ラストノート

 目が覚めると、耳を劈く着信音が視界よりも先に、聴覚を刺激してきた。慌てて飛び起きると、
「マネージャーさんからだよ」
 俺のケータイを手にした葵がいた。
「おはよ」
 そう言いながらゆったりと微笑むと、俺にケータイを手渡し立ち上がり、
「朝ごはん作るね」
 と、玄関のそばにある一口コンロと小さなシンクしかない台所にペタペタと歩いていく。俺はその小さな後ろ姿を見送ってから電話に出る。
「あ、起きてた。良かった良かった、八時に迎えに行くからね」
 彼はそう言うと、あっけない程の清々しさで電話を切った。俺はケータイを手放すと、ふっと視線を巡らせ、ローテーブルを見た。飲みかけの珈琲が入ったマグカップ以外何もない。
 あれは、夢だったのだろうか。
 俺は頭を掻いて立ち上がると、葵のいるキッチンに向かい、背後からその薄く小さな身体を抱きしめた。強く力を籠めたら簡単に折れてしまいそうな体躯。頬に髪を擦りあてると、昨日感じた甘い香りが漂ってくる。
「火使うから危ないよ?」
 子供を叱るかのように優しい声音で窘められる。俺はそれを曖昧な返事で避わすと、ゆっくりと腕に力を込めて、細い腰を抱きしめた。
 離したくない。
「どうしたの? 疲れた? あんなところで寝ないで布団に入ってくれば良かったのに」
「起こすと思って……」
 そう言うと葵はくるりと俺へと振り返り、大きな瞳で見上げてくる。俺より少し小さい手が、俺の髪を乱暴に撫でた。
「起こして欲しかったな」
 そう言って背伸びする葵からのキス。
 柔らかくて、触れるだけの、穏やかな、薄いカーテン越しの光のようなキスは、胸の中でこびり付いた不安を、爪先でかりかりと優しくはぎ取ってくれる。
 やっぱりあのメモ帳はなかったんだ。
 そう確信しながら、俺は唇を重ねたまま、角度を変えて彼の唇を深く貪る。
 舌先が触れ合った時、葵の手がしっかりと俺の首に回って、引き寄せられた。
 しかし、夢は悪夢として、現実へと地続きしていた。
 俺があのメモ帳と再会したのは、久し振りのオフが出来た朝だった。午前中だけだが、少しでも長く葵の隣を独占できるのは久々で、俺は多少なりとも地に足がつかないような心地だった。
そんな幸せの中の不意打ち。
 笑顔で谷底に落とされたのは、顔を洗いに行った葵に、タオル忘れたから取ってと頼まれ、クローゼットを漁っている時。それは彼が愛用しているジャケットから少し顔を出して、俺を伺うようにただそこにあった。
 夢じゃなかったのか。いや、まさか。
 タオルを置いて、俺は「ちょっと待ってて」と葵に声を掛けてから、その手帳に手を伸ばした。自然と指先が震えて、落としそうになってしまうのを堪え、ゆっくりとページを捲る。
まさかな、という気持ち三割と、絶望に似た気持ち七割が鬩ぎ合う。けれど、計算から弾き出された簡素な戦などの結果はすぐに勝敗がつく。
俺は見たことある羅列に、視線を這わせた。

『四月十四日
 要が好きだと書いたら、昨日よりも好きになってしまう。だから、帰って来てくれない彼の悪口を書いたら、嫌いになれるのかと思ったら、そうでもない。
 どうしたら、この気持ちを止められるのだろう。』

『五月二日
もうすぐ、メモ帳が終わってしまう。
さよならはもうすぐそこまで来ているのに、最近「番になろう」と言ってくれた彼の顔が頭から離れない。
思い出すたびに嬉しくて涙が出そうになるのに、どうしてもそれはできない。
会いたい。』

 ーー何故だろう。
 俺は残り空白の一ページを捲って額にメモ帳を擦りあてた。
 どうして、どうして、どうして……。
 意味が分からない。
 どうして彼は別れをこんなに強く決意しているのだろう。
 喉の奥がきつく締まって、俺は勝手に転がっていく運命を傍観していた。どうにか彼の心を引き留める手立てはないのだろうか。
 もっと仕事を減らして、彼のそばに居ればいいのか。葵は俺に何をして欲しいのだろう。俺は何をしたら彼のそばに居られるのだろう。
 彼の大好きな飲み物のシーエムも、彼が好きな小説原作の映画の主人公役も、葵がいなかったら意味がない。
「要、まだー?」
 呼ばれて弾かれるように顔を上げると、俺は慌てて元のポケットにメモ帳を仕舞って、タオルを持ってかれの元へと急いだ。
 秘密を見てしまった罪悪感と、一秒ずつ転がって行く別れの結末に、胸の中がもやもやと薄膜を張ったように、どこか現実を遠く感じる。
「ごめん、久し振りだったから迷った」
 そう言いながら、タオルを手渡すと、葵はそれで濡れた肌を拭い、
「ありがと、そう言えばこんなゆっくりした朝も久しぶりだね。なんか嬉しい」
 彼はそう言うと何の疑いようもない笑顔を浮かべた。あのメモ帳が彼の書いたものとは思えないほど、昔と変わらない笑顔に、俺はほっとしながらも微かに湧き上がる違和感を拭えずにいた。
「要、駅前に十一時だっけ? 俺も大学あるからぎりぎりまで外でお茶しようよ」
「ん、そうだな。そうしよっか」
 俺達は身支度を済ませると、葵の最寄り駅にある、オープンテラスのカフェに向かった。初夏も近づいてきて、日差しも強くなったのでサングラスをしたら、葵は芸能人っぽいところころと笑った。
 朝の通勤の為に歩く人の減った道を、手を繋いで歩いていると、葵は「昔みたいだね」と呟く。その横顔が可愛くて、指の背で頬を撫でてやると、葵は嬉しそうに笑ってくれた。
 まだ高校生の頃、αにしては特にこれと言って突出したものがなかった俺は、親からの期待や教師からの重圧に押しつぶされる寸前で、いつも鬱屈とした怒りを腹に貯めていた。
 唯一興味を持っていた演劇ではダメ出し続きで、
「αのくせに」
 と陰口は絶えなかった。
 演技が下手くそなのに優遇される。俺が望まずとも、社会はそう動くように、すでに設定済みで、その周りからの鬱憤は、できそこないの俺に向けられていた。
 そんな中、クラス内唯一のΩだった葵と、何故か仲良くなった。初めは俺の自尊心を守る為だったのかもしれない。
 Ωは社会的に地位が低く「繁殖の為に生まれた存在」とまで蔑まれる事もあった。そんな彼とαとしてできそこないの自分を比べていたのかもしれない。
 けれど、そんな事を知らずに、葵は俺を支えてくれた。
「要は絶対良い役者になるよ、諦めないで」
 強制的に諦めるという事を強いられている葵は、ただひたむきに俺のそばに居てくれた。
 そして、彼が遅い発情期を迎えた高校二年の時、俺は葵と恋人同士になった。
 葵は初めてが俺で良かったと泣いてくれた。初めて尽くしで辛いしかなかっただろう初体験を、葵は俺にありがとうと、言って泣いていた。
 その頃はまだ芽は出ていないものの、ただただ、彼を幸せにしたいと思った。
 ――それからだった。俺の芽が開花して、オーディションが受かるようになり、人から認めてもらえるようになったのは。
 俺は繋いだ手を揺らしながら、
「あの頃は人目も気にせず手を繋いでたな」
 と呟くと、葵は柔らかく微笑みながら、
「今だって繋いでるよ。何も変わってない」
 と手を揺すり、笑ってくれた。
 ――何も変わってない。
 俺はその言葉にうなずいた。
「……子ども、つくる?」
 不意に言いたくなって、ぽろっと零すと、葵が驚いたように目を開いた。丸く濡れた黒目の奥の光彩が、朝日にきらきらとした輝きを秘めている。
「葵との子ども欲しいな」
 俺は強く葵の手を握った。
「……今は、駄目だよ。俺も学生だし、要だって忙しいし……」
 俺はゆっくりと力を抜いて、ゆるく彼の手を握る。
「そっか……そうだよな」
「うん……いつか」
 いつか。
 微かに見えた、未来の細い糸のような光が差す言葉。
不確かな約束の寂寥が、胸に募る。
「いつか、……うん。いつかでいいから、俺の子供産んでよ。絶対可愛い」
 そう言うと、葵は笑って頷いた。
 その笑顔が、少しだけ困惑した色を見せていた事を、俺は朝の光の加減のせいだと、自分に言い聞かせ、見ないふりをした。