検査と言うことから病院なのはわかった。
けれど、診察券はないし、保険証もない。ケータイに電話したけれど、繋がらない。メッセージを送っても既読にならない。
家を飛び出したものの、行く当てがなく、途方に暮れ、結局思いつくところと言えば、彼の大学だった。
病院は分からない。しかし、病院前に大学には行ってるかもしれない。もしくは、大学に戻ってくるかもしれない。
俺は大学前にある大型のチェーン店カフェに入り、ちょうど校門前に面しているカウンター前の席を取った。
『葵、少し話したい事があるから、連絡して。できれば、早めに』
そうメッセージを打ち込んでから三十分は経過していた。しかし、一向に既読のマークはつかないし、大学に出入りする人間に彼の姿も見えない。
俺は被っている黒のキャップを少し深めに被り、つばを引いた。冷静な頭で考えれば考える程、あのメモをずっと読んでいたと葵が知ったら幻滅するかもしれない。しかもその結果その書かれている事を、これから俺が質問攻めするのだ。
よくよく考えてみれば、彼から何かを言い出すのを待っていた方が良かったのではないだろうか。少なくとも葵が俺を思って、隠れてあの小さな日記をつけていたに違いない。俺には吐露できない本音を、何かの覚悟と共に書き綴って、堪えてくれていたのかもしれない。
メモの端々から伝わってくる愛情。あれを信じて、俺は待つべきだったのかもしれない。
俺はぐっとキャップのつばを引いて、顔を隠した。そうでもしてないと、情けない顔が、ガラス越しに映って耐えられそうになかった。
俺は汗をかいたアイスコーヒーのグラスを掴むと、ストローを抜き取って、グラスに口をつけて一気飲みした。全てを飲み干すと、からからと氷の乾いた音がグラスの中で響く。
すると、不意にケータイが着信を知らせて来た。テーブルの上で震えるそれを手に取って確認すると、マネージャーからだった。
一気に落胆して、それでも俺は電話に出た。
「もしもし」
「あなた何処にいるのよ!」
開口一番の叱責に、思わず顔を歪める。
「早く戻って来て、もう時間ないわよ!」
「悪いけど、今は無理。絶対無理。ごめん」
俺はそれだけ伝えると、彼女から着信を切り、拒否設定にかけた。
社会人として失格だ、と、どこか他人事で思いながら。けれど、今は何においても葵を優先させたかった。
彼を失うわけにはいかない。
『今学校だよ。どうしたの?』
ケータイを見つめていると、葵からのメッセージが浮き上がった。俺はとにかくと、彼に電話を掛けた。
「ごめんね、授業中だった」
「いや、いい。それより、今から会えないか?」
「今から?」
心臓が妙に早く脈を打つ。俺は開いた手を開いたり閉じたりを繰り返して、落ち着け、落ち着けと、心の中で何度も唱えた。けれど、体中から汗が噴き出すように、身体が冷えたり熱くなったりを繰り返し、体内をめちゃくちゃに荒し始める。身体中の血が台風に飲まれた海のように荒立つ。
せめて声だけでも震えないようにと、深呼吸を繰り返した。
「会いたいんだけど、これから少し用事で」
「授業?」
「いや、違うんだけど……」
「俺も行っていい?」
俺は努めて明るく言い放った。
明らかな沈黙が会話を埋めた。戸惑う声すらも聞こえず、かと言って俺も何も言わず、二人で時間を止めてしまった。
「……ごめんね、それは」
ようやく絞り出すように、葵が呟いた。
「ああ、うん……だよね」
焦り過ぎたと俺は、片手で額を覆い目を閉じて、落ち着け落ち着けと繰り返す。明らかに今の俺の行動は、葵にとっては異常に思えるだろう。それではいけないのだ。
自然と彼に会う方法を見つけなくては。
話は全てそれからだ。
一つ一つの事柄を整理するように、自分自身に言い聞かせると、俺は目の前の車道を流れる車や、目の前を歩いていく人波を目で追いかけた。女子高生やケータイ片手のサラリーマン、OLやバギーを押す子連れの若い女性。道路の脇に植えられたプラタナスの木々の木漏れ日の下を、穏やかな空気を纏って、ゆったりと流れていく。
日常だ。
まるで俺と彼らとでは、時間の流れの速さが違うように見えた。
「何かあった?」
声を潜めるようにして、葵が慎重に呟いた。
「……うん、ちょっと」
俺はずるい考えを思いついた。
「仕事は?」
「逃げて来た」
俺の言葉に、葵が息を飲むのが分かった。今まで一度だって仕事を歩檻出すことはなかったし、世の中において、信頼というものがいかに大事かというのは、俺も葵も重々承知だ。
「どうしたの?」
「会いたい」
情けないのは百も承知だった。
こうして弱い部分を見せつけて、おびき出そうという浅はかな魂胆が丸見えなのは、俺自身が良く分かっている。けれど、今の俺にはそれ以外の方法が、どこにも見つけられなかったのだ。
「今どこにいるの?」
「……葵の大学前のカフェ」
そんなところにいるの? 驚いたような彼の声音と、背後から聞こえるざわめき。がたりと大きな音が聞こえて、
「今から行くから待ってて、五分で行くね」
そう言うと、ケータイの通話が切れた。俺はスマホをカウンターテーブルの上に滑らせると、肘をついて両手で顔を覆った。
我儘な女も目を当てられない程の、駄々を捏ねてしまった。情けなさ、羞恥心、申し訳なさ。全てが入り混じって、後悔が押し寄せてくる。けれど、その中に交じって、久々に彼に会えるという期待が砂の中のガラスの欠片のように輝いてそこにあるのを感じた。
言葉の通り、葵は五分もしない内に店内の自動ドアを潜り抜けて、俺の元へと走って来てた。息切れして俺の前に来る彼を、力いっぱい抱き締めたくなる。その細い腕の中で甘えたくなる。俺はそれをぐっと腹の底に抑え込むと、
「悪い」
と謝った。葵はそんな俺をじっと見つめてから、ゆるりと軽く頭を一度振った。窓ガラスから降り注ぐ陽を受けた彼の髪が、茶色く透けて、白い肌を一層引き立たせている。
俺はこんな時まで、葵に見とれている。
皆は俺が綺麗だとか何とかとはやし立てるが、そんな事は些細なただの顔の造形に過ぎない。愛おしい人の顔というのは、造形ではない、内側から滲み出る美しさや愛らしさがあるのだ。
俺の世界で葵しか持ってない、綺麗と可愛いがある。彼を見るたびにそれを何度も自覚した。
彼は俺の隣に腰を掛けると、
「マネージャーさんは?」
と、スマホを弄りながら問いかけて来た。
俺の所在を知るには、葵に連絡を取るのが一番手っ取り早い。それをマネージャーも葵も知っているので、お互い連絡先を知っているのだ。彼女に連絡をするのだろう。
小さな画面の上で滑る指先を見つめた。
「着信拒否中」
「もう、子供じゃないんだから駄目だよ。……何かあったの?」
葵の指先が送信前で止まって、俺を覗き込んできた。
お互いの視線が重なり合う。葵の黒目勝ちの大きな双眸が、不安げに揺れているのが分かると、俺は視線を逸らした。
「要、どうしたの?」
母親が子供に問いかけるような優しい声音に、胸の内側の何かが崩れそうになる。最後の理性で踏ん張っているところを、優しく背後から突き落とされるような感覚。
俺はポケットに手を入れて、その中の物を握りしめた。
「……葵、俺に隠し事とかないか?」
俺の言葉に、葵の双眸が一瞬見開かれる。それは突然の問いかけを受けて、無意識に驚いたのか、それとも何か思い当たる事があり、驚いた顔をしたのかは分からない。けれど、確実に後者である気がしていた。
「突然どうしたの?」
「あるのか、ないのか。答えて欲しい」
俺は葵の問いかけに被せて、追いつめた。
沈黙が静かに降りてくると、外から車のクラクションが聞こえた。店内に響く雑音や、グラスのぶつかる音が、妙に騒がしく俺と葵の間に降り積もっていく。
沈黙が長い程、彼の隠し事は色を濃くし、否定しようのない、事実になっていく。早く否定してほしいのに、真実を知りたかった。
今はそれ以外考えられない。
仕事放棄して、これからを放棄して、男としては最低な事をした。ぎりぎりまで見ない振りしたツケがこの現実なのだと思う。
俺は隣に座り、テーブルに置かれた彼の指先を握った。細く、頼りないけれど、これがどれほど自分をどん底から救い上げてくれたか分からない。遅くなってしまったけれど、今は葵の手を離したくなかった。
「……一緒に来てくれないかな」
不意に葵が呟いた。
俺が顔を上げると、
「でも今は仕事に向かって欲しい。俺は要の一番のファンだから」
と、穏やかに微笑む彼がいた。その笑顔は嫋やかで俺が好きな笑顔だけれど、どこか有無を言わせない圧力があった。葵なりの気遣いなのかもしれない。
俺はこれ以上自分の我儘を押し通す事も出来ず、わかった、と頷いた。
「後で一緒に行って欲しいところの日程送るから、合わせてくれる? そんなに時間かかる事じゃないから」
そう告げる葵の表情や声音は落ちつた様に柔らかく、同い年とは思えない程、今までよりも大人びてもいた。まるで自分が聞き分けのない、ただの駄々っ子に思えてきて、俺はただ柔らかい圧力の中、疼く以外の事が出来なくなってしまう。
「じゃあ今は帰れるよね? マネージャーさんに心配かけたらだめだよ」
ここまで支えてきてくれた人なんだから。
葵に言われて、今更のように実感する。
そうだ、彼女が居なければ仕事はなかったし、俺と同じくらいに仕事を頑張ってくれる人なのだ。
少しだけ冷静になった頭で頷くと、
「あとで、謝っておく」
思わず言葉にして、頷いていた。
「うん、そうして。……それじゃあ俺はもう行くから、また連絡するね」
そう言うと、彼は足早に店を後にした。送るよ、と申し出ると、行く場所があるだろう、と釘を刺され、俺は浮かしかけた腰をすとん、と椅子に戻した。
窓越しに去って行く彼に手を振りながら、内心行かせたくない、ついて行きたいという気持ちを押さえつけて堪える。きっと、母子家庭で母親が夜の仕事に行くのを見守る、子供はこんな気分に違いない。
名残惜しく彼の背中が見えなくなるまで見送ってから、マネージャーに連絡を取ると、予想はしていたが、案の定女なのかと疑いたくなるほどの怒声が飛んできた。
いくつかの小言を聞いてから、今から迎えに行くと言われて、乱暴に通話を切られると、これからのお叱りや申し訳なさに溜息が零れた。全て俺がやった事だけど。
大人しくテーブルに残った水っぽいアイスコーヒーを飲み干して、氷もなくなった空のグラスを前に、俺は机に肘をついて頭を抱え込むと、乱暴に頭を毟り掻く。
葵があれだけ真面目について来て欲しいという事は、大事なことに決まってる。いつだって俺には仕事を優先させるように言ってくる葵が時間を作って欲しいなんて、いくら俺が半分脅しのような事をやったにしろ、珍しい事だ。しかもあの雰囲気からして十中八九良い事なんてない。下手すれば別れ話かもしれない。
考えるだけで別れる理由なんて、いくらでも出てくる。心当たりがあり過ぎて、どれが正解なのか分からない程だ。
しかし、それは絶対に避けたい。
俺にとっての運命の番は、葵以外に考えられない。彼がどう思っているか分からないが、お互い好きな仕事をして、いつかは家庭を持ち、末永く幸せに暮らすという、少女漫画並みの夢が俺にはあるのだ。
「ああもう、くっそ……」
思わず言葉が漏れてしまう。
今までの行いを巻き戻して一瞬一瞬を修正できたら、どんなに良いだろう。俺は非の打ちどころのない、葵の自慢の番になれたのに。
けれど現実はそんなに甘くない。
そんな事を考えていると、不意にスマホがテーブルの上で微かな振動を伝えてくる。顔を上げると、目の前に見慣れた黒い車が止まっていた。
俺は重い腰を上げてコップを返却口に戻すと店内を後にした。
初夏にも入らない曖昧な、心地良い五月の風が流れて髪を揺らす。柔らかい日差しが街路樹の葉の隙間を縫って、目に差し掛かると、余りにも眩しくて、視界が一瞬白く飛んだ。
葵から連絡がきたのは、その日の夕方の事だった。
けれど、診察券はないし、保険証もない。ケータイに電話したけれど、繋がらない。メッセージを送っても既読にならない。
家を飛び出したものの、行く当てがなく、途方に暮れ、結局思いつくところと言えば、彼の大学だった。
病院は分からない。しかし、病院前に大学には行ってるかもしれない。もしくは、大学に戻ってくるかもしれない。
俺は大学前にある大型のチェーン店カフェに入り、ちょうど校門前に面しているカウンター前の席を取った。
『葵、少し話したい事があるから、連絡して。できれば、早めに』
そうメッセージを打ち込んでから三十分は経過していた。しかし、一向に既読のマークはつかないし、大学に出入りする人間に彼の姿も見えない。
俺は被っている黒のキャップを少し深めに被り、つばを引いた。冷静な頭で考えれば考える程、あのメモをずっと読んでいたと葵が知ったら幻滅するかもしれない。しかもその結果その書かれている事を、これから俺が質問攻めするのだ。
よくよく考えてみれば、彼から何かを言い出すのを待っていた方が良かったのではないだろうか。少なくとも葵が俺を思って、隠れてあの小さな日記をつけていたに違いない。俺には吐露できない本音を、何かの覚悟と共に書き綴って、堪えてくれていたのかもしれない。
メモの端々から伝わってくる愛情。あれを信じて、俺は待つべきだったのかもしれない。
俺はぐっとキャップのつばを引いて、顔を隠した。そうでもしてないと、情けない顔が、ガラス越しに映って耐えられそうになかった。
俺は汗をかいたアイスコーヒーのグラスを掴むと、ストローを抜き取って、グラスに口をつけて一気飲みした。全てを飲み干すと、からからと氷の乾いた音がグラスの中で響く。
すると、不意にケータイが着信を知らせて来た。テーブルの上で震えるそれを手に取って確認すると、マネージャーからだった。
一気に落胆して、それでも俺は電話に出た。
「もしもし」
「あなた何処にいるのよ!」
開口一番の叱責に、思わず顔を歪める。
「早く戻って来て、もう時間ないわよ!」
「悪いけど、今は無理。絶対無理。ごめん」
俺はそれだけ伝えると、彼女から着信を切り、拒否設定にかけた。
社会人として失格だ、と、どこか他人事で思いながら。けれど、今は何においても葵を優先させたかった。
彼を失うわけにはいかない。
『今学校だよ。どうしたの?』
ケータイを見つめていると、葵からのメッセージが浮き上がった。俺はとにかくと、彼に電話を掛けた。
「ごめんね、授業中だった」
「いや、いい。それより、今から会えないか?」
「今から?」
心臓が妙に早く脈を打つ。俺は開いた手を開いたり閉じたりを繰り返して、落ち着け、落ち着けと、心の中で何度も唱えた。けれど、体中から汗が噴き出すように、身体が冷えたり熱くなったりを繰り返し、体内をめちゃくちゃに荒し始める。身体中の血が台風に飲まれた海のように荒立つ。
せめて声だけでも震えないようにと、深呼吸を繰り返した。
「会いたいんだけど、これから少し用事で」
「授業?」
「いや、違うんだけど……」
「俺も行っていい?」
俺は努めて明るく言い放った。
明らかな沈黙が会話を埋めた。戸惑う声すらも聞こえず、かと言って俺も何も言わず、二人で時間を止めてしまった。
「……ごめんね、それは」
ようやく絞り出すように、葵が呟いた。
「ああ、うん……だよね」
焦り過ぎたと俺は、片手で額を覆い目を閉じて、落ち着け落ち着けと繰り返す。明らかに今の俺の行動は、葵にとっては異常に思えるだろう。それではいけないのだ。
自然と彼に会う方法を見つけなくては。
話は全てそれからだ。
一つ一つの事柄を整理するように、自分自身に言い聞かせると、俺は目の前の車道を流れる車や、目の前を歩いていく人波を目で追いかけた。女子高生やケータイ片手のサラリーマン、OLやバギーを押す子連れの若い女性。道路の脇に植えられたプラタナスの木々の木漏れ日の下を、穏やかな空気を纏って、ゆったりと流れていく。
日常だ。
まるで俺と彼らとでは、時間の流れの速さが違うように見えた。
「何かあった?」
声を潜めるようにして、葵が慎重に呟いた。
「……うん、ちょっと」
俺はずるい考えを思いついた。
「仕事は?」
「逃げて来た」
俺の言葉に、葵が息を飲むのが分かった。今まで一度だって仕事を歩檻出すことはなかったし、世の中において、信頼というものがいかに大事かというのは、俺も葵も重々承知だ。
「どうしたの?」
「会いたい」
情けないのは百も承知だった。
こうして弱い部分を見せつけて、おびき出そうという浅はかな魂胆が丸見えなのは、俺自身が良く分かっている。けれど、今の俺にはそれ以外の方法が、どこにも見つけられなかったのだ。
「今どこにいるの?」
「……葵の大学前のカフェ」
そんなところにいるの? 驚いたような彼の声音と、背後から聞こえるざわめき。がたりと大きな音が聞こえて、
「今から行くから待ってて、五分で行くね」
そう言うと、ケータイの通話が切れた。俺はスマホをカウンターテーブルの上に滑らせると、肘をついて両手で顔を覆った。
我儘な女も目を当てられない程の、駄々を捏ねてしまった。情けなさ、羞恥心、申し訳なさ。全てが入り混じって、後悔が押し寄せてくる。けれど、その中に交じって、久々に彼に会えるという期待が砂の中のガラスの欠片のように輝いてそこにあるのを感じた。
言葉の通り、葵は五分もしない内に店内の自動ドアを潜り抜けて、俺の元へと走って来てた。息切れして俺の前に来る彼を、力いっぱい抱き締めたくなる。その細い腕の中で甘えたくなる。俺はそれをぐっと腹の底に抑え込むと、
「悪い」
と謝った。葵はそんな俺をじっと見つめてから、ゆるりと軽く頭を一度振った。窓ガラスから降り注ぐ陽を受けた彼の髪が、茶色く透けて、白い肌を一層引き立たせている。
俺はこんな時まで、葵に見とれている。
皆は俺が綺麗だとか何とかとはやし立てるが、そんな事は些細なただの顔の造形に過ぎない。愛おしい人の顔というのは、造形ではない、内側から滲み出る美しさや愛らしさがあるのだ。
俺の世界で葵しか持ってない、綺麗と可愛いがある。彼を見るたびにそれを何度も自覚した。
彼は俺の隣に腰を掛けると、
「マネージャーさんは?」
と、スマホを弄りながら問いかけて来た。
俺の所在を知るには、葵に連絡を取るのが一番手っ取り早い。それをマネージャーも葵も知っているので、お互い連絡先を知っているのだ。彼女に連絡をするのだろう。
小さな画面の上で滑る指先を見つめた。
「着信拒否中」
「もう、子供じゃないんだから駄目だよ。……何かあったの?」
葵の指先が送信前で止まって、俺を覗き込んできた。
お互いの視線が重なり合う。葵の黒目勝ちの大きな双眸が、不安げに揺れているのが分かると、俺は視線を逸らした。
「要、どうしたの?」
母親が子供に問いかけるような優しい声音に、胸の内側の何かが崩れそうになる。最後の理性で踏ん張っているところを、優しく背後から突き落とされるような感覚。
俺はポケットに手を入れて、その中の物を握りしめた。
「……葵、俺に隠し事とかないか?」
俺の言葉に、葵の双眸が一瞬見開かれる。それは突然の問いかけを受けて、無意識に驚いたのか、それとも何か思い当たる事があり、驚いた顔をしたのかは分からない。けれど、確実に後者である気がしていた。
「突然どうしたの?」
「あるのか、ないのか。答えて欲しい」
俺は葵の問いかけに被せて、追いつめた。
沈黙が静かに降りてくると、外から車のクラクションが聞こえた。店内に響く雑音や、グラスのぶつかる音が、妙に騒がしく俺と葵の間に降り積もっていく。
沈黙が長い程、彼の隠し事は色を濃くし、否定しようのない、事実になっていく。早く否定してほしいのに、真実を知りたかった。
今はそれ以外考えられない。
仕事放棄して、これからを放棄して、男としては最低な事をした。ぎりぎりまで見ない振りしたツケがこの現実なのだと思う。
俺は隣に座り、テーブルに置かれた彼の指先を握った。細く、頼りないけれど、これがどれほど自分をどん底から救い上げてくれたか分からない。遅くなってしまったけれど、今は葵の手を離したくなかった。
「……一緒に来てくれないかな」
不意に葵が呟いた。
俺が顔を上げると、
「でも今は仕事に向かって欲しい。俺は要の一番のファンだから」
と、穏やかに微笑む彼がいた。その笑顔は嫋やかで俺が好きな笑顔だけれど、どこか有無を言わせない圧力があった。葵なりの気遣いなのかもしれない。
俺はこれ以上自分の我儘を押し通す事も出来ず、わかった、と頷いた。
「後で一緒に行って欲しいところの日程送るから、合わせてくれる? そんなに時間かかる事じゃないから」
そう告げる葵の表情や声音は落ちつた様に柔らかく、同い年とは思えない程、今までよりも大人びてもいた。まるで自分が聞き分けのない、ただの駄々っ子に思えてきて、俺はただ柔らかい圧力の中、疼く以外の事が出来なくなってしまう。
「じゃあ今は帰れるよね? マネージャーさんに心配かけたらだめだよ」
ここまで支えてきてくれた人なんだから。
葵に言われて、今更のように実感する。
そうだ、彼女が居なければ仕事はなかったし、俺と同じくらいに仕事を頑張ってくれる人なのだ。
少しだけ冷静になった頭で頷くと、
「あとで、謝っておく」
思わず言葉にして、頷いていた。
「うん、そうして。……それじゃあ俺はもう行くから、また連絡するね」
そう言うと、彼は足早に店を後にした。送るよ、と申し出ると、行く場所があるだろう、と釘を刺され、俺は浮かしかけた腰をすとん、と椅子に戻した。
窓越しに去って行く彼に手を振りながら、内心行かせたくない、ついて行きたいという気持ちを押さえつけて堪える。きっと、母子家庭で母親が夜の仕事に行くのを見守る、子供はこんな気分に違いない。
名残惜しく彼の背中が見えなくなるまで見送ってから、マネージャーに連絡を取ると、予想はしていたが、案の定女なのかと疑いたくなるほどの怒声が飛んできた。
いくつかの小言を聞いてから、今から迎えに行くと言われて、乱暴に通話を切られると、これからのお叱りや申し訳なさに溜息が零れた。全て俺がやった事だけど。
大人しくテーブルに残った水っぽいアイスコーヒーを飲み干して、氷もなくなった空のグラスを前に、俺は机に肘をついて頭を抱え込むと、乱暴に頭を毟り掻く。
葵があれだけ真面目について来て欲しいという事は、大事なことに決まってる。いつだって俺には仕事を優先させるように言ってくる葵が時間を作って欲しいなんて、いくら俺が半分脅しのような事をやったにしろ、珍しい事だ。しかもあの雰囲気からして十中八九良い事なんてない。下手すれば別れ話かもしれない。
考えるだけで別れる理由なんて、いくらでも出てくる。心当たりがあり過ぎて、どれが正解なのか分からない程だ。
しかし、それは絶対に避けたい。
俺にとっての運命の番は、葵以外に考えられない。彼がどう思っているか分からないが、お互い好きな仕事をして、いつかは家庭を持ち、末永く幸せに暮らすという、少女漫画並みの夢が俺にはあるのだ。
「ああもう、くっそ……」
思わず言葉が漏れてしまう。
今までの行いを巻き戻して一瞬一瞬を修正できたら、どんなに良いだろう。俺は非の打ちどころのない、葵の自慢の番になれたのに。
けれど現実はそんなに甘くない。
そんな事を考えていると、不意にスマホがテーブルの上で微かな振動を伝えてくる。顔を上げると、目の前に見慣れた黒い車が止まっていた。
俺は重い腰を上げてコップを返却口に戻すと店内を後にした。
初夏にも入らない曖昧な、心地良い五月の風が流れて髪を揺らす。柔らかい日差しが街路樹の葉の隙間を縫って、目に差し掛かると、余りにも眩しくて、視界が一瞬白く飛んだ。
葵から連絡がきたのは、その日の夕方の事だった。



