
 つまり、つまり近江の素顔が晒されるってこと。
 休憩時間ならそれとなく話しかけて、なるべく顔をこちらに向けてもらえるようにする。もしくは手振りを加えて物理的に隠す。しかし授業中だと後ろに振りむくことができないので、もしかして女子に見られてバレるかもしれない?と無駄に、余計に、ハラハラする。そのせいでペンやペンケースを落としてしまうことがあった。佐々木が拾ってくれた。ありがとう、わざとではないんだ。
 近江は目薬をさすこともある。花粉症だから。これはメガネを外すってこと。目が痒くなったり充血したり異物感があったりするらしい。ネットからの情報だ。
 今まで気にならなかったことが気になるようになった。
 低頻度なのは幸運なのかも。おれがやきもきする頻度も低くなるから。
 1番ピンチかもしれないのは体育前の着替えのときだ。メガネとマスクの両方が外される。しかしこれも幸いなことに、着替え中は女子がいない。1番バレてほしくないと思っている相手がいないんだ。
 男子はいるが、おれと同じ性的指向のやつがそういるとは思わないからたぶん大丈夫。
 隣の席の更科が気にしてないっぽいから、更科が気づいて騒ぎ立てない限り男子たちにバレることはない、はず。
 おれが近江の顔を見るチャンスでもあるが、着替え中にまじまじ見るのはただの変態なのでさすがにしない。そもそもわざわざ後ろを向いて着替えない。
 体育のときも、服装自由なので何を着ていてもいい。強いて言えば運動しやすい、汚れてもいい服装を推奨されている。制服があるのに、指定のジャージはない。なんでなのかは謎。
 私服か、市販のスポーツウェアか、中学のジャージか。基本的にみんなこの3つのどれかに該当する。
 おれは市販のスポーツウェア、更科は中学のジャージを使ってる。あ、佐々木は部活ジャージだな。ずっと着てるので着替える必要もない。
 近江も市販のスポーツウェアだ。指定のジャージがないから中学のやつ使うって伝えたときには既に親に捨てられていたらしい。「だってもういらないと思ったんだもん。掃除に使ちゃった」って言われたって近江談。

 パンッ!っと音がして現実に引き戻される。顔の横をシャトルがすごいスピードで過ぎ去っていった。佐々木が打った強烈なスマッシュだ。

「あー! また佐々木の点じゃん!」

 更科の悲痛な叫びが響く。
 現在打倒佐々木のため、3対1でバドミントンのゲームの最中だ。更科に提案され徒党を組み、佐々木も挑戦を受け入れた。
 佐々木は空手だけじゃなくて運動全般が得意らしくバドミントンもとても強い。
 更科に「ただのラリーをしてるだけなのに速球すぎてやばい、ラリーだって言ってんのにラリーにならず意味がわからん。そういうわけで近江! 江間! 打倒佐々木を手伝ってくれ!」と言われ、このゲームが始まった。
 しかし聞いていたとおり、打ってくる全ての球のスピードと威力が桁違いだ。苦戦を強いられ、打倒が遥か彼方へ消えようとしている。
 ちなみに近江は体育の授業中もマスクを外していない。マスクしたまま運動するのって息苦しそうだけど、外さないでいてくれるのはありがたい。

「もう点取らせないぞ!」
「次こそは頑張るね」
「おう!」

 佐々木のサーブをさっきの失点を挽回するようにしっかりとレシーブする。3対1でやっているのでルールは多少無視だ。打ち返せる人が打ち返す。
 甘い球だろうが渾身の球だろうが豪速球で返ってくるから、レシーブできて喜ぶのも束の間。ラリーをしてまたスマッシュが来る。

「近江いけ!」
「えっ、わっ!」
「おわっ!!」

 打ち返すためグッと伸びてきたラケットの邪魔をしないようにサッと避けた。でもその先に更科がいて「あ!」と思ったときにはぶつかっていた。

「ごめん! なんともない?」

 すぐに上体を起こし窺う。更科も一緒に倒れ込んだ。おれの方が大きいから、つぶして怪我をさせていたら大変だ。

「だ、大丈夫。うわ、江間ってやっぱ美人だな……」
「あはは、ありがとう」

 下から顔を覗かれる。おれも上から怪我してないか見つめて、気づく。なんかおれが押し倒したみたいになっている。いや間違ってはないか。不慮の事故ではあるんだけど。

「すまん、2人とも大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよっぅわっ、とと」

 振り返って返事をすると、二の腕を掴んで勢いよく引っ張られた。

「ごめ、ぶつかっちゃった」
「……いや」

 勢い余って今度は近江の胸にぶつかってしまった。
 5cmくらいの身長差で体重も特段軽いわけじゃないのに軽々と起こされるなんて。結構力強いんだな。

「ありがとう。起こしてくれて——」

 お礼を言うために顔を上げたら、かなり近い位置で目が合った。

「怪我は?」
「あ、大丈夫だよ……」

 特に気にしないのかそのまま普通に心配してくれる。気遣ってくれるのは嬉しいけど、ちょっと、びっくりした。

「近江ー! 僕のことも立たせてくれよー!」
「あぁ、大丈夫か?」
「大丈夫だけど僕も引っ張って!」

 おれから手を離して更科を起こしに行く。
 視線を外された今になって心臓がドキドキしてきた。重たいメガネのせいでわかりにくいけど、結構視線が強かった。
 女子から受ける視線に似てたような気がするんだけど、不思議といつもみたいな嫌なドキドキではない、と思う。なんでだろう、近江が男だから?
 首を傾げていると佐々木に声をかけられた。

「怪我ないか?」
「佐々木ごめん、中断させちゃって。おれはピンピンしてるよ。更科も怪我なさそうー?」
「おう!」

 いつの間にかこっち側のコートに来ていたみたいだ。
 なんだかゲームを再開する雰囲気でもなくなって、ちょっと申し訳ない。

「狭いコートに3人はむしろハンデだな」
「くっ、策士策に溺れるか……!」
「言ってみたかったってやつ?」
「そう!」

 近江の言葉に「ハハハ!」と更科が大きな声で笑う。
 彼の笑い声はいつでも人も場も朗らかにしてくれるな。申し訳ないと思っていた気持ちが和らぐ。

「仕方ない、今度は普通にダブルスやろう。僕佐々木と組むから!」
「えぇ、ズルじゃんー」
「いいや、席前後ペアで勝負だ!」

 余裕綽綽の表情になった更科に、さっきまで佐々木がいた側のコートへ追いやられた。サーブも譲られ、さぁやろう!と元気よく言われる。
 やるしかないねーと顔を見合わせ、近江がコートに置きっぱなしになっていたシャトルを拾ってゲームをスタートしようする。が。

「ラッキーこっちの点! いいぞもっと空振りしてくれ!」

 近江のラケットはシャトルと出会うことなく空を切った。

「しっかりー」
「はは、ごめん」
「いいよ、おれが頑張る。更科狙うね」
「よろしく」

 よし、と気合を入れ直す。本当の本当に次こそは頑張る。

「聞こえてるよ! 佐々木助けて!」

 深々と頷く佐々木。それに喜んでまだ始めてもないのにハイタッチをする更科。えー、これ以上張り切られたら勝ち目ないじゃん。

「手加減してよー」
「勝負は常に真剣に、だ」

 おれの要求は却下され、すぐに佐々木の鋭いサーブが飛んできた。それをなんとか拾って、バタバタと不恰好ながらラリーを続ける。
 前に後ろにと動かされながらギリギリのところで続け、最終的に更科のミスで得点をゲット。

「やった!」
「ぎゃーやっちまった!」

 これみよがしに「いえーい」と近江とハイタッチをする。楽しくて自然と笑みが溢れた。
 友人ポジションを確保できたら、こういう気安くて、楽しくて、友情を感じられるようなことをたくさん得られるのかな? だとしたら益々友人と思ってもらえるように頑張らないと。