近江がマスクを外すまでに、

「あれ? えっ! 江間くん?」
「え?」
「あっ江間くんおはよう! そっ、その髪どうしたの?」

 教室まであと数メートルのところで名前を呼ばれた。
 声がした方につい振り返って足を止めると、クラスメイトの、胸の下辺りまである真っ直ぐな黒髪の女子。
 名前なんだっけ。更科が言っていたはず。元瓶底メガネは、この子じゃない。その女子と一緒にいた子だ。

「おはよー。前に髪染めてから時間経ってたからね」

 内心が表に出ないように気をつけて返事をする。

「そっ、そうなんだね。黒髪かと思ってびっくりしちゃった」

 うん、わかる。パッと見だと黒っぽい。
 寝ぼけ眼で鏡見て、自分で自分に驚いて目が冴えたくらいだよ。

「今回は青色なんだね」
「春色から涼しげな色になったんだ」

 おれより10cmくらい小さい背に、華奢な肩。下から見つめられる視線。
 気づかれないように半歩足を引いて距離を取る。体重を移動して姿勢を変えたように見えるだけ。
 気にしないようにと思っても、女子に好意の孕んだ目で見られると心が急にざらついて、焦燥感のようなものが湧いてくる。自分ではどうしようもない。
 女子受けする顔を使って、優しい感じを意識して、踏み込まれないように誤魔化す。
 バカみたい。上手い躱し方が他に何かないのだろうか。

「たしかに最近もう暑いもんね。季節感意識して変えてるんだねっ」
「んー、最近はそういうことが多いけど、たまたまだよ」

 この子に前に1回話しかけられただけで、それ以降はこの子にも、他の女子からも声をかけられることはなかった。
 物珍しい派手な髪色と、遅刻癖に、近江たちと話すようになって固まって行動して。話しかけにくい雰囲気が出ていたんだろう。話しかけてほしくないオーラも出ていたかもしれない。
 そのおかげで視線から逃れられていた。

「そうなんだ? でもそっ、その髪色もかっ、かっこいい」
「あはは、ありがとう」

 母さんに2回確認されたのはこれ(・・)か。忘れてた。
 廊下で足を止めて話し始めちゃったから、この女子からの視線以外も感じる。今日は1限から2限の間の10分休憩中に学校に着いたから廊下にまばらに生徒がいる。
 広い世界ならどんな格好をしてようとおれなんて気にされない。でも学校とか狭い世界だとそうじゃない。たかが髪色で視線を集めるし、その内容もガラリと変わる。
 髪色を派手にしたとき、好意や恋愛感情のような視線は、マイナス方向の視線に変わった。今回は髪色がパッと見黒に見えるような比較的落ち着いた色になったから、その逆が起きているのかな。
 まぁ髪の色がガッツリ変わっていれば注目の的になるのは仕方ないか。
 せめて教室の中ならよかったんだけどな。そうすれば他のクラスの人からも見られなることはなかったのに。
 暗い色は失敗だったかなー。この感覚忘れたままでいたかった。

「江間?」

 不意に耳に馴染んだ声が聞こえて、パッと顔を上げる。

「あ! おはよー」

 近江が教室の中から、体を傾けて少し乗り出すようにしてこちらを見ていた。
 連休前に言っていたとおり制服に戻ってる。おれが開けたピアスを付けてるのも目に入って下降しかけた気分が上がってくる。
 そちらに駆けていこうとして、あっ、と踏みとどまる。

「速水さん、またね」

 話していた女子にひらひらと手を振って、断りをいれる。最後に名前がスッと思い出されて声に乗って出てきた。この子が速水さんで、元瓶底メガネが鷲尾さんだ。

「近江おはよ」
「おはよ。本当に変えたんだな」

 小走りで教室に入りもう1回挨拶をして、自分の席に座る。
 近江に会ったらどんな反応されるのかが楽しみで、変て思われたら少しい悲しい。だけどそれもきっと面白いと想像しながら登校して来たんだ。
 やっと教室まで辿り着いて話ができる。

「え! 江間髪の毛! 一瞬黒かと思った!」
「更科もおはよ、黒ではないよ」
「だな! 近くで見ると結構しっかり青色だ」

 あ、おはよう! と付け足された。
 やっぱりそう見えるんだな。
 振り返ってチラリとおれの髪を見た佐々木も会話に参加してくる。

「天辺が大分黒くなってたからか」
「うん。桜の時期も過ぎたしピンクは終わり」

 冷静に分析された。地毛と色の差があるから根元が伸びると目立つよね。
 廊下側の2列、後ろの席4人で固まって話をするのが日常の一部になってきているように思う。

「近江に暗い色見てみたいって言われて今回はネイビーブルーになったんだ。どう?」

少しだけ緊張しながら、平静を装って流れるように自分から話題を振って聞く。

「その色も似合ってる。反映してくれたんだな」
「明るいのも暗いのも似合うなんてさすが江間!」
「ほんと? よかった。そう言ってもらえると嬉しい」

 すぐに似合ってるって言ってくれた。お世辞でも嬉しい。
 緊張のドキドキから嬉しさのドキドキに変わる。
 相変わらず近江の表情は重たいメガネとマスクのせいでわかりにくい。しかし目元だけでもわかることはあると、メガネの奥までちゃんと見るようにする。これは、微笑んでる。願望かな。
 たったひと言でこんなに気持ちがあたたかくなる。心臓はドキドキ言ってるけど、気分的にはすごく穏やかだ。
 佐々木は、何も言わなかったし頷かなかった。たぶんおれと同じように違和感あるとか思っていそうだ。うん、やっぱりそれはそれで面白い。こう思えるのは近江と更科が似合ってるって言ってくれたからだよね。
 速水さんと同じようなやりとりしてるのに、近江たちとの会話はすごく楽しい。視線も言葉も素直に受け止められる。
 近江と更科も佐々木とも、友人関係が築けているのかもしれない。

「俺は希望の色見れて満足だけど俺が言った色でよかったのか? 想像以上に暗い色になったな」
「うん、せっかく提案してくれたんだから。違和感はめっちゃあるけどね」

 実際は暗い色にしたの失敗したかなと思った。でも似合ってるって言われてそれも吹き飛んだ。近江に話しかけられただけで気分が上昇する。

「ま、実はインナーカラーは派手なままなんだよね。おれ母さんの練習台だから」

 ほら、と耳の後ろ辺りの髪を掻き上げて見えるようにする。暗い色にしっかりと隠されてるけど、十分明るい色が存在している。
 基本的に自分で持ち上げるか、風が吹くかしない限り見えない。

「エメラルドグリーンだって」
「っあぁ、本当だ。綺麗だな」
「マジだ。江間っぽくて安心した!」

 明るい髪色の方が見慣れていて、おれっぽいという言葉に同意する。

「でしょ。母さんに褒められたって伝えておく」

 綺麗な色だって伝えたらまた自信満々の表情で「当然だ」とか言うんだろうな。
 似合ってるって言ってくれたってことも報告してみようかな。
 後になって、このことを何度も反芻していることに気づいて、ちょっと恥ずかしくなった。