現在午前9時ちょうど。高校に入学して最初の授業、1限目の数学が始まった、だろう。たぶん。今まさに玄関のドアを開けて家を出ようとしているおれには、予想しかできない。
 起きた時点で遅刻が確定していたが、慌てることも急ぐこともない。
 寝癖のついたピンクベージュの髪は綺麗に整えたし、両耳にたくさん開いているピアスもつけっぱなし用のボディピアスからお気に入りのピアスに付け替えた。
 母さんが用意してくれていた朝ごはんもちゃんと食べて、まるで遅刻なんてあり得ないかのような支度っぷり。
 そうしてごく普通に学校へ出発する。

 遅刻が確定しているのに優雅な登校ができている理由は、これから通う高校には校則がないから。遅刻をしてもサボってもお咎めなし。服装も自由なので髪色が派手でも、もちろんお咎めなし。
 朝起きれないこと、髪色が派手なこと、ピアスがたくさん開いていること。
 一般的な校則のある高校に通うには、おれのこの3つは十分問題だった。
 髪もピアスも自分のためにし始めて、今のところやめる気はない。先生に毎回のように指摘されるのもしんどいし申し訳ない。
 だから校則なしはありがたかった。
 この3つ以外は真面目だと思う。これらが揃っていれば不真面目、不良と言われても反論は難しいけど。
 それでも勉強が嫌いではないし、苦手でもなかった。県で2番目に偏差値の高い公立高校に合格できる程度には。
 ただ校則がないからといって、出席日数を気にしなくていいわけじゃない。カウントはちゃんとされる。
 自律性を重んじるとかなんとかって、自分の行動の責任は自分で持つって校風。
 だから今おれが遅刻してるのも自分の責任ということで。朝起きられない問題は、どうにかする必要はある。
 スマホのアラームの設定をいろいろ変えて起きれないか試しているが、うまくいっていない。今日は5分ごと1時間にわたって設定してあったんだけどな。アラームが鳴ってる横で寝てた。ほとんど聞こえてないということだ。
 すんなりじゃなくてもいいから、なんとか時間通りに起きられる自分にあった方法はないものか。スマホのアラーム以外に目覚まし時計もセットするのに、役に立ったことはない。
 中学の途中から遅刻が日常になっていて、もうため息も出ない。昔はもう少し起きれたような気がするが都合よく記憶を改竄してるのかな。
 さてどうしたものかと一応悩んで、新たな方法は目下検討中。

 通勤通学ラッシュを過ぎた電車内でもあえて座らず、手すりに体重をかけてぼーっとしながら揺られる。
 覚醒しちゃえば眠くはない。でも覚醒するまでが時間かかるんだよなーなんて取り留めのないことを考えていると、ポケットの中でスマホが震えた。

『いい加減起きたか?』

 スマホを取り出し画面に視線を落とす。
 送られてきていたのは遠慮のない言葉。母さんからの諦めの入った確認のメッセージに苦笑する。
 母さんは毎朝1回だけ声をかけてくれる。この声も聞こえていたり聞こえていなかったり。聞こえていても起きれないんだから、放置されても仕方ない。起きるまで起こすとなると忙しい母さんには時間が足りない。
 メッセージアプリを開いて、起きた、学校に向かってる、と返信を打とうとして、ポコポコと吹き出しが増えていく。

『昨日の夕飯も美味しかった。でも野菜増やせ』
『ちゃんと学校行けよ』
『いってらっしゃい』

 向こう側で既読がついたんだろう、おれが起きているとわかって連投される。
 少し考えて、善処する、とだけ返信をしてスマホをしまい電車を降りた。
 電車内と同じように人通りのまばらな通学路を進み、やっと学校に着く。慣れない通学路に加え、ぼんやり歩いていたせいか学校に着いた時点で2限目が既に始まっていた。
 校門をくぐってまず目についたのはベンチでお喋りしてる生徒らしき人。堂々としてる。高校を決めるときに調べた「授業サボっても怒られない」って口コミがあったのは本当なんだな。
 平然と遅刻してるおれが言うのもなんだけど自由だ。
 授業が始まった廊下はさすがに人がおらず、自分の足音だけを響かせながら4階にある1年5組へ向かう。授業をしている教室の横でサボる強者はいないみたい。
 教室の後ろのドアに手を掛けて一呼吸。
 あまり音を立てないようにゆっくり開けていくと、バチッとメガネの奥の瞳と目が合った。
 廊下側、1番後ろの席に座っているやつがこちらを見ていた。ドアのすぐ側の席だから驚かせちゃったか。

「おはよ」

 小さめの声で挨拶をしつつ、ひらひらと手を振ってみる。

「……」

 少しの間の後、軽く手を挙げてくれた。手首のスナップだけでおれの手の振りに応えてくれた。
 メガネと不織布マスクのせいで表情が見えないから、何を思ってるかはわかんないけど。反応してくれたのがなんか嬉しい。

江間(えま)だな? 授業受けるならさっさと座れー」
「あ……、はーい」

 先生に声をかけられて手を振るのをやめ、席に着く。廊下側、後ろから2番目の席。教室に入って1歩のところ。目が合ったやつの前の席。
 座る直前にクラス全体をぐるりと見回してみた感じ、ほとんどが私服だ。ちらほらジャージがいて、隣の席のやつもそう。
 制服で登校してるのはおれと、おれの後ろの席のやつだけっぽい。
 目が合った、後ろの席のやつ。長めの前髪と重たい感じのメガネの奥に見えた、くっきりした二重瞼と意志の強そうな目。しっかりと目が合わなければ、重たいメガネに阻まれてきっと気づかなかった。
 もうちょっと見ていたかったなー。アンバランスさが印象に残って、簡単に目に浮かぶ。
 話したこともないのに2秒くらいがっつりと見つめ合ってそんなこと思うなんて。変かもしれないと心の中で笑う。
 
「江間。10ページ頭から読んで」
「はーい」

 現代文の教科書を開き、思考を切り替える。幸いまだそこまで進んでいなかった授業の内容を追っていく。
 
***