連休明け、髪色を変えて登校した次の日には、1年生全体にピンクの髪がネイビーブルーになったと噂になったらしい。更科が教えてくれた。
3日後にはそれがおれであると認知され、話しかけてくる女子が出てきた。
1週間後には一度話しかけてきた女子が躊躇いなくまた話しかけてくるようになった。恐る恐るという感じが日に日になくなっていっている。
今現在、おれのことが学校中に知られてるなんてことはないと思うが、派手な見た目という壁に穴が空いたのは確かだ。
出席を取るときにピンクの髪がいないから江間はサボりかと、欠席にされそうになるという一幕もあった。危うく先生に存在を消されかけるところだった。
しかし逆にピンクの髪が目立ち特異なことであるという裏付けになり、改めて効果があったと知った。無くすと気付くものだよね。
かといって没個性になり誰の目にも映らなくなるわけでもなし、というのもこの1週間で知った。
自分の顔を改めて確認して、なんで女子はこの顔がいいんだろう?と疑問に思う。綺麗な顔に産んでくれたことは感謝するけど。
近江の方が美形だと思う。タイプの顔だからっていう欲目かな。
美形を知られたら人気が出そうだ。近江の顔を思い浮かべようとして、重たいメガネとマスクが思い浮かんだ。
いやダメだ。今のおれみたいになっちゃうかもしれないって、マスクをし続けることを望んでいたんだった。メガネもマスクも外してほしくない。
バレない方がいいんだったと思い出すと同時に、おれもそうすればいいじゃんと閃いた。
今更顔を隠したところで効果があるとは思えないけど、それでもとマスクを買ってみた。しかしマスクをするという習慣がなさすぎて結局着けるのを忘れている。
家になかったからわざわざ買ったのに。どこに置いたかすらあやふやだ。全く意味がない。
「江間くん聞いてるー?」
「うん。えっと、桜のケーキだっけ?」
「聞いてないじゃーん!」
「天然? もう桜は時期じゃないよ」
きゃらきゃらとした笑い声が廊下にこだまする。
いまだにクラス全員の名前は覚えてないけど、それでも顔はだいたい把握してる。だから違うクラスの人に話しかけられればわかる。
この子たちは何組の子なんだろう。移動教室ですれ違うこともないような気がする。
「さくらんぼのパフェの話だよ」
「ごめん、そうだったね」
「甘いもの好きでしょ? 絶対美味しいから一緒に行こうよ!」
もちろん甘いものは好き。でも食べに行くならパフェより焼肉がいい。
つい数日前まで顔も見たことない子たちに話しかけられ、どこかに行こうと誘われるなんて。積極性がすごいな。
カラオケ行こうと誘ってくる女子もいた。カラオケなんて女子が苦手じゃなくても行きたくない。近江たちとも遠慮したいくらい、本当に音痴だから。
中間テストがあるから勉強しないといけないんだって断れば「まだ1ヵ月近くあるよ、真面目なんだね」と言われた。
1回話すと話しかけやすくなるらしく、壁の穴は徐々に大きくなってる。「話してみたら江間くん全然怖くないんだね」って、当然だよね。おれ遅刻以外は素行に問題ないから。
「来週から始まるから一緒に行こうよ」
「SNSで他のも見たんだけどめっちゃ美味しそうだったの!」
髪色が変わるだけでそんなに話しかけやすくなるものか。
こういう感じ久しぶりだ。
髪を派手な色にして、ピアスをたくさん開けて、段々人が寄って来なくなって。それが日常になっていたから。
向こうから近寄ってくることがなくなっていたから、おれが何か対応する必要はなかった。だから適度に距離を取る方法がわからない。
話しかけられてるのに無視するわけにもいかない。
適当に断ったり、話を切ったりするにはどうしたらいいんだろう。今回もテストを言い訳にすれば乗り切れるかな。
自分で言うのも嫌だけど、女子にちやほやされてるやつに積極的に話しかけてくる男子もいなかった。いや、昔はいたけどこっちも減っていったという感じだった気がする。
要するに友人と言える人がいなかった。
おれは想像以上に人間関係を築いてこなかったんだと、そのせいでコミュニケーション能力も低かったんだと実感させられている。
だからこそ近江たちと話せるようになってすごく楽しかったんだな。友人ってこんな感じなのかなって満たされていたのに。
「もうちゃんと考えておいてねー、じゃあまたね!」
「バイバーイ」
「あはは、またね」
やっと知らない女子との会話から解放された。
暗い髪色にしたこと後悔はしてないけど、母さんの確認は正しかった。
おかげで放課後になってもノートが全然写し終わってない。遅刻しなければいいだけなんだけどさ。
教室に戻り、開きっぱなしのおれのノートを見ている近江に声をかける。
「せっかく一緒に残ってくれてるのに待たせてごめん」
「ん、大丈夫。やっぱりモテるんだな」
「いやー、あはは」
近江にそう思われるのなんか嫌だなー。
顔を上げて返事をする近江はいつも通りに見える。嫌悪感とかはない、はず。
たった数メートルしか離れてないところで話してたんだから全部聞こえてるよね。おれも近江が似たような会話してたら気になるし、つい言っちゃうかも。
「行くのか?」
「えー、美味しそうだとは思うけど」
「俺は気になった。さくらんぼのパフェなんてあるんだな」
「そうなの? 近江と一緒なら行くの楽しそうだなー」
そういえば近江は甘いもの好物だった。今日のお昼も変わらず甘い菓子パンを食べていた。
お昼は早々に逃げていて、話しかけられたり、ついて来られたりは今のところない。ただ近江が買ってるのを横で待つことはしなくなった。
あそこのベンチみたいな場所他にもないかな。人の声はするけど、女子に限らず今まで誰も来たことはないんだよな。
いや、もうベンチでもいいか。でも天気に左右されるなー。まだもう少し先とはいえ、梅雨が待ってるし。
「教室以外の場所探そうかな」
教室に残ってるやつはおれたち以外にもいる。日によってどのくらい残ってるかはまちまちだ。勉強してると基本的に話しかけてこないし、おれも話しかけないから過ごしやすかったのに。
クラスメイトとはある意味でいい距離感だったのかな。
「図書室行く?」
「え?」
口に出てた? どこに行くって?
「ものすごいふざけてて面白いんだ」
「ん……?」
何がふざけてるって? 面白いってどういうこと。
***
特別教室棟4階全体が図書室になっている。決して広くはない。
ちゃんと聞き直して、意義なしだったため早速、避難場所確保と休憩を兼ねてやって来た。
放課後に一緒に残るときは、わからないところを教えてもらったり、ふと雑談をすることもあるから図書室でやるのは適してないと思っていた。ずっとお喋りしてるわけじゃないんだけど、静かにしなきゃいけないイメージがあるから。
おれはそんなに本を読むわけでもないし、図書室に用もなくて来たことはなかった。
今回初めて足を運んで出てきた感想はこれ。
「図書室っていうか迷路じゃん」
1人で入ったら出てこれなくなりそうだよ。
動線なんて考えられてないような棚の配置のせいで、迷宮のような様相をしていると言っても過言ではない。
なんでこうなってしまったんだろう。
床にも本が積まれていて、これらは仕舞わなくていいのか心配になる。
「近江よく来るの?」
奥へ進んでいく足取りに迷いがないように見える。この迷路でよく戸惑いなく足を進められるな。
「1回だけ探索しに来た」
「探索……」
図書室に行くことを探索とは普通言わない。でもその表現が間違ってると感じないんだからたしかにふざけている。
「いつしたの?」
「3、4日前? 朝登校して教室に行く前にした」
最近じゃん。いつの間にだ。
「どう? 探索する?」
「朝でしょ? 厳しいよ」
「残念」
誘いに乗ると思ってなさそうな「残念」が返ってきた。
楽しそうだけど起きれる気がしない。朝じゃなければぜひと思う。
その後、近江の背中を追いながら何度か角を曲がり、遂に行き止まりに直面した。
行き止まりには、棚と棚の隙間に隠されるようにベンチが押し込まれている。背もたれがないベンチだけど壁があるから寄りかかれるな。
すぐ側にカラーボックスがサイドテーブルのように配置されていて少しブックカフェっぽい。結構快適そう。ただし図書室内での飲食は禁止だ。
「ここが近江が見つけたところ?」
「いや、ここじゃなかったんだけど」
人目につかず、静かで秘密基地のような感じもある良いところだと思った。だけど目的の場所ではなかったのか。
「辿り着けなかった」
絶対に配置が変わってると、眉間に皺を寄せて悪態をついた。悔しそうだ。
スイスイ進んでいたから全然感じなかったけど、近江も道に迷っていたんだな。
床に本が置かれてるのは迷路の更新でもしていたからだったのかな。なんのための更新なのか、なぜ必要なのか謎だ。
「でもめっちゃ良い感じだよ、座ろ」
「うん」
仕方なさそうな声色だ。
偶然にしては良いところをゲットできてるよ。近江は探し物とかも得意そうだ。
おれはノートを写す続きをするために、近江はその辺に置かれている本を手に取って、ベンチに腰掛ける。
濃い焦げ茶の木製のベンチが新たな居場所になってくれるかもしれない。
でもまさか屋内にもあるなんてな。
狭い通路を塞ぐように、ど真ん中にアンティーク調の立派なロッキングチェアが置いてあったりもした。
正直めっちゃ気になったけど、先客がいたので素通りした。
おれなんかより全然面白いものがたくさんある。
おれなんかに話しかけてないでみんな学校の探索をすればいいんじゃないかな。
でもおれも近江に連れてきてもらう今の今まで知らなかったんだから、他の人も知らないのかな。こういった面白いものがあることを。
学校側に主体性を試されているのかもしれない。探せばなんでもあるし、やろうと思えばなんでもできるよって。
ひとまずノートと中間テストに向けての勉強をしないといけないと、集中する。
中間テストを言い訳に使ったが、言い訳だけじゃなくて本当にやらなきゃいけないことだ。おれは地頭がいいのではなく、悪くはないって感じだから勉強しないと点数は取れない。
紙を滑るペンの音とページを捲る音だけを響かせ、られなかった。
再開して早々に例題の答えが合わなくて、手が止まった。
公式は合っているはずなのに、答えを見ると合っていない。合ってないってことはやっぱり公式が間違ってるのかな。
数学の進みが早くて手を抜いたらすぐ置いていかれそう。
まだ決してついていけてないわけじゃない。例題5問のうち4問は正答だ。大丈夫。じゃあなんでこの1問だけと教科書と借りたノートを見てミスを探すが、お手上げ。
諦めて聞こうと顔を上げたら、近江がこっちを見てた。
「あ、えっと、どこ間違ってるかわかる? この問題だけ答え合わないんだけど、何がダメなの?」
ちょっと驚いた。ずっと見られてたのかな?
近江とよく目が合うんだよな。おれがよく見てるのもあるんだけど、近江にも見られてる気がする。メガネの奥から向けられる視線は結構強い。
その視線に何故かドクリと心臓が跳ねた。
も、もしかしておれが近江の顔が好きなように、近江もおれの顔が好きなのか……?
「あぁ、ここ計算間違ってる」
「え、あ、うーんと」
近江の視線がおれからノートに移って息がしやすくなった。
おれもノートへ目を移して指摘されたところを計算し直す。見落としのないようにゆっくりと端折らないように。
最後までやって、もう一度答え合わせをすると今度は正答に辿り着いている。
「うわ……、ほんとだ。引き算って難しいよね」
「わからんでもない」
「嘘つけ」
絶対今のは嘘。そんなわかりやすい慰め笑っちゃう。
繰り下がりもない引き算で間違えるなんてミスやらないでしょ。途中の計算が5-3=3になってるなんて自分でもびっくりした。
慰められるのは悪い気しないけど、このタイミングでその発言はやっぱり慰めでしかない。でも愉快であるのも確かだから声出して笑っちゃった。
近江が「俺だってケアレスミスするけどなぁ」なんて肩を揺らすと、一緒にピアスに微かに反射した光も揺れた。
それを楽しい気持ちのまま眩しく感じていたが、はたと気づく。
まだピアスを開けたばかりでホールが安定していないから、これはただの傷だ。
「ねぇピアス、調子どう? ピアスというか耳かな? なんともない?」
ピアスと耳には触れないように手を伸ばす。耳に少しだけかかった髪を払って近江の耳の状態を確認する。
見た目には異常はなさそうだ。
自分のことにいっぱいいっぱいで気を配ることができていなかった。
「特に、なんともないな」
「痛みとかは?」
「ない」
ホッと息を吐いて胸を撫でおろす。良かった。
自分の体が丈夫過ぎて、健康過ぎて、怪我とか病気とか、その気持ちとかあんまりわからないんだよな。
「軟骨は安定まで時間かかるだろうから当分は気をつけてね。消毒もちゃんとやってね」
「開けてからがちょっとめんどくさいな」
「そうかも」
おれも一応腫れないようにとかやったにはやったので、めんどくさいという気持ちは理解できる。
「定期的に確認してくれるとありがたいんだけど?」
「アフターケアも怠らないよ」
ヘリックスを開けるのを決定したときのように少し挑発の入った言い方をされる。おれも負けじと言い返す。もちろんやらせていただきますとも。
提案して、近江の耳に穴を開けた者の責任だ。気を配るのを忘れないようにしよう。
ただ実際に何か異常が出たらおれにできることなんてないから、速やかに病院へ行くことを勧めるけど。
「そういえば更科たちに何か言われた?」
自分の髪色のせいで、ピアスのことは忘れていた。更科たちも話題には出さないし。
近江の耳に伸ばしていた手を引くと同時に、前のめりになっていた体も引く。元の体勢に戻してからちょっと近かったかと気づいた。距離感気をつけないと。
「マジで開けたのかって、でも江間の髪色ほど驚かれなかったな」
「そっかー」
近江がピアス開けたことがあまり話題に上がらないのは良いことなのか。
ただ美形に拍車をかけただけじゃんって思ったけど、そんなに周りは気にしないものか。
そういえばおれもたくさん開けたままだ。でも話しかけられた。髪が派手じゃないとピアスの効果は半減以下らしい。過信しすぎていた。ただのアクセサリーに。
髪色を変えてからピアスを開けているから、すごい効果があるように錯覚したのかな。
されどもさすがはアクセサリー。
ピアスは本来の意図通りに耳元から近江を飾っていてすごくかっこいい。
「江間が綺麗に開けてくれたんだって自慢はした」
「実は自分でもいい出来だと思ってた」
自慢するなんて、少なくとも開けたことを後悔してなさそうだ。
「更科が羨ましがってたから強請られるかもな」
「任せてって言いたいけど、なんか佐々木にため息つかれそうだなー」
「あぁ、わかるかも」
小さく肩を揺らして笑うから、マスクをしていても近江の表情というか感情がわかる。それに最近はマスクしてても表情が想像できるようになってきた気がする。
重たいメガネにマスクをしているのに。好みだと思った素顔はほぼ隠れているのに。
おれは今の状態を見てかっこいいって思った。なんでそう思ったんだろう。
なんか、おかしいかも。
3日後にはそれがおれであると認知され、話しかけてくる女子が出てきた。
1週間後には一度話しかけてきた女子が躊躇いなくまた話しかけてくるようになった。恐る恐るという感じが日に日になくなっていっている。
今現在、おれのことが学校中に知られてるなんてことはないと思うが、派手な見た目という壁に穴が空いたのは確かだ。
出席を取るときにピンクの髪がいないから江間はサボりかと、欠席にされそうになるという一幕もあった。危うく先生に存在を消されかけるところだった。
しかし逆にピンクの髪が目立ち特異なことであるという裏付けになり、改めて効果があったと知った。無くすと気付くものだよね。
かといって没個性になり誰の目にも映らなくなるわけでもなし、というのもこの1週間で知った。
自分の顔を改めて確認して、なんで女子はこの顔がいいんだろう?と疑問に思う。綺麗な顔に産んでくれたことは感謝するけど。
近江の方が美形だと思う。タイプの顔だからっていう欲目かな。
美形を知られたら人気が出そうだ。近江の顔を思い浮かべようとして、重たいメガネとマスクが思い浮かんだ。
いやダメだ。今のおれみたいになっちゃうかもしれないって、マスクをし続けることを望んでいたんだった。メガネもマスクも外してほしくない。
バレない方がいいんだったと思い出すと同時に、おれもそうすればいいじゃんと閃いた。
今更顔を隠したところで効果があるとは思えないけど、それでもとマスクを買ってみた。しかしマスクをするという習慣がなさすぎて結局着けるのを忘れている。
家になかったからわざわざ買ったのに。どこに置いたかすらあやふやだ。全く意味がない。
「江間くん聞いてるー?」
「うん。えっと、桜のケーキだっけ?」
「聞いてないじゃーん!」
「天然? もう桜は時期じゃないよ」
きゃらきゃらとした笑い声が廊下にこだまする。
いまだにクラス全員の名前は覚えてないけど、それでも顔はだいたい把握してる。だから違うクラスの人に話しかけられればわかる。
この子たちは何組の子なんだろう。移動教室ですれ違うこともないような気がする。
「さくらんぼのパフェの話だよ」
「ごめん、そうだったね」
「甘いもの好きでしょ? 絶対美味しいから一緒に行こうよ!」
もちろん甘いものは好き。でも食べに行くならパフェより焼肉がいい。
つい数日前まで顔も見たことない子たちに話しかけられ、どこかに行こうと誘われるなんて。積極性がすごいな。
カラオケ行こうと誘ってくる女子もいた。カラオケなんて女子が苦手じゃなくても行きたくない。近江たちとも遠慮したいくらい、本当に音痴だから。
中間テストがあるから勉強しないといけないんだって断れば「まだ1ヵ月近くあるよ、真面目なんだね」と言われた。
1回話すと話しかけやすくなるらしく、壁の穴は徐々に大きくなってる。「話してみたら江間くん全然怖くないんだね」って、当然だよね。おれ遅刻以外は素行に問題ないから。
「来週から始まるから一緒に行こうよ」
「SNSで他のも見たんだけどめっちゃ美味しそうだったの!」
髪色が変わるだけでそんなに話しかけやすくなるものか。
こういう感じ久しぶりだ。
髪を派手な色にして、ピアスをたくさん開けて、段々人が寄って来なくなって。それが日常になっていたから。
向こうから近寄ってくることがなくなっていたから、おれが何か対応する必要はなかった。だから適度に距離を取る方法がわからない。
話しかけられてるのに無視するわけにもいかない。
適当に断ったり、話を切ったりするにはどうしたらいいんだろう。今回もテストを言い訳にすれば乗り切れるかな。
自分で言うのも嫌だけど、女子にちやほやされてるやつに積極的に話しかけてくる男子もいなかった。いや、昔はいたけどこっちも減っていったという感じだった気がする。
要するに友人と言える人がいなかった。
おれは想像以上に人間関係を築いてこなかったんだと、そのせいでコミュニケーション能力も低かったんだと実感させられている。
だからこそ近江たちと話せるようになってすごく楽しかったんだな。友人ってこんな感じなのかなって満たされていたのに。
「もうちゃんと考えておいてねー、じゃあまたね!」
「バイバーイ」
「あはは、またね」
やっと知らない女子との会話から解放された。
暗い髪色にしたこと後悔はしてないけど、母さんの確認は正しかった。
おかげで放課後になってもノートが全然写し終わってない。遅刻しなければいいだけなんだけどさ。
教室に戻り、開きっぱなしのおれのノートを見ている近江に声をかける。
「せっかく一緒に残ってくれてるのに待たせてごめん」
「ん、大丈夫。やっぱりモテるんだな」
「いやー、あはは」
近江にそう思われるのなんか嫌だなー。
顔を上げて返事をする近江はいつも通りに見える。嫌悪感とかはない、はず。
たった数メートルしか離れてないところで話してたんだから全部聞こえてるよね。おれも近江が似たような会話してたら気になるし、つい言っちゃうかも。
「行くのか?」
「えー、美味しそうだとは思うけど」
「俺は気になった。さくらんぼのパフェなんてあるんだな」
「そうなの? 近江と一緒なら行くの楽しそうだなー」
そういえば近江は甘いもの好物だった。今日のお昼も変わらず甘い菓子パンを食べていた。
お昼は早々に逃げていて、話しかけられたり、ついて来られたりは今のところない。ただ近江が買ってるのを横で待つことはしなくなった。
あそこのベンチみたいな場所他にもないかな。人の声はするけど、女子に限らず今まで誰も来たことはないんだよな。
いや、もうベンチでもいいか。でも天気に左右されるなー。まだもう少し先とはいえ、梅雨が待ってるし。
「教室以外の場所探そうかな」
教室に残ってるやつはおれたち以外にもいる。日によってどのくらい残ってるかはまちまちだ。勉強してると基本的に話しかけてこないし、おれも話しかけないから過ごしやすかったのに。
クラスメイトとはある意味でいい距離感だったのかな。
「図書室行く?」
「え?」
口に出てた? どこに行くって?
「ものすごいふざけてて面白いんだ」
「ん……?」
何がふざけてるって? 面白いってどういうこと。
***
特別教室棟4階全体が図書室になっている。決して広くはない。
ちゃんと聞き直して、意義なしだったため早速、避難場所確保と休憩を兼ねてやって来た。
放課後に一緒に残るときは、わからないところを教えてもらったり、ふと雑談をすることもあるから図書室でやるのは適してないと思っていた。ずっとお喋りしてるわけじゃないんだけど、静かにしなきゃいけないイメージがあるから。
おれはそんなに本を読むわけでもないし、図書室に用もなくて来たことはなかった。
今回初めて足を運んで出てきた感想はこれ。
「図書室っていうか迷路じゃん」
1人で入ったら出てこれなくなりそうだよ。
動線なんて考えられてないような棚の配置のせいで、迷宮のような様相をしていると言っても過言ではない。
なんでこうなってしまったんだろう。
床にも本が積まれていて、これらは仕舞わなくていいのか心配になる。
「近江よく来るの?」
奥へ進んでいく足取りに迷いがないように見える。この迷路でよく戸惑いなく足を進められるな。
「1回だけ探索しに来た」
「探索……」
図書室に行くことを探索とは普通言わない。でもその表現が間違ってると感じないんだからたしかにふざけている。
「いつしたの?」
「3、4日前? 朝登校して教室に行く前にした」
最近じゃん。いつの間にだ。
「どう? 探索する?」
「朝でしょ? 厳しいよ」
「残念」
誘いに乗ると思ってなさそうな「残念」が返ってきた。
楽しそうだけど起きれる気がしない。朝じゃなければぜひと思う。
その後、近江の背中を追いながら何度か角を曲がり、遂に行き止まりに直面した。
行き止まりには、棚と棚の隙間に隠されるようにベンチが押し込まれている。背もたれがないベンチだけど壁があるから寄りかかれるな。
すぐ側にカラーボックスがサイドテーブルのように配置されていて少しブックカフェっぽい。結構快適そう。ただし図書室内での飲食は禁止だ。
「ここが近江が見つけたところ?」
「いや、ここじゃなかったんだけど」
人目につかず、静かで秘密基地のような感じもある良いところだと思った。だけど目的の場所ではなかったのか。
「辿り着けなかった」
絶対に配置が変わってると、眉間に皺を寄せて悪態をついた。悔しそうだ。
スイスイ進んでいたから全然感じなかったけど、近江も道に迷っていたんだな。
床に本が置かれてるのは迷路の更新でもしていたからだったのかな。なんのための更新なのか、なぜ必要なのか謎だ。
「でもめっちゃ良い感じだよ、座ろ」
「うん」
仕方なさそうな声色だ。
偶然にしては良いところをゲットできてるよ。近江は探し物とかも得意そうだ。
おれはノートを写す続きをするために、近江はその辺に置かれている本を手に取って、ベンチに腰掛ける。
濃い焦げ茶の木製のベンチが新たな居場所になってくれるかもしれない。
でもまさか屋内にもあるなんてな。
狭い通路を塞ぐように、ど真ん中にアンティーク調の立派なロッキングチェアが置いてあったりもした。
正直めっちゃ気になったけど、先客がいたので素通りした。
おれなんかより全然面白いものがたくさんある。
おれなんかに話しかけてないでみんな学校の探索をすればいいんじゃないかな。
でもおれも近江に連れてきてもらう今の今まで知らなかったんだから、他の人も知らないのかな。こういった面白いものがあることを。
学校側に主体性を試されているのかもしれない。探せばなんでもあるし、やろうと思えばなんでもできるよって。
ひとまずノートと中間テストに向けての勉強をしないといけないと、集中する。
中間テストを言い訳に使ったが、言い訳だけじゃなくて本当にやらなきゃいけないことだ。おれは地頭がいいのではなく、悪くはないって感じだから勉強しないと点数は取れない。
紙を滑るペンの音とページを捲る音だけを響かせ、られなかった。
再開して早々に例題の答えが合わなくて、手が止まった。
公式は合っているはずなのに、答えを見ると合っていない。合ってないってことはやっぱり公式が間違ってるのかな。
数学の進みが早くて手を抜いたらすぐ置いていかれそう。
まだ決してついていけてないわけじゃない。例題5問のうち4問は正答だ。大丈夫。じゃあなんでこの1問だけと教科書と借りたノートを見てミスを探すが、お手上げ。
諦めて聞こうと顔を上げたら、近江がこっちを見てた。
「あ、えっと、どこ間違ってるかわかる? この問題だけ答え合わないんだけど、何がダメなの?」
ちょっと驚いた。ずっと見られてたのかな?
近江とよく目が合うんだよな。おれがよく見てるのもあるんだけど、近江にも見られてる気がする。メガネの奥から向けられる視線は結構強い。
その視線に何故かドクリと心臓が跳ねた。
も、もしかしておれが近江の顔が好きなように、近江もおれの顔が好きなのか……?
「あぁ、ここ計算間違ってる」
「え、あ、うーんと」
近江の視線がおれからノートに移って息がしやすくなった。
おれもノートへ目を移して指摘されたところを計算し直す。見落としのないようにゆっくりと端折らないように。
最後までやって、もう一度答え合わせをすると今度は正答に辿り着いている。
「うわ……、ほんとだ。引き算って難しいよね」
「わからんでもない」
「嘘つけ」
絶対今のは嘘。そんなわかりやすい慰め笑っちゃう。
繰り下がりもない引き算で間違えるなんてミスやらないでしょ。途中の計算が5-3=3になってるなんて自分でもびっくりした。
慰められるのは悪い気しないけど、このタイミングでその発言はやっぱり慰めでしかない。でも愉快であるのも確かだから声出して笑っちゃった。
近江が「俺だってケアレスミスするけどなぁ」なんて肩を揺らすと、一緒にピアスに微かに反射した光も揺れた。
それを楽しい気持ちのまま眩しく感じていたが、はたと気づく。
まだピアスを開けたばかりでホールが安定していないから、これはただの傷だ。
「ねぇピアス、調子どう? ピアスというか耳かな? なんともない?」
ピアスと耳には触れないように手を伸ばす。耳に少しだけかかった髪を払って近江の耳の状態を確認する。
見た目には異常はなさそうだ。
自分のことにいっぱいいっぱいで気を配ることができていなかった。
「特に、なんともないな」
「痛みとかは?」
「ない」
ホッと息を吐いて胸を撫でおろす。良かった。
自分の体が丈夫過ぎて、健康過ぎて、怪我とか病気とか、その気持ちとかあんまりわからないんだよな。
「軟骨は安定まで時間かかるだろうから当分は気をつけてね。消毒もちゃんとやってね」
「開けてからがちょっとめんどくさいな」
「そうかも」
おれも一応腫れないようにとかやったにはやったので、めんどくさいという気持ちは理解できる。
「定期的に確認してくれるとありがたいんだけど?」
「アフターケアも怠らないよ」
ヘリックスを開けるのを決定したときのように少し挑発の入った言い方をされる。おれも負けじと言い返す。もちろんやらせていただきますとも。
提案して、近江の耳に穴を開けた者の責任だ。気を配るのを忘れないようにしよう。
ただ実際に何か異常が出たらおれにできることなんてないから、速やかに病院へ行くことを勧めるけど。
「そういえば更科たちに何か言われた?」
自分の髪色のせいで、ピアスのことは忘れていた。更科たちも話題には出さないし。
近江の耳に伸ばしていた手を引くと同時に、前のめりになっていた体も引く。元の体勢に戻してからちょっと近かったかと気づいた。距離感気をつけないと。
「マジで開けたのかって、でも江間の髪色ほど驚かれなかったな」
「そっかー」
近江がピアス開けたことがあまり話題に上がらないのは良いことなのか。
ただ美形に拍車をかけただけじゃんって思ったけど、そんなに周りは気にしないものか。
そういえばおれもたくさん開けたままだ。でも話しかけられた。髪が派手じゃないとピアスの効果は半減以下らしい。過信しすぎていた。ただのアクセサリーに。
髪色を変えてからピアスを開けているから、すごい効果があるように錯覚したのかな。
されどもさすがはアクセサリー。
ピアスは本来の意図通りに耳元から近江を飾っていてすごくかっこいい。
「江間が綺麗に開けてくれたんだって自慢はした」
「実は自分でもいい出来だと思ってた」
自慢するなんて、少なくとも開けたことを後悔してなさそうだ。
「更科が羨ましがってたから強請られるかもな」
「任せてって言いたいけど、なんか佐々木にため息つかれそうだなー」
「あぁ、わかるかも」
小さく肩を揺らして笑うから、マスクをしていても近江の表情というか感情がわかる。それに最近はマスクしてても表情が想像できるようになってきた気がする。
重たいメガネにマスクをしているのに。好みだと思った素顔はほぼ隠れているのに。
おれは今の状態を見てかっこいいって思った。なんでそう思ったんだろう。
なんか、おかしいかも。
