家に帰りベッドに寝転んで近江への気持ちを考えていると、嫌なことに思い当たってしまった。
 おれがしんどいと思っている、好意の孕んだ視線を近江に向けるのか、って。
 見た目で寄ってきて、無遠慮に見つめて、勝手に期待して。それと同じことをするのか、って。
 あー、いや、もうしていたってことかな。
 近江の素顔を見た瞬間、タイプだと思った。ものすごくかっこよくて、好みで、目を奪われた。
 それが理由でこれからも関わろうと決めたんだ。もちろん声をかけてくれたからとか、席が近いからとか、いろいろ要因が重なっていたからってのも理由だ。
 女子からのそういう視線が気になり出したのはいつからだったかな。
 最初は好意を向けてもらえるなんてありがたいし、嫌われるより全然いいと思ってた。
 でも徐々に向けられる視線に違和感を覚えるようになって、しんどいなっていう気持ちに気がついた。
 なんでそう思うのかなって考えて、おれをそういう目で、恋愛の対象とした好意のある目で見られるのが嫌なんだって気づいた。
 受け止めるのも、受け入れるのも難しい。
 だからといって拒否するのも、上手に受け流すことできない。
 しんどいという気持ちを抱えたまま、内心が伝わらないように接していた。
 そのうちに耐えられなくなってきて、ちょうどよく母さんがヘアカラーの練習台にならないかって提案してきたから乗ったんだった。
 派手な色になったら途端に近づいてくる人が減った。こんなことでと思いつつ、ちょっと心が楽になった。
 ピアスも似たような感じ。
 派手な見た目にすると「男」とか「恋愛対象」としての視線から「不良」とかマイナス方向の視線に変わる。人って簡単に感情が裏返るんだなって知った。
 恋なんてしたことなかったから、自分は所謂普通ではないとすぐには気づけなかった。
 度々女子からの視線を受けるようになって、しんどさを覚えてやっと、男を好きになるという性的指向だと知ることができた。
 女子が悪いわけじゃない、と理解はしてるつもり。ただ自分の性質のせいで耐えられなかっただけ。おれが男が好きっていう性質だっただけ。
 だから向けられる視線が嫌。
 応えられないとわかっているのに、どうすることもできないことも嫌。
 性的指向そのものをコンプレックスに感じてるわけじゃない。でも敢えてマイノリティを表に出していく気もない。
 どんな反応されてもきっと心に負荷がかかるから。伝えられた方も。
 おれはそうじゃないんだって言ってしまう方が、おれも周りも無駄に考えなくて済むのかもしれない。
 伝えることが楽じゃないから今に至ってるんだけど。
 好意を持っているかなんて直接言われない限り正確なことはわかるはずもないんだから、自意識過剰が過ぎるだけだと悩んだときもあった。
 だけど自意識過剰かそうでないかに関わらず、しんどいんだ。
 だったら理由がある方が少しは楽になるって結論づけて考えるのを終わらせた。
 他人にとってはどうでもいいことだと思う。
 でももう何年もずっと、おれがしんどいと思って、苦しいとさえ思うほどのことだったんだ。
 それをおれは近江にしていたんだろうか。好きでいる限りし続けるということになるのだろうか。

「好きって、楽しい感情だけじゃないのかー……」

 ため息と共に視界が歪んだ。





 ウジウジと悩みながら眠りに落ちて、遅刻が確定している時間に目が覚めた。
 遅刻ができることに、安堵してしまった。ノート借りるという行為で近江を繋ぎとめられるから。
 今日は授業の最中に登校して、何事もないようにそのまま席に着く。
 授業の途中で教室に入っていくときは手を振ることが多かったんだけど、迷って、控えめにした。

「おはよ」
「おはよー……」

 10分休憩になってから肩をつついて声をかけてくれる。
 体を向きを変えるのではなく、捻るだけにとどめて返事をする。
 見過ぎないよう、見られないよう。

「今日は起きられなかったんだな」
「うん」

 おれがノートを貸してほしいって言う前に、手渡してくれる。

「ありがとう。今日もめちゃくちゃ字もまとめ方も綺麗で惚れ惚れする」
「光栄だな」

 ルーティンとも言える、朝の風景。
 近江の優しさにつけ込んでる。健全じゃないから感謝くらいはちゃんと誠意を持って伝えておく。

「また図書室行こうと思うんだけど、放課後も借りてていい?」
「俺も行くから。テスト範囲とか知りたいだろ」

 知りたい。先生の言ってたこととか、ノートだけじゃわからないこともあるから。

「うん。はぁー、近江なしじゃ生活できないね」
「……いいんじゃないか?」
「堕落しちゃうよ」

 もうしてるか。ちょっとそろそろ本気で考えないと。

「ごめんもうしてた」
「随分可愛い堕落だな」
「どういう表現……」

 堕落の程度をどう判断したのか不明だけど、寛大すぎると思う。
 我慢できなくてチラリと近江を見る。
 なんで顔が好きってところから入ってしまったんだ。せめて後から知ったなら顔も好きになるのに。
 重たいメガネの奥で細められた目に、くつくつと肩を揺らして笑う近江にドキドキする。

***

「っ!」

 突然、耳の後ろ辺りを触れられた感覚に驚いてバッと顔を上げた。
 ノートに書かれた近江の文字や教科書を辿っていくうちに、いつの間にか勉強にというかノートを写すことに集中していたようだ。
 急に意識を浮上させられてなんだ?と思っていると「あ、すまん」という声が横から聞こえてきた。
 声のした方を見ると、おれの髪に指をかけたままの近江と目が合う。

「中の色が見えてたからつい」

 喋りながらインナーカラーを覗かせるように髪を掻き上げられた。
 ネイビーブルーに隠れていて、おれ自身もあんまり見る機会のない内側の色。
 するりと耳の後ろからうなじにかけて首をなぞられる感覚が、ほんの少し遅れて鮮明に伝わってくる。
 近江の指がおれに触れていると脳が認識した瞬間、急激に体温が上がった。

「えっ?」

 近江が驚いて目を見開くのがスローモーションのように感じる。
 見られたくないと思った。赤面した顔なんて見られたら、おれの気持ちが伝わってしまうかもしれない。知られたところで迷惑だろうし、普通に恥ずかしいし。
 コンマ数秒の間に、普段はあまりとらない逃げるという選択が弾き出された。

「っあ! と、トイレ行ってくる!」
「……え? あぁ、うん」

 言い訳が下手くそすぎる……! でもかまっていられないと返事を聞く前に立ち上がり、迷路と化している通路に飛び込む。ペンが転がった音がしたけどそれも無視だ。
 迷惑にならない程度の速さで駆けていき、右に左に曲がってすぐに誰もいない本棚だけの空間に出る。
 近江の視界から外れたことにホッとして、足を緩めた。しかしすぐには戻れそうもないから、そのまま図書室から一旦離れることにする。
 足を進めながら自分の頬に手を当てる。
 顔があっつい。顔だけじゃない、全身熱い。まだきっと全然赤いままだ。心臓も強く脈打っていて痛い。見られたかな。見られたよな。嫌だな、何を思われるんだろう。
 頭の中で考えても意味のないことがぐるぐると渦巻く。
 変なやつとか、びっくりして赤くなったんだって思ってもらえればいいけど。そうじゃなかったら。
 否定はされたくない。でもおれにそれを思う資格すらない。
 図書室のドアを開けて、口実を事実にするためにトイレに向かう。
 開けたドアを閉め直すと空間が隔てられて、おれと近江の間に壁ができて、どんどん熱が引いていく。
 触れられて嬉しいのに、そう思う自分に嫌悪感も湧いてくる。

「あ! 江間くん!」
「本当だ、江間くーん」

 声をかけられて、人がいたことに気づく。
 少し距離のある位置から女子が大きく手を振っていた。見覚えのある顔だな。名前は覚えてないけど。
 逃げたら逃げたでこうなるのか。
 今はいつも以上に女子と話したくないのに。自分の行いを目の当たりにさせられるようだから。
 トイレから出てきたところに出くわしたみたい。タイミング悪いなー。そこに用事があるから近づいて行かないといけなくて気が重くなる。
 絶対行かなきゃいけないわけじゃないし引き返そうか。

「もしかして江間くんも図書室にいたの?」
「うん、いたよ」
「マジ? 全然気づかなかった」
「あの迷路、江間くんどころか人に会うことの方が稀だからね!」
「それは言い過ぎー」

 引き返すなんてもちろんできなくて、おれから女子に近づく形で会話が始まる。なんとなく話をする方が、無視するのよりおれにとっては簡単な気がするから。
 彼女たちにとってはどっちがマシなんだろう。

「テスト勉強してたの?」
「勉強もだけど、ノート写してたんだ。ちょっと休憩」

 嘘は言ってない。

「そうだった、遅刻魔だった」
「何限分やってるの? 疲れた顔してるよ。それもかっこいいけど!」
「あはは。今日は1限半くらいかな」

 おれの遅刻癖が浸透してるんだな。

「まだ残ってるの?」
「うん、もう少し」
「えーそっか。うちらどっか寄って帰ろうって話してたんだけど」
「ね。疲れた顔してるしまだ残ってるんだよねー」

 顔を見合わせてアイコンタクトを取っている。
 寄り道するつもりで香水でもつけたのかな。甘い香りがする。甘いお菓子とかじゃなくて、花の香りって感じだ。

「また今度誘うことにする!」
「そうだね! あ、江間くん手出して!」
「手?」
「早く早く」

 言われたまま手を出すと、水色の小さい粒がコロンと乗せられた。

「ブドウ糖の入ったグミ! これで頑張って!」
「またねー」
「程々に頑張ろうねー!」
「うん、ありがとう。またね。2人で楽しんできてね」
「楽しんでくるー!」

 手のひらに残ったグミを見て、さすがにこれをポケットにしまうわけにはいかず口に放り込んだ。
 角を曲がって姿の見えなくなった彼女たちの視線を思い出して、自分と比較する。
 近江の顔が好き、見てくれに惚れたんだ。
 でもそうやって見られるのが自分は嫌だった。ずっと否定してきた。
 見た目で苦労して、見た目で人の目がガラッと変わるのも理解していて。それなのに、顔がものすごくタイプな男に出会って。それがきっかけで好意を抱いて、見つめていたなんて。
 顔で寄ってきて、好意を向けられるのが嫌だったのに、しんどかったのに。
 それなのに。
 おれだけそういう視線を自分勝手に向けるだなんて。近江にならそういう目で見られてもいい、見られたいだなんて。
 ズルすぎる。

***

 トイレには入らず図書室にUターンした。
 手前まで行ったから十分(じゅうぶん)だと思う。他の人に出くわす前に戻ろうという気持ちの方が強かったし、近江との時間がなくなるのは嫌だなって。
 おれのズルい部分には蓋をした。気づいてすぐに見て見ぬ振りをする自分のクズさに呆れる。
 そんなことをすると余計にしんどくなりそうなんだけど、近江への好きって気持ちの方が優先順位が高いみたい。
 図書室の迷路は変わらないが、徐々に床に置かれていた本は仕舞われていた。本の寄贈でもあって真面目に調整していたのかもしれない。もうほとんどなくなっていて歩きやすくなった。
 ベンチに座ると、テーブル代わりにしている棚に置かれたペンが目に入った。

「拾ってくれたんだ? ありがとう」

 自分の気持ちを優先したとはいえ、おれのしんどさを近江にも味わわせるわけにはいかない。伝わらないように若干視線を逸らして、顔を見ないように気をつける。

「あぁ。また女子に話しかけられてたのか?」
「え、うん。よくわかったね」

 なんかちょっと不機嫌……? 声のトーンが少し低いかも。

「遅かったから」

 どのくらい話してたんだろう。長くはなかったと思うけど。

「ノート借りてるのにごめん」
「いや、責めてるわけじゃない。俺もついでに勉強になってるし」
「そっか。近江優しいから甘えすぎちゃう」

 一瞥されただけで返事が返ってこなかった。
 おれのせいで減っていた会話をさらに減らしてしまった。
 やっぱりあからさまに逃げたのがよくなかったかな。だからと言って謝るのは違うよな。
 触れてきた手を責めるみたいになるし、おれの気持ちについて謝ったところで不快にさせるだけだ。
 言葉が何も見つからなかったから、黙々とノートを写した。
 繋がりを手放したくはないから。