ラストノート

 なるべく早く。
 この言葉を使って、一度だって約束を果たした事なんてないのを思い出す。
 俺は倉庫の一室に潜り込むと、積み上げられた段ボールの隙間に足を抱えて座り込む。冷たく固い床に長時間は座ってられない気がしたが、そんなに居座る時間もない。
 俺はスマホを操作して、葵の連絡先を呼び出した。
 画面の数ミリ上を、うろうろと立ち往生するかのように迷っている指先。
 声の一つでも聞ければお互い、少しは楽になるだろうか。それとも、一層葵を寂しい風の吹き荒む縁の際に立たせてしまうだろうか。
 電話を切った時、俺は現場に戻れば人がいるが、葵は俺の部屋で一人きりだ。それが、彼に強い孤独を感じさせる事はないだろうか。
 幾つもの自問自答を繰り返しながら、いつの間に暗くライトの消えた画面の闇に映る自分を見つめる。
 ――俺なんかがそばに居ようとしても、いいのだろうか。
 何の前触れもなくそう己に問いかけて、すぐに止めた。
 膝を折って項垂れると、俺は額をごつごつと膝の山に打ち当てた。
 女々しい考えは止めろ。そんな問いかけはするもんじゃない。俺自身が葵を手放したくないんだ。
 俺はそう自分に言い聞かせてから、心に反動を付けて顔を上げた。勢いに任せるようにスマホの上で指をスライドさせると、立ち上がり葵の番号を呼び出し、通話を押した。立ち上がると、山積みにされている段ボールに寄りかかりながら、丁度目の前にある窓の外を眺める。
 丁度東京湾が一望出来るそこは、高いビルと言う事もあり、部屋はただの倉庫だが、眺めはそこら辺のレストランに引けを取らないほどだった。
 高速道路を走る車のヘッドライトが、流星群のように飛び交いながら回遊し飛び去って行く。濃藍に沈んだ夜空と濃紺の海には境界などなく、海に浮いている何艘もの船がゆったりと瞬いて、移動する星座を作り上げていた。
 美味しい料理はないけれど、葵にも見せてやりたい。
 呼び出し音を聞きながら、ぼんやりとそんな事を思う。
「かなめ?」
 気の抜けた眼差しで外を眺めていると、不意に鼓膜に響いた声にハッとした。
「あ、葵……ごめん、寝てた?」
「寝てないよ、まだ眠くないから、大学の課題やってた」
 課題……。
「邪魔してごめん」
 俺は言葉を迷いながらとりあえず謝ると、葵が電話の向こう側で首を振った気がした。
「声が聞けて嬉しい」
 素直な声音に乗せて呟かれる言葉に、胸の奥がきゅうっと捕まれて苦しくなる。今すぐに抱き締めたい。
「今は休憩中?」
「ああ、少しだけ時間が出来て……」
 俺は足の先で段ボールの側面を軽く蹴ったり、つま先を押し当てたりと、落ち着きない幼稚園児のように言葉の手がかりを探した。
 彼が俺を好きになるような一言が欲しい。
 床や天井に視線を巡らせて探すけれど、そんなものは何処にもなくて、俺は窓の外を見た。一艘大きな遊覧船が、じっくりとしたスピードで右から左へと移動して行くのが見える。ここから見るとゆっくりだが、あの船のデッキに立てば、突風で髪がめちゃくちゃになるのを、俺は知っている。
 そんなどうでも良い事が頭をよぎって、
「……葵に会いたくて」
 どうでも良い事を考えていたら、思わぬ想いが口からぽろりと零れていた。
 ここからの景色、船のデッキで髪がめちゃくちゃになってしまう事、どれもが葵と経験したくて……二人で居たくて。
「葵に会いたい」
 鏡に映った自分が、遊園地で迷子になった子どものような顔で夜を睨んでいる。俺を睨んでいる。
 手を繋いで、離れないように、指を今すぐ絡めていたいのに、窓に映るのは俺だけだった。
「……俺も会いたいよ」
 電話の向こう側で声がした。
「俺もね、寂しいよ」
 優しく頼りない声が、か細く消える。
「……やだな、言わないようにしてたのになぁ」
 態とらしい声が無理矢理笑った。
「言ったら……何か壊れる気がして……」
 途切れ途切れに聞こえる声の狭間の呼吸に、耳を澄ませる。微かに震える空気と喉に、心臓の裏側に針が刺さるような痛みが走った。
「……壊れない、大丈夫」
 葵に向かって放つ言葉なのに、己への暗示にも聞こえた。
 壊れない、壊れるものなんて俺達の間には何もない。壊したりなんてしない。
 記憶に浮かんでは消えて行く、あの日記達を思い出して目を閉じた。
「壊したりなんか、絶対にしないから」
 手を伸ばして触れたガラス窓は冷たくて。
「ごめん……」
 葵の声が明白に震えていた。
 突き刺さった張りが杭になり、心臓を引き裂いて行く。
 違う、こんな声が聞きたかったわけじゃない。
「葵、俺……っ」
「要、時間だよー」
 無情な声がドアの開く音と共に響き渡る。
 ハッと顔を上げると、マネージャーと目が合って、手招きされた。
「頑張って、待ってるよ」
 空気を察したのかマネージャーの声が聞こえたのか、葵が別れを切り出す。
「要、早く」
 急かされるのに、通話が切れない……切りたくない。葵、葵と、心臓が叫んでいた。
「絶対すぐに帰るから」
 俺はそれだけを伝えると、目を瞑って通話ボタンを切った。
 ケータイをポケットにねじ込むと、俺は急いで部屋を出た。